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漂白した世界。 音も形も――本当に何もない、真っ白な世界。 歩いても歩いても。 走っても走っても。 青空も、闇夜も、大地も、山脈も、森林も、草花も。 偶然と必然によって織り成された自然が、何一つ視えない風景の中。 たった一つ、人影があった。 少女は自然のない不自然な世界に抱いた疑問も忘れ、自然と駆け出していた。 遠い、影。 霞む、影。 それはまるで、人の身では想像する事しか叶わない未来のようで。 だが、少女は言い知れぬ不安を抑え込み、ひたすらに近づこうと試みた。 そうして人影は、やがてヒトの姿を形作った。 最初に定まったのは、輪郭。 次に浮かび上がったのは、背中。 誰の背中だろう――などとは、考えるまでもない。 自分より遙かに大きな、その背中は。 自分が大切に想う――あの人しか持ち得ない背中なのだから。 少女は、尚も走った。 息が切れても、足が鈍痛を訴えても。そんな正常な感覚は全て錯覚で、現に身体は空も飛べそうなほど軽い、とでも言うように。 彼女は、幸福そのものとも呼べる笑顔を零しながら、ひたすらに駆けた。 背中は遠い。 近いようで、遠い。 (……届け) 彼女は願った。 願った分だけ、距離は縮まった気がした。 だから、願う。 (届けっ!) 声を大にして。 踏み出す足ではなく、振り上げる腕ではなく――彼女は形ある身体ではなく、形のない"気持ち"で駆けた。 しかし、追いついたと思った刹那。正確には、いつの間にか掌に収まっていた" 世界は白い闇に包まれて―― ――消え、た。 ……………………………… …………………… ………… …… 「……ふぇ?」 窓から差し込む陽光。その向こう側で揺れる木々の歌。 「……ふみゅ……う」 木造家屋が放つ独特の香り。仄かな温もりが宿る、床。身体のあちこちを途切れ途切れに覆うのは分厚い毛布で、真横には簡素なベッドがある。どうやら、転げ落ちた拍子に目が覚めたらしい。 「あー……」 ともあれ、微睡みの残った意識と五感で世界を感じ取った彼女――ヤヨイは、ようやく理解する。 先ほどまでの自分は夢を見ていて。 「……そっか」 たった今、その そう、夢。 自分にとって、あまりに都合が良すぎる そもそも、有り得ないのだ。 あんなに綺麗なのに何処かもの悲しい世界も。 自分の前から姿を消したあの人がいた事も―― (夢、なんだ) しかし、ヤヨイは不安の浸食を、首を横に振る事で消し去ろうとする。 同時に我へと返り、乱れた寝間着を慌てて整えた後、ゆっくりと立ち上がって深呼吸。 そして、極めて冷静――だったのも、束の間。 (よっぽど好きなんだなぁ……私) 改めて"想い"を自覚した彼女は、ぼっ、と頬を朱に染めて、 (リ、リノさんもこんな感じ、なのかな?) わたわたと忙しなく両手を動かしつつ、まるで誤魔化すように、違う誰かのことを考えた。 程なくして、小さくはないため息を一つ落とすと、 (でも、クッキーかぁ……) 今度こそは、と冷静になって、夢を思い返し始める。 クッキー。 夢の中でも動揺していたので確認はできなかったが、微かに漂う甘い香りと掌に漠然と残る感触は、紛れもなくクッキーだった。 (……なんでクッキーなんだろ?) 作った事がないにも拘わらず、だ。 ちなみに、彼女の得意料理は梅干しおにぎり。最初は敬遠されがちだったものの、今ではすっかり人気の一品で、この町の名物にもなっている。というのも、毎日のように作る彼女が、極上の笑顔で届けに来るため、いつしか町の者たちも自ら作るようになり――結果、それなしでは物足りなくなってしまったのだろう。 或いは、ヤヨイが町の人々に愛されている証拠――本人は全く気づいていないが。 「……」 兎にも角にも、しばらくは呆然と立ち尽くし、所在なげに部屋中を歩き回り、思い出したように着替え始めた彼女は、 (クッキー……食べてもらいたいのかな) 袖を通した辺りで、そんな結論に辿り着いた。 すると途端に、既になくなっていたはずの熱が、みるみる頬を染め上げてゆく。 だが、ヤヨイは。 「……よしっ」 敢えてそれを振り払おうとせず、 (練習、しよう) ゆっくりと自分の中で消化し、 (美味しい、って言ってもらえるように……うんっ) 驚くほど短い時間で、確かな目標へと昇華させた後、クッキーの材料を買いに出掛けた―― ――寝ぐせを直すのも忘れて。 ※後書き 少し遅刻しましたが、一応はバレンタインSSです。 89話が無事終わったので、やっとヤヨイでも書く事ができました(笑) にしても、紆余曲折な乙女心らしきものを書くのは、本当に難しいです。。。 あと、夢がキッカケの話が多いのですが、それは私が夢を見たから、というだけの話だったりします。 読んで下さった方々、ありがとうございました。 目次へ
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