「月に誓う想い」


 リノたちがポルトガを出発してから、最初の夜の事。
「……ふわぁ」
 今日の見張りであるトラッドは、独り欠伸を噛み殺していた。
 時折、周囲を見渡すものの、トパーズ色の瞳に映るのは月と星と水平線のみ。
 五日はかかると考えていたので、特別異常な事ではない。


「……眠い」
 トラッドは不意にそう呟き、幾度目かの欠伸をする。
 普段なら見張りの日に合わせて、多少は調整するのだが、今回の航海はその余裕がなかった。
 その理由は、船の操縦である。今の所、一応それが出来るのはトラッドだけだった。
 しかし、このままだと彼の負担が大きくなると考えたラザは、自ら船の扱いを教えてほしいと申し出たのだ。
 その厚意をありがたく受け取ったトラッドは、暇な時間を見つけては彼に教えていたのだが……
「……ちょっとは休んでおけばよかったな」
 夢中になりすぎて、今日の見張りの事をすっかり忘れてしまっていた。
 それで、彼は睡魔と戦いながら、こうして船の上で座り込んでいるというわけである。


「トラッド……トラッド」
 それから数十分が過ぎた頃、彼は誰かの繰り返される呼び声で弾かれたように顔を上げる。
「え……あ……リノ……か」
「大丈夫か?」
 すぐ側にあったのは、視線を少し外しているリノの心配そうな表情。
 胸元には両手で毛布をぎゅっと抱き締めていた。
「俺……寝てたか?」
「……うん。あ、隣いいか?」
 彼女はそう尋ねた後、トラッドが頷くのを確認してから左側に座る。
 そして、一緒に吐いた息が、真っ白になって夜の闇に溶けた頃、
「見張り……変わろうか?」
 リノはやはりこちらを見ないまま、そう口にした。
「え?」
「トラッド、ここの所ゆっくり休んでなかったから」
「……それで毛布を持ってきたのか」
 以前、彼女が見張りをしているトラッドの所に来た時は、一人分の毛布しか持って来ていなかった。
 それが今回は彼が用意しているのを知っているにも関わらず、自分の分を準備している。
「……でも、リノは昨日も見張りじゃなかったか?」
 トラッドが曖昧な記憶を頼りに尋ねると、彼女は首を縦に振った。
「だったら俺も頑張らないと――――」
「どうして?」
 何とか断ろうとした彼だったが、リノは珍しく強い口調でそれを遮った。
「え……」
 少し驚いた彼は、ハッとなって顔を上げた。
 そこにあったのは、月明りに照らされて神秘的な美しさを漂わせているリノの顔。
 更に彼女の黒い瞳は、どこか潤んでいるように見えた。
「……そんなに頼りない?」
「そ、そうじゃないけど……」
 妙な緊張と訳が分からないまま早くなる胸の鼓動が、上擦った声となって零れ落ちる。
 しかし、それに気付く余裕もないリノは、続けて一生懸命に言葉を重ねた。
「いつもトラッドに助けてもらってるから……こういう時ぐらい力になりたい」
 知らぬ間に彼女は、彼の毛布の端をぎゅっと握り締めている。
 手袋を外したリノの手は真っ白で、剣を振るっているとは思えないほど細い。
 そこから伝わってくる微かな震えは、何かを恐れているようにも感じ取れた。
「…………分かった」
 トラッドは微笑みながらも観念したような口調で、そう返事をする。
「折角だし、少し休ませてもらうな」
「……うん」
 彼の挨拶に頷きながら、リノは鋼の剣を握り直し、気持ちを切り替えようとした時。

「それじゃ……おやす……み……」
「えっ……」

 トラッドが眠そうな声で途切れ途切れに挨拶をしながら――――リノの右肩に頭を乗せてきた。
「ト、トラッド……!?」
「んー……」
 てっきりそのまま船室に戻るのだと思っていた彼女は、裏返った声で彼の名前を呼ぶ。
「その……えっと……」
 しかし、彼女の唇から紡がれるのは、言葉の続きどころか戸惑った音色だけ。
 そうして払いのける事もできないまま、リノの顔はみるみる真っ赤になっていく。
「……そうだ」
 彼女の想いを知らないトラッドは、ふと何か思い出したらしく、急に身体を離れさせた。
「え……と……な、何?」
 リノは先ほどまで熱を帯びていた肩に触れ、少しだけ残念そうに問い返す。
 すると彼はよっぽど眠いのか、目を手の甲で擦りながら、改まった口調でこう言った。

「悪いけど……肩、借りるな」

 安堵しかけた彼女だったが、トラッドの重みと夜の風で冷たくなった体温にまた慌ててしまう。
 いきなりでも一言断られてからでも、リノにとって困る事には違いなかった。
「や、休むなら……その……ちゃんとした所の方が……!」
 だが、わずかに冷静さを取り戻していた彼女は、震えた声だけで何とか彼を引き離そうとする。
「別にここでも問題ないし……これなら何かあった時にすぐ分かるから」
「そういうことじゃなくて――」
 そこでリノは不意に言葉を切り、
「じゃあ……どういう事なのかな……?」
 と、小さな声で自分自身に疑問を投げかけた。
 しかし、彼女の心からも、すでに寝息を立てているトラッドからも言葉は返ってこない。
「…………やっぱり疲れてたんだ」
 その時、リノはこれまでの旅を思い返し、彼があまり疲れを見せようとしない事に気づく。
 もしかすると、人に心配をかけまいと無理をしていたのかもしれない。
(……でも)
 今はこうして、自分の肩の上でゆっくり休んでいる。
 信頼しきっている仲間だからこそ、見せる事ができる姿。
 ふとそう思ったリノの顔には、自然と柔らかな笑みが浮かんでいた。
「…………」
 彼女は改めて、トラッドの寝顔をじっくりと眺め始める。
 宿ではいつも同じ部屋を取っているのだから、特に珍しい訳ではない。
 更に言うと、アリアハンの丘で出会った時から、彼は毎日のようにリノの横で昼寝をしていたぐらいである。
(どうしてだろ……?)
 だが、こんなに近くで寝顔を見るのは初めてだった。
 ただそれだけの事にも関わらず、今のトラッドはまるで別人のように思ってしまう。
「…………ん」
「え……?」
 彼は急にもぞもぞと動き、自分の姿勢を整える。
 その拍子でトラッドの左手が、リノの右手を優しく包み込んだ。
「……あっ」
 彼女はつい握り返してしまったが、すぐに我に返ると、慌てて手を引こうとする。
 しかし、眠っているはずの彼は――それを許そうとしなかった。
 最初はぎこちなく、起こさないよう控えめにもがいていたリノだったが、いつしか大人しくなる。
 そして、頬を染めながら、ため息混じりの口調で、
「……変な感じ……」
 と呟くと、ほんの少しだけ掌に力を込めるのだった。


 それからしばらくの時が過ぎる。
 相変わらず耳に入ってくるのは穏やかな波の音と――トラッドの気持ち良さそうな寝息。
「…………わ」
 その時、夜の冷たい風が二人の身体を吹き抜けていった。
 トラッドの銀髪が風でなびき、月の光に晒されてキラキラと輝く。
 今まで海を見つめていたリノは、その不思議な光景に黒い瞳を彼へと向けた。
「……トラッド……」
 そして、リノはいつになく落ち着いた声で、愛しげに彼の名前を呼ぶ。
 自分が何故そうしたのかは分からなかったが、珍しく気にならなかった。
「…………」
 かちゃりという硬質的な音が夜の帳に響き渡る。
 それは、リノが右手で強く握っていた鋼の剣を床に置いた音。
(トラッド……)
 彼女は再び、今度は胸中で彼の名前を呟くと、空いた右手で銀髪を撫でる。
 あまり触れる機会のないリノにとって、それは新鮮な感触だった。
 さらさらと柔らかく、まるでトラッドの笑顔のように何処か温かい。
「……ちゃんと、言わなきゃ」
 だが、そんな心地良さは長く続かず、やがて痛みへと変わっていく。
「本当は……女なんだ、って……話さなきゃ」
 胸で息づく罪悪感に耐え切れなくなったリノは、儚げな声でそう口にした。
 当然、トラッドの耳には届いていない。
(起きてなかったら……こうして言えるのに……)
 それでは意味が無い。彼女にもそれは分かっている。
(……今度はちゃんと言うから……)
 リノは心の中で強く決心すると、右手で剣を握り締めた。
 それから視線を海に戻したものの、あまりの居心地の良さに、彼女もいつしか眠ってしまうのだった。


 そして――――夜が明けた。


「……叩き起こしていいかしら?」
 毛布に包まっている二人の前で、ナギサはハリセンを肩に乗せながら、独り言のように呟く。
「えっと……リノさんもですか?」
 それをヤヨイは困った顔で訊き返すと、
「トラッドだけよ。元々、リノちゃんは見張りじゃないし」
 彼女は金髪を指で玩びながら、にっこりと答えた。
「というわけでラザ。リノちゃんをトラッドから離して貰ってもいい?」
「……分かった」
「私も手伝います……」
 普段なら止めるかもしれない二人だが、さすがにこの状況。返す言葉もないらしい。
 そしてヤヨイがため息を吐きながら、重い足取りでリノとトラッドに近づいた時だった。
「あ……」
「どうしたの?」
 急に動きを止めたヤヨイは、少し恥ずかしそうに微笑みながらナギサの方へ振り返る。
「これ……見て下さい」
 ナギサとラザは、指で示された所をじっと見つめた。
「あら……」
「……微笑ましいな」

 毛布の中にあったのは、仲良く寄り添っている二人の姿と――――強く繋がれた手。
 しかも、まるで離れたくない、とでも言いたげに互いの指が絡み合っている。

「すっごく穏やかな寝顔ですね……」
「……うん」
 さすがのナギサも驚いたらしく、ハリセンを持ったまま立ち尽くしてしまった。
「ナギサ」
「何?」
 その様子を見たラザは、間髪入れずに彼女にこう提案する。
「昨日はモンスターも出なかったんだし、見逃してもいいんじゃないか?」
 更にヤヨイもここぞとばかりに言葉を重ねた。
「それに……リノさんも幸せそうですから」
「もう……分かったわよ」
 ナギサは二人の言葉に呆れた口調でそう言ったが、それとは裏腹に優しい表情を浮かべている。
「今日の所は、リノちゃんに免じて許してあげようかしらね」
「さすがナギサさん!」
 三人はリノとトラッドを起こさないよう、そっと船室へと戻っていった。


「う……ん……?」
 一時間後、先に起きたのははリノ。
(えっと、昨日は確か見張りを変わ…………え?)
 それからすぐに今の状況を理解すると、乱暴な仕草で繋いだ手を離す。
(な、何で私はトラッドの手を……!?)
 彼がもたれかかってきたのは覚えていたが、後の事は記憶に残っていなかった。
「ん……ああ、リノ。おはよう」
「あ、え……と……お、おはよう……」
「顔が赤いけど……どうかしたのか?」
 続いて目を覚ましたトラッドは、いつもと変わらぬ様子で挨拶をし、純粋に疑問を口にする。
「な……何でもない……!」
 リノはどうにかそれだけ言うと、走って船室へと戻ってしまい、その場には不思議そうな顔の彼だけが取り残された。


 その日、彼女はトラッドの顔を見る事ができないまま、一日を終えるのであった。




※後書き
 30000HIT感謝SS、最後の一本はリノとトラッドです。
 早く書きたかったのですが、折角なので最後にしてみました(笑)
 それにしても書きたいと思ってるくせに、いざこういう話になると中々進まないですね……

 時期的には10章の話です。
 甘い……かどうかは微妙な所ですが、少しでも楽しんで頂けましたら、幸いでございます♪

 これで30000HIT感謝SSは、全て終了です。
 最後になりましたが……
 いつも読んで下さっている皆様……本当にありがとうございます。
 これからも頑張って書いていきますので、よろしくお願い致します。



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