第52話 「強い心に落ちた雫」


 ポルトガから出発して、3日が過ぎた。
 これまでの所、海が荒れる事もモンスターの大群に襲われる事もなく、順調な船旅が続いている。

「…………」
 リノは甲板で周囲の様子を眺めていた。
 舵の所ではトラッドがラザに船の扱い方を教えている。
 というのも、船を動かせるのがトラッドだけなので、負担を減らす為にラザが申し出たのだ。
 教え始めて2日が経つが、中々飲み込みは良いらしい。
 いつもなら、この辺りでナギサがトラッドにハリセンを炸裂させそうなものだが、珍しく姿を見せていない。
 というのも昨夜は見張りをしていた為、部屋で眠っているからである。
(……何だかすっきりしない)
 緩やかに流れる平和な時。モンスターが多いこの世界を旅する人間には、至福の時とも言える。
 だが、リノは何処か浮かない表情で果てしなく広がる海を眺めていた。
(どうして……だろ)
 ふと脳裏に浮かぶのは、数日前の風景。次に向かう場所が決まった時の事だった。
 あの時、ヤヨイは嬉しさの余り、トラッドに抱きついていた。
 ここ最近、ふとした拍子で思い出す事があり、その度にリノはもやもやした気持ちになってしまう。
(そもそもナギサが変な事訊くから……!)
 早まる鼓動と熱くなる顔。リノは右手で胸を押さえ、首を激しく横に振るが、すぐに落ち着くわけではない。
 むしろ更に動揺してしまい、頭の中が真っ白になるぐらいだった。

「リーノーさんっ!」
「わ……!?」

 その時、無邪気な声と共に彼女の背中に重みがかかった。
「ヤ、ヤヨイ……?」
「どうしたんですか? 首をブンブン振ってましたけど?」
「え……っと」
 リノは首に回された手を解きながら、ちょうど考えていた彼女の方へ振り返った。
 だが、いきなり当の本人に話しかけられたせいか、言葉が全く出てこない。
「悩みでしたら、いつでも相談に乗りますよ」
 迷った表情から何かを察したのか、今度は正面からヤヨイが抱きつく。
「だから…………あ」
 リノが再び彼女から離れようとした時、ある事に気が付いた。
(ヤヨイは……誰にでもそうか)
 よくよくこれまでの旅を思い返してみれば、彼女が誰かに抱きつくのはそう珍しい事ではない。
 あの時はたまたまトラッドだっただけで、それがナギサや自分の時もある。
「どうしたんですか?」
 急に振り解こうとする力が弱くなったので、ヤヨイは心配そうな声を上げた。
「…………ヤヨイが羨ましい」
「え? 私が、ですか?」
「うん」
 思考から覚めたリノが最初に呟いた言葉に、彼女はただ疑問符を浮かべる。
 そのきょとんとした表情に、リノはほんの少し戸惑いながらこう続けた。

「私は……ヤヨイみたいに素直になれないから」

 いつだってそうだった、と彼女は思う。
 多くの不安を無理やり押し殺して、心配するあまり差し伸べられた手も取れなくて。
 無愛想な顔で大丈夫と言ってしまう自分がいる。
 それなら、周りに迷惑をかけないほど強くなればいいのだが、それも出来ない。
(……それに)
 いつも自分を支えてくれる仲間に、自分の身体の事を打ち明ける勇気も無い。
 何よりも旅を始めた時からずっと一緒にいるトラッドを――――騙し続けている。
 そんな自分の何処が勇者なのか、とリノは改めて思い知らされた。
「……無理しなくていいんじゃないですか?」
「…………」
「私も、勿論他の皆さんだって、リノさんの事好きですよ?」
「……でも」
 瞬間、不意を突くように音が弾け、リノは目を白黒させる。
 目の前には真剣で、少し悲しそうな表情のヤヨイ。
 そのポーズから察すると、どうやら両手を叩いたらしかった。
「リノさんは……私たちの事、嫌いですか?」
「そんな事……!」
 思いがけない問いかけに、リノは慌てて否定しようとするが、それを遮るようにヤヨイが柔らかく抱き締めてくる。
 そして、嬉しそうに耳元でこう囁いた。
「良かった……じゃあ、両想いですね」
「……ヤヨイ」
 震える心と呼応するリノの身体に、心地良い温もりが伝わってくる。
 触れ合う事への恐怖はあったが、今度は振り解こうという気になれなかった。
「あ、でも……」
「何だ?」
 互いの耳元で囁き合われる声。ヤヨイはくすりと笑った後、こう呟いた。
「今のリノさん、凄く素直で可愛いですよ?」
「え……?」
 耳を疑うような言葉に、リノはただ不思議そうな顔になる。
(……素直? 私が?)
 返事の無い自分への問いかけ。その中で浮かび上がってくるのは、トパーズ色の瞳を持つ彼の顔。
(……もしそうなら……トラッドにもちゃんと話せる?)
 意識した途端に、再び心臓の動きが慌しくなる。
 それを何故か悟られたくなかったリノは、パッと身体を離すのだった。



「……師匠! 陸が見えますよー!」
 更に日が過ぎる事、2日。ポルトガを出発してから5日目の事だった。
 見張り台からぼんやり西の空を眺めていたヤヨイが声を上げる。
「…………」
 それを右手を振って返し、思案に暮れるトラッドの隣ではリノが不思議そうな顔を浮かべていた。
 口にこそ出さないものの、おそらく地図とは違う世界の姿に驚いているのだろう。
「トラッド?」
「ん? ああ、どうしようかと思って」
「……何が?」
 それよりも目的地を前にして見える彼の迷いが気にかかったリノはその理由を尋ねる。
 しかし、返ってきた答えは曖昧だった為、彼女は更に疑問を口にした。
「いや、このままだと着く頃には夜になるから……あの細い川を通って村に行くのは難しいな、って」
「あ……」
「ナギサも大陸の外側とは言ってたけど、やっぱり村で訊いた方がいいと思う」
「……なるほど」
 船の事はよく分からないリノだが、言っている事は理解出来る。
 細い場所を通るには、ただでさえ神経を使うもので、それを闇の中で行うのは至難の技だ。
 トラッドが船を扱えるといっても、それを仕事にしている人間には遠く及ばない。
「じゃあ、もう一晩は船の上ってことね?」
「そうなるな」
「ちょっと地面が恋しいけど……仕方ないか」
 いつの間にか船室から出てきたナギサは、不満そうな様子を見せているが、こればかりはどうしようもない。
 それは彼女自身も分かっているらしく、いつものように無茶は言ってこなかった。
「昼食出来たぞ」
 ドアががちゃりと音を立てて開き、中から出てきたラザが4人に告げる。
「あら、今日のメニューは何かしら〜」
 すると先ほどまで真剣な顔をしていたナギサが、陽気に歌いながら真っ先に船室へ向かった。
「……よっぽどお腹空いてたんですね」
「だろうな……」
 急に和らいでしまった空気に、トラッドとヤヨイは呆れながら後に続く。
 だが、リノだけはまるで何かに魅入られたように、うっすらと見える陸地を眺め続けるのだった。


 西に見える山々に、太陽が姿を消していく頃。
 トラッドの見立て通り、船はスー大陸のすぐ側まで辿り着く。
 一旦、そこで船を止めてから、5人は夕食を取った。
「……ん?」
「どうした?」
 そしてトラッドとラザは今、舵の所にいる。
 目的は夜の内に川の入り口まで向かうという事と、ラザに夜に船を扱う時の注意を教えるという2つ。
「いや……灯りが見えたから」
「……灯り?」
 その時、トラッドは陸地に広がる森の辺りに、ぼんやりとした光を発見する。
 地図には何も無い場所のはずだった。
 しかし、ナギサの故郷であるムオルの村も載っていなかったので、それ自体は珍しい事ではない。
「村……にしては小さすぎるな」
 余りにもか細くて、弱々しい光。それがトラッドは妙に気になった。
「……行ってみるか?」
 落ち着かない彼にラザはそう提案する。
「でも……寄り道するわけには」
「私はいいわよ」
 凛とした声は彼の背中から聞こえてきた。
「ナギサ?」
「途中から話は聞かせてもらったけど……いいんじゃない?」
 黒いコートを夜の風になびかせながら、彼女は長い髪を押さえながら更に続ける。
「それに場所から考えると、手紙があそこから流れ着いた可能性もあるしね」
「…………よし」
 トラッドにしては長い沈黙の後、ナギサを見据えてからこう告げた。
「リノとヤヨイを呼んで来てもらっていいか?」
「分かったわ」
 珍しく彼の言葉を素直に受け取ると、ナギサはヒールを鳴らしながら船室へと向かった。



 すっかり闇に染まった世界の中、5人はモンスターに遭遇する前に急ぎ足で森を抜ける。
「家……ですね」
 呟いたヤヨイの視線の先――――つまり、トラッドが見た光の場所には木で出来た小屋があった。
 中から零れる灯りとすぐ側で煌々と燃える炎からは、生活の香りが漂ってくる。
「何はともあれ……」
 ナギサはこほんと咳払いをしてから、扉を2回軽く叩いた。
 しばらくの間があってから、まるで来訪する者を歓迎するかのように扉は勢いよく開かれる。
「……誰じゃ?」
 中から姿を現わしたのは、茶色を基調とした色とりどりの衣装に身を包んだ老人。
 白髪頭には朱と白の羽飾りをつけていた。
「えっと……」
 訪れたのはいいものの、特に理由を考えていなかったリノは返答に困る。
「あ、旅をしているのですが……灯りが見えたので、泊まる所があるのかと思って」
 すると、後ろにいたトラッドがすっと前に出てから説明をした。
「旅の方、よければ中入るか?」
「あ、それじゃ……」
 だが、夜中の急な来訪にも関わらず、怪しむ素振りを見せない老人。
 それどころか機嫌良さそうにリノたちを招き入れる。
 5人は不思議そうに顔を見合わせるが、一度頷くと家の中に足を踏み入れた。


 小屋の大きさに相応しい小さなテーブルを6人で囲むと、
「わし、名前、トバリ」
 聞き覚えのある言葉遣いで老人が名乗る。
 5人はそれぞれ自分の名前を言いながら椅子に座り、出された飲み物を手に取った。
「これ……面白い色ですね」
 カップの中にあるのは、瑞々しい緑色の液体。
 ヤヨイは興味深そうな声を上げた後、一口だけ飲んでみるが、すぐ眉間に皺を寄せた。
「これ、スーの薬草から作られた飲み物。身体、よく暖まる」
「……スー?」
 余りの苦さで言葉が素通りしそうになったが、我に返ったラザはトバリの言葉を繰り返す。
「この大陸の真ん中にある村。わし、そこからやってきて、ここ、住んでる」
 そこで手紙の事を思い出したヤヨイは、懐から取り出しながら尋ねた。
「もしかして……この手紙の……わっ!?」
 最初は訝しげな顔をしていた彼だが、手紙を見るや否や彼女の手をしっかりと握り締める。
「これ、わし出した!」
「じゃあ、町ってここに作るんですか?」
 トバリは弾んだ声でうんうんと頷くが、すぐに表情が暗くなる。
「でも……商人、いない。だから、先に進まない」
「え……?」
 ヤヨイはわずかに驚いた顔になり、手に持ったカップを思わずテーブルに置いた。
(商人……そっか)
 町には店がある。だから武器と防具、そして道具に詳しい商人は確かに必要だった。
「わし、その為に町を作る勉強した。でも、それだけだと出来ない」
「…………」
 よく見ると、部屋の中にはおそらく町の構造を記した紙や、建物を作る為の道具が散乱している。
 これだけの物を揃え、更に町作りの勉強をするには、一体どれほどの時間がかかるのだろうか。
 しかも、それでもまだ足りないのだと言う。
(…………)
 いくつもの皺が出来ているトバリの顔。
 そこにはこれまで積み上げてきた努力と無常な時間の流れ、そして涙の跡が刻まれていた。
「…………あ」
 ヤヨイの手に、微かな震えが伝わってくる。
 だが、それはトバリのものか自分のものか分からなかった。
「……おじいさん」
 彼女が弱々しい声で呼びかけるが、少し身体が動いただけで返事は無い。
 ヤヨイはもう一度呼びかける代わりに、皺だらけの手をぎゅっと握り返した。

「私……見習いですけど……商人、です」

「ヤヨイ……!」
 トラッドは思わず彼女の名前を呼んだ。
 だが、2人の耳にその言葉は届かず、静かな会話が続いていく。
「ほんと、か?」
「……はい」
「それなら……!」
 弾かれたようにトバリが顔を上げるが、彼女はそれに合わせるように顔を下に向けた。
「……でも」
「でも?」
 ヤヨイの手元にあるカップに透明の雫が落ちる。

「考える時間を……下さい」

「……しばらく、ここ、泊まると良い」
 ヤヨイがこの町に残るのなら――――リノたちとは別れなければいけない。
 それを察したトバリは、やはり表情を曇らせるが、ゆっくりと立ち上がると5人を2階へ案内する。
「……ヤヨイちゃん、行こ?」
「ワガママ言って、ごめんなさい……でも」
「……気にしなくてもいいわよ」
 ナギサは気を遣っているのか微笑んでおり、優しく彼女の手を引いた。
(きっと分かってたのよね……それでも言い出さずにいられなかった……)
 ヤヨイの小さな身体には、どれだけの優しさと勇気が詰まっているのだろうか、と彼女は思う。
「手紙を出した人を探すという目的は達成したから……ゆっくり考えればいい」
「……ラザさん……ありがとうございます」
 最初はずっと顔を合わそうとしなかった彼女だが、ナギサとラザの言葉によって眠る頃には笑顔を見せていた。


 そんな中、ヤヨイの師匠であるトラッドと、今日船で励まされたばかりのリノはただ考え込んでいる。
 結局2人は――――眠りに就くまで、話す言葉を見つける事が出来なかった。



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