第70話 「暴かれた罪」


「…………」

 全てがオレンジ色に染まりゆく時間――つまり、夕暮れ。
 先ほどまでは、不安を煽る暗雲が立ち込めており、空は泣き叫ぶように雨を降らせていた。
 しかし、今はもう何処にもそんな面影は無く、真っ白な雲が散らばっているだけである。

 リノたちがルザミを発ってから、早くも一日が過ぎ去ろうとしている。
 辿り着くまでは曖昧な輪郭としてしか捉えれなかった不思議な島は、出発する時には普通の島と同じようにくっきりと見えていた。
 だが、既に島の影は遠く彼方、肉眼はおろか望遠鏡でも確認出来ないほど離れてしまっている。
 にも関わらず、ナギサは船のへりにもたれかかり、夜を思わせる冷たい風に金色の髪とウサギの耳をなびかせながら、ずっと西の方角を眺めていた。
「…………ふぅ」
 唇から幾度と無く零れ落ちるのは、重苦しいため息ばかり。
 数時間は経つというのに、彼女は言葉らしい言葉を一向に紡ごうとしない。
「……ナギサ」
 彼女が佇んでいる場所は、舵のすぐ側だった。
 そして、今船を操っているのは、風になびく長い赤の髪を左手で押さえているラザ。
 だから当然、そのため息は彼の耳に嫌でも入ってしまう。
「…………何よ?」
 自分を呼ぶ声が呆れているように聞こえたのか、間を置いてから振り向いたナギサの顔は不機嫌そうだった。
 しかし、ラザにしてみれば、それはごく自然な事だ。その理由は大きく分けて二つある。
「……こっちまで気が滅入ってくるんだが」
 一つは自分だけの事。ため息というのは悩みがある時に生まれるものだ。
 いくら彼が流され易い性格ではないといっても、何度も聞いていればおかしな気分にもなってくる。
「一応、悪いとは思ってるわよ……でも、聞かせられる相手がラザしかいないんだから、しょうがないでしょ」
 理由は分かっていた。あの場に居合わせていたのは彼だけだったのだから。
 昨日の事。4人は老人に教えてもらったルザミの酒場で、パブロという男に出会った。
 そこで、名前も知らないある人物のために、祈ってやって欲しいと頼まれたのである。
 だが、ナギサは個人的に聞きたい事があると言って、一人パブロの所へ戻っていった――中々繋がろうとしない真実を求めて。
 その時、唯一ラザだけ彼女の様子がおかしい事に気づいたため、一緒に話をする事になったのである。
 ちなみに、ナギサはその事をまだリノとトラッドに話していない。
 だからこそ、ラザの前でしかため息を吐けないのである。
(まぁ、こうして素直に話してくれるのは嬉しいが……辛い事には変わりないな)
 そこでもう一つの理由。これも彼の事には違いないが、ナギサも全くの無関係とは言えない。
 何故なら彼女は――ラザが密かに想いを寄せている、特別な存在だからだ。
 当のナギサは、幸か不幸か想像すらしていないようで、薄々感づいているのは最も鈍いと思われるトラッドのみ。
 もしかすると、互いに自分の事には鈍いのかもしれない。リノはどちらに関しても鈍いようだが。
 何はともあれ、想い人が悩んでいる姿を見るのは忍びないという事である。
「いつからだ?」
 話を逸らすためか、それとも促すためか。ラザ自身、目的がはっきりしないまま、唐突に呟く。
「気づいたのは、もうずっと前……そうね、2人と出会って、それほど間もない頃かしら」
「つまり、考え込んだのは昨日が初めて、という事か?」
「……ええ」
 ナギサは神妙な面持ちで、唇から吐息にも似た音色を落としながら頷いた。
 しばし訪れる、深く重い静寂。それを察したかのように、吹きつけていた風はぴたりと止んだ。
 そんな束の間の夕凪の後、再び呼吸を始めた風に、金と赤の長い髪が中空に舞い上がる。
 しかし、今度は2人とも髪を手で押さえようとせず、沈黙を保ったまま、パブロとの会話を思い返し始めた。



「で、何が訊きたいんだ?」
 ナギサとラザ。2人の前で初めて椅子に座りながら、淡々と問いかける。
 立っているのが疲れたのか、この休憩も日課なのかは分からない。
「とはいっても、知らない事は教えられないが」
 ふと付け加えられた一言に、ナギサは表情も変えずに呟く。
「その点なら大丈夫よ。至って普通の事を訊くだけだから――少なくともルザミの人たちにとっては、ね」
 既に何か勘付いている、もしくは知っているとすら錯覚してしまいそうな声。
 そしてはっきりと彼を見据えている両の碧眼には、真剣そのものといっても過言ではない色を携えていた。
 口調こそ厳しいものの、そこに怒りはない。漠然と感じ取れるのは、ただ誰かを気遣う心だけ。
「……分かった。何でも訊いてくれ」
 パブロは先ほどの不躾な願いを聞き届けてくれた事も思い出してか、微かに感謝の気持ちを込めてそう呟いた。
「ありがと。じゃあ、まず一つ目ね」
 あるかないかも定かではない、彼のわずかな心の機微を察したナギサは優しく微笑んだ後、ゆっくり言葉を紡ぎ始める。
「さっき、外の世界に憧れた人がいる、って言ってたわよね?」
「ああ」
「だったら、外へ出ようとした人はいなかったの?」
 最初の質問は、少し考えを巡らせれば、誰にでも思いつく最もな疑問だった。
 確かにルザミには無数の爪痕が刻まれている。だが、木も緑も残っているのだから、全くの荒野というわけではない。
 つまり、苦難は伴うが、人間が暮らしていけない場所ではないという事だ。
 彼女の言う通り、その気にさえなれば例え海を渡るには不十分だとしても、イカダを作るぐらいは可能だろう。
 パブロは自分で注いだ紅茶を一口だけ飲み、満足げな表情を見せてから答える。
「勿論、いたさ。ただ、出られないからすぐに諦めたけどな」
「……結界ね?」
 受けたナギサは間髪入れず、短い言葉で問い返した。それも確信に満ちた音色で。
 そして、あまり驚きもせずに頷くパブロを視認すると、
「ただ……ここの結界って少し変なのよね……」
 彼女は右の人差し指で、艶やかな桜色の唇をなぞりながら呟く。
「どういう事だ?」
 その時、これまで静かに耳を傾けていたラザが唐突に疑問の声を上げた。
「例えば……山奥にあるダーマがモンスターに襲われないのは、結界で寄せ付けないようにしてるの。それはラザも分かるでしょ?」
「俺自身は分からないが、話には聞いている」
「本来結界っていうのは、数人の魔法使いが何か大切な物を守るために張られるものなのよ。まぁ、最後の鍵があった所は例外だけどね」
 ナギサの言う最後の鍵があった場所、というのは勇者であるリノだけが入れた、あの祠を包む結界の事だ。
「例外?」
「ええ。あくまで私の知る範囲では、だけど……入ってくる人間を選別する結界なんて、神様でもない限り無理ね。特にそうする理由もないし」
「じゃあ、何処が変なんだ?」
 いつもなら、おかしい、という所。
 自分でそう答えてから、ラザはふと彼女の口調が少しうつった事に気づき、恥ずかしそうに顔を逸らす。
 だが、ナギサは話に集中しているのか、気づかないまま話を続けた。
「ルザミの結界には、出入りを妨げるような力が全く感じられなかったのよ」
「……確かに妙だな」
 訝しげに顔を見合わせる2人だったが、
「探られる危険性を考慮した結果だ」
 これまで興味深そうに静聴していたパブロの、何の前触れも無い一言に素早く振り向いた。
 勝手に話し込んでしまったせいか、揃って申し訳なさそうな様子で。
 しかし、パブロは右手を軽く振りながら、まるで気にせずに続ける。
「一応、目隠しはされているが……もし、こんな海の真ん中で結界の張ってある島を見つけたら、誰かが破ろうと考えるかもしれないだろ? ありもしない宝を求めてな」
「それは分かるけど……なら、どうして出られないの?」
 事実、ナギサもラザも今はここにいないリノも、トラッドに指摘されるまで気づく事すら出来なかった。
 そうなると別の問題も出てくるが、彼女は敢えて考えようとしない。今はまだ。
「……あんたなら知ってるかもしれないが――――ほら」
 束の間の沈黙は迷いかどうかも分からない。殆ど隙を見せない酒場のマスターは、不意に白いシャツの袖を捲り始めた。
 露わになったのは、白く細長い腕。とてもではないが、畑仕事に向いているとは思えない。
 紅茶を淹れる時に失敗したのか、点在する古い火傷の痕が妙に生々しい、そんな腕だった。
「だから、私にも分からない事ぐらい――」
 つい甲高い声で否定しそうになったナギサだったが、
「……これ、って」
 火傷に紛れて刻まれている印を見つけると、すぐに言葉を失ってしまう。

 その印とは――――片翼を抱いた小さな円であった。

 刹那、碧眼に映っていた世界が少しだけ歪む。不規則に絶え間なく。
 それは今まで堅く閉ざされていた記憶の奔流だった。
「ナギサ!?」
 誰の目にも明らかな彼女の変調に、ラザは動揺を隠し切れない表情で名前を呼び、微かに震えている肩を優しく抱く。
 何故、今まで忘れていたのか。そんな疑問すら覚える余裕も無いほど激しい流れ。
「……片翼の……天使」
「やっぱり知ってたか。ルザミに住む者は、全員これを刻まれている」
 耳慣れない彼女の呟きに、パブロは感心の声を上げる。
「あの……ラザ?」
「大丈夫か?」
 そこでナギサはようやく気づいた。自分の両肩を柔らかく包む、温かい掌の重みに。
「ええ。ちょっと、驚いただけだから……その……」
「そうか。なら、いい」
 目を伏せて、珍しく言い淀む彼女に対し、ラザは安堵した様子で掌を遠ざける。
 だが、素早く顔を逸らすと、まるで別の感情を抑えつけるように紅茶を飲み、話を促した。
 その時、2人を眺めていたパブロは、おや、という顔で眉をひそめていたが、誰も気づいていない。
「ところで、その印……片翼の天使というのは?」
「焼印、ってあるでしょ?」
 こくりと頷くラザ。
「あれを熱じゃなくて、魔力に置き換えたものなの。だから、魔力印って呼ばれてるんだけど……まず由来から説明するわね」
 そうして彼女は目を閉じ、人差し指を唇に当てる。おそらく記憶の糸を辿り、言葉を纏めているのだろう。
 時間にして、約数十秒といった所でナギサは瞼を上げると、じっと待っている彼を改めて碧眼で見据えながら唇を開いた。
「言い伝えでは……神様の下で人間を見守り、変わった事があれば報告する役目を持った天使がいたの」
 彼女は一旦言葉を切り、静かに紅茶を飲んでいるパブロを見る。
 その視線に気づいた彼はナギサを一瞥した後、沈黙を保ったまま頷いて見せた。きっと続きが気になるのだろう。
「ある日、地上に落ちてしまったんだけど、好奇心が強かった天使はすぐに帰らず、人間と話をしようと思った。でも、一人の貧しい男は莫大な富を得るために、天使を捕まえて見せ物にした後、翼をもぎ取って売り払おうとした……」
「……それで?」
「男は翼をもぎ取った時に溢れた力の余波で、身体中の血を吐き出しながら息絶えてしまったの。そして天使も片方の翼を失くした上に、不可抗力とはいえ人間の命を奪い、身体が血に染まってしまって帰れなくなったの。神様の怒りを買って、ね」
 ナギサは渇いた喉を潤そうと紅茶を一口飲んだ。
「随分、後味の悪い話だな」
「だから、この魔法は禁忌とされてるし、別名『穢された天使』とも呼ばれてるわ。多分、こっちの名前の方が有名ね」
 嫌悪感を隠そうとせずに呟くラザへ、彼女はそう付け加えた。
「……この印は、普通に生活している分には何の効果もない。だが、ある条件を満たせば絶大な力を発揮する」
 そして、話が終わったと判断したパブロの言葉に、彼女は不機嫌そうに首肯し、再び聞き慣れない単語を口にした。
「ルザミに張られた結界――通称『欲望の檻』ね。少し構成は変えてあるみたいだけど」
 片翼の天使と欲望の檻。この2つが揃ってこそ、禁断の魔法は発動する。
 つまり、どちらか一方では何の意味も成さないという事だ。
「この印は使用者にしか消せない。だから、結界が解かれない限り、俺たちはこのままというわけだ。まぁ、そのおかげで生きていられるんだがな」
「どういうこと?」
 何の感慨も、憎しみすらも感じさせない口調でパブロは続ける。
「結界から力が注がれているんだ。少しでも長生き出来るようにな。構成が違うというのは、それと周囲の目を欺く部分じゃないのか?」
「……一体、何のために?」
「償い、と言えば聞こえはいいが、実際は自分たちが善人でいたいからかもな」
 ラザの問いかけに、彼は初めて吐き捨てるように告げた。
 結局、その偽善的な行為さえも保身のためだと言うように。
「でも……私、どうして今まで忘れてたのかしら……?」
 かける言葉が見つからないのか、ナギサは敢えて彼の言動には触れず、自分の疑問を口にする。
「それもアリアハンの奴らの仕業だ。禁忌とされているなら、記されている書物はそう多くない。だから、その全てに忘却の呪文が施されているらしい」
「なるほど、ね……随分、手の込んだ真似をするじゃない」
 その時ナギサは、ふと地図の話を思い出した。世界が丸いという事実を知りながら、何の書物から知ったのかが曖昧だった事に。
 忘却の呪文が掛けられていたのであれば、それも頷ける話だ。
「……それだけ必死だったんだろう」
 パブロは何かを思い出したのか、更に言葉を紡ぐ。そこには既に憎悪は感じられない。
「欠点としては魔力印が全身に馴染んで発動するまで、刻まれてから1週間はかかるという所か。だからこそ、奴らは頻繁に見回りに来ては、生まれて間もない子に片翼の天使を刻み、ついでに結界の綻びも直してから帰っていく」
 かつて世界最強と謳われたアリアハン。だが、それはあくまで剣に優れた人間が多いだけであり、強大な魔法使いを何人も擁しているわけではない。
 レーベの老人が作り上げた魔法の玉は高度な魔道具だが、それは唯一の例外に過ぎない。
 禁断の呪文を見つけたという事実からも、アリアハンの王は相当追い詰められていたのだと容易に想像出来る。
「……訊きたい話は、これぐらいか?」
「………………」
 これまでは確信が持てなかった数多の疑問。そして、今パブロの話によって明かされたルザミの秘密。
 ナギサはそれらを重ね合わせ、より深く推測する。ただ、真実へと近づくために。
 しかし、同時に迷いもあった。

 その渦中にいるにも関わらず、何も知らないであろう『かれ』を置いて――自分だけが足を踏み入れていいのだろうか、と。

「……もう少しだけ、いい?」
「ん? ああ」
 付き合いの長いラザさえも、あまり耳にした事のない、彼女の低く押し殺した声。
 だから、初対面のパブロが驚くのも無理はない。だが、彼はあまりそれを引き摺らず、すぐにいつもの無表情に戻る。
「例えばの話なんだけど……」
 ラザが息を呑む。しかし、その決して小さくない音さえも彼女の耳には届いてない。
 今のナギサは、それほどまでに緊張し、鋭く研ぎ澄まされていた。
「……言ってみな」
 つられて、パブロも真剣味を帯びた顔で、彼女の言葉を待つ。

「もし、片翼の天使が発動する前に――――島の外へ出られたとしたら、どうなるの?」

「……は?」
「いいから答えて」
 予想外の質問だったのか、パブロは視線を巡らせて考え込んだ。
「そうだな……あの印は、欲望の檻の中でしか発動しない仕組みになっている。だから、痕は残っても力は無いに等しいだろうな」
「やっぱりそうよね……でも」
 言葉から察するに、彼の答えはナギサの期待通りのものだったのだろう。
 だが、彼女は碧眼に陰りを滲ませたまま、感心した声で問いかけた。
「本当に詳しいのね」
「別に大した事じゃない。たまたまルザミに、何でも知ってる学者がいただけだ」
 賞賛を受けたパブロは、一切照れた素振りを見せない。
「その学者さんは、どうしてここに流されたの?」
「何でも世界が丸い、と言い出したのが罪だったらしいが……それが今や船乗りの間じゃ常識になってるんだから、上に立つ人間がよっぽど無能だったんだろうな」
「……そうね」
 ナギサが何処か悲しげに呟きながら席を立つと、ラザも少し遅れて彼女に倣う。
「ありがと。紅茶、美味しかったわ」
「そうか。なら、今回のお代はその言葉だけで十分だ」
 決して歴史には刻まれない、日常という名の空気を纏った言葉を交わした後、2人は酒場から立ち去ろうとした。
「あ、もう一つだけいい?」
「何だ?」
 しかし、ナギサが扉の前でくるりと振り返って尋ねると、パブロは少し疲れた顔で質問を促す。
「私の勘違いかもしれないけど……さっきの頼みって――誰に言ったものなの?」
 本当は勘違いとは思っていない。それは確信に満ちた口調からも明らかだった。
「……2人目……か」
「え?」
 だが、パブロは答える代わりに、誰にも聞き取れないぐらい小さな声で呟くだけだった。
「勘違いだったみたいだし、忘れてくれていいわよ」
「…………悪いな」
「気にしないで。私の方こそ色々訊いたんだから、これでお互い様でしょ?」
 ただ頷くだけの彼に、ナギサは優しく微笑んだ後、今度こそラザと共に酒場を後にした。
 そうして、一人になったパブロは、既に冷めてしまった紅茶を見つめながら呟く。

「髪も瞳も色が違うのに――どうして俺は、あのひとに似てるなんて思ったんだ……?」

 だが、その問いかけを聞く者も、そして答える者もこの場には存在しなかった。



「……話さないのか?」
 遥か東の方角。目的である島の姿は、未だ何処にも見当たらない。
「話す事は出来るわ。でも……それは真実じゃないもの」
 ナギサは髪をかきあげて、空を仰ぎ見ながらそう口にする。太陽はもう沈んだ後で、そこには三日月と星が闇を泳ぐ姿しか存在しない。
「推測を話して、不安にさせてもしょうがないわよ」
「そう……だな」
 何が正しくて、何が過ちなのか、きっと誰にも分からない。もしかすると答えすらないのかもしれない。
 だが、2人は仲間の事を想っている。それだけは確かだった。
 いつの間にか止んでいた風が、今日何度目かの産声を上げ、彼女は思い出したように髪を掌で押さえる。
 そして、静かに舵を取っている彼の下へ忍び寄ると、

「あの時は……ありがと」

 ナギサは背中同士を重ね合わせながら――恥ずかしそうに呟いた。

 予期せぬ彼女の行動に、ラザの心臓が一際大きく跳ねた。
「……ナギ……サ?」
 続けて紡がれた声も、当然のように震えている。
 今の彼がかろうじて感じ取れるのは、自分よりも小さな背中の温もりだけ。
「ラザが来てくれなかったら……きっと私一人で抱え込んでたと思う」
 ナギサは先ほどの呼びかけが、理由を尋ねているのだと思い込み、話を続ける。
「ほら、誰かと話すだけで気が楽になる事ってあるじゃない? 今、ちょうどそんな感じかなぁ……」
「それは……分かるが」
「だから、そういう意味のありがとうなの。ね?」
「…………ああ」
 そこでようやく、ラザは何処かへ忘れてしまった冷静さを取り戻した。
 しかし、まだ彼女の背中が遠ざかる気配は無い。
「……ナギサ」
「なあに?」
 返ってきたのは、すっかり明るくなったナギサの声。いつもの彼女らしい陰りのない音色だった。
 彼は早まる心臓の事も、緊張さえも忘れて安心した後、

「辛い時は……俺でよければ話してくれ」

 心に秘めていた想いを悟られないように、少しだけ言の葉に乗せる。
「え?」
「それで気が楽になるのなら……話に付き合うぐらいは出来る」
 今にも堰を切って、溢れ出しそうな想い。だが、それを伝えるわけにはいかない、と彼は必死で心を抑えつけた。

 まだナギサとは――ほんの一言も、昔の事を話していないのだから。

「……ありがと」
 彼女は一度深呼吸をしてから、まるで独り言のように礼を言う。
 耳を澄ませば何とか聞き取れる程度の、囁きにも似た音色で。
「その時はよろしくね。頼りにしてるから」
 遠ざかる背中と離れていく温もり。胸中にあるのは寂しさか安堵か、それとも両方なのかラザには分からない。
「じゃあ、戻ろっか? そろそろ夕食も出来てる頃だと思うし」
 しかし、ナギサの気持ちが少しでも軽くなったのならそれでいい、と思い、彼は舵から手を離した。
「ああ。今日は誰が作ってるんだ?」
「トラッドよ」
 他愛も無い会話を交わしながら、船室へとゆっくり歩き始める2人。


 再び見上げた夜空には、風で流されたのか雲一つ無く、月と星が何者にも気兼ねする事なく輝いていた。






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