第61話 「明かされる傷跡と最後の願い」


「旅の途中……私は子供を身篭ったの」

「それが……リノ……?」
「ええ」
 ラザの質問にその時の事を思い出したのか、メリルは嬉しそうな顔を浮かべたが、また表情を曇らせてしまう。
「でも、私はすぐあの人に話さな……いえ、話せなかったの……」
「どうしてですか?」
 愛する人との間に子供が出来たのなら、喜んで話したくなるような気がする。
 数回だけそんな光景を見た事があったせいか、そう考えていたトラッドは先ほどの様子から彼女も例外ではない、と思いながら問いかけた。
「襲い掛かってくるモンスターから、私を守りながら旅を続けてくれるあの人に告げる事が出来なかったの……だから、せめて何処かの村に着いてから、って……」
 しばらく間を置いてから、メリルは自分の膝の上にあった手をぎゅっと握り締めてから、再び口を開く。
「それから……辿り着いたのは、バラモスに滅ぼされた村だった」
「……テドン……?」
 ナギサは驚いた顔で呟いた。まさか彼女の口から、今まで自分たちがいた村が出るとは思わなかったからである。
「あの人から後で聞いたんだけど……その村には普通では考えられない量の瘴気が漂っていたらしくて……身を守る術を知らなかった私は病気にかかってしまったわ」
「…………オルテガさんもですか?」
「いいえ、幸いな事に私だけで済んだけど……その後、生死の境を彷徨う事になったの」
「………………」
「オルテガはそんな私の為に旅を止めて、アリアハンに戻ってくれたけど……どんな方法でも一向に良くなる気配は無かった……」
 その時、メリルの黒い瞳から零れた涙が、紅茶の上に落ちて波紋を起こす。
「でも、ある日……私の身体は何の前触れも無く、突然苦しみから解放されたの」
「治ったんですか?」
 でなければ、今彼女とこうして話をする事は出来なかったはずである。
 そう思ったナギサの問いかけは、ごく当たり前の事であったが、意外にもメリルは首を横に振りながら更に言葉を続ける。
「……私もそう思っていたわ……リノが5歳になるまでは」
「え?」
 彼女は答えた後、潤んだ瞳で自分の娘を見つめながら話す。

「あの時、学校にいるはずのリノが泣きながら帰って来たの――――瞳を真っ赤に染めて」

「呪文を……唱えたからですか?」
 それを目の当たりにしたトラッドが思い出しながら尋ねると、メリルは力なく首を縦に振った。
「授業で唱えたリノのメラは、その場にいた誰よりも強くて、先生たちは大喜びで駆けつけたそうだけど……赤くなった瞳を見て……あの子を化け物と言ったの」
「なっ……」
 容易に想像がつく、けれども全く見た事がない光景にラザは言葉を失う。
 その横で、ナギサは眉間に皺を寄せながら口を開いた。
「おそらく……過去に例がなかった事と……呪文の由来のせいね」
「……どういう意味だ?」

「そもそも呪文には『呪われしふみ』、魔法には『魔の扱いし法』という正式な呼び名があるの。その名が示す通り、元々はモンスターが扱っていたものを、ある賢者が長い時を掛けて研究し、魔力を持つ人間が扱えるようにした……というのがそもそもの始まりなの」

 だが、その説明だけでは誰も理解できなかったらしく、彼女は考える素振りを見せた後、再び言葉を重ねる。
「つまり、人間よりもモンスターの方が強い魔力を持ってるって事よ」
「だが、強い呪文を扱う人間なら他にも――――」
「それに加えて、呪文を唱えた時に何らかの変化があったとしたら?」
「あ……」
 そこでトラッドとラザは、ようやく彼女の伝えようとしている事を理解する。
「あくまで私の知る限りだけど……呪文の影響で身体に変化が起こるという話は聞いた事が無いの」
 一見した所、冷静に振舞っているようにも見えるナギサだったが、碧眼は儚げな色で微かに揺れていた。
「でも、そんな言い方……っ!」
 対照的にトラッドは怒りを隠そうとせず、悔しそうに拳を固く握り締める。
「ありがとう……トラッドくん」
 メリルはそんな彼に精一杯の微笑みを向けながらお礼を言った。
 そして、3人の顔を見回した後、言葉を探しながら自分の推測を口にする。
「きっと……私の中にあった瘴気が、何の抵抗も出来ないリノに……流れ込んでしまった……」
「……元に戻る方法は……無いんですか?」
「………………」
 彼女からの返事は返ってこない。しかし、その沈黙が全ての答えを物語っていた。
 しばらく誰も何も喋れない時間が続く。
 その時、トラッドは初めてリノと会った時の事を思い出した。

(だから……1人だったんだ……)

 木陰から様子を窺っていた彼に剣を向けたのも。
 いくら話しかけても、何一つ答えようとしなかった事も。
 ルイーダが言っていた、誰にも心を開こうとしなかったという事も。
 全て化け物と言われた過去の傷跡が原因だったのだ。

 無数に吐き捨てられた、心無いたったの一言に――――リノは1人にならざるを得なかった。

 彼女は一体どんな気持ちで、町を眺めていたのだろうか。
 本来なら自分も共に過ごしていたはずの、アリアハンの町を。
 人間でありながら、モンスターのように扱われてしまうあの町を、どう感じていたのだろうか。


 それから3人がリノを残したまま、宿へ向かおうとした時。
 トラッドは落ち込んだ表情で見送るメリルに、戸惑った口調で話しかける。
「あの……」
「何、トラッドくん?」
「上手く言えないんですけど……リノが……リノは大切な仲間ですから……その……」
 そこで驚いた彼女から視線を外し、深呼吸をした後で頬を赤くしながらこう言った。

「……そんなに気に病まないで下さい」

 メリルはトラッドの顔を見つめた後、そっと両手で彼の手を包み込むと、
「トラッドくん……これからもリノの事、よろしくお願いします」
 震えながらも優しい声でそう言いながら、頭を下げる。
「……はい」
 少し顔色が良くなった事が嬉しかったのか、彼は小さいながらも強い声で返事を返す。

 この時はまだ誰も気づいていなかった。
 いつの間にか起きていたリノが、先ほどの話を聞きながら声を押し殺して泣いていた事を。
 そして――――その涙に秘められた本当の想いを。


 いつになく肌寒い夜風が辺りの草をざわめかせている中、3人は重い足取りで宿屋へと歩を進める。
「……2人とも、ちょっといい?」
「どうかしたのか?」
 先ほどから何かを考え込んでいたナギサの声に、前を歩いていたトラッドとラザが振り向いた。
「リノちゃんの事なんだけど……トラッド、ノアニールの洞窟に入った時の事、覚えてる?」
「え?」
「泉で休憩していた時の事よ」
「あ……ああ。それが?」
 確かあの時、リノは差し出された水を飲もうとして――――と、そこまで思い出した時、彼はハッとなる。
「まさか……」
「多分、だけど……リノちゃんの身体はあの清められた水を受け付けなかったんじゃないのかしら?」
 彼女には特に慌てて飲んでいたような印象は見受けられなかった。
 だが、そう考えれば辻褄が合うのも事実。
「後……もう一つ。これも推測なんだけど……」
「まだあるのか?」
 今度は先ほどまで聞き役に回っていたラザが、風になびく髪を押さえながら尋ねる。
「最後にリノちゃんが唱えた呪文……あのライデインだけ、構成を練ってたでしょ?」
「……ああ」
 それまでにも何度か呪文を唱えていたが、彼が目にした限りでは、あの時以外構成を練っていなかったように思えた。
「ライデインは便宜上、呪文に分類されてるけど……本来は天に授けられた、魔を払う為のものだって言い伝えがあるの」
「……つまり、勇者であるリノにしか使えないという事か?」
「後、父親のオルテガさんも、かしらね」
「でも、それがどうかしたのか?」
 ナギサは口元に人差し指を当てる。それは彼女が言葉を整理したり、深く考え込む時の癖。
 数分後、話す事が纏まったのか、彼女は碧眼でラザを見据えながらこう問いかける。
「普通の呪文ならすぐ唱えられるのに、どうしてライデインだけ構成を練る必要があるの?」
「……そういう事、か」
 呪文とは本来モンスターの扱っていた魔を司る力。そしてライデインは、勇者のみが扱えるという、言うなれば聖を司る力。
 その事実はリノが人間で、しかも勇者でありながら、その身の中に魔を宿しているという何よりの証だった。
「もしかして……あの時、倒れたのは……!」
「……ええ」
 ノアニールの洞窟での出来事と、今ナギサが言った事を踏まえると、リノはライデインを唱えた反動で倒れてしまったのだ、とトラッドは理解する。
「だから……リノちゃんにとっては清められた物も濃い瘴気も毒になる……その事を覚えておいて欲しいの」
「……分かった」
 トラッドの一言を合図に、3人は再び止まっていた足を動かし始める。
 この日、眠りに就くまで、誰も何も言葉を交わす事が出来なかった。



 アリアハンに来て、2日が過ぎた。特に何事も起きる事無く、ただ静かにひっそりと。
 町の人々は魔王バラモスの影に気づく素振りすら見せず、暖かい太陽と緩やかな風をその身に受けながら、穏やかに過ごしている。
 1人の少女が傷ついている事にも、当然気づく事すらなく。


 太陽が沈み、夜の帳が町を包み込もうとしていた頃。
 テドンの近くに泊めてあった船を取りに行ったトラッドが帰って来る。
(やっぱり……好きになれないな)
 キメラの翼が苦手な彼にしては珍しく自分が行くと言ったのだが、やはりその意識は今も変わっていない。
(……リノ、もう起きたのかな)
 ふと頭をよぎるのは2日前に倒れ、今も眠ったままの少女の事。
 ナギサとラザは、休息も兼ねて落ち着いた様子を見せていたが、トラッドは昨日何度もリノの家を訪ねては様子を聞いていた。
 だが、それは彼がじっとしていられなかっただけであって、他の2人も心配している事には変わりない。
 その証拠にナギサはつい砂糖無しで紅茶を飲んでしまったり、ラザは暇を見つけては剣の手入れに没頭している。
「……よし」
 ちょうど夕食の時間。もしかしたらリノも起きていて、何かを食べているかもしれない。
 そう考えたトラッドは宿の方角へ向かいかけた足を止めて、彼女の家へと走り出した。



「え?」
 数分で辿り着いたリノの家。トラッドはその場で立ち止まり、乱れた呼吸を整える。
「てっきり宿屋に行ったとばかり思ってたけど……」
 それからドアをノックすると、メリルが不思議そうな顔のまま姿を現した。
「行き先は言ってなかったですか?」
「ええ……風に当たってくる、としか……」
 どうやらリノは昼ぐらいに目覚めていたらしく、食事も摂っていたという事だった。
「リノが……行きそうな所……?」
「あの……トラッドくん」
「あ、すいません」
 考え込んでしまった事に謝るトラッドに、メリル少しだけ笑うと、手に持っていた白い包みを渡す。
「これは……?」
「サンドイッチよ。もう夕食の時間だし、良かったらリノと一緒に食べて」
「あ……ありがとうございます。そ、それじゃあ……失礼しました!」
 彼は顔を真っ赤にしながらサンドイッチを受け取ると、訪ねてきた時よりも早く駆け出してしまう。
(そういえば、トラッドくんって、あの人の友達に似てるわね。名前もそうだけど……偶然かしら……?)
 メリルはそんな彼の背中に手を振りながら、ふと遠い昔の事を思い出していた。



 走り出して間もなく、冷静になったトラッドは町の入口で足を止める。
(……もしかして)
 しばらく町を探してみようとも考えたが、少なくともこれまではリノの姿を見かけていない。
 それだけでは判断する材料には乏しいのだが、彼には一つ心当たりがあった。

 それは――――2人が初めて出会った、町を一望出来るあの丘の上。

 トラッドは考えるよりも早く走り始めた。浮かんだ汗を拭おうともせず、ただ必死に。
 呼吸は荒くなっていたが、不思議とそんな事を感じさせない身体。
 彼の心にあったのは、リノが目を覚ましたという喜びと、早く会いたいというささやかな願い。
 その気持ちが生まれる理由を、トラッドは大切な仲間だからと思い込んでいた。
 きっとナギサが見れば、呆れた顔でハリセンを振るうに違いない。
「はぁ……はぁ……っ」
 辿り着いた目的の場所。そこにある大きな木の下には、月の光に照らされたリノが座り込んでいた。
 そして、最後に見た時は赤かったはずの瞳も、いつの間にか穏やかな黒に戻っていた。
 彼は少し息苦しそうな様子で、彼女の名前を呼ぶ。
「……リノ……!」
「トラッド……?」
 呼ばれた彼女は、まさかトラッドがここに来るとは思っていなかったらしく、不思議そうな顔で振り向いた。
 そんな彼は嬉しそうに笑うと、急に重くなった足を引き摺る様にしてリノの隣に座る。
「起きたんだったら、顔ぐらい見せてくれてもいいのに」
「……うん、ごめん」
 視線を外して謝る彼女はいつもの旅装束ではなく、白いシャツにベージュの上着、そしてデニム地のズボンという至って普通の格好だった。
 普段の服装では分からない、細い身体つきが露わになっているせいか、トラッドは訳も分からず少しだけ動揺してしまう。
「あ、そういえば」
「……これは?」
「サンドイッチ。メリルさんが一緒に、って」
「そう、なんだ……」
 すぐ我に返った彼は、先ほどメリルに貰った白い包みをリノに手渡す。
 そうして2人は遅めの夕食を取り始めたのだが、彼女の表情は何処か暗いままであった。


「リノ、身体はもう大丈夫なのか?」
「…………」
「……リノ?」
「え、あ……何?」
 食事を終え、しばらくの間を置いてからトラッドが話しかける。
 リノの表情がずっと沈んだままだったので、彼にはそれがずっと引っ掛かっていたからだった。
「身体、まだ治ってないのか?」
「……もう大丈夫」
「でも、顔色が――――」
 その時、彼女はトラッドの言葉を無理に遮ると、震えた声で問いかける。
「やっぱり……人間じゃないのか?」
「え……」
 思いがけない言葉に彼が聞き返すと、リノは申し訳なさそうな顔で話を続ける。
「……あの時、本当は起きていた……けど……声をかけれなかった」
「あの時、って……まさかメリルさんと話してた時……?」
 意味を理解し、呆然となったトラッドの呟きに、彼女はこくりと頷いた。
「どうして…………どう……して……?」
「リノ……」
 途切れ途切れに紡がれる震えた言葉は、それ以上出てこない。
 代わりに零れ落ちたのは、月の光を受けて輝く涙だった。
「せめて人間じゃ、なくても……モンスターだっ……たら…………こんな……考えな……くて…………済んだ……のに」
 徐々に力を失っていくリノの声に、トラッドはぎゅっと拳を握り締めてこう返す。
「違う……!」
「何、が……?」
「リノは……人間だ……じゃなかったら、こんな風に泣いたり……しない」
「……人間? トラッドと……一緒……?」
「ああ」
 今の言葉に説得力がない事は彼も理解していたが、それでも胸を張って言いたかった。
 深く傷ついているリノに、大切な仲間なのだと伝えたかった。
「トラッ……ド……!」
「……えっ?」

 その時、リノは急に身体を寄せると――――彼の胸に涙でぼろぼろになった顔を埋めた。

「リ、リノ……?」
 突然の事に頭が真っ白になったトラッドは、裏返った声で彼女を呼ぶ。
「ごめん……もう、しないから……これで、最後にする……から……!」
「いや、あの……そうじゃなくて……えっと……」
「……迷惑、だった……?」
 戸惑う彼の様子をそう解釈したのか、リノは儚げな声で尋ねた。
「そんな事……た、ただ、どうしてかな、って……」
 何故か早くなる心臓を抑えながら、トラッドは何とか自分の言いたかった事を口にする。
「分からない……けど……トラッドが、側にいると凄く落ち着いて……嫌な事、忘れられるから……」
 すると彼女も酷く曖昧な言葉で答えを返した。
「……リノ」
 彼は再び、今度は優しい声で名前を呼ぶと、早くなる鼓動をそのままにリノの身体へ自分の身を委ねるのであった。


 それからどれくらいの時間が過ぎたのだろうか。
 2人にとっては短かかったのか早かったのか。それも分からない。
 寄り添って温まった心と身体は、夜風の冷たさすらも感じさせなかった。
 ただ一つはっきりしている事――――それは一向に落ち着こうとしない自分の心臓の鼓動だけ。
「トラッド……」
「……ん?」
 胸でずっと泣いていたリノは、不意に彼を上目遣いで見つめながらこう尋ねる。
「やっぱり……迷惑……?」
「え? な、何が?」
「……さっきから、心臓が早く動いてる」
 トラッドの身体が触れているのは、彼女の頭だけである。
 だから、彼はリノの鼓動も早くなっている事を知らない。
 改めて言われ、トラッドは思い出したように慌て始めると、ぎこちない口調で必死に否定した。
「そ、それは……その……こういうの初めてだから……緊張してるだけで……!」
「……良かった」
 不自然ではあったが、納得したらしいリノは安堵した声で呟きながらまた顔を埋める。
 そんな愛らしい彼女の仕草に、トラッドは胸中で自然とこう呟いた。

(もし……リノが女の子だったら――――)

 無意識に辿り着いた正解に一瞬手を伸ばしかけた彼だったが、激しく首を横に振って、すぐにその考えを打ち消してしまう。
(な、何を考えて……!? 確かに綺麗な顔だけど……リノは男だろ……!)
 そんな想いを知る由も無い彼女は、その動きが気になったのか、
「……トラッド、やっぱり――――」
 申し訳なさそうな顔で話しかけてくる。
「そ、そうじゃないから!」
 トラッドは慌ててその言葉を遮って、今考えた事を忘れようと努力するのだった。


 更に夜が更けていく。
 夜空を泳いでいた月はいつの間にか雲の中に入ってしまい、辺りを暗闇が支配していた。
 トラッドはまだ泣いているリノの髪を、優しく撫で始める。
「あっ……」
「ごめん、つい……嫌だったか?」
「……ううん」
 最初は驚いた彼女だったが、
「……トラッドが迷惑じゃなかったら、もっと撫でて……欲しい……」
 あまりに心地良かったのか、顔を埋めたままそう告げた。
「ああ、いいけど……」
 幾分落ち着いたトラッドはそう呟くと、自分の指を髪に絡ませながら再び優しく撫でる。
 しばらくはそのままだったが、
「……他には?」
 彼は急にそう問いかけた。しかし、リノにはその意味が分からなかったらしく、
「何が?」
 と短く聞き返すと、トラッドは視線を空に向け、照れた様子でこう言った。
「珍しくリノが頼ってくれるから、他に無いのかな、って」
「………………」
 彼女はトラッドの服を握る指に力を入れると、

「もう少し……もう……少しだけ、このままでいても……いい……?」

 やはり遠慮がちな声でそう呟く。
「……ああ」
 彼は髪を撫でる指の動きをより一層丁寧にすると、笑顔で返事を返すのであった。



 しばらくそうした後、2人は少し距離を置いて歩き、町への帰路に着く。
 入口に辿り着いた直後、リノは一足先に家へと帰りいつもの見慣れた旅装束に着替えると、一緒に宿へ行こうとした。
 最初トラッドは折角だから家で眠った方がいい、と勧めたのだが、何故か彼女は頑なにそれを拒否する。
 理由は話そうとしなかったが、彼はリノの意思を尊重し、結局2人とも宿屋で休む事にした。


 穏やかだった夜が明け、暖かい輝きを放つ太陽が昇り始めた頃。
「ん……もう朝か……」
 夜が遅かったせいかトラッドはまだ眠そうな様子で、自分の目を擦りながらゆっくり身体を起こす。
 だが、まだ頭が目覚めていなかったので、顔を洗おうとベッドから足を下ろした。
「え……っと……?」
 立ち上がって、何気に部屋を見回した時、彼は漠然とした違和感を覚える。
 しかし、すぐにその理由を察すると、トラッドは呆然と呟く。
「リ……ノ……?」
 昨夜、彼女は確かに宿屋へと戻り、隣のベッドで眠ったはずだった。
 勿論、それはトラッドの記憶違いなどではない。


 だが、現にそこにいるはずのリノの姿は無く――――床に置いてあった道具袋さえも何処かへ消え去っていた。



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