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曇天も豪雨も何処吹く風の空模様。 こんな日は気ままな散歩に出掛けるもよし。山になっていた洗濯物を片付けるもよし。良好な天気自体を、話のタネにするのもいいだろう。 どちらにせよ、二日前が悪天候だったのなら尚更―― ――といった快晴に恵まれているのは、サマンオサ。 その国の城下町。入口付近に位置する宿屋の、とある一室では。 「うー……」 額に濡れた布を乗せるトラッドが、ベッドの上で毛布にくるまれ、うなされていた。 原因は、これもまた二日前まで遡る。 彼はカンダタの来訪により、全てを知った。永きに渡る自身の過ちと、優しく歪められた過去を。だが、真実の重みに堪えきれず、外へ飛び出し――雨に打たれ続けたせいで風邪を引いたのである。あれほど大丈夫だと断言しておきながら、だ。 「トラッド、ご飯は食べられそう?」 「悪い……けど、まだ」 そんな彼を、甲斐甲斐しく看病するのはリノ。 暇を見つけては――というより、起きてる時間の殆どを看病に当てている。それこそ彼の部屋にいない事の方が、珍しいぐらいに。 「じゃあ、リンゴは?」 「それだったら……うん」 「分かった。すぐに取ってくるね」 と、心配したトラッドも、最初は頻繁に外出を促してはいた。 しかし、リノは一向に首を縦に振らない――どころか。 こじらせるのは良くない。早く治して欲しい。情報集めもナギサとラザがいるから大丈夫。 と、珍しく強い口調で怒られてしまうのだ。 ゆえに彼は、風邪で弱っていたせいもあり、早々に諦めたのである。 ただ、嬉しくないはずもない。むしろ、不謹慎とは思いながらも、彼は幸せだった。 何故なら、二日前。少女の温もりに落ち着く自分に気づいた時から。 まだ理由こそ分かってはいなかったが。 少しでも一緒にいられたら――などと想っているのだから。 ゆっくり回転する、赤色の ぴたりと静止する、銀色の 合わせて、しゅるしゅると。細長い"紅"が地面を目指し、道を創っていく。 すぐに戻ってきたリノが、早速リンゴを剥き始めたのである。 基本は規則的に、時折不規則に羅列される音の群れ。 耳を澄ますと、まるでリンゴが掌で歌っているようで。 瞳を開けると、まるでリンゴが掌で踊っているようで。 酷く、心地良い。油断すれば、うっかり眠ってしまいそうなぐらいに。 だが、不思議とトラッドの意識は冴えていた。 微塵も危うさはないはずなのに、どうしても――目が離せないのだ。 (…………あれ?) しかも気づけば、顔全体の熱が濃度を増している。 (おかしい、な) 睡眠時間は十分なはずなのに。額に乗せられた布はまだ冷たいのに。 何よりも――リノが側で一生懸命に看病してくれているというのに、だ。 そこで自身の状態を訝しく思ったトラッドは、 「……上手くなった、な」 不可解な"熱"を誤魔化すように、リンゴ剥きを褒めた。無論、本心でもあるが。 「そ、そうかな……?」 「何て言うか……凄く安心して、見てられる」 「…………」 すると彼女は口を噤んだ後。 「……練習してたから」 ぽそりと。ちょうどリンゴのように頬を染めて呟いた。 「練習?」 「と、時々だけど」 そういえば以前、教えた覚えがある。しかし、彼女が乗り気だったかといえば、違う。 なら、一体いつから始めていたのか。 いや、そもそもキッカケは何なのか。 良い傾向と思いつつも、気になった。が、訊くつもりもなかった。 意識が朦朧としていたせいも、ある。 「えと、あの……!」 しかし、彼女は急に取り乱した声を漏らすと、 「練習しないとできないまま、だし……」 尋ねられてもいない理由を、珍しい早口で話し始めた。 「そそ、それにほら!」 が、直後。動揺に手元が狂ったらしく。 「せっかくトラッドから教えてもらったことを忘れたくな――あ」 長々とたなびくリンゴの皮が、ぶつり、という悲鳴と共に落下した。 「……えっと」 普段とは異なり、多種多様な表情の移ろいと仕草を見せる彼女。 どこからしくない印象も受けるが、新鮮には違いなく。 それが見られて嬉しい、と。 「まぁ……指だけは切らないようにな」 胸中密かに呟いたトラッドは、苦笑しながら別の言葉を口にした。 そうして、数十分後。 「よし……できたっ」 鈴鳴りのように弾んだ声が、部屋中に小さく響き渡る。 それが合図になったのか。 「……ん?」 純粋な黒に埋まっていたトラッドの視界が、煤けた白へ塗り替えられる。 この白は壁だ。しかも思いの外遠い。要するに、天井。 考えなくても解る事が、考えなければ解らない――という判然としない思考の中、彼は知らず知らずに自分が眠っていたのだと理解した。 「トラッド?」 「……起きてる」 「まだ何も言ってないけど……もしかして寝てた?」 一方、リノは微妙に噛み合わないやり取りを経てから、顔を曇らせる。起こしてしまった事を申し訳なく思ったらしい。 しかし、彼女に非があるはずも、ない。 「あ、いや……食べたかった、から……ちょうどよかった」 そこでトラッドが途切れ途切れに言葉を紡ぐと、 「……ホント?」 ぎこちなくも笑みが戻ってきた。 今日のリノは、やっぱり目まぐるしい。と思いつつ、トラッドは改めて肯定する。 これは。このリンゴは。最近、料理に興味を持ち始めた彼女が示した、初めてのカタチある成果。嬉しくないはずがない。 今までと違って、我を失う事もなく――自ら抱き締めたいぐらいに、嬉しい、と思う。 (じゃあ、早速……) だが、そんな彼の意志に反して。 (あ……あ、れ) 身体が起き上がらない。支えようとする両腕に力が入らないのである。どうやら自分が考えている以上に、体調は芳しくないようだった。 彼はふと考え込んだ後。 (しょうがないか……枕元に置いてもら――) 間もなく思い浮かんだ方法を告げようと試みたのだが。 「ト……トラッド」 一足早く名前を呼んだリノは、何故か熱っぽい吐息を零した後。 「えっと、あの……あーん」 リンゴをフォークで突き刺し――おずおずと彼の口元へ近づけた。 あまりに唐突で、予測の立てようがない行動。 「……へ?」 彼の思考は漂白の一途を辿り、凍結状態にまで陥るが、それも無理はない。 何故なら、うっすらと上気した顔を逸らしつつもリンゴを差し出す少女は―― ――紛れもなく"可愛い"のだから。 だからこそ、逆にトラッドは思う。 (でも、いくら病人だからって……) 自業自得の果てに苦しんでいる自分が、ここまで気遣ってもらって良いのか、と真面目であるがゆえに悩む。 「トラッド……やっぱり食欲ない?」 「え?」 「さっきから難しい顔してる」 するとリノは、別の不安が滲む言葉を口にした。 「そういうわけじゃない、けど……」 対して、トラッドも咄嗟に否定はするものの、二の句が継げない。 彼自身もまた、別の不安――否、罪悪感を覚えていたからだ。 『…………』 束の間流れる、気まずい沈黙。 しかし、先にそれを破ったのは、 「……遠慮しなくても、いいよ?」 二つの黒で彼を見据え、柔らかく微笑んだ――リノ。 「トラッドが風邪を引いてるからっていうのは、やっぱりあるけど」 更に彼女は、はっきりと告げる。 「わ、わたしもこうしたい、って……思った、から」 今がどういう状況であろうとも、この行動は自分の意志だ、と。 (……ったく) トラッドは胸中で呆れた。 (何考えてるんだ……俺は) 自分の事だけで精一杯な、他ならぬ自身に。 彼女だって照れている。それは表情と声からも明らかだ。 だが、恥ずかしくても実行に移してしまうほど――彼女は、優しい。 そんな事実は、とうの昔に分かり切っているはずだった。 「あ……あー……ん」 「え?」 トラッドはトパーズを固く閉じて、代わりに口を大きく開ける。 返答の類がなかったせいか、きょとんとするリノ。例え他人の事は言えなくとも、だ。 しかし、それもほんの一瞬。 「……うんっ」 こくんと頷いた少女は、相変わらずの震えた手つきでリンゴを差し出した。 その時、かちゃりとドアが囁き、隙間ではウサギの耳らしき物体がふわふわ揺れていたのだが。 「美味しい?」 「……ああ」 「じゃあ、次――」 お互いを強く意識し合う二人が、気づくはずもなかった。 やがて、リンゴがなくなり。借りた皿とナイフを洗い終えたリノが部屋に戻った頃。 「……あ」 トラッドは寝息を立てていた。 彼女は安眠を妨げないよう口元を掌で覆い、忍び足で椅子に座る。わずかに木の軋む音が響いたが、起きる気配はない。中々眠れないと言いつつも、やはり日頃の疲れが蓄積しているらしく、相当に深い眠りのようだった。 (ふぅ……) とりあえず彼女は胸中で安堵の息を零したが――それも数秒。 (あ、そろそろ変えなきゃ) 今度は音もなく立ち上がり、布を静かに額から外す。予想通り、冷気の大半は損なわれていた。 それから水の入った桶へ移し、また乗せようと考えた時。 「…………」 雪色の手は、ぱしゃ、と水面を騒がせるだけに留まった。 (熱……少しは引いたかな) 彼がどれぐらい回復したのか気になったのである。 思い立ったリノは、すかさず両手の水気を落とし、 (……うん) 意を決した表情で一度小さく頷いた後、トラッドの額へ掌を乗せた。 すると、間髪入れずに伝わってくる。 普段より少し熱い、愛しい人の体温が。 つい二日前の事を思い出した彼女は、顔を真っ赤に染めながら、改めて想う。 どうしようもないぐらい、彼が好き、と。 だが、今はそんな場合ではない。 軽く頭を振り、わずかな冷静さを取り戻したリノは、 (えっ、と……うん) どうにか掌に意識を集中させようと試みる――のだが。 (……えっ) それは叶わなかった。 (トトトラッド……!?) 眠っているはずの彼が、突然手を掴んできたからである。 途端いリノの顔はぼっと熱くなるが、同時に気づいた。 (もしかし、て) "呼"と"吸"の間を繋ぐ穏やかな寝息が、尚も途切れていない事に。 つまり、彼は寝惚けているのだ。 「……もう」 驚いたのか、呆れたのか。それとも、やはり嬉しいのか。 思わず声が――リノ自身も理解できない不可思議な音色が、波打った。 しかし、トラッドは目を覚まさない。 「……ん」 だけでなく更に、彼女の掌を自分の頬へと当てた。 先刻、水に浸していたからだろうか。随分と気持ち良さそうだ。 (びっくり、した) 安らかな表情に振り解く気を削がれたリノは、精一杯声を押し殺す。 (トラッド……) そして、大好きな彼の寝顔をじっと眺め始めた。 記憶を手繰り寄せてみれば、昨日も同じ事をしていた。ゆえに今更と言えば今更で、さほど珍しい光景ではない。 にも拘わらず、何故か飽きる事がない。 (……そういえば、言ってたっけ) そこでリノは、看病するキッカケを作ってくれた人物。 (かっこいい人はいつまで見てても飽きない、って) ナギサの言葉を思い出し、更に思考を巡らせた。 (じゃあ、トラッドは――) 流麗な銀髪を陽光に輝かせて眠る、彼の事を。 (私にとっての"かっこいい人"なのかな……?) 確かに見ていて飽きない。最近では、ずっと見つめていたい、とすら想っている。 (……でも) 何となく違う。 この結論は、彼女がよく分かっていないという理由もあった。 (今のトラッドって) が、リノは掌に頬をすり寄せる彼を、 (かわいい、かな……?) などと思ってしまい、答えは結局分からずじまいとなった。 ただ、どちらにしても。 自分が彼を好きな事に変わりはない。 そう思った彼女は、またしても頬を上気させた。 リノが身動きを取れなくなってから、数時間後。 透明に近い陽光に包まれていた世界は、いつしか夕焼け色に染まっていた。 「……ふぅ」 そんな中で彼女が紡いだのは、ため息。しかし、この状況に対してではない。 看病に追われるあまり、忘れていたのだ。 昨日から現在に至るまで――彼が名前を呼んでいない事に。 仕方のない事実ではあるが、リノは不安や寂しさを拭えずにいた。 リノ、と。名前を呼ばれ慣れてしまったからだろうか。 いつも呼んで欲しい時に、呼んでくれるからだろうか。 いや――少し、違う。 彼に恋をしているからだ。 だから、ワガママな願いを抱いてしまう。 (こんなこと考えちゃいけない、のに) 彼が眠り、手持ちぶさたになる度に、想ってしまう。 しかし、邪な考えを消し去ろうと、リノが首を横に振った時。 「……う」 ごろりと寝返りを打ち、 「んー……」 ちょうど少女の掌に頭を乗せる形になったトラッドが―― 「リ……ノ……」 「……えっ?」 ――名前を、呼んだ。 顔に出ていたのだろうか、と考えたリノだが、彼が起きた様子はない。 要するに、これは単なる寝言だ。 だが、彼は病に伏せっているにも拘わらず――名前を呼んでくれた。 しかも普段と同じく、彼女がそうして欲しい瞬間に、である。 それが、酷く嬉しくて。 それが、酷く温かくて。 「……トラッド」 ぽつりと名前を呼び返した後。 上を向いた彼の頬へ、半ば反射的に落としてしまった。 「……ん」 桜色の――唇を。 ………………… (わわ、わたし……なに、してるんだろ……!?) 数秒後、ふと我に返ったリノは弾かれたように唇を遠ざける。 (……でも) しかし、すぐさま真っ赤な笑みを浮かべると、 「早く……良くなってね」 柔らかな"想い"のカケラを呟いた。 翌日、トラッドの風邪は随分と良くなっていたのだが。 その理由は、十分な休息とリノの看病。 加えて、おそらくは。 互いの頬に"熱"が芽吹く――――柔らかな"恋心 DQ1stSS目次へ |