「幸せに至る途上」



 くつくつ。ことこと。

 鍋がしっとりと歌い、

 くつくつ。ことことん。

 食材が軽やかに踊る。


 それはまるで音楽会だった。


 微量の賑わいと少量の微睡みが渾然一体となって奏でられる、

 日常という題名の小さな――音楽会。

 その音楽会の指揮者。
 言い換えると、本日の食事当番であるリノの事だが、彼女は何故か割烹着を纏い、奇妙に強張った面持ちで鍋の中身を凝視していた。
 ちなみに、彼女が何故――本当に何故、割烹着に身を包んでいるのか。


 それは昨日のこと。
 安穏と黄昏ゆく世界の景色が、何処か正体不明アンノウンであるがゆえによく似合う、もしくは逆に全く相応しくないような――どちらにしても"らしく"はある、そんな金髪碧眼ウサギ耳のお姐さんことナギサが食事当番だった日の事。
「リノちゃん……休んでなくて大丈夫?」
 こくん。
「でも、昨日は見張りだったんだし……やっぱり疲れてるでしょう?」
 ふるふる。
「本当に?」
 こくん。
「ホントのほんとうに?」
 こくこくん。
「じゃあ、試しに"私のこと、ぎゅっ、って……して"って言ってみて」
「うん……わ、私のこと――……って、ナギサ!」
「なあに? 怒った顔も声も可愛いし、私の準備もできてるわよ?」
「そ、そんなこと……って、そうじゃなくて! ……さすがに騙されないから」
「そっか……私もそういう風に言って貰いたかっただけなのになぁ」
「トラッドにも言わないから……っ!」
「あら? 私は"トラッド"なんて一言も言ってないんだけど?」
「っ〜〜〜!」
「あはは……ごめんごめん。でも、それだけ元気なら大丈夫かしらね」
 リノはナギサに翻弄されつつも、やっぱり心配されながら食事の準備を手伝っていた。
「ラザも心配してたから。手伝ってくれるのは助かるけど無理してるんじゃないか、って」
「……ごめん」
 しかし、ナギサやラザの心配も当然だった。何故なら、リノが手伝いを申し出たのは、
 今日は、ではなく、
「別に悪いことじゃないから謝らなくてもいいけど……ほら、リノちゃんって頑張りすぎちゃうところがあるから、ね」
 今日も、なのだから。
 少し前からそういった機会は増えていたものの、最近は特に多くなったため、ナギサやラザが心配するのも無理はなかった。
「でも、どうしたの?」
「え?」
 しかし、リノには理由があった。
「これまでも時々手伝ってくれてたけど、最近は特に多いじゃない。だから、何か理由があるのかなー、って」
 ただし、言えない。
「り、理由って?」
 というより、言うのが恥ずかしく――同時に少し怖くもあった。
 自分では無理をしているつもりはなくとも、周囲には無理をしているように見えるという状況。それを引き起こしたのが、他でもない自分のワガママ、と知られるのが怖かったのである。
 だが、ナギサはにっこりと、温かみと慈しみに好奇心が入り混じる器用な笑顔で呟く。
「そうね……例えば、誰かに美味しいって言って貰えるような料理が作りたい、とか?」
 まるで、全てを見抜いている、とでも言いたげな口調で。
 その時、リノはかろうじて言葉こそ発しなかったものの、芽吹いた動揺をつい表情に滲ませてしまい、
「だ、だからトラッドは関係な――――……あ」
 しかも気づいた時にはもう、回答の半ば以上を音声に変換してしまった後だった。
 ぼっ、と頬を上気させた彼女は、ぺたん、とその場に座り込んだかと思えば、息吐く間も息継ぐ間もなく項垂れる。
 怒られるにせよ、気遣われるにせよ、そもそもの動機が動機なだけに酷く申し訳なく思ったのだ。
「ふふっ……本当に分かり易いわね、リノちゃんって」
「……え?」
 しかし、ナギサは予想を遙かに上回る穏やかな声で、ぽつり、とそう落とすと、
「うんうん。じゃあ、無理はダメだけどもっともっと頑張らなきゃね。なんといっても相手はあのトラッドなんだから」
 わしゃわしゃ、と、さわさわ、の中間に位置する絶妙な力加減で少女の頭を撫でた後、ゆっくりと手を引いて身体を起こした。
 それは柔らかな――そう、ちょうど今感じたばかりの掌にそっくりな、柔らかくて温かい言葉で。
 リノは意外に、そして不思議に思った――ものの。
「……うん、ごめん」
 唇から零れ落ちたのは、理由ではなく謝罪。まだ後ろめたいのかもしれない。
「リノちゃん、こういう時は"ごめん"じゃなくて――」
 だが、ナギサは微苦笑混じりの明るい声色で告げる。
「頑張る、ナギサにも食べて貰いたい……もしくは、ありがとう。そのどれかでいいの。まぁ、私個人としては三つ目と二つ目がオススメだけど」
 ぽん、と背中を押すだけでなく、一緒に隣を歩きたい。そんな意志が込められた、頼もしい言葉を。
 だからこそ、リノは答える。
「……ありがとう。ナギサにも美味しいって言って貰えるよう、頑張るから」
 彼女が挙げた言葉を全て用い、小さな笑顔で応えた。
(ふふふ……リノちゃんの愛情たっぷりの手料理、確保ッ!)
 幸いにも、もう一つの秘められた目的には気づかないままで。
「さて、それじゃあ続きを――……あっ」
 とその時。
「リノちゃん、ちょっと待っててね」
 不意に何かを思い出し、何かを思いついたらしいナギサはスキップで厨房を後にする。その足取りは前触れもなければ予備動作すらなく、あまりに軽やかで、本当は宙に浮いているのではないか、と解釈せざるを得ないほど楽しげに常人から掛け離れていた。実際のところ、もしこの場にトラッドがいれば、真っ先に逃走を計画しつつも結局は恐怖に負けて言いつけを忠実に守っていただろう。
 しかし、リノは察する術を持ち合わせていない――何故なら、彼女はナギサに、それはもう傍目からでも火を見るより明らかで、加えて非の打ち所もなくて、言うなれば仲の良"過"ぎる姉妹と断じても支障がないぐらいに愛されているからで――つまり、ナギサの奇襲に限っては、持ち前の鋭利な直感も効果を十分に発揮しないのである。
 ちなみに、当のナギサが自覚しているのかどうかは不明だったが、いずれにしても手の着けようも施しようもない――そんな天然の恐るべき策略であった。
 それはさておき。
「おっまたせ〜」
 リノが首を傾げる暇もなく、ナギサが本当に"ちょっと"と呼べる時間で帰ってきた。もちろん、あの異様な疑似空中歩行は相も変わらずで、おまけに真っ白い何かを胸元に抱えている。
 だが、それが何かを訊ね――否、疑問符を浮かべるよりも早く、
「というわけで、はいっ。しゅるりと着替えちゃってね」
 ナギサはその物体を押しつけるように、ふぁさ、と全貌を明らかにした。
 それは二種類の服だった。
 一つは先ほどから見えていた、真っ白い服。
 もう一つは、青や蒼とは一風異なった紺瑠璃色の服。
 どちらも清らかではあるのは確かだが、それよりも瑞々しい清潔感や、和やかな雰囲気の方が強く、形状自体も今までに見た事がない衣類だった。
「えっと……ナギサ、これは?」
 当然、リノは質問する。単純に知らなかったという理由もあるが、今更ながらに警戒心を覚えたからでもある。
「まぁまぁまぁ、いーからいーから」
 とはいえ、彼女が聞く耳など持つはずもなく。
「で、でも……」
 また少女に抵抗する術があるはずもなく。
「もも、もし誰か入ってきたら……!!」
 一応は至極真っ当な意見を口にするものの、
「ああ、それなら大丈夫よ。途中で擦れ違ったラザには釘を刺しておいたし、トラッドもしばらく起きられないから」
 問題というモノはすべからく問題として浮上するよりも早く問題として成立しているがゆえに問題は既に解決している、とばかりに彼女は自信を持って断言する。もっとも、トラッドに対しては如何なる手段を用いたのか、については回答が解り切っている以外の理由で聞く気になれなかったが。
 兎にも角にも。
「……あっち、向いてて」
 彼女は渋々と――本当に渋々という言葉が相応しい面持ちで、忙しなく周囲を窺いながら着替え始めた。
 その行為に要した時間は、予想よりも遙かに長い数十分。
 服を脱ぎ、軽く羽織るまでは良かったのだが、
「えっと、ナギサ」
「ん? なになにー?」
「……たすけて」
 形状が既知のものとまるで違うため、着る、という段階には至らず、
「おっまかせっ」
 結局は背中を向けていたナギサの手を借りる状況に陥ってしまった。その反応の早さと振り返った瞬間の笑顔から推測するに、もしかすると狙い通りだったのかもしれないが、彼女の口から語られない以上、限りなく疑わしくはあっても真偽不明である。
 何はともあれ。
「ナギサ」
「なあに? 物凄く似合ってるわよ?」
「そんなことはないと思うけど……これは一体?」
「これはね、割烹着と着物っていうのよ」
 ことごとく強引に話を逸らしてきたナギサは、ここでようやく説明を開始した。
「カッポウギ? キモノ?」
「そっ。ジパングではお馴染みの服だから、ヤヨイちゃんならよく知ってると思うけど」
 ちなみにこの時、それを何故彼女が持っているのだろう、という疑問は浮かんだのだが、
(うん……まぁ、ナギサだし)
 と答えにもなっていない答えで納得したリノは、敢えて言葉にはせず、
「どうしてこれを?」
 代わりに気掛かりで仕方がない意図を言及した。外見的にも機能的にも問題らしい問題は見つけられなかったが、それでもわざわざ着替える必要性を見出せなかったのだ。
 しかし、ナギサは普段と変わらぬ口調で、はっきりと嘯いた。
「料理が上手になる魔法の服だからよ」
「…………はい?」
 全く現実的ではないどころか、あまりにも幻想的ファンタジィな内容を、まるで躊躇う事なく、だ。
 リノは、束の間黒瞳こくどうを見開いた後、訝しげに細める。彼女にしては、程々に珍しい表情である。
 だが、恋は盲目という言葉がある。
 ナギサはそれがリノとトラッドにはこの上なく当て嵌まる、という事を知り抜いていた。
 それゆえに、彼女は。
「ほら、トラッドの料理って美味しいじゃない?」
「でも、それとこれとは関係な――」
「だから思うのよ。昔は割烹着を着てたんじゃないか、って」
「……え?」
「試しに割烹着姿を想像してみて」
「う、うん……」
「似合うでしょ?」
「…………うん」
「リノちゃんも割烹着を着て練習すれば、きっと上手になるわよ」
「そう、なのかな」
 あっさりと論点をすり替える事に成功し――
「というわけで、今日から……ねっ?」
「……うん」


 ――現在に至る、というわけなのだが。


 かといって、すぐに上手くなるはすもなく。
 それがよく解っているリノは、
 首を傾げては味見。
 低く唸っては味見、と何度も何度も、幾度もなく。
 自分では数え切れないぐらい、また数える事自体を諦めるぐらいに味見を――正確には十四回――繰り返してもなお、まだ物足りない表情をしていた。
 つまり、鍋を凝視する、という一見不可解な行動は、この心に基いている。一応、自分では美味しくできたと思ってはいるのだが、これも今まで以上に"誰かの笑顔"を意識するようになったがゆえに浮上した不安なのである。
 だから、だろうか。
「……トラッド」
 思わず呟いてしまった言葉は、酷く熱を帯びていて。
 直後に零れ落ちた吐息は甘くて、何処か切なくて。
(なに、考えてるんだろ)
 途端に我に返った彼女は、胸中でそう落とすと同時に、さっ、と頬に朱を走らせた。
 その時、ふと思う。

 自分はいつから、こんなに"彼"を意識するようになったのだろう、と。

 最初は、怖かった。
 自分の断片さえ、知られるのがたまらなく怖かった。
 再会した時も、怖かった。
 知られるのも、騙して利用した事を怒られるのも怖かった。
 洞窟を抜け、実感も沸かないままに海を越えた時も怖かった。
 一歩、また一歩と足を踏み出す毎に近づく別れが怖かった。
 別離がなくなっても、まだ怖かった。
 隠し事をしている、と知られる事が怖かった。
 彼が目の前で攫われた時も、怖かった。
 もう二度と逢えないかもしれない、そう思ったら余計に怖くなった。
 自分の異質を思い知らされた時も、怖かった。
 それを知られた時は、もっと怖かった。

 けれど、独りっきりになってしまった時が。
 自分の気持ちに気づいた時が。
 一時的とはいえ、彼が深い眠りについてしまった"あの時"が。

 きっと、一番怖かった。

 そして、今も。
 彼が自分の事をどう想っているのか――それを知るのが、怖かった。


(……でも)


 最初から、嬉しい、もあった。
 何も話せなくても、ただ隣り合っていただけでも。
 別れ際に名前を告げるのが精一杯だったとしても、伝えられた事が嬉しかった。
 追いかけてきてくれた時も、嬉しかった。
 助けてくれて、心配してくれた事が嬉しかった。
 別離がなくなった時も、嬉しかった。
 明かせない隠し事は多くても、一緒に旅できる事が嬉しかった。
 攫われた彼とまた会えた時も、嬉しかった。
 また一緒に旅ができる、そう想ったら余計に嬉しくなった。
 自分の異質を受け入れてくれた時も、嬉しかった。
 それが怖くもあった、けど――

 ――けれど。

 もう一度追いかけてきてくれた時が。
 もう一つの秘密を知った上で抱き締めてくれた時が。
 深い眠りについた彼の、トパーズ色の瞳が開き、

 唇と唇が触――

 などと、思い出した刹那。
(本当に……なに、考えてるん、だろ)
 はぅ、と顔から耳を真っ赤に染めたリノの指先は、気づけば唇をなぞっていた。

 "彼"と触れ合った――桜色の唇を。


 だが、それゆえに少女は知る。
 いずれにしても、出会った頃から彼を意識していたのは自明の理で。
 最初は小さかった"嬉しい"は。
 小さな身体には大きすぎる恐怖に比べ、遙かに脆弱だったはずの"嬉しい"は。
 時を重ねる毎に――いや。

 時間ぬくもりを共有する度に、どんどん膨らんでいって。

 今では抑え切れないぐらい。
 どれだけ自分を保っていても零れ落ちてしまうぐらい、強くなっていて。
 それは不快でも不愉快でもなく――むしろ、心地も居心地も良い感情で。
 だから、かもしれない。

 かちゃり、と。

 唐突に木製の扉が開かれ、そこに"彼"の姿が在った時。
 瞬間。
 確かに、ほんの一瞬でも動揺してしまったのは、紛れもない事実ではあるのだが。
 深く、幽かに潤んでもなお、澄んだ輝きを損なわない黒瞳で、彼の穏やかなトパーズを見つめ返したリノは、彼女らしく、また年相応の少女らしくもある小さな――それだけでも勇気を振り絞ったと分かる、一生懸命な笑顔で、

「……トラッド」

 大好きな"彼"の名前を呼び。
 名前を呼べる事と、
「えっと、何か手伝うことはないか?」
 名前を呼んだ時に応えがある事。
 そんな有り触れた感情――

 ――たった二つの、ささやかな"幸せ"に包まれながら。

「あ、あの……!」
「ん?」
「味見……お願いしても、いい?」

 控え目な仕草で、彼にシチューの小皿を差し出すのであった。



 ちなみに、この後。
 見慣れないリノの姿に驚いたトラッドによって、ナギサの割烹着に纏わる話は嘘だと発覚したのだが。
 彼の一言。
「まぁ……似合ってるけど」
 あまりに些細で、正直で、不器用なこの言葉に。

 それ以降も彼女は、時々割烹着を着るようになった。



※後書き
 手術中の魔術師様、リクエストありがとうございます♪
 大変長らくお待たせして、誠に申し訳ございませんでした(汗)
 SS『幸せに至る途上』をお送り致しました。
「リノがものすごく可愛くて、リノが幸せそうな話」
 とのでしたが、そういった内容になっていれば幸いでございます。

 今回は心境の描写についてを、改めて見直す良い機会でした。
 1st・19-5の姐さんみたいに『思考や感情に振り回される』状態なら、多少冗長なのもアリかと思うのですが、
 今回のリノのように『思考や感情がある程度定まっている』場合は、
 なるべく短く。できるかぎり分かり易い言葉で。
 とした方がしっくりくるような気がしたので……ここ最近はずっと書き直しに勤しんでました(汗)
 その甲斐あってか、まだまだ未熟な点ばかりではありますが、個人的には結構好みな仕上がりです(笑)

 あと、挿絵にも挑戦してみましたが……こちらについては、ほぼノーコメントで。
 割烹着の袖が趣味全開、とだけ申し上げておきます(笑)

 それでは、最後に。
 リクエストを下さった、手術中の魔術師様。
 読んで下さった方々、本当にありがとうございました。




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