第44話 「夜の海に溶け込んだ想い」


 翌日、ポルトガの近海で一応船に慣れたリノたちはジパングを目指す事にした。
 晴れ渡る空の下、ダーマ神殿を背に船が走り出してすでに何時間か経とうとしている。
 神殿の姿はすでに遠く、目を凝らしても確認するのが難しくなっていた。
「…………はぁ」
 その甲板の上、まるで太陽のように明るい少女が珍しく憂鬱そうな表情を浮かべている。
 先ほどから何度も船に備え付けの望遠鏡で遠くを眺めてはため息を零していた。
「ヤヨイ……ジパングまではもう少しかかるぞ」
「分かってます……けど、落ち着かなくて……」
 そんな彼女の頭を撫でながら呟くのは、師匠と慕って止まないトラッドだった。
「故郷の事、あんまり覚えてないのか?」
 以前、アッサラームでヤヨイの師匠だった男に多少話は聞いている。
 彼は確認する意味を込めて尋ねたのだが、彼女は静かに首を横に振った。
「私の知ってる事って、人から教わった事ばかりなんです・・・おかしな話ですよね、自分の生まれた所なのに」
「……小さい頃ならしょうがないと思う。俺も昔の事は覚えてないし」
「師匠……」
 潤んだ瞳で一心に見つめてくるヤヨイ。トラッドは照れのせいか、思わず顔を逸らしてしまう。
「ただ、一人で考え込まないようにな」
「はい…………あの」
「ん?」
 彼の言葉に喜んだ彼女はパッと笑顔を取り戻すが、すぐに頬を染めると俯いたままこう呟いた。
「……これからも色々教えて下さいね?」
「え……あ、ああ、俺に分かる事だったら」
 つい忘れてしまいがちだが、彼女は自分の弟子なのである。
「……改めて言うと、何だか照れますね」
 ヤヨイの言葉には彼も同感で、嬉しいようで困っているような複雑な表情になる。
 それから彼女は、あっ、と何かを思い出すと、はっきりした口調でこう続けた。
「後……さっきの言葉、伝える人が違うと思いますよ?」
 その時浮かんでいたのは悪戯っぽい笑み。最近の彼女はこんな顔を見せる事が多い。
 何の事か分からなかった彼は振り返って尋ねようとしたが、すでにヤヨイは何処かに走っていった後だった。
(あの表情は……ナギサの影響だな)
 遠くなっていく小さな背中を見ながら、トラッドは心中でひっそりと呟くのであった。



「キメラの翼って凄いんだな……」
 その頃の船室。リノとナギサはのんびりした空気の中で昼食の準備をしていた。
 いつもは殆どトラッドが作っている。だが、彼は船の舵を取るという役目があった。
 だから昨夜、リノが負担をかけないように彼以外の人間が交替で作ろうと提案したのであった。
「あら、それは違うわね」
 ナギサは出来上がったシチューを味見してから、リノの独り言のような呟きに答える。
「え?」
「本当に凄いのはアーニーのお父さんよ」
 料理の味に満足したのか、彼女は微笑みながら親友の名前を口にした。
「アーニーさんの……お父さん?」
「うん。舵の所に小さな宝石があったでしょ?」
 言われて思い出したリノはこくりと頷く。確かキメラの翼と同じ淡い青色だった。
「あれはキメラの翼に込めた風景を感知する魔法の道具なの」
「そうなのか?」
「空に投げる前にあの宝石と翼の宝石を触れさせると、船を行きたい場所の近くの海に運んでくれるのよ」
「それを作ったのが……」
 ええ、とナギサは微笑みながら首を縦に振る。
「アーニーが早くに大神官になったのは、魔力が強いからっていうのもあるんだけど……
 お父さんがその研究をしたかったからっていうのも理由の一つね。
 作り方は一度出来たら難しくないらしくて、今ではすっかり当たり前になってるらしいわ」
「……初めて聞いた」
「まぁ、私もアーニーと知り合ってなかったら、多分知らないままだったと思うけどね」
 説明を終えたナギサはくすりと笑った。
 確かに船を使う旅人や商人にとっては非常に便利な道具である。
 例えばポルトガからジパングへ向かう場合、大陸に沿って航海しなければいけない為、膨大な時間がかかってしまう。
 しかし、これがあれば自分の知ってる場所なら船と一緒に向かう事が出来る上、遭難やモンスターの襲撃などの危険も大幅に回避出来る。
(やっぱり大神官って凄いんだな……)
 リノは感心しながら作りかけの料理に意識を戻すと、隣でナギサが何かを思い出したように声を上げた。
「ところでラザは?」
「……船酔いで寝てるみたい」
「…………いい度胸ね」
「揺れる船の上は修行に最適、って昨日長く剣を振ってたからだと思う」
「……本当にアテにならないわね」
 ため息をつきながら、心の底から呆れたように呟くナギサ。
(そこまで言わなくても……)
 と、リノはラザに同情したまま、再び調理に集中し始める。
(……船酔いって何が良いのかしら)
 そのおかげでナギサは、珍しく浮かぶ心配そうな表情を見られずに済むのであった。



(慣れない船の上で無茶をするものじゃないな……)
 呼吸の音が響く部屋の中。ラザは白いベッドで休んでいた。
(もう……昼食も終わったか)
 そう思ったのは、つい先ほどまでドアの向こう側から微かに声が聞こえていたからだ。
 それが今は静まり返り、ただ寄せては返す波だけが耳に強く刻まれる。
(……ん?)
 天井を見つめていた顔を何気なくドアの反対側へ向けた時、木材の軋む音がした。
 続けて聞こえたのは深呼吸する音と誰かが忍び寄る気配。
(ノックもせずに……って、多分)
 その行動からラザはその気配の主の想像がつく。
 彼は振り返らないまま、入ってきた人物の名前を呼んだ。
「何の用だ――――ナギサ?」
 その一言で、慎重に刻まれていた足音が急に乱れる。
「・・・何で分かったのよ」
 呼ばれた彼女は寝てると思い込んでいたのか、何処か悔しそうな声で問い返した。
 ラザは妙な胸騒ぎを感じつつ振り返ったが、彼女の手にある物を見てから瞳をわずかに見開いた。
 それは自分の記憶違いで無ければ、料理に使う器のはずである。
「…………何よ」
「あ、いや……どうして持ってきたのかと思って」
「船酔いでも何か食べないと身体に良くないから」
「え……」
 ナギサはそう言うと、蓋のされた器を近くのテーブルにことりと置く。
 彼にしてみれば予想外の行動だったので、まだ呆然となったままである。
「ほら、さっさと食べる!」
「……じゃあ、いただきます」
 気だるい身体をゆっくりと起こし、緩やかな動作で器の乗ったトレイを手に取るラザ。
 それからおそるおそる蓋を開けると、美味しそうな香りが鼻をくすぐった。
 木で出来たスプーンでそれを少しすくって、口の中へと運ぶ。
「どう?」
「…………うん、美味い」
「良かった」
 不思議なシチューだった。彼は身体が何も受け付けないと思っていたのだが、全く正反対なのである。
「実はトラッドから習ったんだけどね」
「……器用だな」
「まぁ、いつも押しつ……じゃなくて作ってくれるぐらいだし、好きなんじゃない?」
 今、何か酷い言葉が耳に聞こえたような気がしたが、わざわざ彼女の機嫌を損ねるのも恐い。
 そう思ったラザは内心冷や汗を流しながら、黙々と食べ続けていた。
「じゃあ、しばらくしたら器取りに来るから」
「わざわざすまないな」
「気にするぐらいなら、迷惑はかけないでね」
 彼の食事姿を見るのが退屈なのか、ナギサはそう言いながらくるりと振り向いて歩き出そうとする。
「あ、そうそう」
「ん?」
 しかし、何か思い出したのか、彼女は人差し指を口元に当てながら、言葉を紡ぎ始めた。
「向上心があるのは良い事だけど、もう少し自分の身体の事も考えるように。旅をするなら尚更よ」
「悪い……」
 ナギサの一言は、心に突き刺さった。それが迷惑そうではなく、心配から出た言葉だと分かるから余計に耳が痛い。
 だが、体調が悪いせいもあってか声が弱々しかったので、彼女は更にこう続ける。
「でも、目標に向かう気持ちって分かるつもりだから、別に怒ってるわけじゃないわよ?」
「……ああ」
「だったらあんまり暗い顔しない事」
 少し早口でそう言うと、ナギサは慌ててドアの方へ振り返って部屋を出ようとした。
(照れてる……のか?)
 その直前、彼女の頬が少し赤く見えたのは、おそらくラザの気のせいではない。
 だから、精一杯明るい声を出して、彼は礼を述べた。
 ナギサは背を向けたまま、ひらひらと右手を振ってから歩き出した。
「……やっぱり、こういうのってガラじゃないわね」
 小声だったせいか、幸いにもラザには聞こえていないようだった。
 そんな時に思い浮かんだのは、自分の親友が微笑んだ表情。
 多分彼女ならもっと上手く励ませる、そんな事を考えながらナギサは部屋を後にした。



 幾度かモンスターの襲撃を退け、ナギサとヤヨイが作った夕食を全員が食べ終えた頃、すでに星が出ていた。
 海をたゆたう様な月はいびつな円形を描いている。おそらく明日には綺麗な満月になるのだろう。
(……到着は明日の朝って所だな)
 少し肌寒い夜の空気。夕食後、仮眠を終えて一人甲板に立つトラッドは、はぁっ、と息を吐いて掌を暖めた。
「羽織るもの持ってきたけど……いる?」
 その時、後ろから聞こえてきたのは遠慮がちな声。顔を見なくても誰なのかはすぐに分かる。
 ただ、いつもと少し違う感じがしたせいか、彼は少しぎこちなく振り向いた。
 そこに立っていたのは一人用ぐらいの毛布を胸に抱えたリノで、特に変わった様子は無いように見える。
「まだ寒くなりそうだし……使わせてもらおうかな」
「うん」
 トラッドの返事に、彼女は小走りで近寄ると、落ち着かない仕草で彼にそれを手渡した。
「眠れないのか?」
「少しだけ……それに」
「それに?」
「えっと……その……ト、トラッド寒くないかな、って……」
「ちょうど今そう思ってた」
 彼は穏やかな笑みでそう言いながら、毛布を肩から上に被せる。
 それが何よりも温かく感じたのは、旅を始めた頃の彼女からは想像出来ない気遣いが嬉しかったからだった。
「……久しぶりな気がするな」
「え?」
「リノとこうして2人で話すのって」
「……そういえば」
 船が出来上がるまでダーマにいた時は、トラッドは仕事の手伝いでリノはラザの特訓に付き合っていた。
 それが終わったと思えば、彼は舵の取り方を覚える為に一日ずっと船を操っている。
 これまでの旅に比べればたったの数日間に過ぎないが、時折互いの事を思い出していた2人にとっては思ったよりも長い時間。
 今の空気にリノは何処か懐かしい心地良さを感じていた。
「トラッド……」
「ん?」
「隣……いいか?」
 言った本人が驚くほど、その言葉は自然と唇から紡がれる。
「じゃあ、少し話でもするか……あ、でも眠くなったらいつでも寝ていいからな?」
「……そうする」
 いつもと変わらない声にリノが安堵して左側へ座ると、トラッドもそれに倣って腰を下ろした。
「え……っと」
「…………」
 しかし、いざ話をするとなると何も言葉が出てこず、時間だけが緩やかに過ぎ去っていく。
 不意に冷たい夜風が吹いた時、彼は自分の羽織った毛布を握り締めてから、ふとある事に気付いた。
「……もしかしてすぐに戻るつもりだったのか?」
「まぁ……」
 身体を冷やさないようにと用意された毛布は、トラッドが使っている物のみ。
 元々落ち着いて話し込む予定じゃ無かったのだから、それは当たり前の事である。
「ほら」
「あ……」
 彼が声を発すると同時にばさりという音が耳に響く。
 そして、呆然となっていた彼女が気付いた頃には、左肩の上に温かい感触と重みがあった。
「こうすれば大丈夫だろ?」
「……うん」
 被せられた毛布は余り大きくなかったので、トラッドが自然と距離を詰めると2つの肩が音もなく触れる。
 緊張した彼女は、触れている部分に帯びた熱を意識しないよう必死で何か話題を探し始めた。
「そ、そういえば……船って一日で操れるようになるものなのか?」
「いや……昔、父さんの知り合いに教わった事があるんだ」
「……そう、なんだ」
 口から出たのは、今朝思った事。
 しかし、思いがけず彼の過去に話が繋がってしまい、罪悪感を感じたリノは俯いてしまう。
「子供の頃だったけど、俺より少し上の子でも当たり前みたいに船を操ってたから……やっぱり驚いたな」
 だが、トラッドは懐かしそうな口調で話を続けた。そこには以前見せていたような翳りは殆ど見えなかった。
「知り合いって船乗りか?」
「…………まぁ、大体そんな感じだ」
「……そうか」
 苦笑いの混じったおかしな返事に、疑問を感じる所が無かったわけではない。
 それをどう問いかければいいのか分からなかったが、不思議と不安はなかった。
「でも……」
「ん?」
 リノは何か言いかけたが、一度深呼吸をするとゆっくり彼の方を向いてから、くすり、と小さく笑ってこう告げる。

「トラッドがそんな風に昔の事を話してくれると…………嬉しいな」

(今、声を出して……笑った、よな……?)
 幻聴だと思えるぐらいの小さな声。
 しかし、目の前にはいつも不意を突かれて見惚れてしまう笑顔がある。
「トラッド?」
 見開いた彼のトパーズ色の瞳は彼女を急に不安にさせた。
 その表情にハッとなったトラッドは、冷たい甲板の上に置かれた左手をそっとリノの頭に乗せる。
「……やっぱり」
「え?」
 穏やかな瞳。それはいつもと何処か違う優しさを感じた。
 互いの瞳の中に互いを映しているその状況は、リノの心臓をこの上なく早くする。
 それでも彼女が何故か顔が逸らせずにいると、彼は髪の毛を優しく撫でながら言葉を紡いだ。
「リノの笑顔って、何だかホッとする」
「えっ……」
 思いも寄らないトラッドの言葉に、彼女の唇からは艶っぽい呟きが零れ落ちた。
 彼はその言葉が零れ落ちる瞬間を見て我に返ると、今自分が言った事に顔を真っ赤にする。
「いや……何ていうか」
「うん……」
「普段あんまり笑わないから……俺も嬉しくなる」
「…………」
 いつの間にかトラッドは顔を逸らしていた為、どんな表情なのかは見えない。
 それでも左手は不器用だけど丁寧に頭を撫で続けていた。
「リノの辛そうな表情を見る度に、何もしてやれない、って……
 でも、今みたいに笑ってくれると……少しでも力になれたような気がするから……嬉しい」
 首を横に振る彼女。それと同時に生まれたのは、彼に対する罪の意識。
「そんな事、ない……それに……トラッドに言わなきゃいけない事が――――」
「え?」
 彼は急に途切れた言葉の行方を探す様に振り向いた。
「言わ……なきゃ……いけない…………事」
「リノ……?」
 震える声と身体。トラッドは掌と両の耳からそれを感じ取る。
 いや、前々からリノが何か悩んでいるのは気付いていた。ただ、はっきりと聞いた事が無かっただけで。
 一方、彼女はどうにかして伝えようとする――――自分が女だという事を。
(思っている事を言うだけなのに……どうしてこんなに苦しいんだろ……)
 以前から微かに息づいていた恐怖が、何処までも限りなく大きくなっていく。
 そして心で抑えきれなくなった感情は、ぽたりと落ちる透明な雫になって生まれた。
「あ……あれ…………?」
「……無理しなくていいから」
「でも――――」
「辛くなくなったら……話して欲しい」
 何処かで聞いた事のある言葉。ただ、いつ誰が言ったのかまで思い出せない。
 しかし、その答えは彼の口からすぐ語られる。
「以前、俺にそう言ってくれただろ? だから今度は俺が待つから……な?」
「…………ごめん」
「気にするなって。誰にでもそういう事ってあると思うし」
 ここまで言われて気にならないわけがない。それでも彼は笑ったまま頭を撫でていた。
「明日も朝早いから……そろそろ休むか?」
「…………」
 リノは何かを言う代わりに、ただこくりと頷く。それが今の彼女にとっての精一杯だった。
「着いたら起こすから、ゆっくり寝るんだぞ?」
 まだ言葉は出てこず、やはり彼女は一度頷いてから立ち上がり、力の無い足取りで歩き出す。
(今度こそ……ちゃんと言うから……)
 痛みを訴える胸の内に、確かな決意を秘めながら。



 太陽が水平線の彼方からわずかに顔を覗かせる頃、徹夜で船を操っていたトラッドは霧の中に巨大な山影を見つける。
 それは数日前、ムオルへ行く途中にも見かけ、今目指している場所でもある――――ジパングの山であった。



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