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ポルトガの宿屋のとある一室に、寝起きの声が響き渡った。 「……あれ?」 夜と朝の境界線。季節によって、その時間と姿が変わる神秘的な空。 太陽の光が東から徐々に膨らんでいく。 ヤヨイは目を細めながら身を起こし、隣で寝息を立てているナギサを見た。 (ナギサさん、まだ寝てる……) いつも彼女は誰よりも早く起きる。昨日の夜にお酒を飲んでいなければ、の話だが。 しかし、ヤヨイの記憶では彼女は出発する前の日なので、一滴も飲んでいないはずだった。 (ちょっと早いなぁ……) もう一度眠っても良かったのだが、すでに目が覚めてしまった為、それも出来そうに無い。 「……散歩でもしてこようかな」 ヤヨイはそう呟くと、枕元に置いている白いバンダナを手に取る。 そして、しっかりとした足取で洗面台へと向かうのであった。 「やっぱり朝って少し寒いかな……」 顔を洗って眠気を振り払い、ヤヨイはいつもの慣れた格好で外に出た。 真ん中に赤い線が入り、首の辺りに蝶々結びの紐がついたジパング風の白い服。 ただ、元々袖が無いので、今は同じく白の外套を羽織っている。 港からは大勢の人の声が聞こえてくるが、城下町の方は人通りも少なく静かだった。 彼女は掌を擦り合わせながら、身体を温めようと無理のないペースで走り始める。 「…………あ」 特に目的もなく走っていた途中、左側にキラキラと光る海が視界に入ってきた。 (海、かぁ……) 彼女の故郷は海に囲まれたジパングだったが、その頃の記憶は余り無い。 それに物心ついた時から暮らしていたのは、内陸のアッサラームだった。 「……よしっ!」 船で見た時とは違った表情を見せる海に、ヤヨイは自然と砂浜へ足を向けていた。 程なくして町の西にある砂浜へ辿り着く。 果てなく広がる水平線。周囲には建物がないせいか、東の空から昇り始めた太陽がヤヨイの影を伸ばしていた。 「わぁ……」 船に乗っていた時とはまた違う姿に、彼女は思わず感嘆の声を上げた。 それから柔らかい砂の感触を確かめるように、ゆっくりと波打ち際まで歩いていき、そこに座り込む。 砂漠とは違い、少し湿っている細かな粒子。 ヤヨイは漂ってくる潮の香りを全身で感じながら、その中に両手を潜り込ませて掬い上げる。 それを自分の顔の前まで持ち上げると、指と指の隙間からさらさらと零れ落ちていった。 「………あれで、良かったのかな………?」 寄せては返す波の音に、ヤヨイは故郷を思い出しながら問いかけるようにそっと呟く。 辺りには誰もいない為、当然答えが返ってくる事は無い。 (きっと……大変だよね) ヒミコに化けたヤマタノオロチの神託に縋り、人生を歩んできたジパングの人々。 例え内容がどうであれ、それは変わりようのない事実だった。 だが、ヒミコはもういない――――しかも、そうしたのは他ならぬ自分たちだ。 生贄を捧げなくても良くなった事への安堵と、確かな道を見失ってしまった不安。 ジパングの人々の表情には、その相反する2つの気持ちがはっきりと浮かんでいた。 (私も残って……手伝わなきゃいけなかったのかな) ヤヨイはため息をついてから、砂の上に寝転がる。 目の前に広がるのは、故郷とも繋がっている青い空。 (でも……) あの場でリノたちに別れを告げて、自分に何が出来たのだろうか、とも思う。 それにヤヨイには離れ離れになった両親を捜すという夢もあった。 (モミジちゃん……ごめんね) 『これから………どうするの?』 不意に蘇る、幼なじみの少女の問いかけ。 長い時を経て、また再会出来た事への喜びから生まれた一言。 しかし、同時に先に広がる未来への不安もあったに違いない。 それが分かったからこそ、ヤヨイは悩んだ末に今の答えを出した。 決して安易な気持ちで選んだ言葉ではない、と自分に言い聞かせる。 (…………どうすればよかったんだろ) だからといって、彼女の選択が正しいかどうかは誰にも分からない。 昨日、情報集めの為にポルトガに戻ってから、ヤヨイはずっと悩んでいた。 「……あ」 ふと気がつくと、いつの間にか空は朝焼けの色を失っていた。 (もう帰らなきゃ……) 何処までも果てしなく広がる澄んだ青。 ヤヨイは頭の中をぐるぐると回る思考を止め、両手で砂を掴みながら身を起こす。 「……あれ?」 外套に付いた砂を掌で払い落とした時だった。 太陽の光を受けてキラキラと輝く物が、波に揺られているのを発見する。 彼女は疑問符を浮かべながら、少し小走りにその場所へと向かった。 そこにあったのは――――固く蓋をされた透明な小瓶。 中には丁寧に折り畳まれた紙切れが入っている。 「………何だろ?」 単に誰かが捨てた物かもしれない。 そう思いながらも気になったヤヨイは、水に濡れた瓶を外套で拭きながら持ち帰るのであった。 それから数時間後。ナギサは一人、宿の1階で紅茶を飲んでいた。 「相変わらず早いな」 そこに現れたのはトラッドとラザ。昨夜は早くに休んだせいか、2人に眠そうな様子は見られない。 「慣れてるだけよ……って、リノちゃんは?」 「ああ、そろそろ来ると思うけど」 トラッドは席に着きながら答え、早速メニューに目を通し始めた。 「ラザ」 「何だ?」 そんな彼に気付かれないよう……ナギサは隣に座ったラザを呼び、耳元に顔を近づける。 「前から訊こうと思ってたんだけど、もしかして気付いている?」 「……リノの事か?」 その返事に対し、彼女はこくりと頷いた。 「普通、気付くと思うんだが……」 「……そうよねぇ」 そこで2人は揃ってトラッドの顔を見る。 注文が決まったのか、ちょうど顔を上げた彼と視線が交わった。 「…………何だ?」 彼は訝しげな顔をするが、返ってくるのはため息だけだった。 「……とにかく、変な気は起こさないでよね」 「ナギサ……俺を何だと思ってる」 当然、トラッドはこの会話の意味が分からずに顔をしかめたが、すぐメニューに意識を戻す。 「ところでヤヨイは?」 そこでラザは、ナギサと同じく朝の早い少女がいない事に気付いた。 「お風呂に入ってるわよ」 「いつもそうだったっけ?」 食べる物が決まったのか、トラッドはメニューをラザに渡してから尋ねる。 すると、ナギサは首を横に振ってからこう答えた。 「今日、早く目が覚めたから散歩してたみたい」 「なるほど」 「……トラッド」 「ん?」 納得した様子の彼に、ナギサは目を細めながらこう注意する。 「覗きに行こうとか考えてない?」 「か……考えてない!」 一瞬、顔を赤くしたトラッドがすぐに否定した時、 「あ、皆さんおはようございます!」 3人のすぐ側から元気な声が聞こえてきた。 「あ、ああ……おはよう」 彼が振り向いた先にいたのは、いつにも増して笑顔のヤヨイと相変わらず物静かなリノ。 「あれ? 師匠、顔が赤いですけど?」 「……何でもない」 妙にぎこちない返事に疑問符を浮かべる彼女だったが、トラッドはテーブルに視線を落としながら答える。 (まぁ……何となく気が付かない理由が分かる気もするな) そんな彼の様子にラザは苦笑いをしながら、いつの間にか座っているリノにメニューを手渡すのであった。 「あの……」 賑やかな朝食も終わり、トラッドが地図を広げようとした矢先、ヤヨイが遠慮がちに話しかけてくる。 そして懐から今朝拾ったばかりの紙切れの入った小瓶を取り出し、ことりとテーブルの上に置いた。 「これは?」 「散歩してる時に見つけたんですけど……開けても大丈夫ですよね?」 「……多分」 尊敬している師匠から曖昧な許可が下りると、彼女は蓋に手をかける。 だが、相当固いようで一向に取れる気配が無い。 「開けようか?」 それを見かねたラザがヤヨイから瓶を受け取ると、程なくして蓋が開き、中に入っていた紙がひらひらと舞い落ちる。 「………あれ?」 「いや、結構固かったから気にするな」 彼女の言葉の意味を察した彼はすぐにそう告げる。 「あら、随分優しいのね?」 「……どういう意味だ」 「なーいしょ」 やけに満足そうな笑みのまま、ナギサはその紙を拾い上げてから視線を落とした。 「で、それは?」 「……手紙、かしらね」 「手紙?」 最後に朝食を終えたリノが不思議そうな顔をする。 「うん……はい、ヤヨイちゃん」 ナギサは真剣な表情のまま答えると、最初に発見したヤヨイにそれを手渡した。 「……何て?」 まだ内容を見ていないトラッドは、彼女が手紙から目を離したのを確認して尋ねる。 「えっとですね……」 それを受けて、ヤヨイは訝しげな顔で書かれている事を読み上げた。 「私、町、作ってる……って書いてます」 「…………それだけ?」 「……はい」 リノが確認するように問いかけると、ヤヨイも困ったような表情で答える。 嘘をつく理由はないので、本当にそう書いてあるのだろう。 それにしては返答に窮する内容であった。 「……ちょっと見せてもらっていい?」 「あ、はい」 しかし、ナギサはたったそれだけの文章から何かを感じ取ったのか、真剣な表情で手紙を受け取る。 そして唇に指を当てながら、短くこう呟いた。 「…………何処の人が書いたのかは想像つくわ」 「え?」 その一言にトラッドが意外そうな声を上げる。 「トラッド、地図出してもらってもいい?」 「え? あ、ああ」 そして彼女は眉を顰めたまま、片付けられたテーブルの上に手紙と出された地図を並べて広げた。 手紙にはたどたどしい文字で、先ほどヤヨイが読み上げた言葉が書かれている。 「まず、ここがポルトガね」 ナギサが指差した現在地に4人は揃って頷いた。 「それで……瓶が流れてきたのは……多分ここだと思うの」 彼女が次に示したのは、地図の左側。細い川が幾筋も描かれている大陸の真ん中である。 「ここは?」 「確か……スーだったかしら。何でも古くからこの大陸に住み着いてる民族がいるらしいわ」 ナギサ自身も聞いた事がある程度だったが、他の4人は初めて知ったという表情だった。 その時、トラッドがあっ、と声を上げて質問をする。 「けど、この細い川を辿って、ここまで流れ着くというのは考えにくくないか?」 「……相変わらず良い勘してるわね。だから、あくまで仮定なんだけど」 どうやら彼女はこれからそれを言おうとしていたらしいのだが、いつものようにハリセンが飛ぶ気配は無い。 それだけで珍しく真剣なのだというのは、誰もが理解出来た。 「確かにポルトガみたいな船は作れないと思うわ。でも、この細い川ぐらいなら……」 「……なるほどな」 ナギサの意図が分かったのか、ラザは納得した声を上げる。 つまり、海を渡る事は出来なくても、大陸の周りぐらいならという事に。 「ええ。だから……」 そこで彼女は大陸の左側に描かれている陸地の部分を指でなぞった。 「……この辺りから流れ着いたというのが、一番考えられるわね」 「…………」 しかし、リノとヤヨイは何処か腑に落ちない表情を浮かべている。 「どうかしたの?」 それを察したナギサが、カップに残った紅茶を飲んでから軽く問いかけた。 「……ちょっと思ったんだけど」 「うん」 リノはそう言いながら、地図の左側に残るわずかな海の部分を指差しながら呟く。 「ここから……ポルトガまでっていうのは無理がないか?」 最初、その問いかけにトラッドとナギサ、そしてラザは不思議そうな顔を浮かべた。 しかし、すぐにその意味に気付くと、トラッドが微笑みながら返事をする。 「えっと……リノ?」 「何?」 そこで、トラッドは地図の表を上に向けたまま、くるりと丸めながらこう言った。 「世界っていうのは、こういう風に繋がってるんだ」 「……え?」 その言葉に、今度はリノとヤヨイが不思議そうな顔になる。 「だから……ポルトガから西に向かえば、ここに辿り着く」 「でも、師匠……地図はここで途切れてますよ?」 「それは使い易いようにそうなってるだけね。ほら、ボールみたいな地図だったら手軽に持ち運べないでしょ?」 「……なるほど」 そこでようやく2人は納得するが、ナギサも適当だったらしく、多分とだけ呟いた。 更に彼女は感心した様子でトラッドに話しかける。 「でも、私やラザはダーマにいたから分かるとしても……結構物知りなのね」 「まぁ……知り合いに船乗りがいるからだけど」 「船の扱いと一緒に教わったって事?」 「……ああ」 トラッドは苦笑いをしながら、気の無い返事をした。 (その船乗りの事、あんまり好きじゃないのかな……?) リノはふとジパングに行く時の事を思い出す。彼が今と似たような表情をしていたという事を。 トラッドの過去をあまり知らない彼女は、彼のそんな顔を見る度に心配になってしまう。 「……ナギサ」 そんな2人の想いを知る由も無いラザは、難しい顔で彼女の名前を呼んだ。 「何よ?」 「この話……何処で知ったか覚えてるか?」 「え……?」 一般的にあまり知られていない事実。今はたまたま3人が知っていただけで、リノやヤヨイの反応の方が普通である。 ラザはこれを知った時に少なからず驚いた記憶があった。 にも関わらず、何処で知ったのかが全く分からない。 「多分、何かの本と思うんだけど……どうして?」 「いや……少し気になっただけだ」 トラッドははっきり覚えているが、2人は殆ど覚えていない。 その違いは聞いた事と見た事だけ。 (何冊も本を読んだナギサならともかく……) 自分まで覚えていない、ラザにはそれが不自然に思えた。 題名が分からないまでも、表紙の色ぐらいは記憶に残っててもおかしくないはずである。 「それじゃ、早速行きましょうか」 ナギサはそう言いながら立ち上がると、ヤヨイ以外の3人もそれに続く。 「ヤヨイ?」 気づいたリノが名前を呼ぶと、彼女は戸惑った様子でおそるおそる口を開いた。 「……いいんですか?」 「え?」 「何があるかも分からないのに……それに私が気になってるだけですし……」 しかし、トラッドはヤヨイの頭を優しく撫でながらこう告げる。 「それだけで十分だろ?」 「でも――――」 「目的地も決まってなかったし、ちょうど良いと思ったんだけどな」 「……師匠」 彼女はぽつりと呟き、勢い良く席を立ち上がると、そのまま彼に両手を広げて抱きついた。 「ヤ、ヤヨイ?」 「師匠……大好きです!」 「え……えっと……あ、ありがと……?」 思わぬ弟子の不意打ちに慌てふためくトラッド。 その様子をナギサとラザは微笑ましい眼差しで見守っていた。 「……先に行ってる」 だが、そんな2人とは対称的にリノは何処か不機嫌な顔でそう言うと、足早に宿屋を出ようとする。 (あら……リノちゃんってば) ナギサはそんな彼女の隣に並んで肩を組んで足を止めさせると、耳元でそっと囁いた。 「気になるんだ?」 「別にそういうわけじゃ……!」 彼女は動揺した口調で否定をする。それに対してナギサはすぐに身体を離すと、独り言のようにこう呟いた。 「まぁ、ヤヨイちゃんにとっては尊敬する師匠だから……トラッドが慌ててるだけよね」 楽しそうな彼女の声。しかし、今のリノに気付く余裕はないらしく、無言のまま再び歩き出した。 (……そう、なんだ) ただ、言葉だけが耳に届いていた彼女は、いつの間にか安堵の表情を浮かべている。 しかし――――リノ自身、その事には気づいていなかった。 次の話へ
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