第73話 「初めての恋」


「っ!?」
 斧を投げようと左手をしならせたレイヴンだったが、表情には驚愕の色が浮かび上がっていた。
 何故なら、今まで気が緩む素振りなど見せなかったリノが、何の前触れもなく剣を落としたからだ。
 より熱が入るのなら、限界に達しようとしていた身体を奮い立たせるためだと、まだ理解も出来る。
 しかし、彼女の異変は全く正反対のものだった。
 それは疲労による集中力の乱れ、という生やさしいものではない。
 何らかの衝撃を受けた事による、誰の目にも明らかな戦意の喪失だ。
 不意に緊張が満ち溢れていた空気も、あれほど冴え渡っていた全身の感覚も、ゆっくり損なわれていく。
 レイヴンは舌打ちをし、自らの身体を止めようと試みるが、長年の月日をかけて洗練された動きを、咄嗟に変えられるはずもない。

 瞬間、彼女の抵抗も虚しく――――斧は指先から離れていった。
 曖昧で頼りない手応えだけを小麦色の掌に残して。

 中空に鋭い弧を描く黒き塊は、船を沈めるローレライのような歌声を紡ぎながらリノへと迫る。
「わたし、が……?」
 だが、呆然と呟く彼女には、何も見えていない。
 そんなリノに構うことなく、剣の柄は湿り気を帯びてわずかに固くなった砂上に落下する。
 支えを失くしたそれは、月光を受けて鈍く輝きながら、まるで大地に引き寄せられるように傾いた。
 刹那、これまで幾度となく生み出された金属音が、一際大きく鳴り響き、深い闇夜に吸い込まれていった。
 しかし、リノの耳に突き刺さったのは――決して聞き慣れる事などない、柔らかい何かが裂ける不快な音だけであった。
「ぁ……っ……!」
 甲高い苦悶の声に唇を割ったリノは、左腕を右掌で押さえながらうずくまる。
 同時に、指と指の間から溢れ出す数本の赤い線が、衣服や手袋だけでなく、砂の上にまで不吉な跡を刻んでいった。

 しかし、あの絶望的な状況から考えると、この程度で済んだのは奇跡以外の何者でもない。

 斧を止められなかったのは事実だが、レイヴンが咄嗟に気づいたおかげで、わずかに軌道が逸れていたのだ。
 その結果、リノが手放した剣と衝突し――彼女の腕を掠めるだけに留まったのである。

「リノ!」
 鎖を投げ捨てたレイヴンは、掠れた声で珍しく彼女の名前を呼んだ。もしかすると、まだ動揺しているのかもしれない。
 険しい表情で詰め寄った彼女だが、
「そんな、はず……ない」
 不健康に青みがかった唇が紡ぐ衰弱しきった音色に、思わず息を呑んだ。
 更によく見てみると、リノの黒い瞳は、人の身では宿すことなど叶わない虚無に彩られていた。
 それぞれの時間が止まってしまったかのような錯覚。
 だが、夜の風に一時の生を受けた波の音と、リノの腕から流れ落ちる赤い血は、確かな時の経過を訴えていた。
「アンタ、もしかして……いや、それよりも手当を――」
 慌てて懐から応急処置の道具を取り出そうとするレイヴンだったが、
「……いい。大丈夫、だから」
 リノは強い口調で、彼女の行動を制止すると、再び瞼を閉じた。
「ベホマ……!」
 桜色の唇が紡ぐのは、最高位の回復呪文。
 直後、優しい光が産声を上げ、少しの間だけ不安を掻き立てる闇を払う。
 破れた服や、流れた血は元に戻らないが、傷はみるみる塞がっていった。
「…………」
 軽く腕を回し、治り具合を確かめた後、リノは意を決したように顔を上げる。
「その目、は……?」
 そして、呪文の影響で血に染まってしまった瞳で、真っ直ぐレイヴンを見据えた。
「今、話すから……聞いてもらっても、いい……?」
 驚きを隠せない彼女に、リノは溢れる涙を拭おうとせずに話し始めた。
 赤くなる目や、自分の身体の事だけでなく――――トラッドと旅をした今までの事も。



 二人がその場に並んで座り込み、話を始めてから約一時間が過ぎた。
 未だ戻らない瞳の色を気にしているリノは、あまり顔を上げようとしなかった。
 しかし、レイヴンは穏やかな表情で月を見上げながら、彼女の言葉にじっと耳を傾けている。
 気持ちを察しているのか、元々気にしていないのか。レイヴンは明らかにしないが、どちらかと推測すれば、おそらく前者だろう。
「私とあんな風に話してくれた……初めての人だった」
「……アンタにも色々あったんだね」
 話を聞き終えた彼女が、少しだけ申し訳なさそうに言うと、リノは困惑した様子で曖昧に首肯した。
「それで、今はどうなんだい?」
「え?」
「だから、アンタの……って、しょうがないか。全く気づいてなかったみたいだし」
「あ……」
 ため息混じりの呟き。意味を理解したリノは雪のような頬を赤く染める。
 真っ白な吐息が中空に溶けていくのを目にしたレイヴンは、何となく持っていた上着を彼女に羽織らせた。
 その時、伝わってきたのは微かな震え。ふと下を見ると、勇者と呼ばれる少女の掌は砂の粒を握りしめていた。
「よく分からない、けど」
「けど?」
 リノは赤い瞳だけで彼女に礼を言った後、

「思い出すだけで顔が熱くなったり、胸が痛くなったりするのは――――トラッドしかいない……から」

 誰にも言えなかった自覚したばかりの想いを、生まれて初めて告白した。
「それに、ずっと一緒にいるって言ってくれた時……すごく嬉しかった……」
 落ち着いていたはずのリノの頬は、乾く間もなく、また濡れている。
 だが、それは束の間の事で、彼女はすぐに涙を拭って、弾かれたように顔を上げると、
「で、でも、レイヴンさんも……ごめん、なさい……ごめ、んなさい」
 震えた声で、精一杯の謝罪を繰り返した。
 レイヴンは視線を逸らすだけで、何も答えようとしない。
 そうして訪れたのは、戦っていた時とは異なる、気まずい沈黙。
 これ以上、紡ぐべき想いを見出せないリノは、罪悪感に顔を伏せたまま、自らの膝を抱きかかえている。
「……正直に言うとね、昔のアイツが好きだったんだよ」
 数分後、レイヴンは突然そんな言葉を口にした。
「昔、の?」
「無口ってわけじゃないけど、必要以上に馴れ合おうとしないところ、かな」
「そんな風に見えないけど……」
「ま、今のアイツからは想像できないだろうね」
 苦笑いを浮かべて、遠い過去の話をする彼女の声は、少しだけ掠れていて、酷く頼りない。
 だから、さすがのリノでも、彼女が嘘をついていると分かってしまった。
(でも、どうして……?)
 ただ、その理由が分からない。そもそも嘘をつく必要など、どこにもないはずなのだ。
「といっても、大事な友人には違いない」
 しかし、レイヴンは話を続ける。これは真実だ、とリノにも自分にも言い聞かせるように。
「つまり、部屋でアンタをからかったのも、勝負に誘ったのも全部……アイツを任せられるヤツか試すため、だった」
「そう、なんだ……」
 本当に彼女は、先ほどまで自分と争っていた相手なのだろうか。
 まるで現実味のない奇妙な感覚は、確かにリノの胸中で息づいていた。
「じゃあ……結果は?」
 不自然な会話が生み出す、自然な問いかけ。
 レイヴンはしばらく考え込んだ後、雲に半分覆われた月を眺めながら、こう答えた。
「合格、だよ。アンタ――いや、リノ以上に任せられるヤツはいない、っていうぐらいにね」
 相変わらず震えたままの、儚く優しい声で。


 少し用事がある、とリノを先に帰らせたレイヴンは、何をするでもなく暗い海を見つめていた。
 上に羽織っているのは、リノが立ち去る直前に返されたもので、愛用の斧は砂浜に突き刺さったままにされている。
 耳に入ってくるのは、ささやかな虫の鳴き声と、不規則な波の音色。
「変わったのはお互い様、か……でも、しょうがない、じゃないか……」
 夜の闇に溶ける、呟きと吐息。
 忘れていた寒さを思い出したレイヴンは上着を直し、はぁっと掌を温めてから、胸中で言葉を綴り始めた。
(本当は、分かってる……今のトラッドも好きだってことぐらい)
 この場には誰もいない。おそらく、リノも既に砦へ戻った頃だろう。
(でも……アイツを変えたのは、アタシじゃなくて――あの娘、なんだ……)
 レイヴンは何年も流す事のなかった透明な雫を、静かに砂上へと零れさせた。
(それにトラッドがどれほどリノを大切に想ってるかなんて……話を聞かなくても、分かってた)
 霞む視界は少し欠けた月を、より不完全なものへと歪めていく。
 しかし、自分が泣いている事に気づいていないレイヴンは、誰にも聞こえない声を重ねた。
(なら、アタシは間違ってない)
 その時、ようやく涙の存在を自覚した彼女は、頬を拭わずに両の掌で叩いた。
 冷気で感覚が薄れているのか、痛みは全く感じない。喪失感に埋め尽くされた心以外は。
(トラッドが幸せになれるんだったら……これが一番いいんだ)
 確かな決意を胸に立ち上がった彼女の瞳は、少しだけ穏やかになっていた。



 翌日。四人が目を覚ましたのは、既に太陽が傾き始めた後だった。
 リノはレイヴンとの戦闘の疲労が抜けきっていないようで、起きてからもしきりに瞼を擦っている。
 そして、トラッドはというと、
「……昨日、何があったっけ……?」
 痛む後頭部をさすりながら、昨夜のことを必死に思い出そうとしていた。ナギサのハリセンが炸裂した辺りの記憶は、幸いにも残っていないらしい。
 だが、元凶である当の彼女はというと、ラザと一緒に呻き声を上げている。
「うー……頭、痛い……」
「あれだけ飲めば、当たり前、だ……」
 二日酔いというのは一目瞭然なのだが、ラザもそうなのは珍しい。
「大体、何でラザまで……」
「付き合え、って言ったこと、覚えてないのか?」
「へ?」
「それなら理由も説明するが――」
「お……思い出したから、言わなくていいわよ……!」
 慌てて彼の口を塞ぐナギサが、酒に呑まれてしまった理由。それは、三つあった。


 彼女がレイヴンと部屋を出て、数分後の事だ。
 落ち着いたナギサは、ラザに身体を預けている自分に気づき、逃げるように距離を取った。それも、頬を桜色に染めながら。
 リノを心配する気持ちや、止められなかった不甲斐なさ。
 更に曖昧な気恥ずかしさに混乱した彼女は、残されたレイヴンの大ジョッキに酒を注ぎ出したのである。

「……飲むわよ」
「は?」
「だから、ラザも付き合いなさい……って、まさか断らないわよね?」
「別に構わないが……飲みすぎるなよ」
「大丈夫よ。自分の限界ぐらいは弁えてるから」

 その結果がコレである。確かに黙っておきたい話には違いない。
 ラザも理由を察していたからこそ、敢えて止めなかったのだが――自分も関係があるとは、夢にも思っていなかった。


「随分、のんびりしてるね」
 疲労、たんこぶ、二日酔い。
 四人がそれぞれ悩みを抱えながら、出発の準備をしていると、呆れ顔のレイヴンが入ってきた。
「よく眠れたかい?」
「ああ、おかげさまで……長居してすまないな」
 昔からの友人でも、丁寧に謝罪をするトラッド。
 しかし、これには別の意味も含まれていた。
 というのも昨夜、リノ以外の三人は、ここレイヴンの部屋で、そのまま眠ってしまったのだ。
「気にしなくていいよ。今更だろ?」
「……そう言ってもらえると助かる」
 いくら気心が知れているとはいえ、相手は海賊を束ねる頭領だ。本来なら叩き出されても仕方がない話である。
 だが、トラッドをよく知るレイヴンは、機嫌を損ねるどころか楽しそうに笑っている。言葉通り、全く気にしていないようだ。
 ちなみにリノは借りた毛布を三人に被せた後、別の部屋で休ませてもらったのだが、その事は誰も知らなかった。
「ところで……探してたのは、これかい?」
 急に真剣な表情になったレイヴンが、右手に持っていた袋から何かを取り出す。
 それは、まるで彼女の一途な性格を示すように、煌々と燃えさかる――赤のオーブ。
 在処を尋ねた時の口振りからすると、埃が積もっていてもおかしくないのだが、真紅の宝玉は少しも輝きを損なっていなかった。
「これって……!」
 トラッドは思わず絶句してしまった。オーブが目的でここを訪れたにも関わらず。
 話を切り出した時の反応の悪さから、譲ってもらえると思っていなかったから、というのもある。
「けど、譲ってくれるのか? 探すのも手伝ってないのに……」
 同時に昨夜の発言を思い出した彼は、きまりが悪そうな顔で呟く。
「全く……いいんだよ、そんなこと。それに探したのは、アタシの部下なんだから」
 しかし、レイヴンはやはり微笑みながら、返事を返した。
 その笑顔が、リノの目にはぎこちなく映ったのだが、気づいたのはおそらく彼女だけ。
 レイヴンの気持ちを察しているナギサとラザも、何か感づきそうなものだが、
「水って、こんなに美味しかったのね……」
「同感、だ」
 リノと彼女の会話を知らない事と、二日酔いで余裕がないため、そこまでは至らないようだ。
「誰でもないトラッドの頼みだからね。これが他のヤツだったら、適当にふっかけるところだけど」
「助かる……ありがとう」
「だから、気にしなくても……って、アンタは昔からそうか」
 レイヴンにつられて苦笑いを浮かべるトラッドは、差し出された赤のオーブを受け取る。
 それを彼が慎重かつ丁寧な所作で、床に置いてあった自分の道具袋へ詰めた時だった。
「……そういえば、トラッド」
「ん?」
 微かに不安の陰を帯びた表情で、再び彼を呼ぶレイヴン。
「嫌なことを訊いて悪いけど……サマンオサには帰ってないのかい?」
「……一度出て行ったきり、だな。それが?」
 種類の違う憂いが混じった音色と、聞き覚えのある言葉に、リノは準備の手を止め、わずかに顔を上げた。
 だが、二人は彼女の視線に気づかないものの、心なしか声を潜めて話を続ける。
「酷い有様、らしいんだ」
「酷い、って?」
「アンタの知ってるサマンオサ王は、どの国よりも民に優しい名君……だろ?」
「ああ。何せ護衛もつけないで城を出ては、誰彼構わずお茶に誘うぐらいだからな」
 知らない人が見れば、とても王様だと気がつかない。と、彼が楽しそうに付け加える様子からすると、かなり民に近い王のようだ。
 身分を隠してギャンブルに興ずるロマリア王とは違った方法で、より人々の生活に触れようとしていたのかもしれない。
「けど、今の王は……人が変わったなんてもんじゃない」
「……どういう意味だ?」
「人間ですらない」
「なっ……!?」
 トラッドは、ただ呆然となる。取り乱す事さえも許されずに。
「犬の鳴き声がうるさいという理由で、飼い主を死刑にするなんて真似……人間に出来ると思うかい……!?」
「っ……!」
「挙げ句の果てに、意見をした兵士まで死刑にする始末だ」
 一方、レイヴンは彼の動揺を予測していたのか、さして驚かずに知っている情報を話し始めた。
 返す言葉もなく、しばらく立ち尽くしていたトラッドだったが、
「そうだ……サイモンさんは? あの人なら、そんなことを許すわけが――」
 不意に怒りが滲んだ声で、ふと脳裏をよぎった人物の名前を口にする。

「サイモン……さん?」

 しかし、誰よりも早く反応を示したのは、出発の準備に集中しているはずの――――リノだった。
「……リノ?」
「ご、ごめん……! 知ってる人の名前が聞こえたから、つい……」
「い、いや! 怒ってるわけじゃなくて……どうして知ってるのかと思って」
「え?」
 酷く狼狽している彼女の様子に、トラッドはハッとなる。
「……もしかして、俺とレイヴンが内緒話をしてると思ったのか?」
「違うの? 声を潜めてたから、てっきり……」
「だったら、場所ぐらい……って、俺も紛らわしかったな。ごめん」
「ううん、私こそ……」
 リノは顔を赤くしながら、俯いている。おそらくは謝っているつもりなのだろうが、声は聞き取れないぐらい小さい。
 元々の性格というよりは、自覚し始めたばかりの気持ちに戸惑っているように見えた。
 その傍らでレイヴンは、わずかな変化も見逃さず、互いに気遣い合う二人の姿を微笑ましく思っていた。
 気持ちの上では、まだ割り切る事が出来なくても、自分の判断は間違っていなかった、と誇れるぐらいに。
「それで、サイモンさんのことなんだけど……父さんの親友、って聞いたことがあって」
「親友?」
「うん。何度か家にも遊びに来てたみたい。私は小さかったから、あまり覚えてないんだけど」
 しばらく考え込む素振りを見せたトラッドだったが、
「そっか。オルテガさんもサイモンさんも、勇者って呼ばれてたぐらいだし……知り合いでもおかしくないか」
 すぐに納得した様子で、独り言のように呟く。
 だが、彼の言葉に眉をひそめたレイヴンは、呆れた様子で問いかける。
「おかしくない、って……トラッドもオルテガとは会ってるだろ?」
「……え?」
 驚きの音色は二つ、ほぼ同時に奏でられた。
「何度か家に来てたじゃないか。そもそも、あの二人を引き合わせたのは、アンタの親父さんなんだし」
「父さん、が?」
 トラッドには全く身に覚えがないようだ。
「お菓子のおじさん……って呼んでたのは、どこの誰だっけ?」
 そこで彼女は冷たい口調に似つかわしくない、子供らしい単語を口にした。
「あ! って、あの人がオルテガ、さん……?」
 幼い頃の記憶にも関わらず、彼は瞬時に思い出したのだが、娘であるリノとしては少し複雑な心境である。
 それも無理はない。何故なら、自分の父親が知らないところで、愉快な呼び名を付けられていたのだから。

 レイヴンの話によると、トラッドの父親は恐ろしいまでに博識だった。
 しかも、殆どが自らの目で確かめたというのだから、当然信憑性も高い。
 だからこそオルテガは、情報を得るため、頻繁に彼の元を訪れていた。
 お菓子のおじさん、という呼び名はトラッドが名付けたもので、単純に毎回お菓子をもらっていたかららしい。
 ただ、二人が知り合った経緯に関しては、彼女も知らないようだった。

「それで、サイモンさんは?」
 説明が終わった事を察して尋ねるトラッドだが、レイヴンは答えずに顔を伏せる。
「レイヴン?」
「…………」
 その時、不意に彼女の足下に赤い雫が落ちた。
「レイヴン……?」
「サマンオサ王に……投獄された」
「え?」
「それも、どこか遠い場所に……!」
 彼女が血も滲むほど唇を噛み締めた意味を、トラッドは理解する。
 それだけの真実が、今の言葉には込められていた。
「そんなこと――」
「だからアタシは、人間じゃないって言ったんだよ」
 そして、詳しい事情を知らないリノにも、はっきりと分かってしまった。
 朧気にしか覚えていないサイモンという人物が、二人にとってかけがえのない存在だという事が。
「トラッド……サマンオサに行こう」
 考えるよりも先に、リノは言葉を紡いでいた。一心に彼の顔を、黒い瞳で見据えながら。
「そう言ってくれるのは嬉しいけど……俺の都合なのに」
「私にとっても、全く知らない人じゃない」
「でも――」
「それにトラッドの力になりたいって……いつも思ってる、から」
 彼女は強い声で告げた後、自分の行動に気づいて、慌てて顔を逸らす。
 そうして、決断を委ねられたトラッドは、彼女の態度に訝しげな表情を浮かべながらも、
「……ありがとう」
 感謝の言葉で、肯定の意を示した。
(本当に……敵わない)
 レイヴンがサマンオサの話を切り出したのは、彼の力を頼っての事だった。
 しかし、それを言う前に、リノが提案してしまった。問いかけよりも強い言葉で。
(やっぱりアタシの目には狂いはなかった、か)
 この時、彼女は初めて、心の底から素直に微笑むのであった。



「やっぱり出発するのね……」
「当たり前だ。酔い止めの薬ももらっただろ?」
「それは、そうだけど……まだ頭が痛いのよ……」
 夕闇が迫る世界。一行は船の前で立っており、トラッドは出発を渋るナギサを珍しく叱責している。
 後でハリセンが待ち受けてるのは容易に想像がつくのだが、きっと束の間の幸せを味わいたいのだろう、とラザは思っていた。
 ちなみに来る時よりも早く辿り着く事が出来たのは、レイヴンのおかげである。
 彼女の案内は、この辺りに居を構えるだけあって、トラッドの記憶よりも遙かに効率が良かった。
「これはよく効く薬だからね。二日酔いでも問題ないと思うよ」
 不釣り合いな群青色のガウンを身に纏い、得意げな顔で呟くレイヴン。手には用心のためか、愛用の斧を携えている。
 船で過ごす時間の多い彼女が言うなら、効果は十二分に期待出来そうだ。
「レイヴン、色々と世話になったな」
「……それは気にしなくても、いいけど」
 屈託のない笑顔で礼を告げるトラッド。だが、彼女の返事は歯切れが悪い。
「けど?」
「ちょっといいかい?」
「え? あ、ああ……」
 特定の感情以外には鋭い彼は戸惑いながらも、手招きをするレイヴンに歩み寄った。

 その直後。

「……ん」
「え?」

 彼女は精一杯背伸びをし――トラッドの右頬に軽く口づけをした。

「あ……」
 目の前の光景に呆然となるリノ。隣にいるナギサは、あら、と二日酔いも忘れて楽しげに笑っている。
 そしてラザはくるりと背中を向け、眉間に皺を寄せていた。どう受け取ってよいのか、迷った上での行動らしい。
「え、あ……な、なな、何を……!?」
 我に返って慌てふためくトラッド。顔は言うまでもなく、耳まで真っ赤になっている。
「……唇じゃないんだから、別に構わないだろ」
 そんな彼とは対照的に、レイヴンは落ち着いた様子で冷たく言い放つが、やはり頬は微かに上気していた。
 海賊の頭領といえど、彼女も年頃の娘。好きな相手にキスをしたのだから、こうなるのも当然である。
「そ、そういう問題じゃ――」
 素早く距離を取っていたトラッドは呂律の回らない舌で、至極真っ当な事を言おうとしたのだが、
「ていっ!」
 いつにもまして鋭いハリセンに、あえなく意識を手放した。最初に見た時は驚いていたレイヴンも、今度は楽しそうだった。
 更にナギサは、すかさず彼女の首に腕を回して耳打ちをする。未だきょとんとしているリノの顔を盗み見ながら。
「物好きよねぇ……レイヴンさんも」
「ああ、違いないね」
「ここまでされても気づかない男のどこがいいのかしら?」
「……全くだ。アタシの方こそ教えてもらいたいよ」
 そこでレイヴンは、少し離れた場所を見据え、
「リノー!」
 すっかり名前で呼ぶ事に慣れてしまった彼女を呼んだ。
「……な、何?」
 現実へと引き戻された少女が、弾かれたように顔を上げる。
「知ってると思うけど、こういうヤツだから……ちゃんと言わなきゃ、伝わらないよ?」
「え……あ……」
 リノは咄嗟に返事が出来ず、また俯いてしまったが、それは恥ずかしいからでも、ナギサやラザに知られたからでもない。
 レイヴンの清々しい表情と声に――罪悪感を覚えたからだった。
(私はやっぱり……違う、のに)
 彼女に差し込む翳りの本当の意味は、彼女にとってもまだ可能性でしかない。
 結局、三人はそれに気づく事無く、またリノも最後まで頷く事が出来ないまま、レイヴンと別れるのであった。


 そんな帰路の途中、レイヴンは唇を指先でなぞり、夕焼け空に向かって、儚い想いを紡ぐ。

「……想い出ぐらい、綺麗に終わらせてもいいだろ……トラッド?」

 今も尚、愛して止まない彼の温もりを思い出しながら。






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