第95話 「冷たい温もり」


 思い返せば、それはごく自然な行動だった。

 人間は"未知"に対し、様々な反応を見せる――と、その前に一つ。

 これより綴る言の葉は、物語と何ら関わりを持たない話である。
 それでも少なからず興味を抱いたのであれば読んでみてもいいし、面倒だと感じたのであれば読まなくてもいい。
 その選択はあくまでも、そして何処までも自由、とだけ添えておく。

 ――話を戻そう。

 人間は"未知"に対し、様々な反応を見せる。
 識らない事を知りたいと思う好奇心。嫌な予感や底知れぬ悪寒によって呼び起こされる、もしくは過去の経験から何かを察知し、知る事を避けようと考える恐怖心。何かを変えたい、何かが変わればいい、と知る事によって変化する未来を前向きに夢見る、つまりは可能性の追求。果てしなく停止に近い停滞を望むがゆえの無関心。独断を怖れるあまり、他者の知恵を頼る者もいるだろう。他にも、一つの未知が一つの既知に変わる事を寂しく思う者もいるかもしれないし、逆に嬉しく思う者がいる可能性もあり――更には、まず有り得ない話だが、自分にも知らない事がある、と安堵する者も世界の何処かにはいるかもしれない。
 とはいえ、これらは決して単一で存在しない。
 豊富な知識や経験、多角的な視点、全方位を捉える認識、多次元的な思考、一糸の乱れも許さない集中力、適度な緊張、予知にも近い直感、それらを発揮するに適した環境や状況。
 何よりも、天から与えられた幸運と、相応の才能。
 これらの能力や条件が、奇跡と呼べるぐらいに理想的な形で揃わない限り、けして単一には至らず、また実際に揃ったところで単一に至るかも疑わしい。
 それだけの膨大な要素が複雑に絡まり合った、ある意味では不完全で、だからこそ無限に等しい可能性を秘めている――人間とは、そんな不思議と不可解を兼ね備える"未知"に充ち満ちた生物なのである。
 もっとも、全ての事象を同時に認識し、全ての現象を同時に理解できる――そんな実在する事自体が疑わしく、また言葉をいくら重ねたところでその断片すら言い表せないであろう天才は、この限りではないのだが。


 ともあれ、人間が"未知"と遭遇した時に選ぶ行動は、結局はその割合で決定される。


 ――それでは物語を始めよう。


 つまり、リノたちの取った行動は。
 おそらくは誰も知らない"オリビアの岬"の先に足を踏み入れる、という選択は。
 一体どういった思考が招いた結果なのかを明確に――例えば数値のように具体性を帯びた記号などで――証明する術はないが。
 やはり自然な事、だったのだろう。

 ただ、それは正確な表現ではない。
 何故なら、その選択肢を選び、実際に行動へと移したのは、リノとトラッドの二人だけで。
 ナギサは――そして、ラザも。
 それぞれが自分しか知る事のない"未知"と対峙していたのだから。



 オリビアとの邂逅、エリックと彼女の再会、そして別離が瞬く間に過ぎ去った日の翌朝。他の地域については兎も角、少なくともこの場所から見える空はよく晴れていた。一応はまだ、細く儚げな雲も青の中に点在してはいる。しかし、あの泣き出しそうで、ともすれば怒りに荒れ狂う予感さえもひしめいていた灰色の分厚い雲は、今や姿も見当たらず。雪や雲、靄に類似し、やがては世界を"零"で覆い尽くしてしまうのではないか、と思えるぐらいだった真っ白い霧も、その面影は何処にも残っていない。
 そんな紛う事なき晴天の下。
 ゆらゆらと、普段より遅い速度で前へ進む船の甲板上では、地図と双眼鏡を右手に携えたトラッドが、やはり前方を見据えていた。その左隣には、先ほど彼が呼び出したリノ。彼女もまた、彼と同じ方向を一心に見据えている。
「あれ……何だと思う?」
 先に唇を割ったのは、リノ。
「……うーん」
 続けて首を傾げたのは、トラッド。
 培った知識や経験にそれなりの差がある二人だが、今は同じ疑問符を浮かべていた。しかし、無理もない。何故なら此処は、前人未踏の地。おまけに、本来なら頼りになるはずの地図も、この場所に限っては透明にも似た灰色で塗り潰されている始末。つまり、前もって知りようがないのだ。
 視線の彼方に佇む、程々に緑が芽吹く小さな島。
 中心に座するは、廃墟に酷似した建物の残骸。
 其処には何が在り、足を踏み入れる事で何が起こるのか。
 そんな待ち受けているであろう何かしらの事態を欠片すらも把握できないがゆえに、予め対策が立てられないのである。
 だが、引き返すつもりもない。
 そびえ立つ未知は、時として進むべき道と成る可能性が含まれている。今回の件を希望的観測で述べるなら、未だ見ぬ六つ目のオーブが見つかる可能性か。
「……とりあえず」
「うん、準備してくる」
 ともあれ、それをトラッドの紡ぐ音色という些細な切れ端だけで理解したリノは、頷くや否やぱたぱたと船室へ駆けていった。もし、その仲睦まじく通じ合う二人の様子を"彼女"が見ていればどうしただろう。きっと少女に対して存分に愛情表現を示した後、青年をご自慢の一閃で存分に叩き伏せて、そんな衝撃――もとい笑撃風景を隣で目撃した"彼"はさぞ呆れるに違いない。容易に想像できる光景だ。
 だが、そんな未来は訪れない。
 この場に"彼女"がいない、という物理的な理由によるものでもない。
 もっとも、本来ならそれはトラッドにとって幸運と呼んでもいい出来事である。しかし、今回に関しては手放しで喜べる状況でもなければ、自分にできる事も多くない。
 精々が二つ。
 "彼女"を看病する"彼"を手伝う事と、"彼女"の快方を願う事。
 たった二つだけだ。
 それでもトラッドは空を仰ぎ見ながら、呟く。
「……早く治ればいいんだけど」
 しかし、彼はまだ、それが見当外れの祈りである事を知らなかった。


 一方、それから数分後のこと。
 出発の準備をしてくる、とトラッドに告げたリノだが、実は少し寄り道をしていた。
「……具合、どう?」
 ナギサの部屋。
 リノは寝込んでいる彼女の様子を確かめに来たのだ。
「まぁまぁ」
 原因は船酔い――そう、聞いている。
 現に顔色は悪い。加えて、何気ない一挙一動が緩慢で、表情からも気怠さの抜ける気配がない。体調を崩しているのは明らかだった。
「ご飯は食べれそう?」
 ただ、違和感がある。強く鮮明な違和感が。
 それがどうしても引っ掛かったリノは、じっ、と彼女を観察し始めた。
 一見したところ、分からない。体調以外の点で敢えて付け加えるとしても、観察に対して反応を示さない事ぐらいである。
 だが、刹那。
「いらない」
 ナギサが発したたった四文字の言葉、そのあまりに彼女らしくない冷たさに、リノはふと気がついた。
 眼前の女性から"感情"がごっそりと消失している事に。
 彼女――ナギサという女性は、感情が非常に豊かである。それはもう、リノにとっては羨ましいぐらいに、だ。
 その中でよく見かけるのが"笑顔"。
 そう、彼女は基本的に笑顔を絶やさない。
 さすがに、どんな状況でも、というわけにはいかないが、それでもリノやトラッド、ラザよりは遙かに頻度が多い。知識、推測、考察、判断、それらを支える鋭利な観察眼ももちろんだが、何よりもそこに笑顔があるからこそ心強く、つい頼ってしまう。
 それが彼女だ。
 しかし、今は何もない。
 どころか、その兆しすら存在しない。
 まるで"ナギサ"という人物の器だけが、無造作に転がっているように虚ろなのだ。
「……そっか」
 かといって、問い詰める事もできない。
 もし、手を伸ばせば――ほんの少しでも心に触れようものなら、たちまち砂と化してしまう。
 素敵な夢が泡となって弾けてしまうように、跡形もなく消失してしまう。
 そんな現実的ではない異常な映像が、脳裏にこびりついて離れなかった。
「えっと……じゃあ、その……これからトラッドと島を調べてくるから」
 だからリノは、これからの行動についてを形式的に告げた後、
「何かあったらラザに、ね?」
 これが夢ならよかったのに、と思いながら部屋を去った。
「…………ん」
 幽かではあったものの、彼女が最後の言葉に一番大きく反応した事にも気づかずに。
 そうして、部屋を出た直後。
「……リノ?」
「あっ……」
 リノは浮かない面持ちで歩いてくるラザと会った。胸当てではなくエプロンに身を包んだ彼の両手には、トレイ。その上には蓋をされたシチュー皿と病的な白さの布巾。ちょうどナギサに食事を持っていくところだったようだ。
「あの……リノ」
 その彼が、わずかに乾いた唇を上下に割る。だが、言葉は続かない。数回ほど不自然に視線を泳がせつつ、水の中で空気を求めるように小さく口を開閉させただけで、そこからは困惑している事しか伝わってこない。
「……何か、あった?」
 言い難い焦燥に駆られたリノは、念のために声を潜ませて、そう尋ねる。明言こそしていないが、内容は昨日の事――昨夜はまだ船酔いと信じていたが、今の様子を見る限りはそうと思えなくなったのである。
「…………」
 しかし、ラザは答えず、
「ナギサは……どうだった?」
 代わりに質問で返す。普段の彼からは考えられないような、何処か釈然としない受け答えである。それは、やはり何かが起きて、ラザもそれに関係している、とリノに確信させるには十分なやり取りで、同時に仕方がないとも思った。
 だが、彼女は不意に俯いて、空いていた距離を殆ど零にまで縮めると、
「何があったの?」
 今度は鋭く、加えて彼の顔も見ないまま、威圧的に同じ内容を繰り返した。
 滲む感情は、怒り――それも懸命に押し殺された、静かな怒りだ。
 リノは明らかに何かを隠している彼に憤りと、けして小さくはない衝撃を受けていた。
「リノ……」
 対してラザは、不謹慎と知りながらも"珍しい"と思った。当然、それだけ心配させていると理解した上で、である。
 しかし、言えない。
 何故なら、これは過去――自分が彼女を傷つけた罪に関する問題だ。相談したい気持ちは抑え込むのが容易でないぐらい強かったが、勝手な判断で話していいはずがない。
 だから、言うわけにはいかない。
「リ――」
「今までナギサに――ううん、二人に沢山助けてもらったのに……だから、今度は私が二人の力になりたいのに……どうして……どうして、話してくれないの?」
「それは――」
「私が頼りない、から?」
 だが、リノは――この心優しい少女は、既に察してしまっている。
「……そうじゃない」
「じゃあ、どうして……!?」
 したがって、こうなるのは必然で。それを回避しようとするならば、最初に尋ねられた時点で相応の回答をする必要があった。
 つまり、自分は間違えたのだ。
 彼女が頼りになる、ならないではなく、最初の選択を誤ってしまったのである。
 だが、それでも自分一人では答えられない。
 少女の無垢な気持ちに応えられない。
「……リノ」
 ゆえに、ラザは。
「時間を、くれないか?」
 彼女と同じくらい"仲間"を深く想っている、この青年は。
「時間?」
「少しで……ほんの少しで、構わない」
 新たな罪に自身を傷つけながらも。
「これは俺が――……俺が、過去に犯した罪のせいなんだ」
「…………」
「勝手なことは分かってる。でも、まだ話せない……ナギサのためにも」
「ラザ……」
 今できる精一杯の回答を、強い意志で口にした。
 それを受けたリノは、しばらくは彼の苦悶に満ちた表情を見つめていたが、
「……うん」
 やがて、ぽつりと。
「今は何も訊かない――ラザのこと、信じる」
 続けて、力強い首肯と共に、そう告げた。
 しかし、立ち去りかけた直後。
 無理もない話だが、まだ不安を拭いきれなかったのだろう。
「でも、もし……もし、何か力になれることがあったら……」
 ぷつぷつりと、途切れ途切れに呟く彼女だったが、
「ああ。その時は……頼む」
「……うんっ」
 彼の久しぶりに見せた笑顔を伴った言葉に安堵したらしく、改めて頷いてから、その場を後にする。一方のラザは、つい彼女の頭を撫でたくなったのだが、その時初めて両手が塞がっている事を思い出すのであった。


 更に時は流れ。同一でありながら、人によっては感じ方が異なる――そんな数分間が過ぎた頃。
 部屋に入る決心が中々つかなかったラザだったが、シチューが冷めてしまう、という現実的な上に浪漫の欠片もない理由で、強引に自分を後押しすると、
「ナ、ナギサ……入るぞ?」
 覚悟に揺れた音色で、彼女に呼びかけた。
 返事はない。
 元々あるとも思っていない。
 それが寂しい。
 一日も経っていないはずなのに、酷く寂しい。
 だが、声をかけてしまった以上、ここで退くのもおかしな話だ。もっとも、自分にとっては大きな一歩でも、今の彼女にとっては瑣末事ではあるだろうが、それでも諦めたくない。二度目の覚悟を決めたラザは、もう一歩を踏み出すべく、一旦トレイの重量を右手に預け、左手でぎこちなく扉を開けた。
 ぎっ、と扉が軋んだ先に待ち受けていたのは、空虚。
 ひたすらに深くて底の知れない、虚無――或いは、絶無。
 たとえ本意でなくともそう呼ばざるを得ない、今のナギサだった。
「……?」
 その彼女から視線が向けられる。
 視線。
 酷く"美"の失われた碧眼。
 にも拘わらず、まるで魅力を損なっていない二つの瞳。
 ただし、普段の活力に満ちたものではない。
 今にも散りゆき、今にも朽ちゆく。
 そんな不吉で退廃的な危うさを秘めた双眸。
 ラザは息を呑み、同時に彼女の雰囲気にも呑まれた。
 しかし、刹那。
 目に視えない不穏を振り払うべく、小さく首を横に振った彼は、
「……何か食べた方が、いい」
 当初の目的である言葉を、緊張が蔓延る固い表情で紡ぎ、伴って行動にも移した。
 ことり、とトレイの底面が机と衝突する。
「…………ない」
「え?」
「食べたく、ない」
 だが、拒絶。
 それは音だけの、何ら強制力を持たない拒否のはずなのだが、限定的な強い抑止力はまざまざと滲んでいる。しかし、ラザは絶句しつつもシチュー皿の蓋を少し開けた。彼女は昨夜から何も口にしていないのだから、香りが漂えばもしかすると、と一縷の希望に縋った結果だった。
「!!」
 そして、彼の推測通り、微かではあるがナギサは反応を示す。やはりお腹は空いているのだろうが、それでも手を伸ばす気配はない。
 そこでラザは、しばし彼女の様子を見守った後、動く意志が薄弱である事を悟ると、
「気が向いた時にでも食べればいいし……もちろん、残しても構わないからな」
 鈍く背を向けて、重い足取りで部屋を出ようとした――瞬間。
「……って」
 何かに服を引っ張られる。
 それは白くて細い指と、
「……に……て」
 小さな、声。
 呆気なく消え入りそうで、指も解くのは容易いのに、どうしても解けず。加えて、自分はいつもそれを求めていたはずなのに、今だけは聞きたくないとも思ってしまう――そんな堪え難い矛盾を孕んだ、愛おしい女性の紡ぐ音色。
 必然的に足を止めたラザは、再度振り返って彼女を視界に映した。
 俯いているせいか表情は見えず、生気も感じられず、それでも身体の震えだけは細々と指先から伝わってくる。
 そんな状況で、ナギサは潤いのないかさついた唇を一度だけ、きゅっ、と弱々しく結ぶと、
「食べる、から……ここに、もう少しだけここに……いて」
 唇とは対照的に潤んだ上目遣いで、頼りなげにそう懇願した。
「……ああ」
 ラザは間を置いて頷いた後、傍らに佇んでいた椅子を引き寄せ、腰を下ろす。それから間髪入れずにトレイのスプーンを取り、彼女へ手渡した。
 この時、ナギサがよければ、とは言わなかった。
 彼女の判断に全てを委ねる事が重荷になるように思えたのだ。
 一方、知る由もないナギサはベッドから身を乗り出し、少量のシチューをスプーンで掬ってから、危なっかしい手つきで口へ運ぶ。今にも零しそうな仕草は不安定で、らしくない。
 意味のない緊張が走る。
「ん――っ! けほっ、ごほっ……!!」
 そして、その予感は――
「ナギサ……!」
「え……あ……い――」

 ――別のカタチで現実と、なる。

「いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああアあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああアあああああああああああ……ッ!!」

 ラザはただ、咳き込んでシチューを零してしまった彼女に、布巾を渡そうと近づいただけだった。
 本当にそれだけの、それだけに過ぎない話だった。
 にも拘わらず、ナギサは叫び、声が掠れてもなお叫び続け、
「っ……!?」
 同時に半ば密着状態になりつつあった彼の身体を、激しく突き飛ばしていた。
 全く予期していなかった行動に、ラザは背後の椅子もろとも床に叩きつけられる。
 衝撃に伴って、耳障りな音が反響する。
 脳髄が揺らぎ、部屋中が軋み、全物質が震え――だが、何よりも。
 空気が、凍る。
 凍りつく。
 凍りつき、やがて日常に類似した空間は、はっきりと底冷えが鳴る異常へ変質する。

 何が起こったのか。
 ――彼女が自分を突き飛ばした。
 何がどうなったのか。
 ――背中、後頭部を順に打ちつけ、鈍い痛みを感じた。

 ラザは状況を確認する。

 意識は、あるのか。
 ――ある。思考が意識を証明している。

 しかし、それは言葉と呼べるものでもなければ、確認と断ずるのもおこがましい朽ちた思考。
 或いは、奔流。
 何もかもを無情に、また非情に飲み込む激流。
 つまり、現在。
 状況の唐突な変化についていけず、理解を早々に諦めた心と身体に代わり、培われた感覚が無意識に情報を収集しているだけの事。実際は意識を完全に取り戻しているわけではない。

 では、何故こうなったのか。
 ――分からない。

 そして、先は見えている。
 結局は何処にも辿り着けない、という矛盾した結末が視え透いている。

 ――どうして、こうなってしまったのだろう。

 その間、世界を飛び越えた時間は、ほんの数秒。
 ラザは最後の自問と共に、手放していた自我と再会を果たす。
 束の間の沈黙、を経て。
「……う」
 先に怖々と唇を割ったのは――
「……が……う」
 ――ナギサ。
「違う……ううん、違わ……ない? でも、私はこんな、こと……だから、違う……? けれ、ど……私は現に、こうして……だか、ら……でも……どっち……?」
 だが、言葉は形になっていない。次々と、絶え間なく浮かんでは弾ける心の内を文字へと変換しているだけで、いかなる人物でも内容を正しく理解するのは不可能だ。
 いや、おそらくは彼女自身も解っていない。
 だからこそ、彼女は声を紡ぐ。
 自分の理解できない"未知"を、ある程度でも自分の理解できる"未知"に置き換えようとしている。
 ぷつぷつり、と途切れ途切れにでも。
 何処かでバラバラに砕け散ってしまった何かのカケラを拾い集め、進むべき"道"を形作ろうとしている。
「ちがう……?」
 もう、元通りにはならない。
「ちがわ、ない……?」
 もう、原形も思い出せない。
「……なにが?」
 そんな予感を覚えつつも。
「何が違っていて……何が違ってない、の?」
 賢明な判断ではないかもしれないと感じながらも、懸命に。
 彼女は"無"の内側を歩いていた。
 彼女は深層心理に息づく真相と真理を、"未知"ではない"道"を求めて彷徨い続けていた。
 身を起こしたラザは、改めてナギサの姿を見つめる。
 今にも折れてしまいそうな、細い身体。
 今にも崩れてしまいそうな、脆い存在。
 その共通項は、儚さ。
 一度でも瞬きすれば消失してしまうのではないか。最初から何もなかった事になるのではないか。そう錯覚しかねないほどの、ちょうど人の見る夢にも似た儚さが、彼女を蝕んでいた。
 だから、だろうか。
 一歩。また一歩、と静かに歩を進めたラザは、
「……ナギサ」
 彼女の名前を大切に紡いだ後、

 憑き纏う背徳感に苛まされながらも、愛しい女性の身体を強く――抱き締めた。

「っ!? は、離して!」
 当然の抵抗。
「はなして、ってば……!!」
 その拍子に、彼女の爪が頬を裂く。
 血。音もなく溢れ、頬を伝い、跡を残す、粘着性を帯びた真っ赤な液体。鈍い痛みと鋭い痺れ。
 いくら予期していた事であっても、全くつらくないと言えば嘘になる。
 だが、所詮は瑣末事だった。
 自分がこうする事で彼女の温もりを感じられるなら。
 消え去りそうな存在を、少しでも世界に繋ぎ止めていられるのならば――

 ――それは本当に些細な、傷痕。

 取るに足らない塵芥に過ぎないのだから。
 程なくして、抗う気力を失ったナギサは、すっかり大人しくなる。当然だ。昨夜から何も食べていない彼女と、無理にでも食事を摂った彼とでは、元々の力の差以前に比べようがあるはずもない。ゆえに彼女は、必然的にラザの胸元へ顔を埋める事となっていた。
 互いに口を開かない、今日何度目かの無音空間。
 本来は気まずい、無情に過ぎゆく時間のはずだった。しかし、ラザは微塵も気に留めず、ただ優しく彼女の頭を撫で、金色の髪を柔らかに梳いている。
 そして、やっと別の動きを見せたかと思えば、傍らに置いてあったウサギ耳を頭に乗せて、また先刻の行為を繰り返す始末。現在の状況――今までになかった状態にも拘わらず、徹底して無関心な彼の意図が、彼女には全く読めない。
「あ、あの……ラ、ラザ?」
 ナギサは曖昧然に、おそるおそる問いかけてしまう。図らずも先に口を開いてしまった。とはいえ、彼の真意を知り、隙を見計らって脱兎の如く逃走するため、というのもまた事実――なのだが、それと同時に、不思議で不可思議な感覚を覚えてもいた。
 照れや恥ずかしさも、もちろんある。普段は謎の余裕で何かと周囲を翻弄するナギサだが、決してこういった触れ合いに慣れているわけではなく、どころか、縁がない、と以前に苦笑混じりで呟いた通りなので、むしろ苦手と言ってもいい。実は相当に。
 だからこそ、どうしても"彼"の事を普段以上に一人の男性として意識し、珍しくそういった意味で頬を上気させ、それこそ蒸気にもなりかねない勢いだった。
 無理もない話だ。
 しかし、それ以上に別の感情が――確かに、あった。
 心地良さ。
 陽だまりでの微睡みとよく似た、不覚にも安らいでしまう居心地の良さ。
 それに、ざわめき。
 否応なく胸中を掻き立て、落ち着き全てを取り払ってしまうような不安。
 まるで正反対の感情。
 にも拘わらず、それらは奇跡的に同居し、また当然の軌跡を経て対立し、心の中でけたたましく騒いでいた。
 そして、そんな音のない喧騒は、
「何だ?」
 酷く落ち着いているラザの、酷く優しい声が告げる問いかけをキッカケに、
「どうして……こんなこと、する、の?」
 ナギサに至極真っ当な疑問の言葉を紡がせる。
 瞬間、彼の身体がわずかに硬直し、髪を梳いていた指も静止する。明確な緊張。彼女は少し安堵する。
 だが、一瞬。
「……ほうっておけなかった」
 続けて、澱みのない回答。
「どうして?」
「大切な――……仲間、だから」
 質問。硬直。再開。回答。
 途切れ途切れの音色とぎこちない仕草、ほんの少しの虚構が織り成す、
「……どうして?」
「理由なんて、ない」
 継ぎ接ぎだらけの、優しい繰り返し。
「じゃあ……リノちゃんにも同じこと、できる……?」
 やがて、変化。
「同じ状況なら……といっても、それはトラッドの役目だな」
 緩やかな変化。
「じゃあ、あの……えっと」
 そうして訪れる、終わり。
「あの、ね……ラザ」
「何だ?」
 もしくは、始まり。
「わ、わわ、わたしが、眠るまで……」
「眠るまで?」
「こうしてもらってても……い、いい?」
 終わりなく続く物語の始まり、なのかもしれない。
「……少しでもシチューを食べたらな」
 にも拘わらず、ラザは極めて冷静な口調でこう言い放つと、
「…………イジワル」
 ナギサは自分にしか聞こえない音量でそう呟き、ぷくぅっ、と頬を膨らませるのであった。



 そうして、二時間後。
 眠りに就いたナギサの傍で、ラザは何をするでもなく彼女の寝顔を見つめていた。
 正確には、ずっと此処にいたわけではなく。
「も、もう眠れそう、だから……その、ありがと」
 最初は、毛布で顔の下半分を隠したナギサの言葉に従い、渋々と部屋を去ったのだが、やはり心配になった彼は、傷の手当てを終えてすぐに戻ってきたのである。
 ただし、現在の表情は無。変化があるとしても、時折わずかに眉根を寄せるぐらい。全身に関して言えば、太股を指で軽く叩く事と、気がつく度に毛布の位置を直す程度。全体的に動きは殆ど見られない。
 彼は考え込んでいた。
 あの後、ナギサは四分の一ほどシチューを飲み、今はこうして眠っている。その結果だけを見れば、ラザの行動は全くの無駄ではなく、むしろ少し前進したようにも思える。
 しかし、彼は既に察していた。
 何かを食べたのも、意識を手放していたのも、とうに限界を迎えていた身体が食事と休息を異様に欲しただけだ、と。現に彼女の寝顔には、穏やかさが欠片もなかった。
 加えて、落ち着いた事も。
 抗う気力そのものがない。少なからず弱気になっていた。確かに、それも一因ではある。
 だが、もっと大きな理由は礼節。
 手段はどうあれ、衰弱している自分を助けてくれたのだから、その恩を仇で返すわけにはいかない。そんな彼女にとっては当たり前の事を、ただ実行しただけに過ぎない。
 本当にそれだけの、それだけでしかない話。
 ラザはそう確信していた。
 何故なら、彼は。
 先刻、確かに彼女の身体に触れ、温もりを感じ取りはしたが――

『何が違っていて……何が違ってない、の?』

 ――"心"にはまだ、一切触れていないのだから。



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