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ランシールを出発して、三日が経った午後の事。船の先頭にて。 「うー……あつ、い」 容赦も絶え間もなく降り注ぐ陽光に、甲板掃除中のトラッドは茹だっていた。 「何で風も吹いてないんだよ……」 イシスでもぐったりしていた通り、彼は暑さに弱い。 しかも、こんな日に限って無風で、カーテンの役割を果たす雲も浮かんでいない。 さながら今の状況は、蒸した密室での日光浴、と言ったところ。 せめてもの救いは、船旅が順調な事だけである。 (……よし、休もう!) ともあれ彼は、しばしの休息を決意した。 (少しぐらいなら構わないだろうし……だらだら続けるよりも、休んだ方が効率もいいに決まってる) 胸中では、必死に自分へこう言い聞かせつつ。 おそらくは罪悪感と、ナギサに見つかった時の言い訳。 だが、彼女に何を言っても通用しない、とは気づいていないのか。それとも、単に考えたくないだけなのか。 相変わらず察しがいいようで、どこか抜けているトラッドだった。 「涼めそうなところ、は……ないかな」 とにもかくにも、彼はモップを甲板に置いた。 それから手で顔を扇いだり、汗を拭ったりしながら、その場できょろきょろと船内を見渡す。 微塵も足を動かそうとしないのは、これ以上暑い思いをしたくないからだろう。 (……ダメだ。余計に暑くなる) が、すぐに無駄な抵抗と悟るや否や。トラッドは渋々歩き始め、影のある場所を探し始めた。 額にも。拭おうとする手の甲にも。汗はとめどなく浮かび続け。 顔を扇いでも焼け石に水どころか、暑さを増す一端に成り下がっている。 いつの間にか彼は、ただ歩くのみとなっていた。船上だが、砂漠でオアシスを求めるような表情で。 そうして、船の真ん中に差し迫った頃。微かにそよいだ風が、銀髪を重くなびかせた。 「……そうだ」 同時に、トラッドは閃く。 船室への扉を携える、自分よりも遙かに大きい箱の裏側。 即ち、船尾なら涼めるだけの影があるはずだ、と。 (ふぅ……やっと休めそうだ) 彼は内心で歓喜するあまり、まず襟を両腕で掴んだ。続いて、汗を吸った服を脱ぎ、無造作に右肩へ掛ける。 短い時間でより涼を得るために。また、少しでも快適に休息が取れるように、である。 「さーてと!」 そして、望んだ通りの影をトパーズ色の瞳に映し、座ろうと考えた――瞬間。 『……え?』 トラッドは、予期せぬ先客でありながらも、見慣れた彼女――リノの存在に。 リノは、予期せぬ来訪者でありながらも、見慣れた彼――トラッドの存在に。 寸分違わず、驚きの声を重ね合った。 「……ご、ごめん!」 一足早く我に返ったトラッドは、まず謝り倒す。 突然、無防備な格好で現れた上に、リノの休息を邪魔してしまったと思ったのだ。 だからこそ、すぐに立ち去ろうとしたのだが、 「え? あ……トラッド!」 リノは珍しく大きな声で彼を呼び止め、こう続けた。 「ト、トラッドも……涼みに来たんだよね……?」 「……まぁ、うん」 俯いているため、表情は見えない。しかし、声は頼りなげに震えている。 (やっぱり……気を遣わせた、よな……) トラッドは気づき、自分の浅はかな行動を省みて、後悔した。 どうしていつも間が悪いのか。彼女の心を察してやれないのか、と。 ただ、心の片隅では小さく、思い違いかもしれない、とも思っている。 しかし、だからといって。今のリノを前に、彼が立ち去れるはずもない。 が、この場に留まるには理由も必要だった。鈍感な上に不器用極まりない彼にとっては。 ランシールでも反省したばかりだというのに、つくづく自分が嫌になる。 ――などと、トラッドが思い悩んでいると。 「だったら……あの、一緒に……休む?」 眼前の心優しい少女は、気遣いのあまり、そう申し出てきた。 この時、戸惑いも罪悪感も、まだ胸の内に残っていたが。 「……うん」 トラッドは神妙に、何故か恥じらいのある表情で首肯した。 それから、しばらくの間。 影法師の両端。隣というほど近くはなく、話をするには困らない。 不思議と曖昧な距離を空け、二人は座り合っていた。 ちなみに右がリノ、左がトラッドである。 「じゃあ、昔からよく釣りをしてたんだ?」 「何となく、だけど」 「今までで一番大きかった魚は?」 「んー……これぐらい、かな」 「そんなに大きな魚もいるんだ……」 「……でも、父さんはもっと大きな魚を釣ってたなぁ」 「すごい……けど、想像がつかない」 「まぁ、その一匹しか釣ったところを見たことないけどな」 「あははっ……そうなんだ」 最初の内は、他愛もない話に笑みを零れていた。 トラッドだけでなく、リノも。平和で和やかで、この上なく幸せなひとときである。 しかし、それも数十分の事。 「…………」 「…………」 今は何故か、気まずい沈黙が場を支配していた。 二人がかろうじて取れる共通行動は、相手の表情を窺う事だけ。それも時折、盗み見るように。 距離感以外は、さして珍しくない状況。この一点においては、何とも珍しい。 だが、それも無理はない。 最初は、久しぶりの二人っきりという事で忘れていたが――トラッドは今、上に何も着ていないのだ。いわゆる、半裸、という状態。 年頃の少女であるリノが、うっすら頬を朱に染めているのも、当然と言えるだろうが、 (今までだって、見たことあるのに……) これもまた珍しい事ではない。 何故なら、トラッドがリノを女の子だと知ったのは、つい先日の事。 それまで彼は何ら疑問を持たず、宿では同室に泊まっていたのだ。 さすがに一糸纏わぬ姿だった事はないものの、上半身を見る機会ぐらいは、少なからずあった。 にも拘わらず、彼女はこれまでにない動揺と、早さばかり増す鼓動を必死で抑え込んでいた。言葉を発することもできずに。 何となくリノは、思考を巡らせてみる。 いつから、どうして。自分はこんなに彼を意識するようになったのだろうか、と。 そして、答えを求めて。右側に座るトラッドを――もちろん、気づかれないよう横目で――盗み見た。 細い。初めて出会った時にも覚えた印象通り、程よく引き締まった細い体躯。 が、鍛えられたものというよりは、芯の強さや優しさがそのまま滲み出た雰囲気だ。 ふと視線をわずかに上へ移すと、すっかり馴染んだトパーズが目に入ってきた。 不可思議に揺れてはいるが、穏やかさは損なっていない、澄んだ瞳である。 続けて、黒い瞳に飛び込んできたのは、同じく見慣れた銀色の髪だったが、 (……あれ?) 今までとは異なる風景に、彼女はふと首を傾げた。 トラッドの髪は、陽光を受けては鮮やかに輝き、月明かりの下では神秘的な銀光を放つ。 それがリノの抱いていた感想だった。 しかし、影の中に佇む銀糸は一層の落ち着きがあり、普段よりも優しげな色合いに思えた。 緊張も忘れ、一心に彼の横顔を見つめるリノだったが、 (うん……こういうトラッドも好――って、わ……私、なに考えてるんだろ……) 心密かに熱っぽく呟きかけて、すぐさま我に返った。 (トラッドは仲間なんだから、私だけこんなの……ヘン、だよね) 直後、激しく首を横に振った彼女は、両掌を両頬に添え、火照りが冷めるのを待ち始めた。 一方、トラッドはというと。彼女の様子がおかしい事に、まるで気づいていなかった。 どころか、胸中では。 (……女の子なんだよな) 今更な真実を、今更のように確認していたのだが、これも無理はない。 彼も同じく忘れていたのだが、今日のリノはいつもと服装が違うのだ。 青空色の体型が分かりにくいズボン。いかにも頑丈そうな薄茶色のブーツ。ここまでは同じだ。 だが、上に着ている物は、袖無しの真っ白なシャツだった。 おまけに首周りも広く空いているため、鎖骨が露わになっている。 確かに飾り気はない。これっぽっちも。リノらしい事には違いないが。 しかし、それでも。 (そうだよな……) リノの女の子らしさを引き出すには、十分過ぎる服装だった。 今の方が自然な状態ではある。むしろ、今までがおかしかったのだ。 にも拘わらず、彼は密やかに忍び寄る熱と、けたたましくなりつつある鼓動を必死で抑え込んでいた。一切、言葉を紡げずに。 何となくトラッドは、思考を巡らせてみる。 旅を共にしながら、なぜ。自分は彼女を意識しながらも、気づかなかったのだろうか、と。 そして、答えを求めて。左側に座っているリノを――やはり、気づかれないよう横目で――盗み見た。 瑞々しく、白い。たおやかな細腕が二本、真下にすらりと伸び。雪色の淡い指先が、甲板にふわりと触れていた。 初めて出会った時にも覚えた印象通り、剣を振るう姿が想像できない体躯だった。 きっと、彼女の腕はしなやかで――柔らかい。 そう考えると同時に。 (って、俺は……っ!) 彼女の温もりを思い出したトラッドは、 (女の子って知った途端……なに考えてんだよ……!) 固く目を閉じ、さり気なく顔を逸らした。大切な仲間に邪な思いを抱くなど、以ての外だと。 数十秒の時を経て、微かに平常心を取り戻した彼は、今度は少女の横顔を見た。 まず、視界に飛び込んできたのは、黒い髪と瞳。 影の内にあっても潜まらず。尚も艶やかに存在感を主張する、深い――深い黒だった。 対照的に肌は、きめの細かい白。唇は薄い桜色に潤っている。 髪や瞳とは異なる色合いだが、調和が取れており、この上なく似合っていた。 トラッドは成す術もなく、呆然と見つめていたものの、 (やっぱり……リノって可愛――って、だから! そうじゃなくて……!) 自身が胸中で呟いた内容に、すぐさま我に返る。 (いくら女の子でもリノはリノなのに、俺だけ何を……本当にどうかしてる) 刹那、首を激しく横に振った彼は、鼓動が平穏を取り戻すのを待ち始めた。 そうして、会話もなく。 揃って、顔を赤くしては我に返るという行動を繰り返し、約二時間。 清らかな蒼い空は、いつしか夕焼けに染まり。 状況もささやかに、また緩やかに変化を見せていた。 その変化とは――――距離、である。 太陽の移動によって、涼しいはずの闇が小さくなるにつれ。 「陽が当たってるけど……トラッド、暑くない?」 時にはリノから。 「リノ……もう少しこっちの方が良くないか?」 時にはトラッドから。影の中へ 結果、二人の距離は隣同士になるまで近くなっていた。 「あ、あの……」 とくん。 「え、えっと」 とくんとくん。 『……その……うん』 潜まっていく音色とは裏腹に、心音は際限なく膨らんでいく。 が、今は微かな息遣いまで聞こえる距離。 遠目ですら見惚れていた二人にとっては、酷く不自然な状況であり、極めて自然な心境だった。 (な、なんで上手く話せないんだろ……?) 彼の体温を傍で感じながら、リノは迷いの理由を考える。 話題がないわけではない。本当は話したい事が、もっと沢山あったぐらいだ。 しかし、声は喉に張り付き、かすれた吐息になるばかり。とても、意味のある言葉にはならない。 せっかく、二人っきりなのに――と、胸中で呟きかけた彼女は、再び首を弱々しく横にする。 隣に座っているおかげで、さすがに様子がおかしいと気づいたトラッドが、 「……リノ?」 心配そうに名前を呼んだ時。 振り向いた拍子に、肩と肩が――――音もなく、直に触れた。 瞬間、どくん、と。二つの心臓が、一際大きく跳ねる。 伴って、触れ合う部分から芽吹いた熱が、まるで病魔に冒されたように、身体中へ染み渡っていく。 それから、しばしの沈黙の後。 知らない内に、黒い瞳は銀とトパーズが。トパーズの瞳は、深みある黒が覆い尽くしていた。 つまり、二人は見つめ合っていた。それも、吐息が絡まるほどの近い距離で。 その時、今更のように風が吹き、二色の髪を強く揺らすものの、どちらも反応を示さない。 それほどまでに、互いが互いに心を奪われていた。 「あ、あの、えと……」 リノは彩る朱を隠すように、顔を伏せ、 「……………………う……うん」 こくりと頷く。理由も、その仕草が何を意味するのかも、考えられないままに。 話を聞いていたトラッドも、彼女と全く同じ気持ちだった。 「リノ……」 だが、彼は無意識に名前を呼ぶ。愛おしそうに。 「……トラッド」 彼女も名前を呼び返す。やはり、愛おしそうに。 再び応えたトラッドは、自然と少女の背中に左手を伸ばし――かけたのだが、 (……ん?) はたと気づいてしまった。 (なな、なっ……!!) リノの死角となる物陰で、ウサギの耳が忙しなく揺れている事に。 思い当たる人物と、この後に彼を待ち受けているであろう運命は、間違いなく一つしかない。 「……そ、そういえば!」 一瞬で現実に舞い戻ってきたトラッドは、すかさず言葉を探した。 「きょ……今日の夕食当番って……だ、誰だっけ?」 そして、間髪入れずに。加えて、不自然に身体を遠ざけ、気にも留めていなかった事柄を問いかける。 「え? え……えっと……」 対してリノは、きょとんと首を傾げ、たっぷり数分は考え込んだ後、 「私と、ナギサ……」 ハッとなって、夕空を見上げた。 「早く準備しないと……!」 慌ただしく立ち上がり、駆け出そうとする彼女。 「でも……嬉しかった」 「え?」 しかし、最後にもう一度トラッドを見て、こう告げた。 「久しぶりに、トラッドと話ができて」 小さくて淡い、けれど極上の笑顔で。 不意を突かれ、またしても見惚れてしまった彼には、頷くしかできず。 いつの間にかウサギの耳も、姿を消していた。 取り残されたトラッドは思う。 (リノの気持ちも知らないで……俺は何をしようとした?) 先ほどの行動に秘められた理由――自身の気持ちを。 だが、同時にこうも想い、ぽつり呟く。 「でも……嬉しかったのは俺だけじゃ……なかったんだ」 自分の顔が熱くなっている事にも、気づかずに。 台所へ向かうリノは思う。 (私……どうしちゃったんだろ……?) 先ほどの行動に秘められた理由――自身の気持ちを。 だが、同時にこうも想い、ふと足を止めて呟く。 「でも……トラッドって、やっぱりキレイ……なんだ」 未だ冷めやらぬ熱の心地よさに、変わらない笑顔を浮かべたままで。 一方、その頃。ある船室の中では。 「うーん……」 ラザが珍しく紅茶を嗜んでいたのだが。 「随分早く……って、どうかしたのか?」 何故か複雑な面持ちで戻ってきたナギサに、そのわけを尋ねる。 しかし、答えはない。返ってくるのは、考え込む唸り声だけだ。 「確かリノと夕食の献立を相談しにいく、と言ってなかったか?」 そこでラザは、彼女が外へ行った理由を繰り返してみたが、 「んー……まぁ、そうなんだけど」 やはり反応は芳しくない。ラザはため息を一つ落とし、数秒は思案に暮れた後。 「……ついでに、トラッドがさぼってないかも見てくると言っていたが……まさか、さぼっていたのか?」 最後の手段とばかり、忘れていて欲しかった目的も告げてみた。 すると、ナギサはポンポンと二度手を叩き、微笑んだ。 普段なら艶やかに映るところだが、今は何故か不吉な予感がする。そんな笑顔だった。 「ナギサ……その、なんだ」 「なに?」 「……手加減してやれ」 トラッドの自業自得。とはいえ、罪悪感に苛むラザは控え目に弁護する。半ば、諦めてもいたが。 「あら、心外ね?」 「は?」 「いくらトラッドがさぼって、美味しい思いをしてたからって……別に何もしないわよ」 しかし、返答は意外に穏やかなもの。ラザは目を丸くするものの、素直に安堵した。 「何も……しない?」 ――のだが、それも束の間。 「……でも、まぁ」 言葉には続きがあり、ラザが再び戦慄していると、 「もちろん、このまま済ますつもりはないけどねっ」 ナギサは魅力的にウインクして見せた。 そして、夕食時。 リノとトラッドは、ナギサに散々からかわれ。 「だから、手加減しろと言ったんだが……やはり無駄、か」 ラザがため息混じりに呆れたのは――全て言うまでもない事だった。 ※後書き というわけで、3周年感謝リクエストSS第一弾(長っ!)をお送りしました。 リクエストして下さった方、ありがとうございました! 内容は、一部省略して書かせて頂くと、 『トラッドとリノで、ほのぼのしてる二人。 互いが互いにドキッとしているのに、どちらも気づかず…… 「どうして自分だけ……」と思い合う話』 との事でしたが……は、果たしてお応えできましたでしょうか?(汗) 相変わらず、自信は微塵もありません(涙) 時期的には、ランシール出発後です。 そこで思い返してみると。性別を隠そうとするリノは、いつも旅装束でした。 肌は全く見えません。だから、鈍いトラッドは気づかなかったのですが。 ともあれ、この機会に! とばかり、タンクトップを着てもらいました(笑) ただ……好きは好きなんですけど……実際に目にしたところ。 もしかして、緊張したりするのは私だけでしょうか?(汗汗) ちなみに。既にお約束とも言える姐さん。 いつから見ていたかは、一つナイショでお願いします(笑) にしても、こういう時の二人はとことん鈍いです。 最後に改めて、もう一度……リクエスト、本当にありがとうございました! ※ブラウザバックでお戻り下さい |