第66話 「騒々しくも大切な日常」


「う……ん……」

 窓に掛けられたカーテンの隙間から差し込む陽光は、まるで木漏れ日の様だった。
 だが、瞼の上に降り注ぐ太陽の光は、目覚ましとしては少し優しくない。
 そんな事を思いながら、トラッドは掌で顔を覆い隠してから、ゆっくり目を開ける。
「朝……か……」
 ランシールに着くまであまり眠れなかったせいか、身体からは疲れが抜け切っていない。
 どうやら思っていたより、自分は休めていなかったらしい、と彼は苦笑いを浮かべる。
 だからこそ、彼は後少しだけ休むつもりで右手を伸ばし、カーテンの位置を直して太陽が当たらないようにしようと試みた。

「お……よう……トラッド」

 その時、右のベッドから明らかに寝起きの掠れた声が聞こえてくる。
 意識が希薄だったトラッドは、それが自分への挨拶なのだと理解するのに数秒の時を要した。
 しかし、気づいてもまだ頭は起きていないらしく、返事をするには至らない。
 一方、声の主は言葉が届いていないと勘違いしたらしく、一度咳払いをした後、今度は少し大きな声で呼びかけた。

「トラッド……おはよう」

「……ああ、リノか。おはよう」
 彼はようやく挨拶を返したものの、口元がシーツに覆われていた為、くぐもった声になっている。
 だが、それはリノも同じだった。だから、一度目の挨拶がはっきり聞こえなかったかもしれない。
 ふとそう思ったトラッドはお互い様か、と呟いて小さく笑った。
 今度はその一言を聞き取れなかった彼女が、不思議そうな顔をしている。
 それからしばらくの間、2人は何も話さず、シーツに覆われていない互いの瞳を見つめ合っていた。
「あの……昨日はよく眠れた……?」
 彼がカーテンの位置を直しそびれたせいか、変わらず降り注ぐ陽光を受けながら、リノはわずかに目を見開いた後で、おそるおそる問いかける。
「ん……まぁ……そ、そういうリノは眠れたのか?」
 まだ眠っていたい、というのが彼の本音だったが、そう言えば彼女は必ず自分を責めてしまう。
 しかし、咄嗟に出た言葉が歯切れの悪いものだと気づき、トラッドは慌ててリノに同じ質問を返した。
「……う、うん」
 だが、彼女の返事もまた歯切れが悪い。
 そこで2人は同時にハッと気づく――――昨夜はすぐ寝つけなかったのだが、互いに相手の事を気遣うあまり、はっきり口に出来なかったのだと。
「そ、そろそろ……準備しようか」
「ああ」
 揃って恥ずかしそうに頬を赤くすると、まずリノがベッドから身を起こす。
 トラッドもそれに倣おうとしたのだが、わずかに残る眠気に、もう少しだけと諦めた。
(何だか久しぶりな気がするな……こういうの)
 そうして準備をする小さな背中を見つめながら、彼はランシールでリノと再会するまでの事を思い返す。


 彼女の身体の事を初めて知ったテドンの村の事。
 涙を流しながら、リノが自分の想いを告白したアリアハンの丘の事。
 そして、その翌日――――彼女が姿を消した事まで。
 こうして無事に再会出来た今でさえ、思い出す度にトラッドは心に穴が開いたような錯覚に陥ってしまう。

(たった数日間なのに……俺は)

 正直なところ、最初は実感が沸かなかった。
 だが、時間が経つにつれて、リノがいなくなったという事実が重く圧し掛かってくる。
 朝起きて、挨拶を交わし、他愛のない賑やかな会話を伴った朝食を終えてから旅に出るという、いつの間にか当たり前になっていた日常。

 それらが全て失われてしまったと知った時、トラッドの心はいとも簡単に折れてしまったのだ。

 自分の父親がカンダタに殺されたと知った時は、まだ憎しみを糧に立ち上がることが出来た。
 しかし、リノがいなくなった時は――――ただ悲しみと無力感しかなく、何も出来なかった。
(本当に……3人には感謝しないとな)
 そんなトラッドを支えてくれたのは、他でもない旅を共にしてきた仲間たち。
 もし1人だったのなら、今頃自分は死んでいたかもしれない。
 過剰な表現かもしれないが、心の底からそう思っている自分がいた。


(でも……本当に色々な事があったなぁ……)
 だが、今は目の前に出発の準備をしているリノがいる。
 きっと当たり前過ぎて気づく事が出来なかった――――かけがえの無い日常がここにはあった。
(さて、と……俺もそろそろ……)
 トラッドがこれまでの旅の事を思い出しながら、ゆっくり身体を起こした時だった。
「………………ん?」
 同時に別の事も思い出したらしい彼は、首を傾げながらそれが何かを考え始める。
「………………」
「……トラッド?」
 一心に自分の姿を映しているトパーズ色の瞳に気づいたリノは、水に濡れた顔を厚手の布で拭きながら名前を呼ぶ。

 ……………………

 必死に何かを思い出そうとするトラッドと、彼が何故自分を見つめているのか分からないリノ。
 会話も無いまま、2人がただ見つめ合っていると、
「……ちょっと待った」
 唐突にトラッドは顔を青くしながら、短くそう呟いた。
「え?」
 当然、言葉の意味が分からない彼女は、きょとんとした表情で訊き返す。
 すると彼は――――今度は顔を赤くしながら、ぎこちない口調でこう問いかけた。

「俺……昨日、ナギサとヤヨイの部屋で寝るように言わなかったか……?」

「……え?」
 昨夜の事を思い出しているのか、今度は少し間を置いてから再び尋ね返すリノだったが。
「えっ、と……そんな事……言ってた、ような……」
 どうやら心当たりがあったらしく、珍しく言葉を濁す。
 それを瞬時に察し、昨夜は部屋の前で別れた事を鮮明に思い出したトラッドは、若干落ち着いたフリをしながら諭す様に話し始めた。
「リノ……その、だな」
「……うん」
「……どう……言ったらいいか」
「…………何が?」
 だが、肝心の言葉が見つからなかったらしく、また彼は黙ってしまう。
 一方、彼女もトラッドが何を言いたいのか分からないので、ただ不安そうにじっと待っていた。

 つまり、彼が何を言いたいのかというと、

「……やっぱり同じ部屋は……まずいと思う」

 男である自分と女であるリノが――――例え違うベッドで何もする気が無くても、一緒の部屋で寝るわけにはいかないという事である。

 しかし、それを受けた当のリノはというと、

「…………どうして?」

 相変わらず不思議そうな顔でそう訊き返すだけであった。

「いや、どうしてって……その……」
 全く予想していなかった彼女の反応に、再び言葉を失うトラッド。
 一体、自分がどんな表情をしているのか、それすらも把握出来ないほど、内心では酷く取り乱している。
「今までだって、同じ部屋だったし……何も問題ないと思うけど」
「そ、それはリノが――――」
 リノの最もな意見に彼は一瞬反論しかけたのだが、突然掌で口元を押さえて言葉を飲み込んだ。
「……何?」
 不自然そのものともいえるトラッドのおかしな行動に、やはり彼女は不安そうに尋ね返す。
「………………」
 彼とてどう言えば良いのか分からないわけではない。
 たがそれは、口が裂けても言ってはいけない事。
(俺がリノを女の子だって気づけなかったんだから……その事を言う資格なんて……)
 とはいうものの、やはりまずいものはまずい。
 更にトラッド自身、リノを女の子と知ってから、どう接して良いのか分からない為、酷く緊張してしまうのだ。
 苦手な事以外にも理由があるように思うものの、はっきりと自分に説明出来なかった彼は、昨夜眠る前も部屋の前で挨拶を交わすのが精一杯だった。
 だから、旅を続ける上でも、ここで必ずきっちりしておくべきなのである。
(でも……どう言えば――――)
 再びトラッドが言葉を探し始めた時――――何の前触れも無く、けたたましい音が近づいてきた。
 それはまるで獲物を追い詰める時の獣のように荒々しい。
「……何だ?」
 振り向いた彼が足音だと気づいた直後、同じく激しい音を撒き散らしながら扉が勢いよく開く。
 思わず扉が壊れたのでは、と錯覚するほど騒々しい音だったが、残念ながら今のトラッドにはそれを気にかける余裕は無い。
「…………ナギサ?」
 目の前に立っていたのは、何故か金髪と呼吸を乱れさせ、今には落ちそうなウサギの耳を左手で押さえているナギサだった。
 何故かは分からないが、今全力でこの部屋まで走ってきたからだろう。
「ちょうど良かった……ナギサからも何か――――」
 それを助け舟だと思ったトラッドは、安堵した様子で話しかけようとする。
 しかし、彼はリノの事で頭が一杯だったせいか、まだ気づいていなかった。
「あんたねぇ……」
「……へ?」

 呼吸を整えながら歩いてくるナギサの右手には、既にハリセンが握り締められており、
「……今までは気づいてなかったんだし、大目に見てたけど……」
 両の碧眼には殺気のような何かが宿っていたという事を。

「ちょ、ちょっと待……これは違――――」
 ようやく自分の考えが間違っていた事に気づき、慌てて誤解を解こうとするが、
「問答無用っ!!」
 それよりも早く、彼女のハリセンが神速で迸り、景気の良い音がトラッドの顔面から宿屋中に響き渡る。
「ん……もう朝か?」
 今の今まで眠っていたラザはその音で目を覚ましたので、幸せにも無惨な光景を見る事無く、清々しい気分で朝を迎えるのであった。



「トラッド……ごめん」
「……こういう事になるから、次からは……頼む」
「…………うん」
 トラッドが目を覚ましてから間もなく、準備を終えたラザとヤヨイも部屋にやってきて、5人で朝食へと向かった。
 おそらくハリセンの打ち所があまりに良かったので、すぐに意識を取り戻せたのだが、
「わ、私も……気をつけ……るわね……」
 一緒に鼻血も出してしまい、ナギサは詰め物をしている彼への笑いを堪えながら、一応形だけ謝罪する。
「……元凶が笑うな」
「だって……あまりに似合ってるから、つい……ね?」
「…………嬉しくない」
 少しは申し訳なく思っている可能性もあるが、見る限りではまるで反省しているように見えない。
 いつもの事と諦めたトラッドは、不貞腐れた表情を浮かべながら黙々とサラダを食べ始めた。
「でも……」
 リノはそんな彼を少し怯えた表情で横目で盗み見ながら、まだテーブルの上で突っ伏しているナギサに話しかける。
「な……なあに?」
 何とか込み上げてくる笑いを抑えながら、彼女はリノの顔を見た。

「さっき、トラッドも言ってたけど……どうして同じ部屋じゃダメなんだ?」

 だが、その一言でぴたりとナギサの笑顔が消える。
「……え?」
 しばらく間を置いた後、彼女と静かに食事を取っていたラザとヤヨイまでもが同時に声を上げた。
 そしてトラッドはというと、サラダがおかしな所に入ってしまったらしく、大慌てで水を飲んでいる。
「そ、それは……ねぇ、ヤヨイちゃん?」
「は、はい、やっぱり……そうですよね、ラザさん?」
「そういう事を俺に……後、2人とも説明になってないぞ」
 最初に部屋で質問されたトラッドほど取り乱してはいないものの、引きつった笑みで話を振り回す3人。
 だが、誰もはっきりと答える事が出来ず、ただ困った表情を浮かべている。
「……トラッド、大丈夫?」
「…………さっきよりは」
 答えが返ってこないので、どうしていいか分からなくなったのか、リノはとりあえず咳き込んでいた彼に水を手渡した。
 質問の行く末と同時に、彼の容態も気に掛かっていたのだろう。
 トラッドは軽く礼を言ってグラスを受け取るが、やはり表情は複雑なままだった。
「……とにかく!」
 その時、意を決したナギサが一際大きな声で、半ば混乱気味の場を無理やりに鎮める。
 3人は呆然とはなっていたものの、彼女がどう言葉を紡ぐのか気になるらしく、視線だけはしっかりと注いでいる。
「えっと……リノちゃん?」
「何?」
 ナギサは一度全員の顔を見回した後でリノを呼ぶと、今まで見せた事もないような難しい表情で、いつになく穏やかに言葉を紡ぎ始めた。
「いずれ分かるとは思うけど……このままだと困るのはトラッドなのよ」
「……え?」
「だからって、リノちゃんの事を怒ってるわけじゃないから、誤解はしないでね」
「…………うん」
 さすがのナギサでも、言葉が見つからなかったらしい。
 しかし、トラッドの名前を出した事は――――彼女を納得させるのに、十分過ぎるほど効果的だった。
 リノはこの時初めて、首を縦に振る。
(……分かってくれたのは良かったけど)
 一方、トラッドは問題が1つ解決した事に、安堵の息を零したものの、
(やっぱりリノはまだ……気にしてる、のか……?)
 彼女の表情に差し込んだ陰りに、1人違う感想を抱くのであった。



「じゃあ……もう行きますね」
 賑やかな朝食を終えた後、ゆっくり昇っていく太陽を背に5人は海岸へと向かった。
 目の前にあるのは、2隻の大きな船。1隻はリノたちが使っていた船で、もう1隻はヤヨイたちの船である。
「……本当に、色々ありがとう」
 トラッドは優しく微笑みながら、すっとヤヨイに手を伸ばした。
 ちなみに鼻血は幸いにも既に止まっている。
 そんな彼の差し出した手が意味する事は――――しばしの別れだった。
「もう師匠ってば……私もこうしたかったって言ったじゃないですか……」
 冗談交じりに言葉を返すヤヨイだったが、2つの黒い瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
 頭ではすぐに別れる事が分かっていたのかもしれないが、それを実感するには至ってなかったのだろう。
「それに私は……また皆さんと旅が出来て……本当に嬉しかったんですから」
 勿論、彼女は今の道を選んだ事を後悔してるわけではない。
 しかし、心の何処かでまた一緒に旅を出来たら、と願っていたのも事実だった。
 その夢が、例え束の間とはいえ、思わぬ形で叶ったからこそ――――余計に別れが辛くなってしまったのである。
「また……逢えますよね?」
「ああ」
「近くに来たら、是非寄って下さいね」
「……そうだな」
「あの……えっと……」
 そこで言葉を詰まらせたヤヨイは、一瞬だけ横目でリノの顔を見て、ふと伝えたかった事を思い出したのか、

「……もうリノさんの事、離しちゃダメですよ?」

 小悪魔っぽく微笑みながら、本人には聞こえないよう小声でそう呟いた。
 この言葉を耳にしたのがナギサやラザだったら、分かりやすい反応を示したのかもしれない。
 だが、トラッドは一体どう受け取ったのか、

「ああ――――もう二度とリノの事、離さない」

 全く照れる事無く、しかも周りに聞こえる強い声でそう返事をした。
 言葉だけ捉えれば、彼の気持ちに何らかの変化があったとも考えられる。
 しかし、もしそういう意味を込めて言ったのであれば、トラッドがこんなにも堂々としているわけがない。
 そう察したヤヨイとナギサ、そしてラザは揃ってため息を吐いていたのだが、
(……トラッド……)
 ただ1人、リノだけは赤く染まった頬と嬉しそうな顔を隠すように俯いていた。


「俺たちも……って、どうかしたのか?」
 ヤヨイを見送った後、気持ちを切り替えて3人の方へ振り返ったトラッドだったが、ナギサとラザの複雑な表情に首を傾げる。
 だが、2人は何も答えず、ただ苦笑いを浮かべていた。
 朝食で受けたリノの質問と同じく、きっと言葉が見つからないのだろう。
 彼はやはり不思議そうな顔をしていたが、気を取り直して今度こそ歩き出そうとした時、
「リノ、具合でも悪いのか?」
 ようやく彼女の様子がおかしい事に気づく。
「……え?」
「あ、いや……ずっと下向いてるから」
「別に何も……それに」
「それに?」
 その時、リノはゆっくり顔を上げて、恥ずかしそうに笑いながらそっと呟いた。

「今……凄く幸せだから」

 きっと今まで見た事が無い、おそらく彼女自身も初めて見せたであろう嘘偽りの無い素直な笑顔。
 それを何の心構えも無く、目の当たりにしてしまったトラッドは、
(……女の子、なんだよな)
 昨夜知った真実を、今更のように胸中で確かめた。
 まだ彼は慣れないせいか、時々忘れてしまう事があるらしい。
 しかし、彼は一瞬見惚れた後で、すぐ穏やかに微笑みながら頷くと、
「……これからもよろしくな」
 先ほどヤヨイにしたのと同じように手を差し伸べる。
「…………うん」
 対してリノは少し間を置いてから首を縦に振り、彼の手をそっと握り返した。


 その握手は、より強くなった絆を改めて確かめ合うかのような行為。


(……リノの手……こんなに小さくて柔らかかったんだ……)
 重なる掌から伝わる彼女の温もりに、
(今度こそ……離さない)
 そう心に強く誓うトラッドだったが――――この時、何故自分の顔が熱を帯びているのかまでは分かっていなかった。






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