第57話 「決して重なる事の無い時の中で」


 その日は風が強い日だった。一日の内で最も高い位置にあった太陽が傾き始めてから2時間。
 不安を感じさせる灰色の雲は、先ほどから幾度と無く陽を隠しては、また流れ去っていく。
 一向に落ち着こうとしない空の下、4人を乗せた船はポルトガから陸に沿って南下していた。
 目指す場所は魔王に滅ぼされたという村で、グリーンオーブがあると言われているテドン。
「…………」
 リノは時折ため息を吐きながら、呆然と海を眺めていたが、何となく船の上に視線を戻す。
 最近、舵を取っているのは殆どラザで、数日前とは違って少し慣れた手つきになっていた。
 その彼に船の操り方を教えたトラッドは、呑気に口笛を吹きながら甲板をブラシで磨いている。
 おそらくナギサが昨夜の見張りを終えてからずっと眠っているので、平和な時間を謳歌しているのだろう。
「……ふぅ」
 穏やかな時間にそぐわないリノのため息が、また一つ空に溶けていく。
 それからまた瞳を海に戻そうとしたが、ふと彼女は道具袋から何かを取り出した。
(……私は……何?)
 開かれた左の掌にあったのは、持つ箇所が瞳を象っている鍵。
 目の部分には赤と紫のちょうど中間の色の宝石が埋め込まれている。
 その他の所は金色に輝いているが、太陽の光が当たると様々な色が浮かび上がる不思議な鍵だった。
 これこそが、勇者であるリノの為に存在すらもあやふやにされていたという最後の鍵。
(私は……どうすればいい……?)
 彼女はぎゅっと鍵を握り締め、この鍵を手に入れた数日前の事を思い出し始めた。



「この近くに壷を浮かべればいいのよね?」
「……だろうな」
 ジパングとスーの間、つまり世界で言う西の海。
 空がオレンジ色に染まり始めた頃、4人は寂しげに佇む浅瀬を発見する。
 おそらくここが、竜の遣いと名乗り、人間の言葉を話す馬、エドの言っていた最後の鍵が眠る場所。
 ナギサは一応トラッドに確認をした後、無造作に海の上へ渇きの壷を落とした。
 しかし、ぽちゃんというそれ相応の音がするだけで、何も起きる気配は無い。
「……トラッド」
「…………行ってこればいいんだろ」
 名前を呼ばれただけで自分の役割を理解した彼は、渋々縄梯子をかける。
 そして慎重な足取りで、壷を回収しようとした時だった。
「……トラッド!」
「え?」
 異変に気付いて叫んだリノが彼の手を引っ張ると同時に、穏やかな水面が巨大な渦へと姿を変え始める。
 その中心にあるのは、先ほどナギサが落とした渇きの壷。どうやら猛烈な勢いで、辺りの海水を吸い込んでいるようだった。
「……もう少しだったわね」
「…………ああ」
 再び静けさを取り戻した水面には、わずかな陸地と祠。
 それを碧眼に映しながらナギサがぽつりと呟くと、トラッドは冷や汗を拭いながら返事をする。
 だが、その一言にラザは何かを察したのか、何故か悔しそうな彼女にこう問いかけた。

「一応訊くが……何がもう少しだったんだ?」

 トラッドは弾かれたようにナギサを見る。
「え? 決まってるじゃない」
 彼女は楽しそうに言葉を紡いだ。

「もう少しでトラッドのぐるぐる回る姿が見れたのに、って思ったんだけど?」

 ………………

「…………ナギサぁぁぁっ!!」
「何よ!? 面白そうだから良いじゃない!!」
 一瞬の静寂の後、珍しく叫ぶトラッドの声と、純粋すぎる好奇心を伴ったナギサの声が空に吸い込まれていく。
「……全く」
 リノは騒々しい2人にため息を落とすと、掛けられたままの縄梯子から静かに祠を目指すのだった。



 先に辿り着いたリノはゆっくりとした足取りで祠を目指したが、背後から聞こえてくる慌しい足音にふと歩みを止めた。
「トラッド?」
「はぁはぁ……ふぅ……何も先に行かなくても……」
 いつの間にかいなくなったリノに気付いた彼は、どうやら全力で走ってきたらしい。
「危険は無さそうだったし……それに」
「それに?」
 勇者である彼女の為に封印されていた場所。確かに危険があるとは考えにくい。
 しかし、リノにはそれ以外にも理由があったらしく、ふいと顔を逸らしてからこう呟いた。
「……喧嘩が終わりそうに無かったから」
「いや、一言言ってくれれば、すぐにやめるつもりだったけど……」
 嘘は言っていない。そもそも嘘をつく理由も無い。
「……本当か?」
「ああ」
 だが、彼女は相変わらず顔を逸らしたまま、確かめるように問いかける。
 その声がトラッドの耳には、何処か悲しそうに響いた。
「……別に喧嘩してるつもりはないんだけど……ごめん」
「え?」
 急に謝った彼に、今度はリノが驚いた顔で尋ね返す。
「でも、その気が無くても気を遣わせるのは良くないな。だから、これからはもう少し仲良くする」
「あ、いや……そうじゃなくて」
 そこで彼女はトラッドの言葉の意味をようやく理解した。
 どうやら彼は、自分とナギサの言い争いを見て、リノが心配しているのだと思ったらしい。
 気付いた彼女は誤解を解こうと慌てた声で、更に言葉を重ねる。
「け、喧嘩って言ったのは、他に言葉が見つからなかっただけで……その……」
「違うのか?」
 きょとんとしたトパーズ色の瞳が、リノの顔を覗き込んできた。
 それに対して、彼女はくるりとトラッドに背中を向けると、早口でこう告げる。

「……楽しそうだったから」
「…………は?」

 予想外の言葉だったのか、トラッドは目を丸くした。
「えっと……リノ」
「な、何?」
 それからしばらく間を置いた後、彼は眉間に皺を寄せながら言葉を紡ぎ出す。
「多分それはナギサだけだと思う……」
「え?」
「俺も心底嫌ってわけじゃないけど……ハリセンって結構痛いんだぞ?」
「……それは音で分かる」
 リノはそう言った後、叩かれた瞬間の彼の顔を思いだし、胸中で密かに同意の色を強めた。
「え……っと……」
「……とりあえず行くか。ナギサとラザも来たみたいだし」
「う、うん」
 互いに話す言葉を失った時、視界に2人の姿が入ってくる。
 それをきっかけにトラッドは彼女を促すと、先に祠へと歩を進め始めた。
 しかし、次の瞬間――――ごんという音が辺りにこだまし、彼の身体がわずかに後ろへと下がる。
「トラッド?」
「……何だ?」
 目の前にあるのは祠だけ。しかもトラッドが弾かれたのは、祠から3歩ほど離れた何も無い空間だった。
「どうしたの?」
 その時、ちょうど追いついたナギサが不思議そうな顔で問いかける。
「……これ」
 トラッドは慎重に足を進め、先ほど自分が弾かれた中空の辺りをこんこんと叩いた。
 これまでに見たどんな金属とも違う音を奏でる強固で見えない壁。
「ふうん……結界って所かしら」
「一筋縄ではいかないようだな」
 ナギサとラザも彼に倣って、何も無い空間の感触を拳で確かめる。
「……トラッド、ちょっと協力してもらっていい?」
「え? 別にいいけど何をす――――へ?」
 彼女は未だ何をするのか理解していないトラッドの細い首を掴み、軽く息を吸い込んだ。
「せーのっ」
「……え?」
 ただ一つ確かな感覚は、凍りつく背筋と額にうっすらと浮かぶ冷たい汗。

 だが、その正体を見極める前に――――トラッドは結界に激突した。

 海のど真ん中から、盛大な音が世界にこだまする。
「…………やっぱりダメか」
 顔を逸らしていたリノとラザの耳に最初に入ってきたのは、ナギサのため息が混じった声だった。
 続けて聞こえてきたのは、
「……やっぱり、じゃない! 分かってるならするなぁっ!!」
 珍しく本日2度目のトラッドの怒声。しかも鼻の頭は赤くなっており、よっぽど強く叩きつけられた事がより深く分かる。
「でも、やってみない事には分からないでしょ?」
「他に方法があるだろ!」
 再び言い争いが始まるものの、止める術を持たないラザはおそらく同じ気持ちであろうリノを見た。
「……リノ?」
「…………」
 しかし、意外にもそこにあったのは少し頬を膨らませた勇者ではない少女の顔。
(……なるほどな)
 リノの胸中を察したラザはポンと肩を叩き、苦笑いを浮かべながらこう告げる。
「別に気にしなくてもいいと思うぞ」
「……何が?」
 だが、返ってきた言葉を紡いだ表情は眉間に皺は寄っていたものの、きょとんとしていた。
「あ、いや……」
 おそらく彼女は、自分が今どんな顔をしており、何を想っているのか理解していない。
 そんな自覚の無い彼女に、ラザはどう言えば良いのか分からず、言葉を失ってしまった。
 まだ続いている言い争いと迷っているラザを横目に、リノはゆっくりと歩き始める。
 そして結界にそっと触れようとした瞬間――――

「……え?」

 掌にわずかな痛みはあったが、するりと向こう側へ通り抜けた。
 といっても、元々目には見えないのだから、それが自然といえば自然ではあるのだが。
 多少の驚きを瞳に残したまま、リノは更に身体を前に進める。

 だが――――直後、異変が訪れた。何の前触れも無く。

「……ぁ……っ!?」
 全身を走り抜けていく痺れを伴った鋭い痛みに、リノは思わず声を上げ、綺麗な顔を歪ませた。
「リノちゃん……?」
「リノ!」
 そこで初めて気付いたトラッドとナギサはすぐに喧嘩を止め、結界の側まで駆け寄ってくる。
 だが、ふとリノは何かが頭の片隅に引っかかったのか、2人の声は届いていなかった。
(今のは……まさか……)
 以前にも感じた事がある痛みと全細胞が拒否しようとする不快な異物感。
 彼女は考える間もなく、瞬時にそれを何処で体験したのかを思い出す。

(……ノア……ニール……)

 エルフの宝である夢見るルビーを探しにいった洞窟。
 もっと正確に言えば、その洞窟の中にあった神聖な空気に包まれた泉。
 ナギサに差し出された水を飲んだ時ほどではなかったが、あの一帯に足を踏み入れた時よりも激しいものだった。
「リノ……どうかしたのか?」
 不意に響くラザの声で、彼女はやっと我に返る。
(気付かれちゃ……いけない……!)
 そして怯えた気持ちと身体を3人に向けながら、まるで祈るように精一杯平静を装った。
「あの……な、何とも無かったから驚いて……」
 震えた声だったが、誰も不自然さに気付く様子は無く、納得している。
「でも、リノちゃんしか入れないみたいね」
「……そうだな」
 リノは一言だけ言うと、何かを悟られる前に痛みを堪えながら歩き始めた。
「危険は無いと思うけど、気をつけてな」
 背中からはトラッドの気遣う言葉が聞こえてきたが、彼女には返事をする余裕すら存在しなかった。



「くっ……!」
 祠の中はまるで海に潜っているかのように、全てが揺らめいて黒い瞳に映し出されている。
 だが、その景色を見渡す事も出来ず、リノはただ内側から滲み出る苦痛を堪えていた。
(早く……鍵を見つけないと……)
 一歩足を踏み出す度に強くなっていく痛み。
 それを少しでも忘れようと、彼女がぎゅっと拳を握り締めた時だった。

「随分変わった勇者様がいるもんだな。それに……女か」

「……誰……何処に……いる……?」
 不意に響いたのは、低くぶっきらぼうな男の声。
 リノは苦しそうに鋼の剣をゆっくり引き抜こうとする。だが、姿は声と同じく唐突に現れた。
「目の前だよ」
「なっ……!?」
 先ほどまで何も無かった空間にいたのは――――2本の足で立つ骸骨。
 よく見ると、今にも消え入りそうだったが、筋肉質な男の輪郭をその身に纏い、不敵な笑みを浮かべていた。
 濃い青色の服に黒いズボン。左眼は眼帯で覆われている。顔つきからすると、年齢は30といったところだろうか。
 そして服の隙間から見える肌や顔には、大きなものから小さなものまで無数の傷があった。
「構えるなよ。何も取って食おうってわけじゃ……って、おい?」
 何かを問いかけようとしたリノだったが、あまりの苦痛に自分の身体を抱き締めながらうずくまってしまう。
「……ったく、世話の焼ける……」
 彼は面倒臭そうな素振りを隠しもせず、頭をかきながら彼女に近づくと、大きな掌に包まれた骨を無言でリノの頭に乗せた。
「な……何を……え?」
「少しは楽になったか?」
「……うん」
 リノは不思議そうに自分の身体を見回し、曖昧な彼の太い右腕を掴む。
 驚く事に彼女の指が骨に届く事は無い。
「俺は幽霊だからな。でも、骨のまま人前に出るのも失礼だと思って、死ぬ前の姿を映してるだけだ」
「……何をした?」
 骸骨男は笑っているらしく、カタカタと口を動かすと、おどけた様子で話し始める。
「結界ってのは不便で、外からの侵入者を阻もうとすればその範囲全てに効果がある。だから、お嬢ちゃんの周りだけそれを取っ払ったんだよ。まぁ……完全に、とはいかねぇけどな」
 彼女は一応頷くものの、心がついていかないようで、まだきょとんとしていた。
「まぁ、今だけだから気にする必要も無いだろ……で、探し物はこれか?」
「……最後の、鍵?」
「そうだ」
 差し出された手にあったのは、人間の瞳を象った一本の鍵。
 リノはそれを受け取ろうとするが、弾かれたように顔を上げると手を止めて、彼の顔をじっと見据えた。
「ん? どうした?」
「……訊きたい事があるんだけど……構わないか?」
「少しなら。後、俺で答えれるんならな」
 彼女は返事に頷くと、しばらく考えた後でゆっくりと口を開く。
「あなたは……誰?」
 いくつかあるようだったが、リノはまず目の前の人物について尋ねる事にした。
 だが、それは予想外だったらしく、彼は一瞬目を丸くすると、楽しそうにこう問い返す。
「何だ、俺に惚れたのか?」
「えっ……?」
 最初は何を言われたのか分かっていなかったリノだったが、理解していくにつれて顔が赤くなっていく。
 骸骨男は軽く口笛を吹くと、楽しそうな声で言葉を重ねた。
「冗談だよ。でも、むすっとしてるかと思えば、案外可愛い所もあるじゃねぇか」
「な……何を……そ、それよりも……!」
「今のは本気だったんだが……まぁ、いいか。それで、俺の事だったな?」
 リノは動揺の余り言葉が出てこないのか、頬を染めたまま黙って頷く。
「名前は覚えてねぇが……まぁ、海賊だ」
「海賊……どうしてここに?」
「ああ、この鍵を見つけたまでは良かったんだがな……そこで運が尽きたらしい。嵐の中で大王イカに襲われて、そのまま海に消えちまったんだよ」
「…………見えない」
 海賊といえば、彼女にはもっと悪いイメージがあった。
 しかし、目の前の人物は口調こそ荒っぽいものの、何処か優しく思える。
 彼はリノの一言にまた頭をかくと、照れ隠しなのか骨の手で彼女の髪を乱暴に撫でた。
「そりゃあ、長い時間を一人で過ごせば変わりもするもんだ。それに俺は死んでるんだから、どうこうしても無駄だしな」
 骨がまたカタカタと動く。そこには話の内容ほどの悲壮感は漂っておらず、むしろ清々しささえ感じ取れた。
「ちなみにさっきやったみたいな呪文もどきは、ここにいる間の暇潰しで身につけた」
 つまり、彼はこの場所で果てしなく長い時間を過ごしたのだろう。
 その時、リノの頭に新たな疑問が浮かび上がってくる。
「……どうしてここにいるんだ?」
 彼の身体は海の藻屑になってしまったにも関わらず、この祠は浅瀬にあった。
 存在自体、リノには想像もつかない力が働いているのは間違いないのだが。
 すると残った左手を口元に当て、しばし考えた後、皮肉めいた口調で答える。
「多分、神の仕業だな。きっとお嬢ちゃんに鍵を渡す為に、俺を拾い上げたんだろうよ。結界と同じで鍵だけってわけにもいかなかったのかもしれねぇが……」
「……酷い……」
 唇が自然にそんな言葉を零れさせた。
 それから骨の掌はゆっくり彼女の頬に触れると、言葉も感触も無かったが、不思議な事に微かなぬくもりだけがそこにあるような気がした。
「で、他には?」
「え?」
「まだあるんだろ?」
「う、うん」
 リノは忘れていたらしかったが、全てお見通しらしい彼の言葉にもう一つの質問を思い出す。
 それは、最初に声をかけられた時から気になっていた、自分が最も知りたい事でもあり、一方では知りたくない答え。
「……さっきのはどういう意味だ?」
 訊く事への恐怖からか、彼女は曖昧にそう尋ねた。
「……は?」
「だから……その……随分変わった……って……」
「ああ、その事か。それは俺にも分からん」
「…………え?」
 呆然となるリノを少しだけ申し訳無さそうに見据えながら、彼は更に話を続ける。
「でも、様子がおかしいのは明らかだったし、考えられる原因は結界しか思いつかなかったから、ああしただけだ」
「……そうか」
「心当たりは無いのか?」
「…………」
 彼女は口を噤んだ。無い、というわけではなかったが、はっきりと決め付けられるほどの確信も無い。
 ただ、気に掛かっている場所は――――夢見るルビーが見せた風景は今でも思い出せる。
「……あるなら、行って来い」
「でも……もし……」
「もし、何だ?」
 心の中で繰り返し何度も呟いた言葉。そうでなければいいと、つい先ほども願った気持ち。

「もし……もし、私が――――人間じゃなかったら……どうすればいいの……?」

 黒い瞳から頬を伝い、透明な雫が音も無く中空に溶けていく。
 周りの人間が心地良いと感じるものを、受け付けようとしない身体。
 呪文を使った時に訪れる、自分の変化。忘れる事の出来ない過去の記憶が、リノの中をかき乱す。
「一緒に……旅……したいのに…………ト…………と……離れたくないのに……どうしたらいいの……?」
「…………」
 彼は静かに、そして愛おしげに彼女を見つめながら、サークレットを取り外した。
 そしてそっと感覚の無い自分の額を、リノの額に触れさせる。そこにはさっきよりも強い温もりがあった。
「な……何を……!?」
「……余計な心配すんなよ」
 深い黒の瞳から零れ落ちる涙は留まる事を知らない。それでも彼は優しい音色で言葉を紡ぎ続けた。

「幽霊になった俺の事を……気にかけてくれる優しい奴がここにいるんだ。なのに、こうして生きてるお嬢ちゃんを一人にする奴なんかいるはずがない……」

 肉体を持たない、すでに死んでしまった彼だからこそ言える、説得力のある言葉。
「……名前は?」
「えっ…………リノ」
 彼はふっと身体を遠ざけ、またおどけて見せると穏やかに笑った。
「可愛らしいお嬢ちゃんに似合った良い名前じゃねぇか。だったら、男が放っておくわけがねぇなぁ」
「そ、そんな事……」
「俺の女を見る目は確かだぞ。信用出来ないか?」
「……よく……分からない」
 頬を染めたまま首を横に振るリノの掌に、骸骨男は鍵を強引に握らせる。
「とりあえず……俺の役目だけは果たさせてもらうからな」
「あ……」
「……早く行け。いつまでも帰らなかったら、心配する奴がいるんだろ?」
 不意に脳裏をよぎったのは、銀髪にトパーズ色の瞳を持つ彼の優しい声。
「……うん…………あの……!」
「まだ何かあるのか?」
 うんざりした返事をする目の前の海賊は、すでに骨しか見えなくなっていた。
 もう2度と会う事は無い。それを理解したリノは涙を拭うと、たった一言だけ告げる。

「……ありがとう」

 目を赤くした彼女の表情は、トラッドに向けるものとは違う自然な笑顔だった。
 それに対して、骸骨はまた頭をかきながら目の辺りの空洞を逸らすと、
「じゃあな」
 と、短い別れの言葉を残し、くるりと背中を向けた。
 それを合図にリノは入口の方へと歩き出す。いつの間にか止まっていた涙は、そんな彼女を2度と振り返らせようとはしなかった。



「……ガラじゃねぇなぁ」
 祠の中、一人残された海賊だった男は出るはずの無いため息を吐く。
(本当に……神っていうのは何処までも……残酷な奴だ)
 その時、先ほどまで器用に動いていた右手が落下し、音も無く消え去った。
(最後の最後に……あんないい女に会わせやがって……!)
 続けて左手、そして右足が消失する。それでも彼は倒れる事を拒否し、リノが去った後を見つめていた。
「まぁ、でも……」
 薄れゆく意識の中、彼はぼんやりと額同士を重ねた時の事を思い出す。
「やっぱり……生きてる奴には敵わねぇよな」
 あの時、本当に重ねようとしたのは――――唇だった。
(……惚れたのは俺の方、か)
 だが、顔を近づけた瞬間、彼女が途切れ途切れに話した言葉の中には、はっきりと聞き取れなかったが、確かに誰かの名前があったのを思い出した。
 それに、もし唇を重ねてしまえば、初めてに違いないリノはきっと忘れる事が出来なくなってしまう。
 だから――――彼は額を合わせ、少しでも元気になればという願いを込めて、言葉を紡いだのであった。
(さて、と……俺も……そろそろ……)
 澄んだ青に支配されていく視界。どうやら役目を終えた祠が、消えようとしているらしい。
 その直後、左足が、そして肋骨が一本、また一本と海の中へ溶けていく。

(だが……こんな気分も……悪く……ない……もんだ、な)

 最後の想いを胸中で呟いた瞬間、海賊だった優しい男はこれまでにない穏やかな気持ちで――――永遠の眠りに就くのであった。



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