第60話 「戦場を駆ける狂気」


「リノ……その目は……?」

 月も星も、雲でさえも見えない空の下。漂うのは、人に害を為す瘴気のみ。
 呪文によって巻き起こった粉塵が舞い散る中、トラッドは戸惑いと不安が交錯した口調で問いかける。

 彼女の赤い瞳をトパーズ色の瞳に映しながら。

 ラザの持つ髪と目は、例えるなら力強い生命の輝きを連想させる炎のような赤。
 だが、リノの瞳は少し黒が混じった、不吉な血の赤。誰かが傷ついた時に生まれる、それだ。
 それはかつてトラッドの身体から流れ落ちた事もあり、彼女の心は今でも鮮明に思い出せる。
 決して飲み込まれたくない、深い悲しみと共に。
「………………」
 リノは何も答えない。モンスターにも通ずる禍々しい光を放つ瞳に、似つかわしくない儚さを滲ませるだけで。
 現在、場を支配しているのは、気まずい沈黙のみだった。
「あ、あの……怪我とかは無――――」
「………………いで」
 だからトラッドはなるべく平静を装って、手を伸ばしながら話を変えようとした。が、それを遮ったのは、俯いたまま首を横に振る彼女の小さな声。
「……え?」
 聞き取れなかった彼がおそるおそる問い返すと、リノは緋色の瞳から涙を零しながら、途切れ途切れにこう言った。

「お願いだから……見ない……で……!」

 震えた声が紡ぐのは、怯えにも似た懇願の言葉だった。
 初めて目にした彼女の強い拒絶に、触れようとしたトラッドの右手は不自然な形のまま止まってしまう。
 先ほどから一向に重ならない視線が、より彼の不安に拍車をかけていく。
「リノ――!?」
 彼女の名前を呟こうとしたその時。いつの間にか明瞭になった視界に残ったモンスターたちの姿が浮かび上がる。
 トラッドの驚いた表情からそれを察したリノは、地面に向けていた鋼の剣を持ち上げ、再び戦場に身を投じた。
 そして次々と襲い掛かってくるモンスターを剣で、時には呪文で容赦なく屠っていく。
 そこにいつもの穏やかさは微塵も感じられない。
「……リノ……」
 ようやくトラッドは彼女の名前を口にするが、それは誰の耳にも届く事は無かった。



(見られた……トラッドに……見られた……!)
 モンスターの返り血に染まりゆくリノの身体。青かったはずの旅装束に、元の色は殆ど残っていない。
 しかし、その姿は皮肉にも、異常なまでに殺気立った赤い瞳と調和していた。
「あああああ…………っ!!」
 喉が張り裂けそうな程の悲痛な叫びが空に吸い込まれる度に、舞い上がる鮮血が彼女を赤く塗り潰していく。
 しかも斬っただけでは満たされないのか、リノは既に絶命した無数のモンスターの死骸に、隙を見つけては何度も何度も剣を突き立てていた。
 まるでやり場のない悲しみをぶつけるかのように。
 その姿に戦慄すら覚えたトラッドは、幾度と無く背筋を凍らせる。
「トラッド……!」
「……ラザ」
 その時、ラザが彼の背中に声をかけた。
 ナギサを抱きかかえていたため、少し足早に歩いたものの、今ようやく追いつけたらしい。
 そんな二人の顔には冷たい汗が浮かんでいたが、流れ落ちる間もなく乾いていく。
「一体……何があったんだ?」
 ラザは呆然となっているトラッドと、狂気に取り憑かれているリノを交互に見やりつつ、問いかけた。
「……分からない……」
 だが、彼は首を横に振りながらそう呟くだけで、戸惑う瞳は何処を見るでもなく彷徨い続けている。
「でも、リノちゃんが呪文を唱えてから、目が赤くなったのは確か――――」
「それは……分かってる……!」
 震えながらも、いつになく強い口調でナギサの言葉を遮るトラッド。
 その様子に、彼女は極めて冷静を装って尋ねた。
「じゃあ、何が分からないの?」
「…………リノなのに」
「何?」
 聞き返すナギサに、彼はやはり目を合わせないまま、必死に言葉を紡ぐ。

「無愛想だけど本当は優しくて……これまでも、今だって……助けてくれようとしているのに……大切な仲間なのに……どうして俺は……!!」

 苦しんでいるリノに、何も言えなかったのだろう。
 それどころか恐怖すら感じてしまい、それを隠す事も出来ずにぶつけてしまった。
 最後の言葉は音になる事は無く、代わりに透明な雫が地面を濡らしていく。
「だったら……トラッドが止めてあげて」
「え?」
 不意に口調が変わったナギサに、彼は涙を拭うのも忘れて顔を上げた。
「本当だったら私が行きたいぐらいだけど……この状態じゃ、それも無理ね」
「ナギサ……」
「だから、代わりに……支えてあげて」
 彼女はトラッドから顔を逸らすと、消え入りそうな声でそう告げる。
「…………」
 それを受けた彼は何も返事を返さなかったが、ブーメランを握り直すと走り出していった。
 リノが一人でモンスターと――――そして自分とも戦っている場所へと。
「……らしくないな」
 駆け出したトラッドの背中を見つめながら、ラザは自分の胸に顔を埋めているナギサにぽつりと呟く。
「そうかしら?」
「いつものナギサなら這ってでも行く気がしたから」
 それに対して彼女は、ラザの首の後ろに手を回し、ぎゅっと力を込めてからこう返事をした。
「……何だかんだ言って、トラッドが一番だと思ったのよ」
「…………そうだな」
 会話はそれっきり途切れてしまったが、二人を心配する気持ちは何も変わらなかった。


 何匹もの死体が連なり、周囲には小さな山がいくつも築かれている。
「はぁ……はぁ……!」
 肩で息をするリノの視界の端に、箒に乗った魔女の姿が入ってきた。
 その掌に揺らめいているのは、今正に解き放たれようとしているベギラマの炎。
「くっ……!」
 しかし、彼女が殺気を宿した赤い瞳を向けると、魔女の手にあった炎が消失し、身体は箒ごと地面に落下する。
 効果から推測出来る呪文はマホトーン。だが、リノが唱えた形跡はない。
(やっぱり……私は……)
 普通、呪文というものは構成を練り、その名前を口にする事で初めて完成するものである。
 しかし、彼女にはその一番実戦で行うのが難しいとされる、構成を練る時間が存在せず、一瞬で呪文を組み上げる事が出来た。
 更に魔封じの呪文に関しては、赤い瞳に意思を込めるだけで発動させる事が出来る。
 何故かは分からなかったが、少なくとも人間には不可能だという事だけ、リノは理解せざるを得なかった。
 そんな事を考えながら、彼女はじたばともがき、逃げようとする魔女に止めを刺し、周囲に視線を巡らせる。
 無意識の内にトラッドたちがいる方向は見ていなかったが。
(もうモンスターは……いない、か……)
 まだ潜んでいる可能性はあるので油断は出来ないが、今の所はもうその姿は見受けられない。
(……いや……私が……そうか)
 だが、すぐに自分を数に入れると、悲しそうに笑った。
 リノの心を占めるのは、トラッドたちを助ける事が出来たという安堵と――――その彼らと顔を合わせる事への恐れ。
(この後……どうすればいいんだろ……)
 頭によぎるのは呆然とした彼の表情。そこには確かに恐怖が滲み出ていた。
 モンスターと戦うのに必死だった間は忘れていられたが、こうして思い出してしまった今、心は張り裂けてしまいそうな痛みを訴える。
 ふと自分の手の中にある鋼の剣が目に入り、いっそこれで胸を貫いてしまおうかとも考えたが、まだ安全と決まったわけではないため、それも出来そうにない。
 その時、彼女の眼前に広がる荒れ果てた風景が、ぐにゃりと無音で歪み始めた。
「え……?」
 ゆっくりと膨れ上がっていく影と殺気。
 呆然となっていたリノが言い知れぬ不安を感じ、頭で考えるよりも早く後ろに飛び退いた瞬間。

 たった今までいた場所を、身体よりも大きな棍棒が駆け抜けていった。
「なっ……!?」
 何もない空間から姿を現したのは、その大きな棍棒を軽々と振り回す程の巨大な体躯を持つモンスター、トロルだった。
 今の一撃で仕留め切れなかった事に舌打ちをしたような素振りを見せた後、二つの血走った目をリノに向ける。
「……メラ!」
 彼女は相手が迫って来る前に左の掌を掲げ、少し焦りの混じった声で呪文を唱えた。
 紡がれた小さな炎の玉が、トロルの顔で爆発したのを確認した後、疲れた身体を半ば引き摺るように走り出す。
 そして、鋼の剣を両手で握り締めると、渾身の力で腹部を一閃した。
 直後、辺りに響き渡るのはトロルの口から洩れた痛々しい叫び声。
(後……もう一撃……!?)
 リノが止めを刺す為に、再び剣を振るおうとした時だった。
「……っ!?」
 傷口はぼこぼこと耳障りな音を立てて、あっという間に塞がってしまう。
 更に立ち向かおうとした彼女に狙いを済まして、トロルは棍棒を振り下ろしてきた。
「くっ……!」
 リノは前に動き出していた身体を無理に止めて、大きく右へと跳躍する。
 風を切る音が耳元を掠めた瞬間、固い音が地面から鳴り響いた。
(……再生するのか)
 額に浮かぶ冷たい汗を拭うリノの脳裏に、一度も使った事がないある呪文の構成が描かれる。
(なら……!)
 それからモンスターの群れを相手にしたと思えない程の敏捷な動きで、彼女はトロルとの間合いを広げると、剣を鞘に納めて構成を練り始めた。
 今まではその行為を必要としなかったが、この呪文だけは何故かそうしなければ唱える事が出来ない。
 リノはその事に、特別な理由と未知の恐怖を感じていたため、決して思い出そうとしなかった。
(………………っ!)
 身体中の細胞を駆け巡る痺れにも似た、何処かで味わった事のある痛み。
「リノ……!」
 その時、ようやく辿り着いたトラッドの叫びが空にこだまする。
 しかし、そんな彼の声も、唸り声を上げて襲い掛かってくる棍棒にも、彼女は気づかなかった。
 次の瞬間、リノは赤い瞳を開くと、悲痛な声で完成した呪文の名前を口にした。

「……ライデイン!」

 月も星も見えなかった空から、一筋の稲妻がトロルを直撃し、激しい音と閃光を辺りに撒き散らす。
 巨体からぶすぶすと焦げた音と嫌な匂いが産声を上げ、周囲に漂い始めていたが――――
「ぁ……ぅ……っ!?」
 全身が引き裂かれそうな痛みに襲われていた彼女には気にかける余裕すらなく、自分自身を抱き締めながらその場に崩れ落ちてしまった。
「リノ!」
「あ……」
 苦しむリノの身体を、柔らかな温もりが包み込む。
 かろうじて開いていた瞳から見えたのは、潤んだトパーズ色の瞳から零れ落ちた涙だった。
 途切れようとする意識の中、彼女は小さな笑みを浮かべながらこう呟く。

「……無事、で……良かっ……た……」

 いつになく穏やかな言葉を紡ぎ終わると、リノは静かに瞳を閉じた。
「リノ……?」
 身体を揺さぶるトラッドの耳に聞こえてきたのは、微かな寝息。
「……良かった……でも」
 生きている事に安堵するものの、まだ安心は出来ない。彼はすぐに軽い彼女の身体を自分の前で抱きかかえた時、
「トラッド!」
 呼ばれた声に反応して振り向いた。
 そこにいたのは、ラザの肩を借りて歩いてくるナギサ。どうやら歩けるぐらいには回復したようである。
「リノちゃんは?」
「……今、眠ってる」
「そう……だったら、急ぐわよ」
「え?」
 彼女は呆然となっているトラッドに構わず、懐から取り出したキメラの翼の宝石を自分の額に当てる。
「今なら大丈夫なはず……」
 目を閉じたままのナギサの声を耳にしながら彼が空を見上げると、今まで無かったはずの月と星が一面に広がっていた。
「でも、何処へ――――」
「いいから、早く!」
 トラッドは行き先も分からないまま手を握ると、彼女は慌てた様子でキメラの翼を空に放り投げる。
 そうして四人の姿は、まだ瘴気の漂っているここから、遥か彼方へと飛んでいくのであった。



「……何かあったのかしら」
 ここはテドンより遠く離れた島国、アリアハン。リノの生まれ育った場所でもある。
「………………」
 眠っていた彼女の母親メリルは、妙な胸騒ぎに目を覚まし、気を紛らわせようと紅茶を淹れた所だった。
 落ち着く香りが部屋中に広がり始めた頃、メリルは玄関からの物音に気づいてハッとなる。
「……何かしら?」
 夜遅くに誰かが訪ねて来る事は滅多にない。
 彼女は気のせいだと思い、椅子に座ろうとしたが、再び鳴り響くノックの音に玄関へ足を向けた。
 そしてわずかに警戒しながら、そっとドアを開けると、
「……リノ……?」
 旅立ったはずの自分の娘が、銀髪の男に抱きかかえられている。
 その後ろでは金髪にウサギの耳を付けた女性と、赤く長い髪を持った男が立っていた。
「あの……夜分遅くすいません……」
「あなたたちは……?」
 リノしか見覚えのないメリルは、緊張した様子でおそるおそる問いかける。
「……リノと一緒に旅をしてる仲間です」
「え……?」
 銀髪の彼が言った言葉に彼女は驚きを隠せなかったが、
「……良かったら……どうぞ」
 と一言だけを口にして、リノに似た笑顔で彼らを招き入れる。
 その行動に今度は三人が驚いたが、軽く頭を下げてから家の中へと足を踏み入れるのであった。


「どうぞ」
「ありがとうございます」
 椅子に座ったトラッドたちはそれぞれ自分の名前を告げ、メリルもそれに倣う。
 しかし、彼女は疲れているトラッドたちの顔が気になったのか、台所へ行くとトレイに紅茶を三つ乗せて戻ってきた。
 そしてテーブルを取り囲んで座る三人の前に、淹れたばかりの紅茶をことりと置き、メリル自身も椅子に座る。
 それからソファの上で横になっているリノを見ながら紅茶を少し飲むと、ようやく口を開いた。
「えっと……トラッドくん、だったかしら?」
「はい」
「どうしてここへ?」
 旅に出たはずの娘が帰ってきた事もそうだが、夜遅くにこうして尋ねてきた理由も見当がつかない。
 もし旅先で怪我をしても、治す方法いくらでもあるはずだからである。
 そんなメリルの質問に答えたのは――――まだ紅茶に手をつけていないナギサ。
「……リノちゃんの事で訊きたい事があるんです」
 ナギサがここを訪れようと思ったのは、リノの苦しみを取り除く方法を母親である彼女なら知っているかもしれないという理由だった。
 せめて原因が分かれば、どうにか出来るかもしれないと考えたからでもある。
「リノ……の?」
 一瞬、それが何の事か分からずに聞き返した彼女だったが、すぐに思い当たる節があったのか、確信めいた口調で再び問いかける。

「……赤い瞳の事ね?」

 その言葉を受けて、3人はほぼ同時に頷いた。
 するとメリルは申し訳無さそうに、もう一度リノの寝顔を見ると、

「……あの子がまだ生まれる前……私がオルテガと旅をしていた時の事になるわ……」


 ぽつりぽつりと――――まるで自分の罪を告白するように、話を始めるのであった。



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