第71話 「初めての感情」


 陽光を受け、千変万化の表情を見せる穏やかな水面。
 淀みどころか、雲一つ見受けられない青空は、まるで高い場所から見下ろした海のようでもある。
 今、自分は立っているのか。それとも漂っているのか。
 曖昧で頼りない感覚から醒めたきっかけは、水平線の途切れだった。
「……見えた」
 朝食を終え、珍しく甲板に集まっていた三人に、トラッドは抑揚のない声で到着を告げた。
 ほどなくして、船は少し複雑な形の海岸に接地する。
「船の上も嫌いじゃないけど、やっぱり長く離れてると陸が恋しくなるわねー」
 嬉々とした声で素直な気持ちを口にするナギサは、意気揚々とハリセンを振り回していた。
 しかし、トラッドは船から下りる用意もせず、覚悟を決めた様子で唇を割った。
「水を差すようで悪いが、向かうのは夜の予定だぞ」
「……へ?」
「後、話しておかなきゃいけないこともあるしな」
 とりあえず昼食の準備をする、と呟いて、彼が船室へ向かおうとした直後。
 最近では悲哀すら帯びている、景気の良い音が青空に吸い込まれていった。
 もはや説明不要とも言えるナギサのハリセンである。
「……で、理由は?」
 とりあえず気は晴れたのか、彼女は風になびく金色の髪を手で押さえながら、冷静な口調で問いかけた。
 機嫌を損ねたのは事実だが、他にも気になる点がある、とでも言いたげだ。
 というのも、これから向かうのは彼以外は初めての場所だった。
 視界が悪くなる上に、夜はモンスターの動きが活発になるのだから、太陽が出ている内に向かった方が良いに決まっている。
 だが、加害者のような扱いを受けている被害者のトラッドは、頭を押さえながら立ち上がると、
「……夜にならないと帰ってこないから、船で待った方が安全だと思ったんだよ」
 おそらく目的地である方角を見つめながら、ふてくされた声で返事をした。
 理に適った答えだ、とリノとラザは顔を見合わせて頷くが、それでもハリセンは、再び容赦のない音を響かせる。
「全く……そういうことなら、先に言いなさいよ」
 言葉こそ不機嫌そうだったが、相変わらず楽しんでいる様子のナギサ。
 しかし、リノは漠然とした不安を感じていた。
(……どうしたんだろ)
 こう見えてしっかりしているトラッドは、だからこそ何かと忙しいが、夜に向かう事を先に話しておく時間は十分にあったはずだ。
 にも関わらず、直前まで話さなかったのは何か理由があったのかもしれない、と思ったのである。
「……トラッド」
「ん?」
「あ、いや……その……」
 心配するあまり、思わず彼の名前を呟いてしまったリノは、咄嗟に返事が出来ず、顔を伏せてしまう。
 その行為が、逆にトラッドを心配させてしまう、と分かっていながらも。
「具合でも悪いのか?」
 予想通り、彼の唇から紡がれたのは、自分を気遣う優しい声。
 リノはとりあえず首を横へ振ると、彼の服の裾を指先で摘み、ゆっくり顔を上げた。
「よ、よかったら……昼食の準備、手伝ってもいい?」
「え? それは嬉しいけど……リノは当番じゃないだろ?」
「そう、だけど……」
 目が痛むほど澄み切った青空とは対照的に、澱みを深くしていく言葉。
「……料理を覚えたい、と思ったから」
「――え?」
「だから、今日みたいな機会があれば、教わりたかったんだけど……やっぱり迷惑か?」
 彼を一人にはしておけない、という気持ちは確かにあった。
 だが、簡単な物しか作れないリノが、彼から料理を教わりたいと思っていたのも、最近芽生えた素直な気持ちだった。
 なぜそう思い始めたかは、相変わらず分からないままなのだが。
「……じゃあ、お願いしようかな」
「…………いいのか?」
「ああ。折角だから、少し沢山作ろうか。その方が勉強になりそうだし」
 リノの黒い瞳に映ったのは、先ほどとは違って、何一つ翳りのない笑顔。
 トラッド自身、自分が料理を出来るとは思っていなかったが、他でもない彼女から教えて欲しいと頼られれば、やはり嬉しいのだろう。
「えっと……だから、リノ」
「何?」
 話が決まった直後、彼は苦笑いを浮かべながらトパーズの視線を下に向ける。
 そこにあるのは――
「……別に逃げないから、離しても大丈夫だけど?」
「あ……ご、ごめん」
 未だトラッドの服の裾を強く摘んでいる、リノの白く細い指先だった。
 言われて気がついた彼女は、顔を赤くしながら慌てて手を離し、更には距離まで取る。
 愛らしいリノの仕草に、見とれてしまったらしいトラッドの頬にもうっすらと赤みが差していた。
 しばらくは言葉もなく、困ったように立ち尽くしていた二人だったが、
「……行かないのか?」
 気遣っているらしいラザの一言をきっかけに、どちらともなく船室へ向かって歩き始める。
 こうして甲板に残されたのは、ナギサとラザのみ。
「……ねぇ、ラザ」
「何だ?」
 彼女はさほど深刻さが感じられないため息をついた後、困ったような笑顔を浮かべる。
「最近、あの二人を見てると、凄く複雑な気持ちになるんだけど」
「……安心しろ。ナギサより付き合いの短い俺でも、そう思うんだから無理はない」
 対してラザもよく似た表情で、だが彼女よりはまだ弾んだ声で、そんなことを呟くのだった。



 そして訪れた、少し遅めの昼食。
 パスタにグラタン、サラダやシチューと、トラッドの宣言通り、品数は多くなっていた。
 その中で、ナギサが真っ先に手を付けたのは、リノが作ったグラタンとトラッドが作ったシチュー。
「…………」
 普段なら小躍りしかねない勢いで食べそうな彼女は、黙々と食べている。
 それだけ真剣なのだろうが、それをもっと別の場所で活かして欲しい、とラザは胸中で呟くだけに留めた。
「……美味しい……?」
 一方、感想がないことに不安を覚えたリノは、おそるおそる尋ねてみた。
 問いかけを受けたナギサは、俯いたままゆっくり言葉を紡ぎ始めた。
「あ……うん。リノちゃんのグラタンは美味しいんだけど……ただ」
「ただ?」
「えっと……トラッド?」
「ん?」
 そこで彼女の碧眼は、銀髪の彼へと向けられる。
「また料理上手くなってない?」
「……そうか?」
 彼女の唐突な褒め言葉に、トラッドは疑問符を浮かべた。
 更に他の二人は、間を置いた後、うんうんと力強く頷いている。
「これだと、トラッドのお嫁さんになる娘が大変ねぇ……幸い、相手はいないと思うけど」
「……余計なお世話だ」
 少し傷ついた面持ちで返事をする彼は、ふとナギサがこちらを見ていないことに気づき、こっそり視線を追ってみた。
 彼女が見据える先にあったのは、自分の左隣でちょうどパスタを食べているリノの姿がある。
 相変わらず無表情には違いないが、身を包む空気は柔らかい。作った人間としては、やはり嬉しいものだ。
(まぁ、リノみたいに美味しそうに食べてくれる娘だったら――――)
 特に何かを意図したわけではなかったが、トラッドは自分の想像した光景に顔を赤くする。
「トラッド?」
「え? あ、いや……大丈夫、だ」
「……まだ何も聞いてないけど」
 そして、トパーズ色の視線に気づいたリノの呼びかけに、トラッドは一人取り乱してしまった。
 当然、ナギサがその致命的な隙を見逃すわけがない。
「ふうん……本当は何を考えていたのかしらね?」
「だから別になにも――」
「赤い顔で言っても、説得力なんかないわよ〜?」
「……っ!」
 賑やかで、一方的な二人のやり取りを、リノはきょとんと、ラザは呆れた顔で眺めている。
 だが、さすがに不憫だと思ったらしいラザは、
「ところでトラッド、何か話すことがあると言っていなかったか?」
 ため息をつきながら助け船を出した。
「……そういえば」
 トラッドはハッとなり、束の間喜びはしたものの、すぐに顔色を曇らせる。
 結局、どちらにしても話しにくい内容には変わりがないらしい。
「えっとだな……その……これから会いに行く相手の事なんだが」
「何よ?」
 困ったように右頬をかく彼に、ナギサは棘のある声で返事をする。
 楽しい一時に終止符を打ったのはラザなのだが、彼女の中では既にトラッドのせいになっていた。
 いつもの事といえばそうなのだが、当の標的にされている彼は自分の事で手一杯なのか、幸いにも気づいていない。
 そうして、しばらくは張り詰めた沈黙が漂っていたが、やがてトラッドは意を決して告白した。
「――海賊、なんだ」
「…………海賊って、前に話してくれた船乗りの知り合いの事?」
 しかし、リノが返した言葉は、彼にしてみれば全く予想外の答えだった。
「そうだけど……よく分かったな」
「何となく、そんな気がしてたから」
 船乗りと海賊。話を聞いている彼女なら、この二つが繋がってもおかしくはない。
 だが、続けられた言葉には、海賊という単語を出す前から気づいているような節があった。
「もしかして、それで話し辛かった?」
「え? あ、ああ……うん」
 確かに海賊と聞くと、一般的にあまり良いイメージではない。
 だからこそ、トラッドも中々言い出せなかったのだが、それはちょうど今謝ろうとした事だった。
 つまり、彼女は――自分が悟らせようとしなかった気持ちまで察していたのである。
「でも……ごめん。今まで話せなくて」
 トラッドの謝罪に、ラザは少しだけ微笑みながら話し始めた。
「まぁ、元々怒る理由も無いんだが」
「あら、どうして?」
「トラッドの知り合いに、悪い人間がいると思うか?」
「……それもそうね」
 彼のもっともな答えにナギサも納得し、くすりと笑う。
 つられてトラッドも、一瞬で先ほどまでの翳りを消し去って、顔を綻ばせていた。
 リノの気遣いも、この二人の信頼から生まれた言葉も、きっと本人たちにしてみれば当たり前の事なのかもしれない。
 それでも彼にとっては嬉しい事に違いなかった。感じていた些細な不安など忘れてしまうほどに。
「――――それに」
 ふと、リノが呟く。今にも消え入りそうであると同時に、確かな熱を帯びた音色で。
 しかし、いつまで経っても続く言葉は紡がれようとしない。
「リノ?」
「…………ううん、何でもない」
 彼女は黒い瞳に船室の丸窓から見える海を映し、トラッドの呼びかけに首を横へ振る。
 脳裏にはもう二度と会えない、心優しい海賊の姿を思い描きながら。



 緩やかに訪れた夜は、音もなく世界を闇夜で包み込んだ。
 四人は月の光を、おそらくは太陽の光ですらも頼りなく感じてしまうであろう、深き森を歩いている。
 先頭を歩くトラッドの足に迷いはなかった。
 時々立ち止まるのは、あくまで進むべき方角を確認しているだけのことだ。
 もしかすると目印があるのかもしれないが、一度や二度足を運んだだけでは分からないものなのだろう。
「ふぅ……やっと辿り着いたな」
 森の出口が見えた頃、トラッドは額の汗を拭い、安堵したように呟く。
「にしても、結構時間がかかったわね。船を降りた時は夕方だったのに」
「安全を考えて選んだ道が入り組んでたからな」
「ふぅん……他の道なら危険で、もっと時間が掛かったってこと?」
 こくりと頷く彼。ナギサも漠然と理由は察していたからこそ、機嫌を損ねてはいなかった。
「とにかく行――」
「誰だ?」
 トラッドが再び足を動かし始めた直後――わずかに非難するような声が響いた。
 四人の前に立ちはだかっていたのは、右手に長い剣を携えた緑眼の男。
 目にかからないぐらいの短い髪は、月明かりを受けても目立たない濃い茶色だった。
 着ている服は至って普通の形なのだが、全身が黒に近い灰色尽くめという、珍しい色遣いである。
 彼の背後には家というよりは砦に近い大きな建物があり、点在する小さな窓からは、小さな光が漏れていた。
 対してトラッドは、つい身構えようとした他の三人を右手で制すと、無警戒に歩み寄り、静かに一礼をした。
「戦う意志はないようだが……一体、何のためにここへ来た?」
「頭領に――トラッドが来た、と伝えて頂けませんか?」
 直後、彼は驚愕し、目を大きく見開く。
「もしや、あの時の……!? だが、なぜ――」
 その言葉を遮ったのは男自身の意志か、それともトラッドの首肯なのか。
 緑眼の彼は顔を伏せ、納得した様子で力ない言葉を口にする。
「……そうか。なら、似たようなものだな」
「どういう意味ですか?」
「お頭は数年前に亡くなった。だから、今はお前もよく知っているあの娘がお頭だ」
「……そうだったんですか」
 すると、彼は軽くトラッドの肩を叩き、
「なに、あれはよく出来た娘だ。まだまだ至らない部分もあるが、しっかりお頭の後を継いでるよ。心配する必要はない」
 気さくな口調でそう話すと、駆け足で砦の中へと戻っていった。
 一方リノは、そんな二人の会話に複雑な表情を浮かべていた。
 今のやり取りを見る限りでは、何も問題は感じられない。むしろ、予想以上に順調である。
 ただ、緑眼の男の紡ぐ言葉に、奇妙な違和感を覚えたのは事実だった。
 しかし、リノのより深くなろうとした思考の渦は、近づいてくる数人の足音によって途切れてしまう。
 いつの間にか目の前にいたのは、深海よりも蒼い髪を持ったナギサにも並ぶほどの美しい女性だった。
 髪の長さは太股まであり、邪魔にならないよう配慮しているのか、三つ編みで後ろに纏められており、微かに潮の香りが残っている。
 細く鋭い瞳は薄い紫色で、整った眉が太いせいか、何者にも屈しない力強い意志が感じられた。
 着ている服は深い赤で、袖も肩紐もない。長さはちょうど胸元から腰の辺りまであった。
 下は漆黒のロングスカートで、動きに妨げが無さそうなスリットからは、すらりと伸びた小麦色の足が顔を覗かせている。
「えっと……レイヴン、だよな?」
「…………」
 顔見知りであるらしいトラッドは、戸惑いを隠せない様子で名前を呼ぶが、彼女は返事をせずにじっと睨み付けていた。
 だが、そんな彼だけが気まずい沈黙も長くは続かず、
「……あんたがトラッドかい?」
 彼女は値踏みするような口調と緑眼の男とよく似た表情で、妙な質問を投げかける。
 間を置いて、彼がこくりと神妙な面持ちで首を縦に振ると、
「久しぶりだね……ずっと、ずっと心配してたんだよ……!!」
 レイヴンは瞳を潤ませながら、一回り大きいトラッドへと抱き着いた。
「……え?」
 その直後、誰のものか判別のつかない、二つの驚いた音色が重なって零れ落ちた。
 一つは完全に不意を突かれたトラッドのもの。
 ならもう一つは、とラザが声の聞こえた左側を盗み見ると――そこには顔を伏せているリノがいた。
「そ、それは分かった、から……!」
「どうしたんだい?」
「と、とと、とりあえず……は、離れてくれないか?」
 誰かに助けを求める事も忘れているトラッドは、ただ真っ赤な顔で慌てふためいている。
「ふふ……何を今更。照れるような仲でもないだろ?」
 しかし、レイヴンは女性の魅力が溢れる身体で、悪戯っぽく笑いながら、より強く彼を抱き締めた。
 まるで自分の成長を肌で感じ取って欲しい、とでも言うように。
 彼女の双肩に置かれたトラッドの両手には、もはや押し返すだけの力は無い。
 そもそも意識があるのかすらも怪しいのだが、ナギサのウインクだけで顔を赤くするぐらいなのだから、当然と言えば当然である。
 強引な上に一方的ではあるが、誰も声をかけられそうにない雰囲気。
 その時、唐突に終わりを告げたのは、これまで意図的に顔を逸らしていた――リノだった。
 相変わらず俯いたままの彼女は、早足で歩み寄ると、無言で二人の間に手を入れて無理矢理遠ざける。
 何処かナギサを思わせるリノらしくない行為に、さすがのトラッドも言葉を失ってしまった。
(あ、あれ……?)
 そしてリノ自身も、二人を引き離し、今は胸元で重ねている自分の両手を、訝しげに見つめている。
「アンタ……感動の再会に水を差すなんて、失礼じゃないかい?」
 不機嫌そうに頬を膨らませたレイヴンは、冷たい視線と声で彼女に詰め寄った。
 呆然となっていたリノは、その一言で我に返ると、自分の取った行動を思い出して顔を上気させる。
 だが、それも束の間のことだった。
「……トラッドが、困ってた」
 彼女はゆっくりと顔を上げ、震えた音色でそう呟いた。
 静かでありながらも、怒気や敵意の見え隠れする険しい表情で。
 彼女がここまで感情を露わにしたのは初めてかもしれない、と思えるぐらい激しいものだった。
「困ってた?」
 小さく頷くリノ。しかし、レイヴンにとっては予想外だったらしい。
「……そうなのかい、トラッド?」
 少し思案した後、彼女は気弱な口調で当の本人に問いかけた。
「…………」
 トラッドは答えない。いや、答えられないと言った方が正しい。
 確かに困っていたのは事実だ。
 それは先ほどの狼狽ぶりからも明らかなのだが、決してレイヴンが嫌いなわけではない。
 むしろ、大切な存在だからこそ、ここで頷いて傷つけたくないと思っているのだ。
(……かといって、また抱き着かれても……)
 しかし、首を横に振れば先ほどと同じ結果になる上に、自分のことを想って引き離してくれたリノを傷つけてしまう。
 だから、トラッドは何も言うことが出来ず、ただただ戸惑っているのである。
(全く……あそこまでされても気づかないのねぇ……)
 一方、珍しく沈黙を保っているナギサは、呆れた様子で隣にいるラザを見た。
 彼もよく似た表情でため息をついている所を見ると、考えていることは同じのようだ。
 更に、レイヴンの側にいる緑眼の男に、さり気なく視線を向けると、彼もまた苦笑いを浮かべていた。
 つまり、三人が思っていることはこうである。


 リノが強引に二人を遠ざけたのも。
 レイヴンが過剰な好意の示し方をするのも。
 自覚の有無に違いはあるかもしれないが、どちらも同じ理由で、果てしなく分かりやすい。


 にも関わらず、なぜトラッドは気づかないのか――――ということだった。


 いつものようにリノとトラッドの二人だけなら、ナギサも遠慮なくハリセンを炸裂させているに違いない。
 だが今は、初対面な上に、彼への想いを自覚しているレイヴンがいるため、いくら彼女でも手を出せないのである。
 もし、余計なことをすれば、この状況がより複雑になりかねないからだ。
 一向に終わりの見えない膠着状態。
「……そういえば、昔からそうだったね。久しぶりに会えた嬉しさで、すっかり忘れてたよ」
 終止符を打ったのは、遠い視線でトラッドを見つめるレイヴンの一言だった。
 どうやら彼の心境を察したらしい。
 一方、リノはというと、まるで表情を隠すように顔を逸らしていた。
「それと……失礼なことをしてすまなかった」
 しかし、レイヴンは気づかないまま、彼以外の三人に頭を下げる。
 自分の行いに非があると認めれば、素直に謝るという彼女の性格は清々しいものだった。
 好感を持ったナギサは、気にしなくていいと唇を開き掛けたが、
「せめてお詫びに礼をさせてくれないか? といっても、酒ぐらいしか用意できないけどさ」
 それよりも早く、レイヴンは歓迎の意を示す。
「それに何か用があって、ここへ来たんだろ? なら、その時に話も聞こうじゃないか」
 断る隙もあたえず、彼女は鮮やかに言葉を重ねる。
 更に駆け足で砦の中へ入ると、思い思いの時間を過ごす部下たちに宴の始まりを告げた。
 直後、多くの荒くれ者たちの、野太い歓声が辺りに響き渡った。
 あまりの目まぐるしい展開に、誰も彼も戸惑いを隠せないでいたが、
「……ここで断る方が、逆に失礼ってものよね!」
 既に飲む気十分らしいナギサの一声を合図に、ぎこちなく歩を進め始めた。
「まぁ、ナギサの意見はもっともだが……ほどほどにな」
 ラザも口調こそは呆れの色が滲んでいるが、何処か嬉しそうではある。
 あまり飲んでいる所は見かけないが、意外に酒が好きなのかもしれない、とトラッドは思った。
 そうして、ナギサとラザが一足先に砦へ入ったので、彼も後へ続こうとしたのだが、何を思ったのかくるりと踵を返す。
「……何?」
 当然、そのまま彼も中へ入ると思っていたリノは、不思議そうな顔で問いかける。
 するとトラッドは、酷く落ち込んだ様子で、呟きに唇を割った。
「……さっきは悪かった――――でも、ありがとう」
「え?」
 彼がなぜ謝り、礼を述べるのかが分からず、きょとんとなる彼女。
 だが、それを思案する前に、トラッドは顔をわずかに赤くしながら、理由を話し始める。
「こ、困ってた所を助けてくれただろ? だから、その……うん」
「あ……」
 意図を理解したリノは、さっと頬に朱を走らせるが、
「でも、どうして謝るの?」
 それを悟らせないように、上擦った声で素早く質問を続けた。
「……嫌なことをさせたと思って。間に割って入る時、無理してるように見えたから」
「そう……なんだ」
 彼が自分のことを気遣いながら、答えを口にしているのは、彼女にも分かっていた。

 それでもリノの胸は、形などないはずの心は――なぜか鈍い痛みを訴えていた。

「ト、トラッドは大切な、仲間だから……気にしなくても、いい」
 彼女は自分を偽るように、途切れ途切れの言葉を必死に繋ぐ。
 一瞬、目を丸くしたトラッドだったが、すぐに笑みを浮かべると、
「じゃあ、もし俺がリノを助けるような事があっても、リノも気にするなよ? それで、やっとお互い様なんだから」
 普段よりもずっと綻んだ声でそう告げた。
 そして彼は、そろそろ中へ入ろう、とトパーズの瞳で合図して、静かに右手を差し出す。
 しかし、リノはしばし戸惑いを見せた後、
「あ、あの……もう少し風に当たってからでも、構わないか?」
 彼に背中を向けて、少しだけ森の方へと歩いて距離を取った。
「だったら俺も――」
「ううん、一人でいい。それに、レイヴンさんも待ってると思うから」
「そっか。なら先に行くけど、モンスターには気をつけろよ」
 彼女の首肯を確認したトラッドは、後ろ髪を引かれる想いでその場を後にする。
 そうして一人残ったリノは、頼りない足取りで森へと歩くと、雲一つない夜空に浮かぶ半分の月を見上げた。
「………………違う」
 直後、零れ落ちた儚いため息と否定の言葉をきっかけに、再び心が痛みを覚え、激しく乱れ始める。


(二人を引き離した時――まるで悪い夢から覚めたみたい、だった)

 ただ思い出すだけで、トラッドが怪我をした時よりも、自分の身体の事を知られた時よりも、怖くて身が竦んでしまう光景。
 二人は、というより主に彼女は、純粋に再会を喜んでいただけだと言うのに。

 いつから自分はこんな醜いことを思うようになってしまったのだろうかと、そう自覚するだけで、また恐怖が心に浸食してくる。

(だから、本当に嫌だったのは……見たくなかったのは――トラッドとレイヴンさんが触れ合ってるところ)

 それから、彼女はぽつりとこう呟いた。


「でも……どうして……?」


 生まれた理由の分からない透明な雫を――――頬に伝わせながら。






次の話へ

目次へ