第65話 「罪を告白する勇気」


 遥か遠くにあるのは、四方八方を取り囲む壁。
 そこは、単に広いという言葉だけで言い表すには物足りないほど大きな部屋だった。

 リノは緩やかに吹く風を頼りに、更なる深淵へと続く階段を見つける。
 気を引き締め、今度は慎重な足取りで下りていくと、再び死の香りが立ち込める場所へと辿り着いた。
 そして目の前にあった、ちょうど1人分の細い通路を歩いていくものの、邪悪の気配は感じない。
 同じ雰囲気の1階とは全く違い、モンスターからの襲撃はぴたりと止んでいた。
(………………)
 現実と虚構が織り成す曖昧な境界線。
 リノは安堵しながらも、納得のいかない表情で足を動かし続ける。

「引き返せ」

 その時――――誰もいないはずのこの場所に、低くしわがれた声が響き渡った。

「なっ……!」
 誰、という状況にそぐわない問いかけを飲み込み、彼女は険しい顔と鋭い瞳で周囲を見回す。
 当然、誰かの姿も人影でさえも見当たらない。ただ、感じ取れるのはずっと纏わりついてくる死の匂いだけ。
 気のせいかと思い直し、リノが再び歩き出した直後、

「引き返した方がいいぞ」

 再び感情の無い声が耳に突き刺さってくる。
 しかし、今度は言葉が少し長かったせいか、その途中で彼女は声の主の方へと振り向いていた。
「……顔……?」
 そこにいたのは人ではなく、綺麗な壁に埋め込まれた人の顔の彫刻。
 得体の知れない禍々しさを持つその顔は、作り物にも関わらず、2つの瞳から怪しげな光を放っていた。
「っ…………!」
 額に浮かぶ冷たい汗を拭うリノは、無意識の内に一歩だけ後ろへと下がってしまう。
 そんな彼女の怯えた心を射抜くように、顔は言葉を繰り返した。

「引き返せ」

「そんな……事……!」
 返答があるとは思えなかったが、リノは唇から血を滲ませながら返事をする。

「引き返した方がいいぞ」

 気にも止めずに紡がれる冷淡な声。
 いつしか言葉を失った彼女はただ口を動かしながら胸中で音にならない想いを呟いた。
(引き返せるわけなんて……!)
 それと同時に今までは考えもしなかった疑問が頭をよぎる。
(……どうして……そう思うんだ……?)
 それは、一体何故自分はオーブを求めているのか、という根本とも言える問いかけだった。

「引き返せ」

 作り物の顔はひたすら警告を繰り返すが、リノの耳には届いておらず、ただ虚しく洞窟内に響き渡る。
 彼女は視界を閉ざし、自分の胸中から生まれた質問の答えを考え始めた。
(私が勇者、だから……?)
 魔王バラモスを倒して世界に平和をもたらすというのは、自分に課せられた使命。
(……違う……)
 だが、旅立ちの時は全くそう考えていなかった。
 それどころか、アリアハン以外の何処かで死んでもいい、誰かと関わる必要も無い、とさえ思っていたはずである。
「あ……」
 彼女の黒い瞳から透明な雫が零れ落ちた。
 同時に思い浮かぶのは、身体を包み込むのは――――今はもう別れてしまった仲間の温もり。

「引き返した方がいいぞ」

 何度目かの抑揚のない声が向けられる。
 そこでリノは初めて顔を上げ、大きく前に一歩踏み出すと、剣を鞘に納めたまま壁へと叩きつけた。
 辺りに響くのは硬質的な音と、わずかに崩れ落ちた壁の破片が地面で弾け飛ぶ音。
「もう……逢えなくてもいい……けど……」
 彼女は鋼の剣を壁に突き立てたまま、小さいながらも強い意志を秘めた声で言葉を綴った。

「だけど……バラモスを倒すまでは――――引き返さない」

 初めて自覚し、口にした想いは何時芽生えたのか定かではない。
 ただはっきりしているのは、トラッドたちと出会わなければ考えなかっただろうという事。

 そして――――世界の為という漠然としたものではなく、身近な人の為に自分は旅を続けているのだと気がつく。

 リノは迷いの無い瞳で前方を見据え、しっかりした足取りで再び歩き始めた。
 その後、幾度となく彼女の歩みを止めようとする声が耳に入ってきたが、どれも心へ届く事は無かった。



「……オーブを手にしたようじゃな」
 リノが洞窟を出ると、まだ昇っている途中だった太陽はすっかり傾き始めていた。
 道具袋の中には、手に入れたブルーオーブが入っている。
 帰り道は不思議な事に、あれほど濃密だった死の香りはまるで感じられなかった。
 もしかすると襲い掛かってきたモンスターは自分の弱い心から生まれたもので、彼女はそれが試練だったのかもしれないとふと思う。
 今となっては、それが真実かも知る必要があるのかも分からなかったが。
「1人は辛くなかったかの?」
 そんなリノを待っていたのは、まるであの洞窟での出来事を全て見透かしているような神父の問いかけだった。
「……はい。でも――――」
 彼女が頷き、その質問に答えようとしていた時、いつの間にか開かれていた扉より数人の足音が聞こえてくる。
 その後すぐ弾かれたように振り返ったリノの方へ向かってきたのは、

「え……?」

 2度と逢う事は無い、と覚悟して別れた仲間たちの姿だった。

「……どうして……?」
 謝る事も忘れ、リノは独り言のように尋ねる。
 だが、先頭にいたトラッドは返事をせず、顔をわずかに俯かせたまま駆け寄ってきた。
 そして、呆然となっている彼女の前で右手をゆっくり上げた直後――――

 乾いた音が、リノの左頬から辺りに鳴り響いた。

「あ……」
 数秒後、自分は叩かれたのだと理解した彼女の唇から驚きの声が洩れる。
 それを見ていた3人もトラッドの行動が予想外だったのか、目を丸くして事の成り行きを見守っていた。
 長いようで束の間の沈黙の後、
「……どれだけ……どれだけ心配したと思ってんだ……!」
 珍しく怒りに震えた彼の声が、トパーズ色の瞳から生まれた涙と共に床へと吸い込まれていく。
「俺は何も力になれないのか……?」
「そんな事……!」
「大切な仲間だって思ってるのは……俺だけだった、のか……?」
「違――――」
 リノが首を横に振りながら、精一杯否定し、謝罪の言葉を紡ごうとした時、
「え……?」
 まるで支えを失ったかのようにトラッドの身体が突然崩れ落ちた。
「トラッド……!?」
 慌てて抱き止めた彼女の耳に入ってきたのは、安らかな寝息。
「師匠……ずっと寝てなかったんです」
「……ここで追いつけなかったら、もう逢えなくなるっていうのもあるけど……本当にリノちゃんの事、心配してたのよ」
 戸惑うリノに、ナギサとヤヨイがここ数日の彼の様子を簡単に説明する。
「きっと……リノの顔を見て、安心したんだな」
 続けてラザもわずかに微笑んで、そう口にするが、
「……トラッド……ごめん……ごめん……」
 彼をぎゅっと抱き締めて、涙を流しながら謝るリノにはその声が聞こえていなかった。



「……う……ん?」
 夜の帳が町を包む頃、トラッドはベッドの上で目を覚ます。
 視界に映るのは、眠る前と違う木目の整った天井。
「気がついた?」
「え……ああ。でも、ここは?」
「ランシールの宿屋」
 椅子に座り、心配そうなリノの声を耳にしながら、彼は窓の外を見る。
「俺……どのくらい寝てた?」
「……5時間ぐらいかな」
「そうか……」
 彼女はトラッドがゆっくり身体を起こすのを確認すると、
「何か飲む?」
 立ち上がりながら、別人のように穏やかに問いかけた。
「……そう、だな」
 トラッドは戸惑いながら答えると、微かな痛みを訴える頭を押さえながら首を縦に振った。
 しばらくは互いに何も話さず、リノが紅茶を用意する音だけが部屋に響いている。
 この数日間が嘘だと思えるぐらい、落ち着いた平和を感じさせる時間。
 やがて彼女が湯気の立つカップを差し出すと、
「もしかして……ずっと……?」
 トラッドはそれを右手で受け取りながら、まだ眠そうな口調で尋ねた。
「うん……まだちゃんと謝ってなかったから……」
「え?」
 聞き返す彼にリノはゆっくり頭を下げ、神殿で言えなかった言葉を口にする。
「……ごめん……」
 しかし、トラッドは空いた左手で彼女の頭に優しく触れると、
「俺の方こそ……ごめん……」
 紅茶の豊かな香りが漂う中、全く同じ言葉を返した。
「……どうして……トラッドは何も……悪くないのに」
 リノは一瞬顔を上げると、膝に置いた手を震わせながら不思議そうに呟く。
「……リノが苦しんでるのに、何も力になれなかったから」
「そんな事……ない……! あの時、トラッドは全部受け止めてくれたのに――――」
 言葉を紡ごうとした唇を止めようと、彼は自分が叩いたリノの左頬を、頭に置いていた左手の甲で丁寧に撫でた。
「じゃあ、お互い様という事にするか」
 更に追い討ちをかけるように、トラッドはいつもの優しい笑顔で告げる。
「……でも」
 まだ納得がいかない様子の彼女だったが、記憶にしか残っていなかった温もりに言葉を失ってしまう。
「それに……叩いた所、痛くなかったか?」
「………………」
 リノはしばらく間を置いてから首を縦に振ると、
「自分のした事で胸が張り裂けそうなぐらい……痛かった……」
 まだ頬を撫でている彼の手に自分の左手を重ね、緊張した仕草で指を絡ませる。
「と、とりあえず……紅茶貰うな」
 細く柔らかい指の感触に驚いたのか、トラッドは慌てて手を離すと、それが不自然に見えないよう両手でカップを支えながら紅茶を飲み始めた。


 また互いに何も話さないまま時間が流れていく。
「……トラッド」
 その時、リノが空になったカップを棚に戻しながら、意を決したように口を開いた。
「ん?」
「もう身体は大丈夫……?」
 声に似つかわしくない問いに、一瞬きょとんとした彼だったが、
「ああ、まだ本調子じゃないけど」
 すぐ意味を理解すると、素直に思った事を口にする。
 リノは再び椅子に座ると、ぎゅっと拳を握り締めてからこう告げた。
「だったら……少し外に行かないか?」
「え?」
「……その……話したい事がある……から」
 彼女の怯えた声を耳にしながら、トラッドはジパングに向かった時の事を思い出す。
 あの時もきっと今と同じ事を話そうとしていたのだろう、というのは何となく察しがついた。
 今にも涙が零れ落ちそうな黒い瞳。まだ恐怖を感じているのは、声と表情で嫌というほど分かってしまう。
 なのに、自分が聞いても良いのだろうか、と彼は思う。
(でも……)
 しかし、それ以上にどうしても話したいという、彼女の強い意志も感じ取れた。
「…………ああ」
 そう気づいたトラッドは、すぐに考えを改めると、真剣な表情で頷いてからベッドを降りる。
 それから彼は、少しでも気が紛れるのなら、というつもりで再びリノの頭を撫でると、
「じゃ、じゃあ……行こうか」
「……うん」
 恥ずかしそうに手を離し、2人揃ってぎこちない足取りで部屋を後にするのだった。



「リノ、1つ良いか?」
「……何?」
 風が強いせいか、まるで満月が雲から雲へと渡り歩いているようにも見える夜空。
 2人は寒さに身を固くしながら、寝静まったランシールの町を歩く。
「さっきナギサが頑張って、って言ってたけど……どういう意味だ?」
 そんな中、トラッドは出かける前に首を傾げた言葉の意味を尋ねた。
 聞き間違いでなければ、ナギサはリノにそう告げたはずである。
「えっ……と……」
 だが、彼女は少し困ったような顔を浮かべるだけで、答えようとしない。
(……リノも頷いてたし、分からないって訳じゃないよな……?)
 となると、単に言い辛い内容なのだろうか、というのは分かっても何なのかは想像がつかない。
 そうして話が進まないまま歩く事、数十分。辿り着いたのは町の入口。
「あ、いや……ちょっと気になっただけだから」
 気にならないと言えば嘘になるが、無理に聞き出すつもりもない。
 トラッドが冷静を装って告げると、リノはホッとした様子で辺りを見回した。
 つられて彼もその視線を追いかけるが、視界に入ってくるのは夜の帳の中で尚色褪せない緑と乾いた砂地だけ。
「……ここでもいい?」
「え? あ、ああ……」
 リノが風になびく髪を押さえながら、町に背を向けて腰を下ろすと、彼もそれに倣って右隣に座る。
 前方遠くに見えるのは、2人が乗ってきた船が長旅の疲れを癒している姿。
「話したい事って……ジパングに行く時に言ってた時の事か?」
「…………うん」
 トラッドの顔を見ず、落ち着かない様子で返事をする彼女。
 その一言を合図に、リノは勢い良く振り向いたが、
「早く……言わなきゃ、って……ずっと……ずっと思ってて……」
 またすぐに俯いてしまい、震えた声で何とか言葉を紡ぎ始める。
 トラッドは特に返事もせず、ただ彼女の言葉を待った。
 その時、砂の上に置かれていた彼の左手が不意に温かい感触に包まれる。
 それが先ほども重ねた、リノの手だというのは目で確認しなくても分かってしまい、トラッドの心臓が一際大きく跳ねた。
「……トラッド……」
 ようやく顔を上げ、潤んだ瞳で一心にこちらを見つめながら、名前を呼ぶ彼女。
 見ると頬は朱に染まっており、呼吸が少し乱れている。
 そして繋いだ掌から伝わってくる震えに気づいたトラッドは、無意識の内にリノの手を強く握り締めていた。
「あっ……」
 彼女は熱い吐息を唇から洩らすと、その行為に応えるように自然と手を握り返す。
 そして、黒い瞳から涙を流しながら、言わなければいけない想いを――――自分の罪を口にした。


「私は…………本当は――――――――女、なんだ」


「…………え?」
 一言も聞き逃さないつもりで集中していたトラッドは、予想外の言葉に頭が真っ白になる。
「か、隠すつもりじゃなかったけど……段々言うのが怖くなって……どうしていいか分からなくなって……」
 それに気づかないリノは、また視線を外し、途切れ途切れに話を続けた。
(リノが……女の子……?)
 一方、トラッドは彼女の声を耳にしながら、旅の記憶を手繰り寄せ、それが嘘では無いという想いをより一層強くする。
 見れば分かる、細く柔らかな曲線で形作られた身体。時折見せる表情や仕草。
 そのどれもが少女の持つものであるという事に。
「そ、そうか……じゃあ、これからは別の部屋で泊まらないとな」
「……え?」
 いつの間にか静かになっていた彼女に、トラッドは顔を逸らしてわざとらしい口調で提案した。
 まるで何一つ気にしていない、という表情で。
「その……これまで全然気づかなか――――」
「どうして……?」
「え?」
 彼が必死でつなげようと話す言葉を遮るように、リノは静かな、それでいて強い声で呟く。
「ずっと……ずっと騙してたのに……どうして、怒らないんだ……!?」
「リノ……」
 するとトラッドは繋いだ左手はそのままで、ごく自然に彼女の背中へ右手を回すと――――優しく抱き寄せた。
「えっ……」
 突然の事にリノは驚いたが、すぐ我に返って頬を真っ赤にすると、唯一の逃げ道である彼の胸に自分の顔を埋める。
「……俺も気づけなくて……ずっとリノを傷つけてきたのに…………怒れるわけないだろ」
「でも私は――――」
 トラッドは右手で彼女の頭を押さえて、紡ぎかけた言葉を無理やり止めると、

「それに……リノはリノだから……俺はこれからも一緒に旅がしたい」

 精一杯、嘘偽りのない自分の想いを口にした。
「……え?」
 リノは上目遣いで、おそるおそる問いかける。
「また……一緒に旅が出来るの……?」
 その問いかけに、彼は自分の言った言葉を思い返し、
「まぁ、その……リノが良かったら、だけど」
 ふいと顔を右に逸らしてしまったが、照れながらも嬉しそうに返事をした。
(これからも……一緒に旅が出来る……)
 彼女はトラッドの声を頭の中で繰り返し、ようやく心でも理解する。
「トラッド……!」
「へ?」
 するとリノは、今まで自分の胸の前にあった両手を彼の背中に回して、力一杯抱きついた。
「凄く……嬉しい……」
 止め処なく溢れてくる涙は、いつの間にか違う意味へと変わっている。
 その事にも、トラッドの顔が真っ赤になっている事にも気づかない彼女は、これまでにない程幸せそうに微笑んでいた。



 誰もいないランシールの町の側。あれほど多かった雲は、すっかり何処かへ旅立ってしまっていた。
 しばらくして泣き止んだリノは、自分の大胆な行為に気づき、慌てて身体を離す。
 その拍子にトラッドもわずかに彼女から距離を取っていた。
 2人はそれから互いの顔を見る事すら出来ず、何も話さないまま冷たい風に吹かれている。
「そ、そろそろ……帰ろうか?」
 やがて沈黙に耐え切れなくなったのか、リノは熱を帯びた声で言うと同時に立ち上がった。
「あ……いや、ちょっと先に帰ってて貰っても良いか?」
 しかし、トラッドは一向に立ち上がる気配を見せず、申し訳なさそうに告げる。
「……うん」
 意図が読めず、不思議そうな顔を浮かべる彼女だったが、一応納得して頷くと宿へ向かって歩き始めた。
 そうして1人残ったトラッドは、複雑な表情で夜空を見上げる。
(どうして……俺は……)
 頭の中に先ほど取った自分の行動を描きながら、星と掌を交互に見比べた。
 ナギサと初めて出会った時も、女性が苦手だと言った筈で、それは今もあまり変わっていない。
 にも関わらず、彼はリノが女だと知った上で抱き締めてしまった。
 例え無意識だったとしても、何故そうしたのかが分からない。
 それ以前に、今まで同じ部屋に泊まっていながら、男だと信じて疑わず、結果彼女を深く傷つけてしまった。

 ただ、寒い夜風に晒されても尚――――未だリノの温もりが鮮明に残っている事だけは確かだった。

「……ああ、もう……!」
 トラッドは首をぶんぶん横に振って、次々と沸き上がる感情を断ち切ろうとする。
 本当はもっと言いたい事があったはずなのに、あの瞬間全てが消し飛んでしまった、と。
 だが、それだけでは何も変わらないと察した彼は、ふとこれまでの旅の事をもう一度思い出し始める。
「………………」
 しかし、こんな時に限って頭に浮かぶのは、自分が彼女に取った数々の行動。
(……いくらリノの事、男だと思ってたとはいえ……)
 何て事をしてきたのだろう、と今度は落胆してしまう。
 それにやましい気持ちが無かったとはいえ、その度に彼女は一体どんな気持ちを抱いたのだろうか、とも。
(でも……リノが笑ってくれるんだったら……)
 間違いじゃなかった、と彼は気休めのように自分に言い聞かせた。
「さて、と……」
 長い時間を経て、ようやく夢から覚めた心地のトラッドは、くしゃみを1つしてから立ち上がる。
 気がつけば、先ほどまで熱いとさえ思っていた身体は随分と冷え切っていた。
 不意に正常な感覚を取り戻した彼は、はぁっと重ね合わせた掌に吐息をかける。
「あれ……?」
 そして足を一歩踏み出した時、トラッドは自分の心から紡がれる声に気づき、すぐさま歩みを止める。

 リノの言う通り、怒るほどではないにしても、今まで黙っていた事に何らかの負の感情が芽生えてもおかしくはない。
 だが、今自分の胸に宿るのは、鋭いのか鈍いのかも曖昧で――――

(俺はどうして……嬉しいんだ……?)


 理由の分からない心地良さを伴った――――甘い痛みだった。




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