第62話 「温もりの価値」


「これで……よかったんだ……」

 太陽が昇り始めて、まだ間もない白い空。
 リノは朝靄の残る海を黒い瞳で見据えながら、寂しげに小さな声で呟く。
 辺りにひしめき合っているのは、急な出航の準備に追われる船乗りたちの威勢の良い声。

 だが、その中に――――これまで旅を共にしてきた3人の姿は無い。

 キメラの翼でテドンからアリアハンに向かい、トラッドたちがメリルと話をしている間、彼女はじっとそれを聞いていた。
 毛布を被り、つい零れ落ちそうになる声が響かないように。起きている事を誰にも悟られないように。
 自分の身体を気遣ってというのは分かっていたが、それ以上に彼らと違う事が、人間ではない事が悲しかった。
 そしてリノは漠然と考えていた3人との別れを決意し、こうして1人で旅をする光景を想像して、泣いていたのである。
(……結局、トラッドには言えなかったな……)
 しかし、どうしてもその一歩を踏み出す事が出来ず、彼女は無意識の内にあの丘へと向かっていた。
 昔から1人で過ごしていたあの場所に行けば、決心がつくかもしれないと信じて。
「どうして……来てくれたんだろ……」
 その願いは、偶然にもその場を訪れたトラッドの存在によって、自分の予期せぬ形で叶う事となる。
 本当は彼の前で自分の苦しい胸の内を明かすつもりなんてなかった。
 だが、トラッドの言葉から伝わってきた直向きさに、リノは寄り添って涙を流してしまった。
 そして、申し訳なく思うと同時に、自分の知らない痛みを伴った甘い感情を抱き続ける事を恐れてしまった。
 皮肉にも彼の優しさと温もりは、迷っていたリノの背中を押してしまったのである。
(もう……1人で旅をしなきゃいけない……)
 この時、彼女はまだ気づいていなかった。
 旅立ちの頃、アリアハン以外の何処かで死に場所を求めていたはずの気持ちが、いつの間にか勇者としての使命を果たす事に変わっていた事を。
 そう心変わりさせたのは――――他ならぬトラッドだという事にも。



「やっぱり船は残ってなかったわね……そっちはどう?」
 一方、アリアハンの宿の、自分たちが泊まっている一室に集まる3人。
 リノがいなくなった事に気づいてから、既に2時間が過ぎようとしている。
 万が一の可能性を考えて、昨日トラッドがキメラの翼で運んできた船を見に行ったナギサだったが、予想通り影も形も残っていなかった。
 そんな彼女の問いかけに、今まで町の人たちから話を訊いていたラザも首を横に振る。
「……すまない」
 無言で椅子に座るトラッドを横目に、ラザは暗い表情で頭を下げた。
「ラザのせいじゃないわよ。それに……そうなる前に止めれなかった私にも責任があるんだから」
 だが、ナギサは彼を責めるどころか、励ましの言葉をかける。
 いつもならリノが出て行く時に気づけなかった事を責めたかもしれないが、2人は眠っている間にラリホーをかけられていた。
 確かに油断はあったのかもしれないが、テドンで見た彼女の呪文の威力を思い出す限り、例えナギサでも同じ結果だったに違いない。
「とりあえず……今度は私も町の人に話を聞きに行くわ。それでもダメだったら…………トラッド?」
 再び部屋を出ようとしたナギサだったが、先ほどから一言も喋ろうとせず、今も立ち上がろうとしない彼の名前を呼ぶ。
 しかし、トラッドはトパーズ色の瞳にじっとテーブルの均一な木目を映すだけで、何も答えようとしない。
「……トラッド、聞いてるの? 今から町の人に話を――――」
 そこで、ナギサは少し苛立った様子でもう一度同じ内容の言葉を繰り返したが、

「俺は……行かない」

 今度は最後まで言い終わる前に、トラッドが沈んだ声でそれを遮った。
「……他に何か探す方法があるという事か?」
 呆然となる隣の彼女と同じく一瞬我が耳を疑ったラザだったが、わずかに首を横に振ると、ぎこちなく確かめるように問いかける。
「…………違う」
 だが、トラッドは暗い表情のまま、ぼそりと呟くだけだった。
「じゃあ、どういう意味よ?」
 彼の信じられない一言に、言葉を失ったラザ。
 それをナギサは一瞥した後、いつもより大きくヒールを鳴らしながらトラッドに詰め寄った。
「まさか……探しに行かない、って言うつもりなの……?」
「……ああ」
 彼女の声は小さかったが、そこには確かな怒りが込められている。おそらく言われた彼も、それは感づいているだろう。
 しかし、それでもトラッドは怯む事無く、彼女の言葉を肯定した。
「理由は?」
 当然、納得の出来ない、というよりしたくないようにも見えるナギサは更に問い詰めてくる。
「……リノが1人を望んだのなら……俺にそれを止める権利は無い」

 その時――――乾いた音が一つ、部屋中に鳴り響いた。

 それは彼女が普段のハリセンではなく自分の右の掌でトラッドの左頬を弾いた音。
 ラザは、目を見開いたまま叩かれた頬を押さえようとしない彼の顔に、自身も右の頬を触れながら昔の事を思い返す。
「……いい加減にしなさいよ」
 当然、2人の異なった想いを知る由も無いナギサは怒りに身を任せ、声を震わせながら言葉を紡いだ。
「今まで……今までリノちゃんの何を見てきたのよ……!」
「…………」
「本当にそんな事考えてるの……? リノちゃんが1人を望んでると思ってるの……!?」
「………………」
 それでもまだ何も言おうとしないトラッドに、彼女は唇を噛み締めながら背中を向ける。
 そして隣で事の成り行きを見守っていたラザの肩を叩いてから、
「…………見損なったわ」
 珍しくそう吐き捨てると、ナギサは部屋を後にした。
「……本当に良いのか?」
 立ち去る前にラザが振り返って確かめるように問いかけるが、
「……………………」
 トラッドは最後までトパーズ色の瞳を2人に向ける事は無かった。



「じゃあ、私は西側の人たちに聞いてみるから。ラザは東側ね」
 わずかに部屋を出るのが遅れたラザは、半ば走るようにして早足で歩くナギサに追いつく。
 そうして辿り着いたのは、城へと続いている橋の前。ちょうど町の中央に当たる場所である。
「……その前に聞いておきたい事があるんだが、構わないか?」
「何よ?」
 改まって尋ねる彼に、ナギサはわずかに苛立った様子で問い返した。
「まず……人が冷静さを失うのはどういう時だ?」
「……今聞かなきゃいけない事なの?」
「ああ。少なくとも俺にとっては、だが」
 こうしている間にもリノは遠くへ行ってしまう。そう考えれば時間に余裕は無い。
 しかし、ラザが強気な口調で答えを求めるので、意味が無いように思えてもナギサは考えざるを得ない。
「……大抵は予期せぬ出来事に遭遇した時、かしらね」
 焦りながらも彼女は素早く的確な回答を示す。
 それを受けて、ラザは少しだけ間を置いてから、再び質問を投げかけた。

「なら……トラッドが冷静さを失う時は?」

「え……」
 これで終わりかと思い込んでいたナギサは、咄嗟に意味を理解出来ず、自然と聞き返してしまう。
 すると彼は答えを待たずして、こう呟いた。
「俺も話で聞いただけだが、カンダタという盗賊と関係があるんじゃないのか?」
「それは……そうだけど」
「そのカンダタは、トラッドにとってどういう存在だったんだ?」
「……あ」
 彼女は次々と言葉を重ねられる内にふと気づいた。ラザの質問の意味に。
「兄のような存在……じゃなかったか?」
 正確には、彼はナギサの答えを待っていたわけではなく、こうして気がつくのを待っていた。
 彼女の反応から自分の意図を理解したと感じ取ったラザは、まるで子供を諭すようにゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
「……リノとカンダタでは、考えている事もトラッドが今どう想っているのかも違う。そういう意味では多少異なるかもしれないが、信じていた相手に……言い方は悪いが、裏切られたという点では同じだと思う。だから、もう少しトラッドの気持ちを察してやって欲しい」
「…………私が悪いの?」
「そうは言ってない。ただ……」
「ただ……何?」
 気まずそうに顔を逸らすナギサを、赤い瞳で見据えたまま彼は言った。
「……互いが気遣い合うあまり、すれ違ってるだけだ」
「…………」
 彼女からの返事は無かったが、ラザは風になびく長い髪を右手で押さえながら更に続ける。
「ナギサだって、怒りもあったかもしれないがリノの事を考えているからこそ、トラッドを元気付けようとしたんだろ? だったら、それは悪い事じゃない」
「……随分、冷静なのね」
 ぽつりと呟かれたナギサの声は、何処か感心しているようでもあった。
「…………ナギサやトラッドと違って、一緒に旅をした日が浅いからかもしれないな」
 彼は目を細めて寂しげに言葉を返すと、くるりと背中を向けて町の東側へ足を向けたが、
「ラザ……!」
 いきなり服の裾を掴まれ、一瞬驚いたもののすぐにその理由を察して、こう告げる。
「ああ、俺の話はこれだけだ。時間を取らせてすまなかった」
 しかし、それは求めていた答えではなかったらしく、ナギサは顔を下に向けたまま小さく首を横に振ると、一生懸命な表情で何かを話し始めた。
「む、昔は色々あったし……勿論今でも忘れてない……けど…………それでも今は…………」
「ナギサ……?」
「今は……リノちゃんやトラッド、それにヤヨイちゃんと同じように思ってるんだからね……!」
 意外な告白に戸惑いを隠せないラザだったが、よく見ると彼女の耳は真っ赤に染まっていた。
 あの3人と同じというのは、おそらく大切な仲間だと言いたかったのだろうが、これがナギサの精一杯だというのは真っ直ぐに伝わってくる。
「そう言って貰えると嬉しいな……ありがとう」
 穏やかに、心から嬉しそうに微笑むラザは、ぎこちない仕草で彼女の手を握って、自分の身体から遠ざけた。
 それから少し恥ずかしそうに互いの視線を合わせて頷き合った後、2人は背を向けて歩き出す。
(本当に喜ぶのは……リノを探し出してからだな)
 舗装された路の感触を確かめながら足を動かすラザは、頭ではそう考えていたものの、身体に帯びる熱と口元に浮かぶ笑みを抑える事が出来なかった。



「………………」
 一方その頃、1人部屋に取り残されたトラッドは、じっとナギサとラザが出て行き、今は閉じられている扉を見つめていた。
 トパーズの瞳には確かにその光景が映っているのだが、本当に見えているのか定かではない。
 風が窓を揺らす音にも小鳥のさえずりにも反応しなかった彼だったが、叩かれた頬からじんわりと広がり始める熱によってようやく我へと返る。
(……良いわけなんてない)
 頭の中で繰り返されるラザの問いかけ。
(リノがどう思っていても……本当は……)
 続いて鳴り響くのは、先ほどのナギサの質問に答えた自分の言葉。
「俺だって……本当は……!」
 そして素直な想いを思わず口に出そうとした瞬間。
 トラッドの心と同じく、固く閉ざされた扉が2回叩かれ、返事をする間もなく軋んだ音と共に開かれた。
「……ラザ……?」
 宿屋の通路に立っていたのは長く赤い髪を持った、真剣な表情の彼。そこには不思議と怒りは無い。
 ラザは呆然となっている彼の顔を一瞥した後、無言で側まで歩み寄ってくる。
「良かった。まだ何処にも行ってなくて」
「…………何の用だ?」
「言い忘れていた事を伝えようと思ってな。聞くかどうかはトラッド次第だが」
「………………」
 椅子に座ったまま、すぐに俯いてしまった当の本人から何も言葉は返ってこなかったが、ラザはまるで独り言のように言葉を紡ぎ始める。
「俺がダーマでリノに剣の稽古をつけてもらっていた事……覚えてるか?」
「…………」
「その時、リノが何か悩んでいる事に気付いていた俺は、それとなく尋ねてみた」
「…………それで?」
「結局、リノは何も言わなかったが……」
 少しだけ眉間に皺を寄せるトラッド。
 ラザは自分の知っている彼女の悩みと、彼の思っている悩みが違う事に気がついていたが、敢えてそれを口にはしない。
「俺はトラッドなら受け止めてくれると思ったから、話してみるように言ったんだ」
「え……?」
 再びトラッドを顔が上げ、彼の赤い瞳と自分のトパーズ色の瞳を重ねる。
「……リノはどう答えたと思う?」
「………………」
 ラザは返事も出来ずに考え込んでいる彼に、しばらく間を置いた後でこう告げた。

「……一緒に旅を出来なくなるのが恐い、と言っていた……それも酷く怯えた表情で」

「リノ、が……?」
「ああ」
 今まで聞いた事が無い言葉に、トラッドは信じられないといった顔で彼女の名前を呟く。
「誰よりも1人を望んでいなかったのは……リノじゃないのか?」
「リノ……」
「……俺の話はこれだけだ。これからまたナギサと町で人に話を訊いてくる」
 ラザは最後にそう告げると、足早に部屋から去っていった。
 もし一緒に探すのなら来て欲しいという言葉を飲み込んで。
 それは深く傷ついている自分への気遣いだと、トラッドは感じ取っていた。
「………………」
 再び誰もいなくなった部屋の中で、彼は昨夜の事を――――自分の胸で涙を流していたリノの温もりを思い出す。

 小さな身体をより一層小さくさせて、ただ何かを堪えるように震えていた温もりを。

 何故、彼女は自分に寄り添い、その後姿を消してしまったのか。

 リノがいなくなったと知った直後に脳裏をよぎった疑問の答えを、トラッドは不意に理解する。

(……あれは……合図、だったんだ……)

 不器用なリノが、精一杯の勇気を出して告白した――――言葉に出来ない想い。
 そう気づいたと同時に、押し寄せてくる後悔の波。
 何度も察する機会はあったはずなのに、自分は何の力にもなれず、大切な人を失ってしまったという無力感。
(……いや)
 だが、彼は心に流れ込んでくる負の感情を振り払うように、すぐさま自分の両頬を叩く。
 先ほど叩かれた左頬の方がより熱を帯びていたが、トラッドはさして気にも止めずに立ち上がった。
(今なら……まだ間に合う……)
 それからラザとは対照的に大きな音を立てて勢い良く扉を開けると、何処かへ向かって走り始める。
(違う……! 何としても間に合わせる……!!)
 祈りや希望にも似た、強い決意を胸中で叫びながら。



「ぁ……っ……!?」
 船が陸から離れるのを見届けたリノは、残っていた眠気と纏わりつく倦怠感を消し去ろうと、船室に備え付けられたベッドで横になっていた。
 しかし、1時間も経たない内に目を覚ましてしまい、弾かれたように身を起こす。
「はぁ……はぁ……」
 とても眠っていたとは思えないほど乱れる呼吸と、全身から噴出す嫌な汗。特に暑さも湿気もここにはないはずなのに。
 彼女は気だるそうにベッドから降り、枕元においてあった布で汗を拭いながら服を脱ぐ。
 そして、少し離れた所にあるタンスまで歩いていくと、引き出しを開けて替えの下着を取り出して着替え始めた。
 普段なら扉の向こう側に気を配るのだが、今は1人で船乗りにも入ってこないように言ってあるせいか警戒心の欠片もない。
(どうして……?)
 胸中で呟きながら、心と同じように乱れたシーツを整えるリノ。
 一通りそれが済むと、彼女はまたベッドに潜り込むが、すぐ横にはならずにじっと自分の掌を細めた黒い瞳で見据える。
「……どうして……だろ……?」
 誰もいない部屋に響く小さな疑問の声。ぽたりと太ももに零れ落ちる雫。
「忘れなきゃいけない……のに……」
 リノは昨夜感じたトラッドの温もりを思い出しながら、

「……忘れてしまうのが……恐い……」

 ぽつりとそう呟くと、いつの間にか震えていた自分の身体をぎゅっと強く抱き締めた。


 鮮明に残った、今は悲しい記憶の中の温かさに――――リノはただ身を委ねて、もう一度横になるのであった。



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