第67話 「青空の下の霧」


「ところで、次の行き先は決まってるの?」

 白が点在する、果てしなく澄み切った青空。
 その下にはまた違った青が、何処までも広がっている。
 性質の異なる2種類の、言葉で表せば同じ色だったが、どちらも穏やかには違いない。
 そんな中、ふと思いついたようにナギサが問いかけたのは、トラッドが太陽とランシールを背に、船を東に進め始めて間もなくの事だった。
「……まぁ」
 しかし、彼の返事は快晴には似つかわしくない表情と同じく、何処かすっきりしなかった。
「ふうん……」
 その空気を感じ取ったナギサも難しい表情を見せるが、不意に悪戯っぽい笑みを浮かべると、
「愛しのリノちゃんがまた一緒なのに、あんまり嬉しくない?」
 彼の耳元で艶っぽく、それも含みのある言い方でそう囁いた。
 トラッドは聞き慣れない単語に呆然となってしまうが、すぐに我に返ってその意味を理解した後、みるみる顔を赤くする。
「勿論嬉しいけど……べ、別にそういう意味じゃ……!」
「あらあら、じゃあどういう意味なの?」
「そ、それは……だから……」
「なあに? はっきり言ってもらわないと分からないんだけど?」
「あの……えっ、と……」
 最初は彼も何か話そうと努力をしていたのだが、次第に口数が少なくなっていき、最後には何も言えなくなってしまった。
 だが、トラッドがどうしようと彼女に勝てないのは、悲しいがいつもの事でもある。
 ナギサは面白そうな様子ながらも、大げさにため息を吐くと、目にも止まらぬ速度ですかさず彼の頭にハリセンを叩き込む。
「……だから――――」
 叩かれた理由が分からないトラッドは熱を帯びた後頭部を押さえながら、当然反論しようと試みるが、
「ちなみに今叩いたのは、確固たる理由があっての事よ」
 彼女が至って真剣に、そして自信に満ち溢れた声でそう言った為、何も言い返せなかった。
 ナギサのハリセンは、確かに彼にとって不条理そのものと言っても良いタイミングで飛んでくる。
 しかし、この時の彼女の碧眼にはわずかな遊び心も見えなかった。
 手の込んだ芝居をしている可能性も無くはないが、だからこそトラッドは彼女の言う理由について考え始める。
「……また何かやったのか?」
 その時、ハリセンの音を聞きつけたリノとラザが、船室から姿を現して歩いてきた。
 当然、表情には呆れの色が滲んでいる。
「…………何でもない」
 いつもなら、やったんじゃなくてやられたんだ、とため息混じりに答える所。
 だが、トラッドは珍しく不満げに反論する素振りも見せず、舵を握ったまま浮かない顔でそう答えた。
 彼なりにナギサの言葉を真摯に受け止めているのかもしれない。
 例え、叩かれた事に怒りを覚えて構わない状況だとしても。
(へぇ……少し変わったわね)
 一方、ハリセンを振るった当の彼女もまた、珍しく胸中でだけ感心していた。
 トラッドは確かに他人の事には鋭いのだが、そこにわずかでも自分が入ると途端に鈍くなってしまうからである。
 しかし、今の彼はまだ答えは出せないものの、何か心に引っかかっている事を考えているように見えた。
(まだまだだけど……良い傾向には違いない、かな……)
 いつになく優しい眼差しでリノとトラッドを見つめるナギサ。
 気づかないまま考え込んでいる彼だったが、ふと何かを思い出したのか近くに置いてあった道具袋を手に取ると、
「不本意だけど、ちょうどリノとラザも来た事だし……次の目的地について話そうか?」
 中から使い慣れた地図を取り出してから、3人の顔色を窺いながら問いかける。
「……そういえば、まだ聞いてなかったわね」
 多少機嫌を損ねた様子ではあったが、ナギサがそう返事をして頷くと、他の2人も彼女に倣って首を縦に振るのだった。


 舵を固定した後、4人は日影のある船室の側まで移動する。
「昨日、ランシールに着く前に思い出したんだけど……」
 地図を広げ、ランシールの位置を指差しながら言葉を紡ぐトラッド。
「何を?」
 リノは彼の細い人差し指から目を離さずに問いかけた。
 そこでトラッドは、改めて3人の顔を確認しながら、小声でこう告げる。

「……赤のオーブの在処」

 唐突に呟かれた予想外の言葉に、誰もが束の間呆然となった。
「確か……トラッドの父親が誰かにあげたと言っていたものか?」
 だが、一番先に我に返ったラザがそう言うと、トラッドはあまり気の進まない表情で頷く。
 それは先刻ナギサも見た顔であり、今目にしたばかりのラザも、そしてリノも気づくほど分かり易いものだった。
「……何処にあるの?」
 しかし、リノは他の2人と同じく気づかないフリで話を促す。
 何の根拠も無い、言うなれば直感に過ぎなかったのだが、もし尋ねればトラッドが困るような気がしたのである。
 そしてその判断は正しかったらしく、トラッドはまるで隠すように安堵の息を零していた。
「今、ランシールから東に向かって……大体、この辺りを進んでるんだけど……」
 彼がゆっくり動かした指により、地図はかさりと小さく乾いた音を立てる。
「最終的には……ここに行くつもりなんだ」
 やがて彼の人差し指が辿り着いたのは――――アリアハンよりも遥か東にある大陸だった。
 地図上では右下。つまり、変化の杖を欲しているあの老人が住んでいた極寒の地グリンラッドやスーの真南にあたる。
 トラッドの地図を使った説明は、いつも通り分かり易いものだった。
 だが、3人は腑に落ちない事があるらしく、その気持ちを代弁するようにナギサが彼に問いかけた。
「でも、ここって……何も無いわよ?」
 トラッドの口振りからすると、オーブを渡した人物はそこに住んでいるのだろう。
 そうでなければ、ここへ向かう理由も、彼が断言する理由もない。

 しかし――――彼が指差した大陸には、町の存在を示す印が一切記されていなかった。

 確かに出回っている地図の中には、例えばスーやムオルといった一般的に辺境と称される場所の村が書かれていないものもある。
 以前、ムオルへ行った時はナギサの案内があった為見る事は無かったのだが、トラッドの地図にはどちらの村も印が刻まれていた。
 そこで彼は地図からすっと指を離し、今度はグリンラッドを指し示しながら、3人にこう問いかける。
「それをいえば、ダムドさんの家も書かれてないだろ?」
「なるほど……そういう事か」
 その一言に納得の声を上げたのはラザだったが、リノとナギサも同じ事を思ったようだ。
 トラッドの持つ地図は良い物には違いないが、さすがに町や村以外の場所までは記されていない、という事である。
「じゃあ……ここは誰かの家って事?」
「……ああ」
 答えに辿り着き、そう尋ねたリノだったが、彼は思い出したように表情を曇らせた。
(……どうしたんだろ?)
 今度は声は出さず、彼女は胸中だけで疑問を呟く。
 更に言うと、彼女はトラッドが今浮かべているような表情に見覚えがあった。
(…………あ)
 だが、その曖昧だった記憶は、鮮明なものへと姿を変える。
(もしかして……船乗りの知り合い……?)
 最初は推測に過ぎなかったが、少しずつ時が流れるにつれて、それは確信へと変わっていく。
(でも……)
 しかし、リノにはもう一つ不思議に思う事があった。
 いくら鋭いナギサやラザでも、彼から話を聞いていなければ、分かるはずもない。
(……どうして思い出せたんだろ……?)
 だが、彼女はいくら知っていたとはいえ、あの時トラッドが見せた表情まで、はっきりと覚えていた。
 リノの疑問――――それは、話を聞いていたのは事実でも、自分はそこまで彼を見ていたのだろうか、という事だった。
 それはほんの些細な、何故今気になったかも分からなかったが、
(……変な感じ……)
 胸の内に目では見る事の出来ない、正体不明のもやもやが生まれ、徐々にではあるが大きくなっていく。
 彼女は困ったように青空を見上げるが、何処にも手掛かりは見つからず、誰からも答えは返ってこなかった。



「ところで……一つ訊いてもいいか?」
 トラッドが次に向かうべき場所の説明を終えると、リノとラザは昼食の準備の為に台所へと向かった。
 そして彼もナギサを残して、彼らと一緒に姿を消したのだが、程なくして甲板へ戻ってくる。
 右手に二本の長い釣竿を、左手には餌が入っていると思われる箱を携えて。
 今回の航海は長くなる上に、途中で休めそうな町がアリアハンだけだった。
 だが、リノの過去の事を思うと、あまり立ち寄る気がしない。
 それを見越してランシールで買っていたのか、既に買っていたのかは分からなかったが、確かな事が一つ。
 どうやら彼が向かったのは台所ではなく、自分の部屋だったという事である。
 彼はそれを甲板で日向ぼっこしようとしていたナギサに手渡し、自分は下に置いた後で真剣な表情でそう問いかけた。
「何よ? 後……私、釣りってした事ないわよ?」
「だったら教えるけど……意外だな」
「あのねぇ……前にも言ったと思うけど、私にだって――――」
 釣竿を受け取りながらも、呆れた様子で返事しようとしたナギサだったが、不意に差し出された麦藁帽子を見て言葉を切ってしまう。
「今日は結構日差しが強いから、持ってきたんだけど……いらなかったか?」
「……じゃあ、使わせてもらうわね」
 一体何処に持っていたのかと思いながら、彼女はそれを手に取ったのだが、その疑問は付けられた紐によってすぐに解消された。
 トラッドは別に隠し持っていたわけでなく、紐を首にかけて、ナギサの死角となる背中に麦藁帽子をぶら下げていただけなのである。
 分かってみれば簡単な事で、満足した彼女は一旦ウサギの耳を外すと、すかさず麦藁帽子を被った。
(そういえば、ナギサって寝てる時以外、いつもウサギの耳を――――)
 ふとそんな事を思い、一瞬和みかけた彼だったが、
「……どうしたの、変な顔して?」
 わざわざ帽子の上からウサギの耳を身に着けるナギサを前に、胸中ですら呟く言葉を失ってしまった。
「いや、あの……何でもない」
 ここで違和感を悟られてしまえば、間違いなくハリセンが飛んでくる。
 そして今、自分はとても動揺を隠せそうにない。何とか彼女よりも早くその事に気づいたトラッドは、深く麦藁帽子を被って顔を下に向けた。
「それで訊きたい事って? あ、先に言っとくけど、さっきの事なら教えないわよ?」
 幸いにもナギサに気づいた様子は無い。トラッドは一先ず安堵すると、素早く思考を切り替える。
「いや……それは自分で考える。俺が訊きたいのは……その、別の事なんだ」
 さっきの事、というのはリノとラザが来る前に話していた事。
 しかし、トラッドは気にはなっているものの、彼女に尋ねるつもりは毛頭無かった。
「……別の事?」
 一方、問いかけるように呟いた当のナギサは少し意外だったのか、少し驚いたのか目を見開いてから訊き返す。
「まぁ、リノの事には違いないんだけど……昨夜から気になってる事があって」
「ふうん……?」
 彼は箱から餌を取り出し、淀み無い所作で釣針へ取り付けながら話を続ける。
 釣りをするのだから、それは当然の行為なのだが、
(……トラッドの方がよっぽど何でも出来そうよねぇ……)
 初めて目の当たりにしたらしいナギサは、器用に動く彼の指先を興味深そうに、そして感心しながら眺めていた。
 そのせいか、返事は少し素っ気無くなってしまったのだが、トラッドが気にした様子は無い。
 きっとリノの事で戸惑っているのだろう、と察したナギサは碧眼をトパーズ色の瞳に戻して言葉を待った。
 トラッドはその視線に気がつくと、一度深呼吸をしてから釣竿を振るい、針が海に落下するのを見届けてから、ようやく彼女の方を見る。
 そして緊張した面持ちで、ゆっくりと唇を上下させ、こう問いかけた。

「……どうして、リノが女だって黙ってたんだ?」

 ナギサは答える代わりに一度目線を切り、先ほどの流れるようなトラッドの動きを思い出しながら、釣竿を勢い良く振るった。
 彼ほど遠くまでは飛ばなかったが、初めてにしては上出来である。
 そして何も教えていないにも関わらず、多少ぎこちなさはあるものの、比較的流麗な動きだった。
「で……質問の答えね」
 碧眼を海に向けたままの彼女は、自分の放った針がトラッドに及ばなかったのが悔しいのか、少し不満げな音色を奏でながら座り込む。
 その時、わずかに甲板が軋みを上げたのだが、2人の耳には届いていない。
「一つは予想がつくと思うけど……リノちゃんが知られる事を怖がってたからよ」
「……それは、分かる」
 昨夜、リノ自身から聞いた言葉でもあるが、それ以前にトラッドも察していた。
 だが、それはリノの想いを踏まえた上での答えであって、彼の求めていたナギサの答えではない。
「じゃあ、もう一つは?」
 予想していたらしい彼は、間髪入れずに再び問いかけた。
 すると彼女は、海から空へと視線を移し、わずかに考える素振りを見せた後、ようやくトラッドの顔を碧眼で捉える。
「……リノちゃん自身が言うべきだと思ったから……かな」
 呟きに唇を動かした後、彼女は遠い目でまた海を見つめ、想いを言葉に乗せて繋ぎ出した。
「だって……リノちゃんのためにならないでしょ?」
「……リノの……ため?」
 ナギサの言いたい事は分かる。しかし、彼は反射的に同じ言葉を繰り返してしまった。
「ええ。確かに私が教えるのは簡単だけど……それじゃあ、何も言えなくなっちゃう気がしたの」
「………………」
「リノちゃんって優しいから……自分がどんなに苦しくても、全部後回しにする所があるじゃない? なのに、そこで私やラザ、ヤヨイちゃんが手助けしたら……」
「余計に気を遣わせてしまう……って事か?」
「そういうこと」
 ナギサはそこまで言ってから立ち上がり、するすると釣針を引き寄せ始める。
 一見した所、魚がかかった気配は無い。
「まぁ……そもそもトラッドが鈍すぎるのも問題よね」
「……それは……悪かった」
 呆れたように呟く彼女に、トラッドは返す言葉も無く、ただ謝罪する。
 そして彼はおそらく飛んでくるであろうハリセンに対し、逃げようともせず身構えた。
 しかし、ナギサにはハリセンを振るう様子は全く無く、それどころか突然彼の頭を優しく撫で始めた。
「でも……その方が良かったのかもしれないけど」
「……え?」
 彼女は穏やかに、何処かおかしそうに笑いながら、言葉を続ける。
「もし、トラッドに教えたとしても、自分で気づいたにしても……きっと何も言えないんじゃないかしら?」
「…………」
 ナギサの言葉を受け、彼は実際そうなった時の事を想像した。
 そうして頭に思い浮かんだのは――――やはり彼女が言う通りの光景だった。
「だから、これで良かったのよ……きっと」
「……もしかして」
 その時、トラッドはふと思った事を、訝しげな表情でおそるおそる口にする。

「励ましてくれてるのか……?」

「…………へ?」
 今まで冷静だったナギサの口から、初めて間の抜けた声が零れ落ち、銀髪に触れていた掌がパっと離れた。
「そ、そんな事あるわけ……!」
「……じゃあ、何を慌ててるんだ?」
 それを好機と思ったのか、彼は日頃の恨みを晴らそうと追い討ちをかける。
 とはいうものの、そこまで怒っているわけではなく、むしろ彼は楽しそうな表情を浮かべていた。
 おそらく久々に味わう、この空気が心地良いのだろう。
「そ、それは……」
「それは?」
 だが、珍しく気づけないほど取り乱しているナギサは、つい何も考えないまま、こう口にしてしまった。
「……リノちゃんのためなの!」
「…………え?」
 予想外の名前が出た事に、今度はトラッドが間の抜けた声を上げる。
 それで彼女は自分が何を言ったか、初めて気づいたらしく、また異なった種類の焦りを覚えて言葉を探し始めた。
「………………」
 しかし、そんなナギサの焦燥は、不思議そうな顔をしている彼を見た瞬間、何処かへ旅立っていった。
(……まさか、トラッドの鈍さに救われる日が来るなんて……!)
 違う意味ではショックだったものの、彼女は思わず安堵の息を落とす。
 そんな彼女の一連の表情を目の当たりにしたトラッドだったが、やはり先ほどの言葉を理解した様子は見られなかった。


 しばらく会話も無いまま、心地良い風に身を委ねていた2人だったが、
「どうかしたのか?」
 話の途中で引き寄せた釣針をいつまでも投げないナギサに、トラッドがふとそう問いかけた。
 すると彼女は器用に釣り糸を纏めながら、ため息の混じった声で言葉を返す。
「悪くない、とは思うけど……じっとしてるのって苦手なのよ」
「……飽きたって事か」
「苦手なだけよ」
 一体何が違うのか、と思いながらも、ハリセンを恐れた彼はその事を口にしない。
 そしてトラッドの判断は正しかったらしく、彼女は船室の側に釣竿を置いて立ち去ろうとしたのだが、
「あ、さっきの話なんだけど」
 何かを思い出したのか、踏み出しかけた足を止めてトラッドの背中に呼びかける。
「ん?」
 その声に反応してか彼が振り返ると、既にこちらを向いていたナギサは麦藁帽子を脱いでおり、いつものウサギの耳を着けていた。
 彼女は悪戯っぽく笑いながら、麦藁帽子を軽くトラッドの方へ投げると同時に呟く。
「その方が面白いかなー、って思ったのも理由の一つよ」
「…………へ?」
 先ほどの真剣な会話の名残など微塵も無い、いつもの騒々しい空気。
 そんな事を感じ取りながら、彼はただ不思議そうにナギサの顔を見ている。
「何はともあれ……これからもリノちゃんの事、頼んだわよ」
 だが、彼女はトラッドの反応がどうあれ、自分の言いたい事を言って満足したのか、上機嫌で船室へと消えていった。
 取り残された彼は呆然と釣竿を眺めていたが、当たりがきている事には全く気づいていない。
(面白いって……まさか、それが一番の理由じゃないだろうな……)
 胸中で呟かれるのは、やはりナギサが何を考えているのか分からない、という意味が込められた嘆き。
 しばらく何をするでもなく空を見つめていた彼は、ようやく釣竿が動いている事に気づき、慌てて引き寄せようとしたが、
「あ……」
 声を漏らすと同時に、釣竿はぴたりと動くのを止めてしまった。
「……ったく、ナギサが変な事を言うから……」
 不満を口にしながら、トラッドが再び餌を付けようと釣り針を引き寄せ始めた時、
「トラッドって釣りも出来るんだ?」
 背中からまるで鈴が鳴ったような声が響いた。
 一瞬、誰の声か分からなかった彼は、驚きを露わにしたまま振り向いた。
「……あ」
「…………どうか、した?」
 そこにいたのは、彼の手を覗き込むようにして立っていたのは、トパーズ色の射抜くような視線に少し怯えた表情を見せているリノ。
「その……ごめん……」
「えっと……あ、うん」
 彼女は何故トラッドが驚いたのかも、今こうして謝っているのかも分からずに、ただ何となくで頷いただけだった。
 その仕草を、彼はリノが自分に気を遣っているのだと思い込んでしまい、
「あ、あの……声が綺麗だったから……誰か分からなくて、つい……」
 ふと思った事を、そのまま唇から紡いでしまった。
「……え?」
 彼女は意識して、その声を出したわけではない。
 だからこそ、トラッドの言葉に不意を突かれてしまい、何も言えなくなってしまったのである。

 ………………

 トラッドはリノの声に、リノはトラッドの言葉に心を奪われてしまい、何も話せないまま、気まずそうに顔を見合わせていた。
「……と、ところで何か用事があったんじゃないのか?」
 かろうじて我に返った彼は、ぎこちない口調で用件を尋ねる。
「え? あ、えっと……昼食が出来たから……呼びにきたんだけど……」
 彼の当たり前の質問に、リノもまだ緊張は解けていなかったが、何とか返事を返した。
 しかし、今度は彼女だと分かっていた為か、先ほどのようにトラッドが取り乱す事はなかった。
 複雑に絡まっていた見えない糸が、ゆっくりと解けていく。
 次第にいつもの雰囲気を思い出し始めた彼は、まだ頬が少し朱に染まっているリノの顔を見て、ある事に気づく。
「……良い事でもあったのか?」
「え?」
「何となくだけど……嬉しそうに見えたから」
「…………」
 とはいうものの、彼女の表情はわずかに赤かっただけで、特に大きな変化はない。
 にも関わらず、トラッドは何となくそんな印象を受けてしまい、内心では微笑ましく思っていた。
 リノ自身、最初は全く気づいていなかったのだが、何か思い当たる節があったのか、不意に顔を逸らす。
 それから一度だけ、彼の顔を恥ずかしそうに横目で盗み見ると、

「また……一緒に旅が出来て――――凄く嬉しいから、かな」
 
 いつもの色に戻りかけていた頬をまた赤く染めて、彼女は小声で呟いた。
 それは、昨夜も聞いた言葉であり――――互いの温もりを思い出す言葉でもあった。
「……そ、そうか」
「…………う、うん」
 どちらも全く同じ事を思い出していたのだが、相手もそうなのかが分からない為に、精一杯隠そうとする。

 もし、今自分の顔を見られてしまえば、悟られてしまうかもしれない。

 再び同じ答えに辿り着いたリノとトラッドは、どちらからともなく歩き始める。


 結局、2人は互いの顔を一度も見れず、言葉すらまともに交わせないまま――今日を終えるのであった。






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