|
「…………ん?」 ランシールを発ってから、既に1週間が過ぎた。 今までは海が荒れる事も、4人の手に余るほどのモンスターに襲われる事も無く、比較的順調な航海が続いている。 しかし、テドンやジパングに向かった時のように、絶えず陸が見える場所ではない。 トラッドも不安を感じるのは確かだが、2日前に北に見えたアリアハンは、リノの事を思うと立ち寄る気になれなかった。 つまり船は今、四方八方水平線に囲まれている中を進んでいるのである。 雲が少なく、頂点まで昇りきった太陽が誰にも遠慮する事なく輝いている、澄んだ青空の下。 舵を取っていたトラッドは、未だ目的地の影すら見えない東の方角を、油断無く見つめていた。 頭には強い日差しを避けるために、麦藁帽子を被っている。 ちなみに昨日舵を取っていたラザも、彼に勧められて麦藁帽子を使っていた。 最初は2人の見慣れぬ姿に、訝しげな視線を注いでいたナギサだったが、今はもう馴染んでしまったのか、特に気にする様子も無く甲板掃除に励んでいる。 そしてここに姿が見えないリノは昼食の準備を、ラザは昨日の舵と見張りの疲れを癒す為、朝から眠りに就いていた。 「何かあったの?」 トラッドの呟きを耳にしたナギサは、一旦デッキブラシを動かす手を止め、目を凝らして周囲に注意を配る。 だが、彼女の碧眼に映るのはぼやけた水平線だけで、陸地はおろか何の変化すらも見られない。 「……ナギサ」 「何?」 問いかけられた彼は、難しい表情のまま振り向かずに名前を呟く。 呼ばれた彼女も真剣な空気を察したらしく、形の良い眉をひそめながら言葉を返した。 「悪いけど、2人を連れてきてくれないか?」 「……ちょっと待ってて」 全く意図が見えない。それにどう見ても、急を要する状況とは思えない。 彼女の表情には分からない事への苛立ちや不満がわずかに滲んでいたが、こういう時のトラッドの感覚を信頼している。 言い換えれば、普段の鈍さはどうにかならないものか、とも考えている事になるのだが。 幸いにも何かに魅入ったまま、こちらを振り向かない彼に気づかれないよう、ナギサは一瞬苦笑いを浮かべた後、船室へと走り出した。 舵の前に1人取り残された彼は、手元も見ずに側の道具袋を手繰り寄せ、淀み無い動作で地図を取り出す。 顔には出ていないが、内心では慌てているのか、地図はがさりといつもより心なし荒い音色と共に開かれた。 そこで初めて彼は、何も無いはずの大海原から視線を外し、大体の現在位置を測りながら地図を確かめる。 「……やっぱい何も無い、よな」 記憶通りだった事が、逆に予想外だったらしいトラッドは、つい唇から声を落とした。 まるで自身に確かめるように。 確かに彼の愛用している地図は、とても良く出来ている。だが、それは世界の全てが記されている、という事とイコールになるわけではない。 現にちょうど今向かっている目的地や、グリンラッドにあるダムドの家は書かれていなかった。 だから、自分の目で見た物が真実なのだ、と彼は知っている。 「なら、どうして」 胸中に留めておけない呟きに割れる唇。 トラッドは地図を頭の中に思い描きながら、もう一度何も無いはずの海をトパーズ色の瞳に映した。 「ナギサには見えないんだ……?」 一際強い風が流れ、彼の銀髪がバサバサと耳障りな音を上げる。 その時、彼は今まで忘れていた潮の香りを思い出した。 当たり前のように自分の中にあった正常な感覚が、言葉では言い表せない色彩を伴って、徐々に息を吹き返し始める。 だが、自分にしか見えないらしい――小さな島の姿は消える事がなかった。 ナギサが2人を連れて戻ってきたのは、数十分後の事だった。 余程慌てていたのだろうか、リノはエプロンをつけたままで、ラザは瞼をしきりに擦っている。 しかし、トラッドはさして気にする様子も無く、船の先を見つめていた。 どうやらナギサが行った後、すぐに謎の島へと進路を変更していたらしい。 最初はリノとラザもナギサと同じく、周囲から何も見つける事が出来なかった。 「えっと、あそこなんだけど……何か見えないか?」 だが、トラッドが呟きながら、明確な場所を指で指し示した直後、 無意識に瞬きをした3人の瞳に――輪郭を伴った何かの影が映ったのである。 まるで初めから存在していた、とでも言うように。 「島、よね?」 ナギサは未だ信じられないのか、それともあまりに影が儚く見えたのか、独り言のようにトラッドへ問いかける。 彼は不思議そうな表情で、束の間考え込んだ後、咄嗟に断言しようとしたのだが、 (……まさか) ふと脳裏をよぎった可能性に言葉を止め、逆にこう訊き返した。 「ナギサは――何に見えるんだ?」 「へ?」 その質問は予想外だったらしく、彼女は間の抜けた声を上げる。 しかし、すぐ我へ返ると、碧眼に映る影から視線を外さず、難しい表情でこう答えた。 「……はっきり言えないのよ。海に浮かんで、遠くからも見えるものっていったら、大抵船か島だと思うんだけど……」 「ぼんやりとしか見えないから、か?」 「まぁ、そうね」 確かに見えている。おそらくそれが何であるかを判別するだけの知識もある。 だが、彼女の碧眼に映るのは、得体の知れない輪郭だけ。 だからこそ、自信を持って答える事が出来なかったのだ。 「変な感じ……」 形の良い眉をひそめ、独り言のように呟くナギサ。 釈然としない表情と同じ意が込められた声には、微かな苛立ちが滲んでいた。 (……やっぱり、か) しかし、トラッドは彼女に気づかれないよう、密かに安堵の息を零している。 彼のトパーズ色の瞳には――はっきりとした島が映っていたのだから。 ナギサの目は悪くない。むしろ、普段の行動から考えると良い方だと思える。 この時、トラッドはリノとラザには尋ねなかったのだが、おそらく答えは同じだと踏んでいた。 彼が気づくまで、誰も見つける事すら出来なかったのだから。 なら理由は分からなくとも――原因が自分にあるという事は明らかだ。 「……気になるし、あの島らしき所に行ってみようか」 少し間を置いて、トラッドが似た表情を浮かべる3人におそるおそる問いかけるが、誰からも反対の声は上がらない。 何も言わなかった2人が、先ほどのナギサと同じ感想を抱いている、というのは容易に推測出来た。 「じゃあ……その、急に呼んで悪かった」 頷いて賛成しながらも、誰一人として口を開かない。 そんな奇妙な沈黙に罪の意識を覚えたのか、彼は謝罪の言葉を小さな声で紡ぐ。 (トラッド……?) 彼はただ地図に載っていない島を見つけ、これからどうするかを3人に訊ねただけである。 確かにリノは食事の準備を、ラザは疲れを癒す為に眠っていた所だったので、彼はそれを邪魔して悪いと思っているのかもしれない。 だが、それでも独断で決めるよりはずっと良い、と彼女は思う。 (……どうして?) いつの間にか舵を取っているトラッドの背中。 普段と何も変わりないはずなのに、リノの黒い瞳には小さく映って見えた。 しかし、かける言葉はただの一言も思い浮かばない。 「……昼食が出来たら呼びに来る」 「…………ああ」 それでも力になりたくて、ありきたりな言葉を告げるものの、返ってくるのは予想通り気の無い返事だった。 リノは無力感を心に宿しながら、重い足取りで船室へ戻るのであった。 船が近づくにつれ、曖昧だった影は、より確かな輪郭と質量を帯びていく。 そして4人が昼食を終える頃、眼前には小さな島が浮かび上がっていた。 しかも見た者に、何一つ不自然と思わせる事無く、である。 「……不思議な所だな」 謎の島に足を踏み入れ、最初にそう呟いたのはラザだった。 まるで夢幻のように存在する島が、実際間近で見ると、降り立ってみると確かにあるのだから、当然かもしれない。 「……そう、ね」 だが、ナギサの驚いた表情は、彼と少し異なっている。 そしてリノも彼女ほどではないにしても、やはり違う感想を抱いているように見えた。 2人は何も触れようとしない。おそらく今はまだ、どう問いかけても答えないだろう。 リノは疑問の正体が掴めないからこそ、何も言えないのだと、彼にはかろうじてそう察する事が出来る。 しかし、無感情を装って、空を眺めるナギサは――何か別の理由があるように思えて仕方が無かった。 「モンスターの気配はない……けど、一応注意しておいた方が良さそうだな」 同じく、この島を見つけた時から様子がおかしいトラッドは、ふとそんな言葉を口にする。 彼は彼で、何か別の事を考え込んでいるせいか、リノとナギサの異変に気づいていない。 だが、その事を察したのは――ラザ一人だけだった。 確かに彼は3人のように、この島の異常さを感じ取れない。 しかし、だからこそ冷静さを失わず、3人の空気が噛み合っていない事に気づけたのだろう。 そう考えた彼はより客観的に、推測を積み重ねていく。 (呪文……いや、だとしたらトラッドは……?) 彼女たちにあって、自分には無いもの。 ラザはふと呪文の事を思い出すが、それは1秒にも満たない時間で打ち消された。 何故なら、トラッドも彼と同じで、呪文を唱えるどころか知識も殆ど無いからである。 「ラザ?」 その時、彼は自分に向けられた声と、草を踏みしめる音でようやく我に返った。 「どうかしたのか?」 疑問と気遣いが複雑に入り混じった声は、ちょうど今考えていたトラッドのものだった。 どうやら思考に没頭するあまり、いつの間にか足が止まっていたらしい。 ラザはすぐに答えず、難しい表情で辺りを見渡すと、 「……少し、疑問を覚えてな」 短く、声を潜めてようやくそう返事をした。 「疑問?」 当然、彼の意図が読めないトラッドは自然と訊き返してしまう。 それは自分の、曖昧ではっきりしない答えを悟らせないための一言だった。 ほんのわずかな時間で余裕を取り戻したラザは、彷徨っていた視線を彼に戻し、じっと見据えながら答えを返す。 「ああ。不思議な場所だと思ったんだが、実際不思議な所が見つからない。だから疑問に思っただけだ」 それは嘘ではなかったが、決して本音ではないという、奇妙な言葉だった。 というのも、トラッドはリノの事となると鈍さが目立つが、本来は恐ろしく鋭いのである。 わざわざ向ける必要の無い視線を彼に向けたのも、そういう理由があっての事だ。 「……ああ、なるほど」 その慎重さが功を奏したのか、トラッドは納得したように頷くと、彼と同じような仕草で辺りを見渡した。 きっと、何か見落としがないか、改めて確認しているのだろう。 (全く……年齢を重ねても、上手くなるのはこういう事だけか) 胸中でため息混じりに呟くラザの赤い瞳は、前を歩く金髪にウサギの耳をつけた彼女の背中を映している。 彼とて悪気があったわけではない。 ただ――トラッドの様子から、何故か言ってはいけない事のように思ってしまい、こういった方法を取ったのである。 彼は自分にそう言い聞かせた後、想いを振り払うように首を横に振ると、3人に追いつくためにようやく歩を進め始めた。 程なくして4人が辿り着いたのは、船の上からでも見えていた村だった。 村といっても規模はムオルやレーベよりも遥かに小さく、集落といった方がしっくりくる。 だが、何よりも目を引いたのは――点在する家と緑だった。 まずは家。何の飾り気も、敢えて挙げるような特徴も無く、更に大きさでさえもこれまで見てきた民家と変わりない物ばかりだった。 しかし、どの家にも共通して言える事が、たった一つ。 それは――どれも例外なく半壊しており、真っ当な形を保っていない、という事であった。 モンスターの襲撃。自然の脅威。考えられる理由はいくつかある。 だが、パッと見る限り、心を痛めている村人は1人としていない。 長い間この状態だった、という事も考えられるが、それにしては誰の表情にも、微かな陰りすら見受けられない。 これが当たり前で、自分たちはこの中で育ったのだ、とでも言うように。 一方、緑の様子はというと、家と比べれば幾分マシには違いなかったが、あまり見栄えの良い物ではなかった。 ランシールの緑が素晴らしかったから、無意識に比較してしまっているだけかもしれない。 それでも所々に見える獣の爪のような焼け跡には、心を痛めずにいられなかった。 「おや……客人とは珍しいのぅ」 呆然となっていた4人の前に現れたのは、真っ白な髪と長い髭を持つ1人の老人だった。 身に纏っているのは、所々破れている薄い茶色のローブ。 彼は右手の杖で身体を支えながら、左足を引き摺るようにして半歩だけ歩み寄ると、穏やかな笑顔で4人を出迎えた。 「珍しい、って……ここは何処なんですか?」 老人の言葉を繰り返し、まだ夢から覚めていないような表情で問いかけるトラッド。 「何じゃおぬしら、知らずにここへ来たのか? ふむ……ますます珍しいの」 すると彼は驚愕と呆れ、更に好奇の色までを声に滲ませながら、顔中の皺を寄せて呟いた。 一体何を知らないのか。そして何が珍しいのか。 4人が戸惑いを隠し切れず、互いの顔を不思議そうに見合わせていると――不意に、低く押し殺された声が響く。 とはいっても、さほど大きな変化があったわけではない。 にも関わらず、その声が目の前の老人が紡いだ音色だと理解するのに、誰もが数秒の時を要した。 ただひたすら重く、果てしなく深い。他にもっと言い方はあるのかもしれないが、少なくともナギサにはそれだけしか思い浮かばなかった。 彼が呟いた事。それは、 「ここは忘れられた島――――ルザミじゃ」 今、自分たちがいる島の名前と――あまりにありふれた、けれどどういう意味を持つのか分からない言葉であった。 それから4人は、村の北西にある小さな酒場へと足を向ける。 というのも、トラッドがここ――ルザミの事を老人に尋ねようとしたのだが、 「すまんが、ワシはこれ以上話すつもりはないぞ。じゃが、どうしても知りたいというなら――」 口調こそ柔らかなものの、はっきりと拒絶されてしまったのである。 代わりに、と教えられたのが、今向かっている酒場だった。 何でも、そこのマスターなら、知っている事は全て教えてくれるらしい。 単に話す事が好きなのか、それとも誰かに話したくて仕方が無いのか。 老人は少し微笑みながらも、その胸の内は誰にも分からない、とだけ言い残して何処かへ行ってしまった。 元々、立ち寄る予定もなかった場所なのだから、特に目的があるわけではない。 そう思った4人は、とりあえずその酒場へ行く事に決めたのだった。 「ここ、よね?」 「……そうだな。他にそれらしい所もない」 ルザミの最北西。崖と呼ぶには、それほど高くはない切り立った場所。 老人の教え通り、確かに家が一軒寂しげに佇んでいた。やはり他の家と同じく、原型は留めていなかったが。 だが、何処にも酒場を示すものがない。 それを疑問に思ったナギサが、ラザに確認するように問いかけたのである。 当然、彼もここを訪れたのは初めての事なので、分かるわけがないのだが、周囲には緑が不自然な間隔で散りばめられているだけだった。 「……あら?」 その時、酒場らしき所へ足を踏み入れかけたナギサが、何かに気づいて突然歩みを止める。 しかし、彼女の目の前にあるのは、煤けた白で塗り潰された、いつ崩れてもおかしくない壁だけだ。 「どうした?」 「……これ……」 真後ろにいたトラッドの質問に、彼女は答えようとしたのだが、 「ううん……何でもない」 何故か弱々しく首を横へ振ると――それっきり口を噤んでしまった。 「……ナギサ?」 2人のやり取りを横目で見ていたラザが、複雑な表情で彼女の名前を呼ぶ。 「だから、その……ちょっと見間違えたのよ」 ナギサもその一言だけで察したのか、整った眉をひそめながら言葉を返した。 「何を?」 彼女は何かを隠している。それは微かに動揺の見える表情からも、曖昧な口調からも明らかだ。 だからこそ、彼は追及の手を緩めない。 勿論、好奇心が無いといえば嘘になるが、それ以上にただ心配だった。 ナギサは――ムオルでの一件は別だが――あまり本音を話そうとしない。 例え、相手が誰であろうと、自分にとって良い事でも悪い事でも、だ。 一緒に旅をするようになって気づいたラザは、ふとか細い記憶の糸を手繰り寄せ、胸中で呟く。 昔から、彼女はそうだっただろうか――と。 誰にでも知られたくない事はある。それは彼とて例外ではない。 確かにダーマで再会した時は明るく、すっきりした表情になったと思ったが、また別の問題のようにも思える。 それにナギサも本音は言わないものの、決してリノたちの旅を邪魔しているわけではない。 むしろ、多少の無茶があっても自分の出来る事をし、いつでも皆を支えている。 つまり、助けられた事は何度もあるが、その反対は一つとして有り得ないという事だ。 にも関わらず、普段の言動からは全く悟らせようとしない。 ラザには、今の彼女の強さが――――逆に危うく見えてしまうのだ。 「だから……何でもないって、さっきから――」 一向に退く様子を見せない彼に、痺れを切らしたナギサが半ば叫ぶように拒絶しようとする。 だが、自分が何処かおかしい事に気づいたのか、彼女は再び口を閉ざしてしまった。 きゅっと強く結ばれた、彼女の淡い朱の唇。 それは何の前触れも、わずかな音さえも無く、静かに上下へ開かれる。 「……ごめん」 そして彼女は、らしくない怯えた表情で、謝罪の言葉を口にした。 「あ……いや……」 自分の方こそ悪かった、とラザはそう告げるつもりだった。 しかし、彼女の顔を見た瞬間、激しい後悔がそれを許さなかったのである。 (俺は……何をしてるんだ) ナギサが何故、自分の想いを話したがらないのかは分からない。 だが、心配するあまり――知らず知らずの内に彼女を追い詰めてしまったのは、他でもないラザ自身。 悪気が無かったとしても、それは決して揺らぐ事のない事実だ。 「……俺こそ、悪かった」 その後、ようやく彼の唇から紡がれた謝罪の言葉は、ナギサと同じで酷く沈んだものだった。 受けた彼女は、やはり力無く首を横へ振ると、消え入りそうな儚い声で独り言のように呟く。 「どうして、いつも…………のよ」 「え?」 しかし、声が震えていたせいか、ラザには最後まで聞き取る事も、また尋ねる事も出来なかった。 その時、今までどうすればいいのか分からず、戸惑っていたリノは、素早くナギサに駆け寄ると、 「ナギサ……大丈夫か?」 少し潤んだ瞳を向けて声をかける。どうやら、よっぽど心配していたらしい。 すると彼女は、ぐるんぐるんと右腕で2回ほど中空に弧を描くと、 「ごめんね、ちょっと取り乱しちゃって……もう、何とも無いから」 ウインクをしながら、笑顔でそう答えた だが、陰りはまだ微かに残っている。 「とにかく、中に入りましょう」 彼女自身、その事に気づいているからこそ、悟らせようとしない。 だから、ナギサは少し慌てたように3人を促したのだった。 そうして、彼女以外が酒場へと足を踏み入れた後。 (……ここに来るまでに、確か2つ) ナギサは再び、朽ち果てかけている灰色の壁を見つめながら、ここへ辿り着くまでの事を思い出し始める。 (でも、どうして……) 目の前にある、一見すれば単なる傷にも見える印らしきもの。 遠い昔とほんの少し前、2回は目にした事がある――はずだった。 更にこの場所でも2回。つまり、彼女は合わせて4回、この印を見た事になる。 だが、印はまるで意思でも持っているかのように、記憶に留まる事を拒んでいた。 それでもかろうじて思い出せたのは、ナギサがこれまでにも何度か目にした事があるからかもしれない。 先ほど3人に話さなかったのは、曖昧すぎる記憶と、重要かどうか確信が持てない、という理由だった。 (この島……やっぱり何かあるわね……) 記憶を辿る事を一旦諦めた彼女は、ようやく歩を進め始める。 これ以上、長居すれば、またラザに気を遣わせてしまう、と考えたからだ。 しかし、彼女はまた、名残惜しそうに足を止める。 そして家の強度を確かめるように、ゆっくりと壁に触れると、もう一度だけ視線を向けた。 この時、ナギサの碧眼に映っていたもの。 それは――――小さな球に片方だけ翼が生えているという、何処か哀しげな印だった。 次の話へ
|