第59話 「それは、まるで血のような」


「くっ……!」

 迫り来るのは村人だったモンスターの群れ。その数は十数匹といった所だろうか。
「リノちゃん!」
 村から少しでも離れようと走る四人。その時、猛スピードで近づいてきた地獄の鎧が腕を勢い良く上げ、リノに剣を叩きつけようと振り下ろす。
 わずかに後ろへ押されながらも咄嗟に受け止めた彼女だったが、その力に身動きが取れないでいると、すかさずナギサは右隣から飛び出してハリセンを炸裂させた。
 その一撃で鈍い銀色に輝く鎧の右半身は砕け散り、残された部分もそのまま土へと還っていく。
「大丈夫?」
「……うん」
 だが、ホッとする間もなく、少し離れた場所より魔女が放ったベギラマの炎が2人に牙を剥いた。
「ラザ、お願い!」
 しかし、ナギサは既にその魔力の流れを察していたらしく、リノの小さな身体を抱えたまま大きく左へと跳躍する。
 そこにすかさず名前を呼ばれた彼が走り込んできて、鋼の剣で魔女の身体を貫くと、そのまま無理やり右へと薙ぎ払った。
 断末魔の叫びを上げる暇も無く、真っ二つに斬り裂かれた魔女の上半身が、ごろんと地面に落下する。
 その時、変わり果てた仲間の姿に数匹のモンスターが怯んだように見えた。
「…………そこだ!」
 再び駆け始めるラザたち三人を横目に、トラッドはモンスターを見据えて右手からブーメランを放つ。
 その研ぎ澄まされた集中力と刃が、わずかな恐怖を見せたモンスター数匹に唸り声を上げて襲い掛かると、不意を突かれた形になったモンスターの群れの動きがわずかに止まる。
 そんな風に四人はモンスターの追撃を必死で振り払いながら、真っ直ぐに船を目指して、ただ走り続けるのであった。


 グリーンオーブを手に入れ、牢獄から出た直後。正確には囚人服を着た男が最後の言葉を紡ごうとしていた途中。
 ナギサはこの村に仕組まれた巧妙な罠に気がついてしまった。
 男から聞いた話と、モンスターに姿を変えてしまった村人たちの様子から導き出された、限りなく事実に近い推測。

 おそらく魔王バラモスは、テドンにあるグリーンオーブを狙って、大量のモンスターを送り込んだのだろう。
 そうして村を滅ぼした所までは良かったのだが、肝心のオーブが何処にも見当たらない。
 だが、確かにオーブの力はこの村で息づいており、それを証明するかのように村人たちは幽霊になってまで勇者が来るのを待ち焦がれている。
 六つ集めないと何も意味を成さない物だが、万が一という事を考えて、どうにか手中に収めたかった。
 そこでバラモスは人間のいなくなったこの地へ、更にモンスターを送り込み、瘴気の量を増大させる。
 そして――瘴気に紛れ込ませて、モンスターを村人の魂の中に潜り込ませた。
 オーブの力がある間は、モンスターも侵入出来なかったのかもしれないが、一旦誰かの手に渡ってしまえば力が失われる可能性もある。
 後はその誰か、おそらく勇者の手に渡った所を殺して奪い取るだけ。
 多少のズレはあるかもしれないが、大まかな所はこうだろうとナギサは推測していた。

 村から少し離れた場所にある荒野に辿り着いた四人は、先ほど突破したモンスターの群れから逃れる為に、尚も走り続けている。
 瘴気の濃い場所で戦えないというのもあるが、それよりも傷跡がくっきり残されたテドンで戦いたくないという理由もあった。
「……厄介ね」
 船を目指す途中、先頭を走っていたナギサはハリセンをより強く握り締めると、月も星も雲さえも見えない禍々しい色の空を見上げながら呟いた。
 その時、トラッドはあっと声を洩らすと、振り向いた三人にこう尋ねる。
「そういえば……キメラの翼は?」
 時間の経過、モンスターとの間に開いたわずかな距離。それで幾分冷静さを取り戻した彼だったが、
「……無理よ」
 ナギサの深刻な返事に言葉を失ってしまう。
「どういう意味だ?」
 眉を顰めて問いかけるラザに、彼女は空を指差しながら答える。
「今、月も雲も見えないでしょ?」
「あ……」
 そこで初めて気付いたらしいリノの声を耳にしながら、ナギサは曖昧な口調で説明を続けた。
「どういう仕掛けかは分からないんだけど……村人の中にいたモンスターのせいね」
「え?」
「多分、あの時に立ち込めていた瘴気が一斉に広がって、それが結界のような役割を果たしてるんだと思うわ。その分、瘴気は薄れてるみたいだけど……」
 聖水の効果は、とっくに切れている時間である。にも拘わらず、先ほどよりも息苦しさは感じなかった。
 村から離れたせいだと思っていた三人は、意外な表情を浮かべている。
「それでも戦闘は避けたいわね。他の場所に比べると――――」
 更に何かを話そうとしたナギサだったが、不意に言葉を切った後、慌しく動いている足を止めた。
 彼女につられて、他の三人も立ち止まって問いかけようとするが、正面に広がる光景からその理由を察する。
「……どうやら戦わないわけにもいかない、か」
 呟いたラザは額に滲む冷たい汗を拭うと、鞘から慎重に剣を抜いた。

 四人の目の前に現れたのは――――おびただしい数のモンスターたち。

「そういう事か……」
「え?」
 何かを察したトラッドは懐からナイフを数本取り出し、舌打ちをしながらそんな言葉を洩らす。
 そして、不思議そうな顔のまま剣を構えているリノに、自分の考えを話し始めた。
「モンスターが少なかったわけじゃない……潜んでいたんだ」
「でも、気配は――――」
「テドンの村と同じで……何処かに隠れていたのかもしれない……!」
 そう言いながら、彼は握り締める拳にやり場の無い怒りをぶつける。
 罠の可能性まで考えていながら、見過ごしてしまった自分への怒りを。
「……トラッド」
 不意にナギサが彼の名前を呼ぶと、返事も待たずにハリセンを振るう。
 瞬間、誰の耳にも馴染んでいる緊迫感のない音が辺りにこだました。
「何を……!?」
「少しは落ち着いた?」
「へ?」
 叫びを遮られ、呆気に取られたトラッドに彼女はため息を零す。
「別にトラッドのせいじゃないでしょ? どっちみちテドンに行く必要があったんだから」
「それは……そうだけど……」
「だったら、過ぎた事をいつまで引き摺らない事。分かった?」
 例え気付いていたとしても、到底回避出来る類の罠ではない。
 だから、これは起こるべくして起こったのだと、彼女は遠回しにトラッドへ伝えようとしている。
 いつもとは違い、珍しく言葉を選んでいるようでもあった。
「……そう、だな」
 その心配りに気付いた彼は返事をしてから自分の頬を叩き、前後から迫り来るモンスターの群れを交互に見る。
 微かに不安の色は残っていたが、表情は幾分冷静さを取り戻していた。
 しかし、トラッドが何かを言いかけたその時、
「それに――切り抜ける方法はあるわよ」
 右手でそれを遮るようにして、ナギサははっきりとそう口にする。自信に満ち溢れた声で。
 船を目指す四人の右側に広がるのは大きな川。左側には、この開けた場所よりも危険と思われる鬱蒼とした森。
 そんな中で正面と背後から襲い掛かろうと向かってくるモンスターたち。
 普通に考えれば、逃げる事も戦って勝利をする事も難しい。
「……呪文か?」
 切り抜けるために考えられるのは、おそらくナギサの強大な呪文のみ。
 そう思ったラザが碧眼を見据えながら問いかけると、彼女は強く首を縦に振ってから、こう付け加える。
「ただ、唱えるのにそれなりの時間がかかるわ。だから……」
「……囮が必要って事だな?」
「ええ。後、呪文が完成した時に合図を出す人も。何せ洞窟を崩した事もある呪文だもの」
 少し悪戯っぽい笑みでそう言うナギサ。以前、その話を聞いた事があるリノとトラッドは、それが何の呪文なのかを思い出す。
「……よし」
 トラッドは彼女の考えを頭の中で確認すると、自分たちの船がある方角から向かってくるモンスターの群れへと駆け出した。
 そしてリノもラザと一度視線を交わし、互いに頷いてから彼の後を追う。
 ナギサは自分の役割を理解した二人の背中を見送った後、留まったラザに話しかけた。
「どうして残ったの? 囮って言ってもまともに戦うならラザの方が良かったんじゃない?」
 すると彼はテドンから追ってきていたモンスターを、じっと睨みつけながらこう呟く。
「二人なら、リノとトラッドの方が適任だ。息がぴったりだからな……それに」
「それに?」
 聞き返すナギサに彼はしばらく間を置いた後、こう答えた。
「いや……話は後だ」
「…………それもそうね」
 少し釈然としない様子の彼女だったが、最もだと思ったらしく、すぐに呪文の準備に取り掛かった。
(今、言うべきじゃない……)
 ラザは自分の中に息づく想いを振り払い、モンスターの動きに集中する。
 当然、ナギサはそんな彼の気持ちに気付かないまま、ゆっくりと呪文の構成を練り始めるのであった。


 それから数分後。リノとトラッドはすでに戦闘状態へ入っていた。
 圧倒的な数の差だが、二人は未だ大きな怪我もせず、更に何匹かのモンスターを倒している。
(……ラザの言う通りね)
 ナギサは横目で状況を確認し、胸中でひっそりと呟くと、目を閉じて再び呪文に集中し始めた。
 頭の中で描かれる、複雑ながらも美しさを伴った光の軌跡。
 白い指先は、寸分の狂いも許さずに構成をなぞっていく。勿論、それは誰にも見えない幻想的な風景。
(まずは……一つ)
 アーニーのモシャス程ではないが、彼女が好きなせいか、一番使用頻度が高かった呪文。
 だから、誰よりも早く正確に唱えれる自信があった。勿論、彼女に呪文を教えた祖父を除いて、ではあるが。
(でも……まだ足りない)
 このまま呪文を放てば、おそらくモンスターの群れを全滅させる事は可能である。
 ただし、前か後ろかのどちらか一方だけで、しかも一度しか唱える事が出来ない。
 つまり、この状況を切り抜けるには至らないという事である。
(……ゆっくりと……落ち着いて……)
 テドンの村ほど濃い瘴気ではないが、ナギサの集中力を削ぐには十分な密度。
 予測していた彼女は、何度も自分の心にそう言い聞かせては、二つ目の呪文に取り掛かる。
 先ほど組み上げた構成をその場に留めたままで。
 それはあまりにも美しく、今にも壊れそうなほど繊細でありながら、恐ろしい力を内に秘めた光の軌跡。

 息が詰まりそうなほどの緊張感と、足音を殺して近づいてくる死への恐怖が、彼女を飲み込もうとする。

 額から頬を流れ落ちる汗を拭う余裕もなく、身体は自分の意思とは関係なく重さを増していった。
 ナギサに今出来るのは、ただ呪文を紡ぐ事だけ。
 曖昧に感じる時の流れの中、更に数分が過ぎた頃、彼女の碧眼が強い光を携えて開く。
「ナギサ……?」
 いつになく鋭いナギサの視線に、ラザが確かめるように呟くと――――彼女はぎこちない動作でこくりと頷いた。
「……リノ! トラッド!」
 喉の痛みが伝わってくるような声で彼が叫ぶと、交戦中の二人はハッとなり、全力でその場から離れようとする。
 数秒後、戻ってきた二人の乱れた呼吸を肌で感じ取ったナギサは、両掌をそれぞれモンスターの群れに向けた。
 そして彼女はこう口にする。不安も緊張も、何も感じさせない凛とした音色で。

「イオナズン!」

 その声に呼応して空気全体が振動すると、ナギサ以外の誰もが頭上を見上げた。
 瞬間、二つの禍々しい塊の中心で、凄まじい衝撃と音を伴った光が弾け、辺りを駆け巡る。

 …………………

 漂う粉塵が風によって流れ去っていき、抉れた地面が徐々にその姿を晒していく。
「……凄い……な」
 ナギサの唱えたイオナズンの威力を物語るその風景に、呆然と呟くラザだったが、
「でも……どうして呪文が2回唱えられたんだ?」
 すぐに気づいた疑問を投げかけた。
「………………」
「ナギサ!?」
 だが、彼女は返事も出来ないまま、その場に崩れ落ちる。
 それをラザが慌てて抱きとめると、疲弊しきった声がぽつりぽつりと零れ始めた。
「……ちょっと無理……し過ぎたかも……」
「ナギサ、大丈夫か!?」
 彼はとりあえずナギサを土の上に寝かせると、水袋を出して彼女の唇に近づける。
 すると彼女は袋に手を添えてから、一度だけ大きく喉を鳴らした。
「ふぅ……一回限りなのは……呪文を思い出す事と……唱える事だけよ」
 そして少し落ち着いた様子のナギサは、律儀にラザの質問に答え始める。
「だから……二つなら……もしかして……って思って…………」
「ナギサ……?」
 つまり彼女は、思い出した一つの呪文を二つ同時に放ったのである。
 どうやら構成を組み上げただけでは唱えた事にならない、と半ば確信を持って試みたようだった。
 しかし、そこで不意に言葉は途切れ、彼女はかろうじて持ち上げていたらしい瞼をゆっくりと下げる。
 心配したラザは身体を揺さぶると、
「…………言っとくけど、まだ死んでないわよ」
 ため息の入り混じった返事が返ってきた。
「……良かった」
 彼は震えた声でそう呟くと、瞳から溢れた涙をナギサの顔に一つ落とす。
「別に泣かなくても……」
 目を閉じたままの彼女の一言に、ようやく自分が泣いているのだと気付いたラザは、少し照れながら服の袖で自分の目を拭った。
 ナギサは予想外だったのか、複雑な表情のままそっぽを向く。
「……とりあえず船に戻るか」
 その時、立ち上がったトラッドがそう言うと、ラザはナギサと地面の間に手を入れ、何の躊躇いもなくお姫様抱っこをした。
「ちょ、ちょっと……何を……っ!?」
「この方が身体に良いんだろ?」
「誰がそんな――――」
 そこで彼女は、昔自分がトラッドにそう教えた事を思い出す。
 おそらく彼からその話を聞いていたラザは、嘘だと分かった上でこうしているのだろう。
 その証拠に、ラザの声は何処か楽しそうであった。
「……次はないわよ」
「それに越した事はない」
 リノとトラッドがいる手前、ナギサは素直に従うしか出来ず、珍しく悔しそうな顔をしている。
 そんな中、四人揃って歩き出そうとした時、先頭のトラッドは急に足を止めると、まだ微かに残っている粉塵に目を凝らし始めた。
「……トラッド?」
 気になったリノが呼びかけるが、彼からの返事はない。
 そこで彼女も同じ方角を見つめてみると、曖昧な形の影が頼りなげに揺らめいていた。
 だが、それが何かを理解する前に影は大きく横に膨らんでいく。
「まさか……まだ……!?」
 呆然とするトラッドの声に答えるように、先ほどより一回り小さくなったモンスターの群れが現れた。
 とは言うものの、まだ数が多い事には変わりない。
「……残ったのは前だけ、か」
 ふとテドンの方角を見たラザが独り言のように呟く。
「失敗……だったの……?」
 彼に抱きかかえられたまま、落ち込んだ声を洩らすナギサ。
 確かに漂う瘴気や無茶な呪文の唱え方など、いくらでも理由は考えられる。
「いや、これでも十分……だから、気にするな」
 唯一その呟きに気づいたラザが気遣いの言葉をかけるものの、彼女の表情は変わらなかった。
「…………」
 モンスターの群れを睨みつけていたトラッドは一旦振り返ってから、とりあえず今の状況をもう一度確認する。
(まず、ナギサは無理だ……それにラザも)
 三人で戦う事は可能だったが、いくらなんでも満足に動けない彼女を放っておくわけにはいかない。
 つまり、今戦えるのはじっと前を見ているリノと自分だけ、という事になる。
(どうする…………どうすれば、いい……?)
 少しでも冷静さを保ち、持てる知識を総動員させても、何も思い浮かばない。
 それどころか、最悪の状況が脳裏を掠めては過ぎ去っていく。
「…………っ」
 トラッドの口から諦めの言葉が吐き出されようとした時だった。

「私が……行く」

 一度もこちらを振り返ろうとしなかったリノが、覚悟を決めたようにそんな言葉を口にした。
「リノ!」
 トラッドは一人歩き出した彼女を止めようと右手を掴もうとする。
「大丈夫、だから……!」
 だが、いつになく強い口調で返事をするリノの細い腕は、するりと彼の手を振り解いてしまった。
 そして彼女は鞘に収めていた鋼の剣を再び抜きさると、
「リノ……!」
 彼の静止の声も聞かず、真っ直ぐにモンスターの群れへと立ち向かっていった。



 少しでも距離を空けようと全力で駆け出したリノは、数秒も経たない内にモンスターの群れに辿り着く。
 現れたのが一人なのを疑問に思ったのか、最初はモンスターにも微かな戸惑いが見られたものの、それは一瞬の事だった。
 すぐさま奇声を上げてシャーマンが飛び掛ってくると、リノはわずかに走る速度を緩め、頭の中で慎重に間合いを計り始める。
 そして相手を出来る限りひきつけ、空中から槍を振り下ろそうとしているシャーマンの胴体目掛けて鋼の剣を真横に閃かせた。
(まずは一匹……いや)
 掌に伝わる確かな感触に胸中でそう呟いた彼女だったが、即座にその考えを打ち消す。
 何故なら、引き裂かれたシャーマンの向こう側より、二匹のヘルコンドルが迫ってきている事に気づいたからである。
 剣を振り抜いた姿勢だったリノは体勢を立て直そうとするが、死角を突かれたせいか、とても間に合いそうにない。
「リノ! 危な――――」
 その時、彼女の三歩後ろぐらいまで追いついていたトラッドが、背中の腰の辺りに差していたブーメランを取り出しながら叫ぶ。
 しかし、モンスターに集中していて気づかないリノは、何を思ったのか空いた左掌をヘルコンドルに向けた。
(間に合うか……!?)
 そんな彼女の不可解な行動に、疑問を感じる余裕もなかったトラッドが、正にブーメランを投げようとした瞬間。
(私はきっと……違う……)
 胸中に儚い声を響かせながら、怯えた表情のリノが小さな声で言葉を紡ぐ。


「……ベギラマ」


 弱々しい声とは打って変わって、凄まじい熱波が産声を上げた。
 それも呪文を使えないと言っていたリノの掌から。
「えっ……?」
 目の前の光景にトラッドが驚きの声を洩らした頃には、もうヘルコンドルが燃やし尽くされ、炭と化した後だった。
 一方、まだ彼の存在に気づいていないリノは、十歩ほど先の若干動きが鈍くなったモンスターへ再び左掌を向け、
「イオラ」
 間髪入れずに呪文を唱える。その早さはナギサの呪文とは比べ物にならない。
 いつの間にかブーメランを落としていたトラッドの眼前。力を持った美しい光が膨大な熱量と共に弾ける。
 直後響いた爆発音にモンスターの悲鳴が混じっていたが、彼の耳には一切届いていなかった。
(……それより……!)
 ようやく我に返ったトラッドは、彼女に怪我が無いかを確かめる為におそるおそる歩き出すと、声をかけながら小さな肩に手を乗せる。
「リノ、大丈夫――――」
 だが、気づいていなかったリノは彼をモンスターだと勘違いしたらしく、乱暴に手を振り払って素早く距離を取ると、すぐさま殺気と鋼の剣を向けた。

 何もない空間で二人の視線が絡まり合う中、トラッドは呆然と、何処か怯えにも似た声で彼女の名前を呟く。

「リ……ノ……?」
「あっ……」


 彼のトパーズ色の瞳が映していたのは、紛れもなくリノの顔。
 しかし、トラッドの顔が映る彼女の瞳は――――いつもの深い黒とは違う、まるで血塗られたような赤だった。



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