第50話 「別離」


 今、どんな顔をしているのだろう――――リノは何も見ないように、誰にも見えないように俯いたまま瞳を閉じていた。

 自分の膝に乗っているのは銀髪にトパーズ色の瞳を持つトラッド。
 離れていながらも、すぐにリノの異常に気付いてかばった事により10分ほど前より眠ったままであった。
(……私のせいだ)
 目を閉じたまま、彼女はトラッドの頭をそっと撫でる。
 以前、彼は1人にしないと約束してくれた。それを破らせたのは他ならぬ彼女自身。
 呪文を使ってしまった事への恐怖と、ふつふつと生まれてくる罪悪感が彼女の心を占めていた。
「リノちゃん……本当に怪我は無いの?」
 ふとナギサの心配そうな声が耳元から聞こえてきた。
「……ない」
「でも、顔色が」
 頬にそっと彼女の手が触れ、リノは驚いて顔を離す。
「あ……ごめん」
 リノはすぐに謝るが、それでも顔の位置を元に戻しただけで、決してナギサを見ようとしない。
 些細な行動に感じる大きな違和感。それは――――彼女が決して顔を見せようとしないという事。
(………リノちゃんには悪いけど)
 不安になったナギサは隙をついて彼女の両手首を左手だけで掴み取る。
「え……?」
 鮮やかで淀みの無い動作に、リノは一瞬だけ呆然となった。
「どうして、さっきからこっちを見てくれないの?」
「それは……」
「怪我をしてるからでしょ? だったらすぐに手当てしないと――――」
 トラッドが膝の上で横になっているせいもあるが、彼女はそれを振り解けず控えめにもがく。
 だが、ナギサはそれを物ともせず、空いた右手でリノの顔を上げさせた。
「いや……!」
 彼女の唇から震えた声が零れ落ちる。
「や……だ……!」
 そこに見えた感情は恐怖。そのせいか彼女の言葉は、少女のものに変わっていた。
「リノちゃん……どうしたの?」
 明らかに不自然であった。少なくとも今までの彼女からしてみれば考えれないし、こういった事が初めてなわけではない。
 それなら一体、何が彼女をここまで怯えさせているのか。
「見ないで……!」
「でも、何かあったら………!」
 頑なに抵抗する彼女にナギサの口調がついきつくなる。
 その言葉にリノがびくっとした時、わずかに抵抗する力が緩んだ。
「あ……」
 大きく見開かれた黒い瞳から涙が流れている。細かい擦り傷はいくつかあるが、大きな怪我は一つも無かった。
「や……! ……見ないで……お願いだから」
「……どうして? ちょっと傷はあるけど、いつも通り可愛らしい顔じゃない」
「…………え?」
 奇妙なぐらい長い間の後、彼女は泣きながら疑問の声を上げると更に言葉を重ねる。
「何とも……ない?」
「ええ」
「目……」
「見えないの?」
「……ううん」
 それならば、何故リノはあれほど嫌がったのだろうか。それも酷く取り乱したままで。
「手荒な事をしてごめんね」
「……こっちこそ、その……悪かった」
 リノの顔色はまだ青ざめたままだったが、それでも言葉遣いは元に戻っている。
 それからしばらくナギサは何も言わず、リノの泣きじゃくる声だけが聞こえるのであった。


 頬に温かい雫がぽたりと落ちた。
「う……ん?」
 そして嗚咽を上げている誰かの声に気付き、トラッドは小さな呻き声を上げながらゆっくりと瞳を開く。
 最初に視界に入ってきたのは、涙を流すリノの顔だった。
 後頭部に感じる柔らかな感触。その心地良さにまた意識を手放しそうになったが、それを何とか堪えて彼女の事を呼んだ。
「リノ……?」
「…………」
 しかし、その声が小さかったせいか、彼女は気付かずに泣き続けている。
「………リノ」
「あっ……」
 2度目の呼びかけでようやく彼女は自分に向けられた声に気がついた。
「え、っと………何があったんだ?」
 彼は右手の指を動かして感覚を確認しながら問いかける。
 ヤマタノオロチの牙が迫ってきた所までは覚えていたが、それ以降の記憶が曖昧なせいだった。
 それに対してリノは涙混じりの震えた声で、

「…………バカ」

 という珍しい言葉を返すだけであった。
「……ごめん。心配かけて」
 彼がゆっくり身体を起こしてから、そっとリノの髪を撫でようとした時だった。
「全くだわ」
 背後からかなり不機嫌そうな声が聞こえてくる。それが誰かは振り向かなくても想像がついた。
「お詫びにさっきのお礼をさせて欲しいんだけど……いいわね?」
「へ?」
 後ろに立っていたのは予想通りナギサであった。しかも何故か言葉遣いが怪しい。
「忘れたの?」
「…………まぁ」
 それは嘘ではなかったが、これから何をされのるかは嫌でも分かる。
 トラッドは先手必勝とばかりに頭を両手で防御した。
「甘いっ!」
 しかし、すでに彼女は背後に回りこんでおり、ハリセンを振るおうとしている。
 それから間もなく――――何処かコミカルな音が二度響き渡るのであった。



「……それで、ヤマタノオロチは?」
 幸い気絶するまでには至らなかったトラッドが頭をさすりながら尋ねる。
 自分が眠っている間の話を聞くと、時間的にはそれほど長くなかったらしい。
「逃げられたみたいね」
「みたい、って?」
「はっきりしないのよ」
 それからナギサは溶岩の海が荒れ狂う崖の方角を指差した。
「あそこから落ちていったはずなんだが……途中で光に包まれて姿が消えた」
 一緒に見ていたラザが補足すると、彼女は真剣な面持ちで頷く。
「………」
「トラッド?」
 考え込む素振りを見せる彼に、いつの間にか落ち着いたりリノが話しかけた。
「まさか……旅の扉……」
「え?」
 彼女はその言葉の印象と違う彼の推測に思わず聞き返してしまう。
「随分印象は違うけど、もしかしたらって思って」
「有り得ない話じゃないな」
「でも……」
 ヤヨイは不安そうに呟いた。確かに彼の推測が正しければ、ヤマタノオロチを追いかける好機である。
 しかし、外れていた場合――――そのまま溶岩に飲み込まれて骨すら残らないだろう。
「ねぇ」
「ん?」
 誰も何も言い出せずにいると、突然ナギサが全員を呼びかけた。
「トラッドを中心に肩を組んでもらっていい?」
「あ、ああ」
 さっぱり意図が読めないまま、何となくで5人は肩を組んだ。傍から見ればかなり怪しい光景である。
「それから?」
「ちょっと崖の下を覗き込んでみて。全員で一斉に見れば、何か分かるかもしれないでしょ?」
「それもそうだな」
 彼女の説明を聞いて、そこにいた誰もが疑わずにゆっくりと崖の方へ近づいた。
 しかし、凄まじい熱気にただ汗の量だけが増すばかりで、特に変わった所は見つけられない。
「どう?」
「うーん……何も分か――――へ?」
 その時、トラッドの背中から聞き慣れた音が響き、彼の思考が一瞬にして弾け飛んだ。
 そして、気づいた時は足元に何もなく、肩を組んだまま5人は落下していく。
「ナギサぁぁぁぁぁぁぁ……………!!」
 怒りの混じった儚い声は、崖から離れるにつれて遠くなっていった。
「……こういうのは勢いが肝心よね」
 5人の疑問に対する答えを独り言のように呟きながら、彼女も目を閉じて崖から飛び降りるのであった。



「ヒ………様……っ!?」
 慌しい声がいくつも重なって耳に入ってくる。
 その数の多さは、かろうじて誰かの事を言っているのだと聞き取れるぐらいで、ただの雑音のようにも感じた。
(ん……)
 目を開けると、どこかで見た記憶がある木の模様が目に入ってくる。
(どうやら……当たりだったみたいだけど……ここは何処だ)
 その時、一人の影がすっと彼の上に覆い被さった。
 少し視線を上げると黒いコートの裾が見え、トラッドはそこからナギサだと理解する。
「ナギサ」
「あら、お目覚め?」
 振り向いた彼女の顔が清々しそうに見えたのは決して気のせいではない。
「おかげさまでな。で……何であんなバカな事を」
 彼はうつ伏せになっていた身体を起こしながら、怒りを隠しもせずに問いかけた。
「ああいうのは、迷ってたらいつまでも飛び込めないでしょ?」
「それはそうだけど――――」
 言いかけた言葉をぱしん、とハリセンで途切れさせてからナギサは反対側を向いてこう呟いた。
「……こう見えても、結構信頼してるつもりよ」
「へ?」
 彼女の意外な言葉にトラッドは間の抜けた声を出してから、ふと思い出したように辺りを見渡す。

「ヒミコ様……!」
「しっかりしてくださいませ!」
「どうして……こんな事に……」

 幾人ものそんな声を耳にして、ここがジパングのヒミコの部屋だとようやく気がついた。
 そして人の作った輪の隙間から見えたのは――――白装束を真っ赤に染めた女王ヒミコの姿。
「まさか……!」
 ヤヨイは口元に手を当てながらハッとする。
 洞窟で戦ったヤマタノオロチ。その後を追って辿り着いた場所はジパング。
 そして血に彩られた女王の姿。その3つの事柄が示すのは――――

(正体に……気付き、おったか)

 突然、脳の中に聞き覚えのある声が響く。だが、記憶にある音色と違って、酷く弱々しい。
 ヤヨイは誰に教わったわけでもなく、そのまま言葉を返した。
(騙してたんですね……)
(…………)
(どうしてそんな事をしたんですか……?)
(そなたの命を奪う為じゃ)
 ヒミコ――――の姿に化けたヤマタノオロチは、満身創痍にも関わらず淡々と告げる。
(そなたがこの世から消えてしまえば………あの男が剣を作る事はなくなるからの)
(…………)
 草薙の剣を見る限り、ヤヨイの父親は腕の良い鍛冶屋なのだろう。
 そしてそれは、モンスターにとって脅威になる。
 だからヤヨイを生贄に選び、希望を失わせる事で二度と剣を生み出させないように考えたのだ。
(取引せぬか?)
(え……)
 ヤヨイの胸の内の想いなど知る由も無いヤマタノオロチは、突然そんな事を言った。
(わらわの正体を黙っていれば、そなたらの命を助けてやろう……どうじゃ、悪い話ではあるまい?)
 傷を負っている。だが、それはヤヨイたちも同じだった。
 このまま再び戦うことになれば勝つ可能性は無に等しい。
(…………)
 ヤヨイは返事をしなかった。その代わり、鋭い視線をヤマタノオロチに向ける。
(応じる気は無さそうじゃな……それならば)
 ヒミコの姿が闇に包まれ、周囲の人々を吹き飛ばしながら大きくなっていく。
「……おのれの判断を後悔するが良い!」
 怒りの声を吐き出すと同時に、巨大な8つの首が生まれた。
「ヒ、ヒミコ様が化け物に……!?」
 驚きと恐怖の入り混じったざわめきを口々に、ジパングの民は我先にと言わんばかりに逃げ惑う。
 それを横目にリノとラザは剣を抜いた。
(どうする……?)
 鋼の剣では歯が立たない。更にナギサの呪文ももう使えない。
 そして草薙の剣は――――ヤマタノオロチの腹に突き刺さったままだった。
 おそらく簡単にそれを手放さないだろう。打つ手も考える時間もない、まさに絶体絶命の状況であった。
「っ………!?」
 その時、何の前触れもなくヤマタノオロチの首の一つが、鮮やかな木目の床に落下した。
「な、な……?」
 その場にいる誰もが状況を把握出来ずにいた。
「災いを鎮める剣……」
 不意にヤヨイはそう口にした。それは夢で見た父親の言葉。
 その間にも、ヤマタノオロチの首は次々と落ちては消え去っていった。
 それに呼応するように草薙の剣も、輝く塵に姿を変えていく。
「くっ……こんな……こんな所で」
 苦しみに喘ぎながら、ヤマタノオロチがこちらへ近寄ってくる。
 そして白く大きな牙で、ヤヨイに襲いかかろうとした瞬間――――ヤマタノオロチは灰になって消え去るのであった。



 ヒミコの正体はヤマタノオロチだった。
 かつてジパングを荒らし、草薙の剣によって退治されたはずの魔物。
 その噂は一夜で村中を駆け巡り、ジパングの人々は歓喜した。
 もう生贄を捧げなくてもいい、自分の娘を手放さなくていい、と。

 だが、同時に不安もあった。
 今まではヒミコに従っていれば、生贄を捧げる以外は何不自由なく暮らす事が出来たのだ。
 しかし、これからは自分たちで考えていかなくてはいけない。
 そんな複雑な状況の中、リノたちはモミジの、つまりアヤメの家で疲れた身体を癒すのであった。


 太陽はすでに一日の内で最も高い場所で輝いている。
 アヤメの家で用意できた部屋は一つだけだったので、全員ここで休んでいた。
「ん………」
 ヤヨイは窓から差し込む一筋の光によって目を覚まし、ゆっくりと身体を起こした。
 ふと辺りを見回すと、リノたちはまだ寝息を立てている。
 それに倣うように彼女はもう一度横になるが、昨日眠らされていたせいか意識を手放す事が出来ない。
(……外に行こう)
 諦めたヤヨイは誰も起こさないように気を配りながら、静かに部屋を出て行った。


「あ、おはようございます」
 外に出ると薪を割っているモミジが目に映り、ヤヨイは笑顔で挨拶をする。
「おはようございます。もう起きられたのですか?」
「何となく眠れなくて……」
 ヤヨイは近くにあった大きな切り株に座り、苦笑しながらそう呟く。
 そしてモミジも作業が一区切りついたのか、彼女の隣に腰を下ろした。
「あの……本当にありがとうございました」
「え、あ……いえ」
 風が優しく2人の頬を撫で、ヤヨイはどこか気まずそうに俯く。
(…………)
 これから先、ジパングの人たちが生贄に心を痛めることは無い。
 それに当初の目的であったパープルオーブも、ヤマタノオロチの灰の中から見つける事が出来た。
 まだまだ安心できるのは先の事かもしれないが、一番大きな問題は解決したはずである。
 にも関わらず、ヤヨイは酷く緊張していた。
「ヤヨイさん?」
「あ、はい!」
 モミジは彼女の肩をぽんと叩くと、心配そうに名前を呼んだ。
「やっぱり……もう少し休まれた方が」
「いえ、本当にもう……大丈夫ですから」
 理由は分かっていた。ただ、それを口にするのが恐いだけで。
 しかし、このままだとモミジに余計な気を遣わせてしまう。
「あの……」
「はい?」
 ヤヨイは右手をぎゅっと握り締め、意を決したように問いかけた。

「モミジ……ちゃん?」

 一度、洞窟でも口にした呼び方だったが、あの時は声が小さかったので届く事がなかった言葉である。
 しかし、今度ははっきりと聞き取れたらしく、モミジは驚いた顔になっていた。
「……思い出したの?」
「うん……少しだけ」
 草薙の剣を求めて走っている時の彼女の口調を聞いた時、ヤヨイの中である風景が浮かんだ。
 それは幼い頃の記憶だった。もしかすると両親の夢を見たからかもしれない。
 そしてそれが間違いでなければ2人は――――幼なじみだった。
「でも、まだあやふやだから……聞かせてもらってもいい?」
「……うん!」
 モミジは少し間があった後、年相応の少女らしい笑顔で頷いた。


 それから2人は色々な話をした。
 川へ魚を獲りに行った時の事や森の中を探検した時の事。迷子になって両親に見つけてもらった時に叱られた事。
 ヤヨイの父親が剣を打つ姿を見て、モミジが結婚して欲しいと花を渡した事など。
 聞いている内にヤヨイも思い出してきたのか、自分から尋ねるように話す事もあった。
「ヤヨイちゃんって、昔から男の子みたいだった」
「今も?」
「うん」
 モミジの言葉に彼女は頬を膨らませるが、すぐに2人して楽しそうに笑う。
「……ヤヨイちゃん」
「何?」
 しばらく間があってから、モミジは沈んだ声で彼女を呼んだ。
「これから………どうするの?」
「えっ……」
 いつの間にか握られていた手にきゅっと力がこもる。
「また――――旅に出るの?」
「…………」
 数年振りに再会したヤヨイと離れたくないという気持ちが、痛いほど伝わってきた。
 もうジパングでは生贄にされる心配も無い。住む所もおそらくアヤメが用意してくれるだろう。
 揺れ動く心の中、ヤヨイが出した答えはこうだった。

「………うん」

「……やっぱりそうなんだ」
 モミジには答えが分かっていたらしい。ヤヨイはこくりと頷いて、黒い瞳を潤ませながら話し始める。
「まだお父さんとお母さん……見つけてないから」
「…………」
「だから……ごめんね」
 ヤヨイの言葉に彼女は首を横に振った。
「ううん。ヤヨイちゃんらしくてホッとしただけだから」
 そう言って、モミジは明るく笑ってみせる。
「……ありがとう」


 ぎゅっと抱き締めながら、ヤヨイが震えた声で礼を言うと、2人の黒い瞳から透明な雫が零れ落ちた。



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