「低温火傷」


 赤のオーブがあると思われる場所は、トラッドの知り合いである船乗り――もとい、海賊の住処。
 しかし、彼らは夜にしか帰ってこないらしく、それまでは安全を考えて、船で時間の経過を待つ事となった。

 ここは船内の台所。壁には一つだけ丸い窓があり、向こう側では海と空の青が穏やかに揺らめいていた。
 中央には頑丈そうな木製のテーブルがあり、今は調理道具が所狭しと散乱している。
 壁際には食器を直す棚が少し高い場所に備え付けられているのだが、まだ料理が全て出来上がっていないため、固く閉ざされたままだ。
 そんな中、リノとトラッドは仲睦まじく昼食の準備に勤しんでいた。
 元々の当番は彼一人なのだが、機会があれば料理を教わりたい、と思っていたリノの希望により、二人で準備をする事になったのである。
 だが、それはあくまで表向きの理由。
 本当の理由は、元気のないトラッドを放っておけない、というリノの想いにあった。
 とはいえ、前者も本音には違いないのだが。


「後は、隠し味に白ワインを入れて……出来上がり、っと」
「え?」
「味見してもらっていいか?」
「でも、白ワインって」
「いいからいいから」
「じゃあ……うん」
 クリームシチューを作り終えたトラッドは少量を小皿に移し、隣で熱心に見学しているリノに手渡す。
 受け取った彼女は、見慣れない味付けに戸惑いながらも、桜色の唇をそっと触れさせ、ゆっくり皿を傾けた。
 そして、こくんと喉を鳴らした後、
「わ……凄く美味しい」
 驚きながらも、素直な感想を述べた。年相応の少女らしい可憐な笑みで。
「こういう風に、ちょっとした隠し味で味が深くなるんだけど……」
「けど?」
 嬉しそうでありながらも、何処か難しい顔をしているトラッド。
「失敗しなくて良かった、と思って」
 だが、続けられた言葉に、きょとんとしていた彼女は、すぐさま納得した。
 確かに、この状況で失敗するというのは、恥ずかしいに違いないだろう、と。
 同時に取り越し苦労だ、ともリノは思う。何故なら、これまで彼の料理が美味しくなかった事などないのだから。
「シチューはもうしばらく煮込むとして、次はサラダだな」
「じゃあ、野菜を切って盛りつければいいか?」
「ああ、頼む」
 こくりと頷いたリノは包丁を手に取り、既に洗ってある数種類の野菜をテーブルに乗せると、適当な大きさに切り始めた。
 トラッドはというと、彼女に背中を向け、いくつかの材料を前に考え込んでいる。きっと、何の料理をどういった手順で作ろうか思案しているのだろう。
 出来たてを、より美味しく食べてもらおうとする心遣いは、何とも彼らしいものだった。
 湯気と共に芳醇な香りを漂わせ、ことことと歌うシチュー。
 鍋の隣では、彼が口笛混じりに次の料理へ取りかかっている。リノの美味しいという感想に喜びを隠せないようだ。
 その穏やかな音色に耳を傾けつつ、彼女は危うい手つきで包丁を動かし続けた。
(剣だったら、もう少し上手く扱えるのに)
 形状も用途も異なる、愛用の武器を脳裏に思い描きながら。
(でも、早く慣れなきゃ……いつまでも、トラッドに手伝ってもらうわけにもいかないし)
 これまでも彼女が食事当番だった事はある。それに長旅を想定していたので、母親から簡単な料理も教わっていたのだが、
(……誰かと旅をするなんて、思ってもなかったから)
 食べるのは自分しかいない、などと思い込んでいたせいで、大雑把な覚え方しかしていなかったのだ。
 付け加えると、時間の大半を剣の鍛錬に費やしてたため、基本的な包丁捌きを身につける余裕もなかったのである。
(そういえば……)
 彼が初めて手伝ってくれたのは、いつ頃だったのだろうか、とリノは記憶の糸を手繰り寄せた。
(えっと、まだヤヨイとは出会ってなかったから……そうなると、カザーブに行く前――」
 そして、気づいてしまう。
(……もしかして、ずっと? 私が初めて当番になった日から?)
 これまで自分は一人で食事を用意した経験がなく、しかも殆どを彼に任せっきりだという事に。
(で、でも、それはトラッドが……!)
 手伝うと言って聞かなかったからだ、と思い出す。いつもとは少し違う笑顔と合わせて。
 もちろん、最初の内はリノも断り続けていた。助かるのは事実だが、それ以上に迷惑を掛けたくない、という気持ちが強かったからだ。
 しかし、トラッドはする事がないだの、暇をしているとナギサのハリセンが飛んでくるだの、適当な理由を見つけては手伝おうとしてきた。
 更に言うと、彼女も断り切れずにその状況が続いたので――

 ――いつしか、これが当たり前になってしまったのである。

(……あれ?)
 そこでリノは、ふと違和感を覚える。
 今でこそ、自分の未熟さを理解しているので断らないのだが、それゆえに忘れていた事。
(あの時のトラッドって……妙に強引だった気がする)
 それは普段の彼との違いである。考えてみれば、何故気づかなかったのか、とすら思えるほど大きな違い。
(心配、してくれたから?)
 だが、すぐにハッとなった。
 トラッドは指を切ったりしないよう、隣で見守るために手伝ってくれたのではないか、と。
 何せ、自分の料理をする姿は、旅に出て結構経つにも関わらず、まだまだ危なっかしいのだ。以前は、もっとそうだったのだろう。
 とはいえ、これは推測に過ぎない。
 それでも彼の優しさに幾度となく助けられてきた彼女は、半ば確信したように導き出した答えを信じ切っていた。
(何で……気づかなかったんだろ)
 気遣いに対する嬉しさと一抹の恥ずかしさに、リノは頬を染める。

 まるで眼前のトマトと、自分の指から零れ落ちる真っ赤な液体のように。

「え……っ……?」
 唐突に痛みを感じた彼女は、驚きを露わに一歩だけ後ずさる。
 直後、手放した包丁が、まな板の上で小さな悲鳴を洩らした。
 どうやら思考に熱を入れるあまり、包丁の動きが逸れた事と指を切ってしまった事に気づかなかったらしい。
「リノ!?」
 異変に気づいたトラッドは、すぐさま呆然となっている彼女に駆け寄り、慌ただしく周囲を見渡す。
(止血できるものはない、か……!)
 しかし、目的の物がここにない、と彼は瞬時に判断すると、

「……ん」
「え? あ……」

 考えるよりも早く、リノの白い指に唇を触れさせ――鉄味の液体を吸い始めた。

「トラッ……ド……!?」
 初めての感覚に戸惑いながらも目を離す事が出来ない少女は、声にならない声で名前を呼ぶ。
 指先のささやかな温もりも、いつの間にか身体中が熱くなっている事も分からないままに。
「ん……」
 だが、彼は何の反応も示さず、一心に止血行為へ没頭する。
 その事からリノは、彼なりに一生懸命なのだと改めて理解した。他でもない自分のために。
(でも……凄く変な、感じがする……)
 しかし、それ以上は何も考えられないリノは、大人しく彼の優しさに身を委ねた。


 数分後――終わりは唐突に告げられた。


「ご、ごめん! 止血する物がなかったから、つい……!!」
 我に返ったらしいトラッドの、慌てふためいた声によって。

「あ……」
 同じく夢から覚めたリノは、対照的に切なげな音色を落としたが、
「う、ううん……その……あ、ありがとう」
 激しく首を左右に振ると、たどたどしく礼を告げる。
「あ、いや……えっと」
「……うん」
 しばらくは互いに顔を赤くしたまま、言葉らしい言葉も紡げずに見つめ合う二人。
 そんな雰囲気に構う事なく、シチューはぐつぐつと声を変えて歌い続けていた。
「あの……トラッド」
「え? ど、どうかしたのか?」
 時間を置いて、わずかな冷静さを取り戻したリノが、ふと覚えた疑問に口を開く。
 それは、この沈黙が気まずかったからかもしれない。
「これぐらいの傷なら、呪文で治せ――」
 だが、トラッドは彼女の質問を遮るように、細い両肩へ手を乗せた。
「な、なに?」
「これぐらいで、そんな事……させたくない」
「どうして?」
「呪文を使う時――凄く、辛そうだから」
「……え?」
 不思議そうに、それでいて何処か曇った表情のリノ。
「今は驚いたりしないけど……もしかしたら、あの時のことを思い出してるんじゃないか、って」
「……そうなの、かな……」
「俺のわがままかもしれないけど、そんなリノは見たくないし……少しでも力になりたいんだ」
「トラッド……」
 彼女は一度、愛おしげに名前を呼んだ後、
「――トラッド」
 繰り返し呟きつつ、ゆっくりと彼の胸へ顔を埋めた。
 もう大丈夫だから、と小さな声で紡ぎながら。
「リ、リノ?」
 しかし、それは一瞬の事だった。
 取り乱した声で我に返ると、リノは忙しなく距離を取り、
「ご、ごめん……とりあえず、傷の手当てをしてくるから……!」
「え? あ、ああ」
 呆然となっているトラッドに見送られて、厨房を後にした。


(私は……どうしたんだろ)
 薬草を求めて部屋へ戻る途中、彼女は幾度となく自らに問いかける。
 先ほどの事だけでなく、
(それに、トラッドは謝ってたけど……私は嫌じゃなかった……?)
 彼の咄嗟に思いついた止血行為も思い出しながら。
 そうして再び頬を上気させたリノは、何の前触れもなく気づいてしまった。

 まだ唇の感触が残っている指先が――まるで火傷したように熱くなっている事に。



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