第10話 「ナギサの櫛」


 ここは宿屋のとある一室。
 寝起きの良いトラッドは静かに目を覚ます。
 そして隣のベッドで眠る人物の様子を見た。
「ぐっすり眠ってるな……」
 規則正しく上下する胸元、普段の何処かはりつめたような空気は全くなく、
 穏やかで安心しきった表情で眠っている。
(にしても……こうしてみると、本当に女の子みたいだな)
 実際そうなのだが、彼は初対面の時に男と思い、
 その後も、宿屋では同じ部屋で寝たり、それらしい所を見ていないので全く気づいていない。
(でも、そろそろ起こさなきゃな)
 少し罪悪感はあるが、トラッドはいつもの軽い調子で声をかけた。
「リノ、朝だぞー」
「……ん」
 しかし、当の本人は起きる事を拒否し、反対側を向く。
 しばらく身体を揺り動かしてみるものの、起きようとする気配は微塵もない。
 それどころか、余計に気持ち良さそうな寝息を立てるだけである。
「じゃあ、先にご飯食べてるからな」
 果たして聞こえているのかどうか疑問ではあるが、仕方なく彼は部屋を後にするのであった。

「ナギサ早いな。おはよう」
「おはよー……リノちゃんは?」
 下へ降りると、すでにナギサが起きていた。とは言っても目には眠気が残っている。
 髪はしっかり整っているが、トレードマークのウサギの耳はまだつけていない。
「一応起こしたんだけどな……」
 トラッドは笑顔で、頭を掻きながらそう言った。
「昨日は結構ハードだったしね……」
 彼女が言うのはいざないの洞窟の事だ。夕暮れにロマリアの宿屋へ着いたのだが、
 リノはトラッドが部屋を出て、5分ほどで戻った時にはすでに眠っていた。
「よっぽど疲れたんだろうな」
 彼はその時の様子を思い出しながら、手を口元に当てそう呟く。
「お城に行くのって、それほど急ぎじゃないんでしょ?」
「ああ」
 特に約束しているわけでもないので、論外な時間でなければおそらく問題はない。
「じゃあ、ゆっくり寝かせてあげればいいじゃない」
 なので、彼女の言葉にトラッドは同意し、自分も朝食を注文した。

「で、これからどうするの?」
 ナギサはテーブルの上にあるサンドイッチを食べながら、トラッドにそう尋ねる。
「まずはリノが寝てる間に旅の準備……それから王様へ会いに行って」
「で、闘技場?」
「そう…………って違う」
 トラッドは同意しそうになったが、慌てて否定する。
 ちなみに闘技場とはロマリアの名物である。モンスター同士の戦いを扱った賭け事なのだが、
 ここに来た旅人は大抵笑顔で立ち寄り、熱狂的にはまったかと思えば泣く、という人間も少なくない。
「もしかして好きなのか?」
 いきなりその名前が出た事で、彼は一抹の不安を覚えながら尋ねる。
 確かにはまっている姿から、落ち込む姿まで彼女には似合いそうであるが、
「別に。トラッドが好きなのか知りたかっただけだし」
 興味は全くないらしく、あっさりとそう言ってのける。
 どうやら彼が不安に思った事はことごとく外され、何でもない時に不意を受ける傾向があるようだ。
「お互い向いてないだろうしな」
「……本当にね」
 その後も、真面目なトラッドと珍しく真面目なナギサは、ゆっくり今後の事を話し合いながら、つつがなく時間は過ぎるのであった。

 下の階では2人が今日の事について話している時。
「…………う」
 先ほどまでトラッドがいた部屋で、ゆっくり眠っていた少女がうなされている。
 穏やかだったはずの表情は、知らぬ間に苦痛を訴え、眉間に皺が寄っていた。
「……トラッ……ド」
 彼の名前を途切れ途切れに呼ぶと同時に、リノは目を覚まし、
 額にじんわりと浮かぶ冷たい汗をゆっくりと拭い去る。
 そして少し荒い呼吸を整えて、隣のベッドを見た。
「トラッド?」
 隣に眠っていたはずの人物の名前を呼ぶが、当然返事はない。
(そういえば声をかけられたような気が……)
 ふと思い出した記憶を遡ってみるが、何も思い出せない。
「まさか……!」
 リノは珍しくハッとなると、慌てて部屋を出て下へ降りた。
 食堂に着いて辺りを見渡すと、すぐに目立つ銀髪と金髪が目に映る。
 トラッドもその騒々しい音ですぐに気がついて、きょとんとした目で話しかけてきた。
「……リノ、慌ててどうした? まだ寝ててもいいのに」
 その言葉を聞いて、彼女は身体から力が抜けるのを感じる。
「後、寝癖ついてる」
「それはどうでもいい」
 ようやく呼吸が整ってきたのか、リノはいつもの調子で返事をした。
 ナギサはそのやり取りを見て、サンドイッチを片手に身体を震わせている。
「どこか面白い所があったか?」
「トラッドには一生分からないわよ」
「別にいいけどな……で、リノ。もう少し休んでもいいから」
 不思議そうな表情を浮かべながらも、悔しそうなトラッドは優しくリノにそう言った。
「……ごめん」
 彼女はそう一言だけ謝ると、また自分の泊まっている部屋へと帰る。
 2人が心配そうな表情を見せている事にも気づかずに。
 そして部屋へ戻ると、乱れたベッドを軽く直してから横になった。
「…………」
 無言のまま、自分の胸の僅かな膨らみに手を乗せて、少しだけ力を加える。
 そしてわずかな違和感を内に秘め、彼女はまた眠り始めた。

「リ・ノ・ちゃん」
 ふと耳元の艶っぽい声に反応して、目を覚ます。
「もうそんな時間……わっ!?」
 起こされるという事は出発の時間、と思ったリノが尋ねようとした瞬間、何かが覆いかぶさってきた。
「やっぱり寝顔も寝起きも可愛い〜」
 ナギサのその言動から、しばらくは起こさずに彼女を見ていたという事が分かる。
 それからとうとう耐え切れなくなったのか、満面の笑みで強く抱きしめてしまったらしい。
「いいから離れてくれ……」
「まぁ、今のは軽い冗談だから」
 とてもそうは見えない。彼女でなくてもそう思うほどの勢いだ。
 リノは、今の一騒ぎで乱れた服を直す。
「とにかく、まずは顔を洗ってきてね……それから髪を整えるから」
「別に適当にやるから自分でする」
 ナギサは櫛を片手に張り切っているようだが、当の本人は冷たく返しながら洗面台へと向かう。
(可愛いって何を……)
 心なしか温度の上がった顔を冷ます様に、リノは顔に水をかける。
 そして髪の毛を少し濡らすと、無造作に髪の乱れた部分をマシな程度にして、振り返ると……
「そんな手抜きじゃ、この部屋からは出せないわね」
「え――――」
 いつの間にか背後に忍び寄っていたナギサは、何かを言う余裕も与えずに近くの椅子へとリノを座らせる。
「じっとしててね」
 先ほどの元気のある声から一転して優しい声でそう呟くと、そっと彼女の髪を櫛で梳かし始めた。
「あの……」
「終わるまで動いちゃダメ」
 どう言っても逃がすつもりはないらしい。リノは諦めて大人しくなり、しばらく黙ってなすがままになっていたが、
 身体は正直なもので、足が退屈を訴えるようにゆらゆらし始める。
「リノちゃん、こういうの嫌い?」
「落ち着かない」
「しょうがないか……」
 消え入りそうな声だったので、もう止めるのかと思い、少しホッとしたのも束の間。
「これを機に慣れてもらうしかないわね」
 どうも今の言葉は逆効果だったらしく、ますますナギサはやる気になっていた。
「まさか毎日するのか?」
「そうね」

「………………年頃の可愛い女の子なんだから」

 いつもと違う穏やかな声。それでいて何かを思い出しながら言っているような遠い声。
「……ナギサ?」
 気になって名前を呼んでみるが、集中しているのか聞こえていないようだ。
 それからはお互いに話しかける事なく、ゆっくりと時間は流れていくのであった。

「はい、終わり」
「あ……」
 随分長い間座っていたような気もするが、時計の針はそれほど動いていない。
 ナギサは何処からともなく手鏡を取り出すと、不意を突くようにリノの顔を映して見せる。
「どう? 結構印象変わるでしょ?」
 答えはない、が彼女の驚いた表情を見れば一目瞭然であった。
 しかし、特に何かを言うわけでもなくゆっくりと振り向くと、ナギサはとても嬉しそうにを微笑んでいる。
「どうしてそんなに嬉しそうに……」
「え? まぁ、女の子のおしゃれってするのも見るのも嬉しいものなのよ」
「……よく分からない」
 その時、ふと今までリノの髪を梳いていた櫛が目に入った。何の変哲もないただの櫛なのだが、随分と使い込まれている。
 彼女の視線に理由を察したのか、ナギサはこう言った。
「あ、これ? 結構古いでしょ」
「長い事使ってるのか?」
「そうね……初めて買ったものなんだけど、愛着があってね」
 愛しそうに櫛を眺める彼女の瞳は、少しだけ寂しげに揺れているようでもあった。
「……時々なら髪を梳かしてもいい」
 リノの口から、自然とその言葉が出る。そして言った後に自分で驚いた顔をした。
「ホント!?」
 訂正しようと思ったのだが、ナギサが余りに嬉しそうな表情で言うので、ただ頷く事しか出来ない。
「じゃあ、これからは毎日するから……あ、トラッドがいない時だけになるけど」
 彼女の中ではすでに話がいつものように変わっていた事で、
 自分の早まった言動に激しく後悔しながら、リノは彼の姿が見えない事にようやく気づく。
 ただ単に、ナギサが気づく暇を与えなかっただけなのだが。
「そういえばトラッドは?」
「今、旅の準備を整えに行ってる。そろそろ帰ってくると思うけど……」
 リノの問いかけに彼女が答えた時、ちょうどドアをノックする音がした。
「あ、帰ってきたわね」
 そう言いながら、櫛と鏡を素早く隠すナギサ。
 ドアが少し控えめな音を立てて開くと、予想通りトラッドの姿があった。
「ただいま」
「おかえりー、準備は?」
「ああ、大体終わった」
 その証拠か、彼愛用の道具袋は大きく膨らんでいる。
「じゃあ、お城に行きましょうか」
「そうだな。リノも大丈夫みたいだし」
 安心したように言いながら、彼女を見るトラッド。その時、一瞬だけ瞳が疑問の色に変わる。
「どうした?」
「……何でもない」
 彼女はそれに気づいて問いかけるものの、少しためらったような返事が返ってくるだけであった。
(やっぱりまだまだね)
 様子を見ていたナギサは、そう思いながら苦笑いをしている。
「まぁ……とにかく行くか」
 彼は彼で少しだけ考え込む素振りを見せるのだが、すぐにいつもの調子へ戻り、戸惑いながらこう言った。
 それを合図に3人は部屋を出て、宿屋を後にするのであった。

 太陽は随分高くまで昇っている。
 リノはつい先ほどトラッドが外で買ってきたパンを食べていた。
「私にはお土産ないの?」
 美味しそうなパンを見て、ナギサは拗ねた様に言う。
「さっき食べただろ?」
「……まぁ、そういうことにしておこうかしら」
「何がだ」
 相変わらずの2人の様子を、リノは何気なく眺めていた。
(まだしばらくは一緒かな)
 そう思ってホッとしそうになる自分に気づくと、それを払いのけるようにまたパンを口に含む。
 今の気持ちのせいか、パンの味は最初より少しだけ違っていた。
(らしくない……)
 リノは霧がかかったようなはっきりしない心を押し殺すように、下を向いて歩く。


 彼らの目指すロマリアの城はもう目の前であった。



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