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――リノの様子がおかしい。 トラッドが異変を感じ取ったのは、サマンオサへ向かって二日目の事。 一日目の彼は舵取り、彼女は食事の準備。 ほとんど顔を合わす機会がなかったので、すぐに気がつけなかったのだ。 とはいえ、リノは元々口数が少ないため、表面上はあまり変化がない。 それでも察する事ができたのは、彼女に対してトラッドが鋭いおかげだった。 (……きいて、みよう) そして、三日目の夕食後。彼は、ついに決心した。 「寒っ……」 星は全て隠れ、月すらも霞む、鈍い曇天模様の夜。 甲板に一歩踏み出したトラッドの第一声は、外気についての感想だった。 彼は二枚の毛布をぎゅっと抱き締め、はぁっと吐息を漏らした。 白い。純粋な白が、中空に溶ける。 闇夜においては、酷く優しいようで、どこか儚い。一抹の不安が、彼の胸中をよぎった。 「……とりあえず」 トラッドは辺りを見渡し、程なくして見張り中のリノを見つけた。 場所は船の先頭。彼女は進行方向の南側を見据え、立ち尽くしている。 「リノー!」 そして、トーンの一つ高い声で名前を呼びながら、小走りに駆け寄っていった。 「見張り……交代?」 「あ、いや。ちょっと早いんだけど……話があって」 「……そう」 だが、振り向くリノの表情はよそよそしく、瞳を合わせようとしない。何よりも声が冷たかった。 これでは、まるで――初めて会った時みたいだ、と。 彼は、アリアハンが一望できる、あの丘の風景を思い出していた。 「話って?」 不意を突いて、リノが呟く。だが、話の流れとしては、ごく自然な問いかけ。 それもトラッドが呆然となっていたせいだ。 「あ、ああ……うん」 しかし、どう切り出せばよいのか。 尋ねる覚悟は決めたものの、肝心の方法までは考えていなかったのだ。 しっかりしているようで、どこか抜けている。彼らしいと言えば、彼らしい。 「……トラッド?」 「えっと……ほら!」 「なに?」 「あの時、レイヴンの部屋で肖像画を見てなかったか? その……どうしたのかと思って」 「え……」 そこでトラッドは、記憶の片隅に引っ掛かっていた疑問を口にした。 リノも顔を上げ、ようやく視線を交錯させる。が、やはり一瞬。垣間見えた表情も強張ったままだ。 「み、見間違えかもしれないけど――」 「ううん……見てた」 しかし、リノはぽつりと遮る。 初めて温もりを教えてくれた、この人は。 どうして、こんな私の事を見守ってくれるのだろう、と想いつつ。 「昔……助けてくれた人に似てたから」 だから、かもしれない。咄嗟に嘘をついてしまったのは。 最後の鍵が眠っている祠で出会った『彼』に、額を合わせ、励ましてもらった事が、どうしても言えなかった。 彼女は自覚したばかりの気持ちを胸に、うっすらと赤い顔を伏せる。 「……そっか」 一方、トラッドは素っ気ない言葉を返した。自分から尋ねたにも拘わらず、だ。 いつもなら、考えるはずがない。何となく面白くない、などとは。 だが、少女の潤んだ音色に、彼は動揺していた。自分に向けられた感情だと、まるで気づく事もなく。 「……トラッド。私からも、いい?」 「え?」 直後、唐突な問いかけ。彼は疑問符を浮かべるが、曖昧に首肯もした。 当初の目的は、リノが纏う雰囲気の影響で、既に忘れている。 「ルザミでの約束、覚えてる?」 「あ、ああ。一緒に旅をする話だろ?」 「……うん」 「どこか行きたいところでも、見つかったのか?」 「えっと……そうじゃなくて」 忘れるはずもない。トラッドには、大切な約束だ。 あの時、こくりと小さく頷いたリノにとっても、きっと。 気持ちの大きさは比べる事ができない。けれど、そんな必要はない。 同じくらい大切で、優しい誓いだ、と。彼は、そう思っていた。 (……そう、だよな。やっぱり、リノは) 壁なんか作っていない。少し疲れているだけで、全部自分の思い過ごしだ。 トラッドはトパーズの瞳を輝かせ、じっと言葉を待った。 しかし、リノが紡いだのは。 「もう、忘れて……ほしい……」 深く静かな。それでいて、揺るぎない拒絶だった。 「……え?」 予想外の一言に惑うトラッドと、 「勝手なのは分かってる、けど……ごめん」 ひたすら謝り続けるリノ。 「なら、なんで! なんで、そんなこと――」 当然、彼には彼女が分からない。だからこそ、ひたすらに叫ぼうとする。 リノの下した哀しい決断と、今の理不尽な状況。 何よりもここに至るまで、また気づけなかった自分への不甲斐なさに。 「お願い、だから……っ!」 だが、リノは理由を答えず、相手すらも見ず、懇願を繰り返した。 (私は、やっぱり……トラッドと同じ……人間じゃ、ない、から…………忘れ、なきゃ) こんなにあったかくて、痛い気持ち、忘れなきゃ―――― 胸中では嗚咽しながらも、決して雫は落とさずに。 彼女は、全てから逃げ出すように顔を背け、走り去っていった。 「……リノ……」 残されたトラッドが、独り呟く。 「なんで、そんなこと……言うんだよ……」 心の内に漂う、ありとあらゆる感情を吐き出すように。 刹那、二人分の毛布は、ばさりと甲板に広がった。 出発して、五日目。 船はグリンラッドの陸を横目に、南へ進んでいく。ここまでくれば、レイヴンに教わった旅の扉がある祠は、目と鼻の先。トラッドの故郷であるサマンオサへは、三日と掛からないだろう。 「ごちそうさま」 そんな中、食べる以外に口も開かず、また話される事もなく。 静かな夕食を終えたリノは、早々に席を立つ。 普段なら、この後の予定を告げたり、洗い物を手伝うため、紅茶を飲むなどして待つところ。 また、食卓に華が欲しい、リノちゃんがいないと寂しい、などなど。ナギサがワガママを言う事も多々ある。 しかし、今日に限っては、何も起こらなかった。 リノが留まる事もなければ、ナギサが留める事もなかった。いや、できなかった。 こういう時、真っ先に声をかけるはずのトラッドも、虚ろに食事の手を止めただけだった。 「…………」 結局、最後まで誰も何も言えないまま、リノは部屋を後にした。 更に数分後。 「……ごちそうさま」 次に席を立ったのはトラッド。声は不機嫌そうだが、表情は落胆の色が強い。 「……トラッド」 ナギサは昨日察したリノの異変について尋ねようと、彼を呼び止めた。 こういった場合、彼が原因である事が多いという理由は、もちろんある。哀しい事に。 例えそうでなくても、解決の糸口ぐらいは掴めるかもしれない、とも考えていたからだ。 「何だよ?」 「…………舵と見張り、行っていいわよ。洗い物は片付けておくから」 「……ああ」 だが、実際に告げたのは、何の差し障りもない言葉。 聞き出すどころか、促す事すらできなかった。 ナギサが躊躇するほど、彼を包む空気は濁り、荒んでいたのである。 それから、ばたん、と。部屋を出たトラッドが、少し乱暴にドアを閉じたのは、間もなくの事だった。 「らしくないな」 「……そうね。自分でも驚いてるわ」 二人になった直後、呟いたのはラザ。ナギサは答えつつ、空になった全員分の食器を片付ける。 それから、まるで気分転換でもするように、ゆっくり流しへ歩いていった。 「いつもだったら、叩き伏せてでも白状させるところだけど……あんな顔されちゃ、ね」 彼も続けて立ち上がるが、向かう先は彼女と違う棚。 「手伝ってくれないの?」 「さっき、自分が片付けるって言ってなかったか?」 「ラザも数に入れたんだけど?」 しかし、彼は肩を竦めるだけで従わず、代わりに棚から袋と小さな砂時計を取り出した。 「どうあっても手伝うつもりはないが……紅茶ぐらいは用意しておこう」 「あら、随分と気が利くのね?」 すると、皮肉げな不機嫌さはどこへやら。 「それもステキなお手伝いよ」 ナギサは一仕事終えた後の紅茶を楽しみに、口笛混じりで皿洗いに取り掛かった。 (……少しは持ち直したか) 対してラザは、胸中で密かに安堵し、着々とカップやポット、砂糖をテーブルに並べていく。 ちなみに紅茶は、船酔い対策の一つとして、レイヴンからもらった物。 何でも、世界樹の葉が少し混ぜられた、貴重な一品らしい。 そのせいか、ナギサも最初は味に期待していなかったのだが、 (よっぽど好きなんだな) 初めて口にした二日酔いの夜以来、毎日一杯嗜んでいた。 しかも、その時の彼女の顔は、飲む前から決まって幸せそうにとろけている。 付き合いでしか紅茶を飲まないラザが、つい興味を持ってしまうほどに。 (……まぁ、貰おうとは思わないが) というより、譲ってくれそうにない。ただでさえ、紅茶好きの彼女だ。貴重な物なら尚更である。 ラザは苦笑しつつ、一人分の茶葉を温めていたポットに入れようとするが、 「あ、ラザ。ちゃんと二人分淹れてる?」 背中を向けたままのナギサが、手を休めずに釘を刺した。 「……は?」 「まさか、私を独りにするつもりだったの?」 「いつも独りで飲んでなかったか?」 「……呆れた。女心の一つや二つ、さっと理解しなさいよ」 束の間思案を巡らし、 (ああ、そういうことか) ラザは納得する。リノとトラッドの事を、彼女は引きずっている、と。 「……気を遣わなくてもいい。それに、残れと言われれば、残るつもりだったからな」 とはいえ、ラザも。それを理解した上で、彼女の分だけ淹れようとしていた。 「全く……分かってないわね」 だが、ナギサはため息混じりの声を落とした後、 「食事と同じで、紅茶も誰かと一緒の方が、ずっと美味しいのよ」 手を止めただけでなく、わざわざ振り返ってまで、そんな言葉を続けた。 「毎回は、さすがに悪いから誘わないけど……こういう気分の時ぐらい、付き合ってくれてもいいでしょ?」 自分ができる事は少ない。と、ラザは頷きながら思う。 「……言っておくが」 「なによ?」 しかし、何もできないわけではない。 「別に、紅茶は嫌いじゃない……だから、その……」 「もう……はっきり言ったら?」 ほんのささいな事。例えば、紅茶を一緒に飲むだけでも――彼女はとても嬉しそうにする。 「……いつでも、付き合うからな」 「へ?」 そう思った彼は、視線を外しながら呟いた。 「どういう風の吹き回し?」 「別に。まぁ、迷惑なら聞き流してくれて構わないが」 「そんなこと――」 咄嗟に返事をしかけたナギサだが、慌てて口を噤むと、 「ラ、ラザこそ気を遣わなくてもいいけど……………………じゃあ、時々は」 珍しく薄紅色の顔で、こくりと頷く。 そうして、片付けと準備が終わった、数十分後。 「はぁ……やっぱり、美味しい」 「ああ」 「……ラザ、初めて飲んだでしょ? この芳醇な味わいに驚いてないの?」 「いや、十分驚いているが」 「…………ホント、分かりづらい男ね」 二人は丸窓の向こう側、深みを増していく夜を眺めつつ、ちぐはぐなティータイムを楽しんだ。 更に時が流れる事、二日半。西の山に、陽が沈みつつある頃。 立ち込め続けた暗雲に、度重なるモンスターの襲撃。 不安を覚える要素は幾つもあった。 しかし、天候が崩れる事も、誰かが大きな傷を負う事もなく。 驚くほど容易い、順調な道のりを経て。ついに、四人は辿り着いた。 トラッドにとっては、忌まわしい記憶が眠る故郷――サマンオサへと。 このサマンオサという国は、昔のアリアハンのように閉ざされている。 鎖国という意味では酷似しているが、大きく異なる点が一つあった。 それは、周囲の環境だ。 アリアハンは島国。取り巻く海流は複雑だが、船で上陸できない事はない。 つまり、鎖国という姿勢を取ってはいるものの、侵入自体は可能なのである。 更に言うと、現在のアリアハンでは、誰もよそ者を嫌ってはいない。 ルイーダの酒場が冒険者で賑わっている事が、何よりの証拠だ。 もっとも、酔うと質が悪くなる冒険者に関しては、例えの外だが。 一方、サマンオサは険しく連なる灰色の山々に囲まれている。 北東に、海水の入り込んでいる場所はあるが、その手前は浅瀬。無理をすれば、間違いなく船が沈む。 加えて、グリンラッド南の小島にある旅の扉も、サマンオサ側に魔法を施された扉があった。 マネマネ銀から作られた最後の鍵がなければ、開く事は叶わなかっただろう。 もはや、鎖国というより、隔絶。それこそが、アリアハンとの大きな違いであった。 そんな厳しい印象とは裏腹に、大陸内部は新緑が豊かに芽吹いていた。 モンスターが多く棲んでいるため、不用意に森へは近づけないが、 「へぇ……結構、キレイな所なのね」 見る者の心を癒すには、十分な彩りだった。 だが、安らいでいた空気は一変する。ほんの一歩、城下町に足を踏み入れただけで。 「何があったんだよ……?」 レイヴンから聞いてはいた。酷い有様だ、と。 それでも、トラッドは驚きを隠せなかった。 想像を遙かに超える、故郷の荒れ果てた姿を前にして。 「……そうね」 そして、ナギサも。おそらくは彼と同じ心境で、呟きに唇を割る。 トラッドが振り返ると、リノやラザも。口には出していないが、表情で全てを物語っていた。 「昔はもっと……俺が町を出る前は……もっと、笑顔が溢れて、た」 にも拘わらず、今はどこにも面影が残っていない。 初めてサマンオサを訪れた三人ですら、はっきりと分かってしまうほど。 トラッドは、右手で銀色の髪をくしゃくしゃにした後、愕然とうなだれた。 とはいえ、町自体は無傷。過ぎ去った年月こそ感じられるが、損壊した建物はない。 一見すると、傷跡が生々しいルザミの方が、よっぽど酷い状況に思える。 しかし、町を歩く誰の瞳にも、光が宿っていなかった。夢も希望も、何もかもを失ったかのように。 本来なら珍しいはずの旅人にも、興味を持つ人間は皆無である。 「……とりあえず、宿へ行こう」 その時、何の前触れもなく、乾いた音が鳴り響いた。 (最初から……酷いのは、分かってたはずだ) わずかに驚いた三人はハッとなり、音がした方を向くと、 (それをどうにかするために、帰ってきたんだ) 赤い頬を携えたトラッドが顔を上げて、じっと故郷を見据えていた。 先ほどの音は、彼が自らの頬を叩き、気合いを入れ直した音色らしい。 (改めて現実を知っただけで……挫けるわけにはいかない……!) 彼は強い決意を胸に秘め、町の入口付近にある宿屋へと歩き出した。 だが、受けた衝撃は、まだ残っている。そもそも、簡単に拭い去れる出来事とも思えない。 気づいたリノは、いてもたってもいられなくなり、正面へ回り込んで、声をかけようとした。 自分勝手な理由で、彼を遠ざけた事も忘れ、 「……トラッ――」 代わりに、あの温かくて切ない気持ちを、二つの黒い瞳に滲ませながら。 が、次の瞬間。 「え?」 不意に、トラッドともラザとも違う、男の声が聞こえてきた。それも、すぐ傍から。 男が宿から出ようとした矢先に、彼女が進行方向へ割り込んでしまったらしい。 「わ……」 自分たちの位置から、死角になっていた。 四人がそう気づいたのは、リノが誰かとぶつかって倒れかけている直後。 「危ない……!」 しかし、身体は地面に落下せず、不自然な姿勢で中空に留まっていた。 素早く飛び出した青年が、彼女の腕を掴んだ事によって。 「あ……」 「大丈夫?」 「は、はい」 彼は小さく礼をした後、すぐさまリノの後頭部へ右手を回す。 それから、彼女を起こすだけでなく、体勢が安定するまで肩に手を添えた。 「ごめん。ちょっと考えごとをしてたから、気づけなくて」 「い、いえ……私が急に飛び出したりしたから……ごめん、なさい」 身体に触れる事への一礼や、起こした後を考えた所作。 こちらに非があるにも拘わらず、真っ直ぐな謝罪の言葉。 咄嗟でありながらも、隅々まで行き届いた心配りに、 (きっと……トラッドみたいに優し――) リノは思わず、後ろで佇んでいる彼の事を考えてしまい、慌てて両手をバタバタさせた。 「どこか怪我でもした?」 「え? あ……これは、その……違い、ます」 間髪入れずに、気遣う声がかけられる。 つられて、少し顔を上げたリノは、初めてまともに青年を見た。 彼は鋭い深海色の瞳を携えていた。 だが、髪はふわっと耳を覆う栗色で、全体的に柔和な印象を受ける。 身長はリノより頭一つ分高いが、すらりと細く、しなやかで。 健康的な肌色の顔立ちは、穏やかに整っていた。人混みに紛れ込んでも、目を引く容姿である。 宿から出てきたのだから、旅人かもしれないが、初対面には間違いない。 (でも……) しかし、不思議と。リノは懐かしさを覚えていた。 ふと気がつくと、彼も。右小指で髪を耳にかけながら、同じ表情を浮かべている。 そうして、二人が見つめ合って、数十秒を経た後。 「……もしかして、リノちゃん?」 先に沈黙を破り、教えていないはずの名前を呟いたのは、彼だった。 「…………え?」 それは、誰の声だったのか。 理解できないまま、我を忘れるリノ。 一方、確信に至ったらしい青年は、ぎゅっと手を握って、ぶんぶん振り回した。 しかも、落ち着き払っていた深海色の瞳は、喜びにすっかり幼くなっている。 「どうして名前を……?」 「ほら、覚えてない?」 「……そう、言われても」 「あ、そっか。お互い大きくなったし……久しぶりだからね」 すると彼は手を離し、また小指で髪を玩び始めた。どうやら、考えごとをする時の癖らしい。 「……あっ」 その何気ない仕草に、リノは目を見開き、ぼんやり唇を上下させた。 「…………お兄ちゃ――じゃなくて……! えと……ティルク、さん?」 だが、自分がつい紡いでしまった言葉に取り乱し、すぐさま訂正する。 「いいよ、お兄ちゃんで」 「でも――」 「実は、結構気に入ってたし」 「そ、そうじゃなくて……!」 「どうかした?」 苦笑混じりに、きょとんと尋ねるティルク。 動揺が続いているリノは、視界の端に映った布を掴むと、 「わわ、わたし、が……恥ずかしい、から……!」 真っ赤な顔を俯き隠し、途切れ途切れに呟いた。 「……うん。じゃあ、ティルクでいいよ」 少し残念そうな顔を見せるが、それも束の間。彼はリノの頭を撫で、淡く微笑んだ。 リノとティルクが、再会を喜び合っている中。 うっすらと状況を理解している、ナギサとラザはというと。 「ねぇねぇ、どういう関係だと思う?」 「……少なくとも、ナギサが期待するような関係ではないな」 ひそひそと、嬉しそうに内緒話に興じていた。もっとも、笑顔なのはナギサだけだが。 「そうかしら?」 「ああ。昔からの知り合いだろう」 しかし、彼女の表情は自信に満ちている。 ため息を吐いたラザが、目線だけで説明を求めると、 「まぁ、私もそう思うわ。もし、そうだったら、旅の途中で分かるもの」 ナギサはあっさりと、同じ意見を口にした。 「…………嘘がつけないからな」 「そういうのは、純粋で可愛いって言うのっ」 「……それで?」 一応、納得した表情で彼は促す。 「いい? 私たちは冷静に判断できるけど……一人、分からないヤツがいるのよ」 「……ああ、なるほど」 いつの間にか、碧眼はラザから外れており、少し前方を見据えていた。 視線は追っていない。が、彼も的確に同じ方角を盗み見ると。 「なのに、まだ気づいていない、か」 その先には、戸惑いながらも頬を膨らませ、右下方に顔を背けているトラッドがいた。 「良い意味で、自覚するキッカケなら問題ないけど……本当に、鈍いったらありゃしない」 怒りを滲ませながらも、どこか不安げな彼女。 (……ナギサも人のことは言えないと思うが) それを受けたラザは、胸中で呆れた感想を落としかけた――のだが。 「でも、リノちゃん……可愛くなったね」 突然、ティルクが紡いだ一言に、無理やり意識を引き戻した。 トラッドも弾かれたように顔を上げ、両の拳を固く握り締めている。 「あ、いや……そ、そんなはず……ない」 「ううん。昔から可愛いな、って思ってたけど……今は、もっと可愛いよ?」 「っ……!?」 三人の位置からは、リノの横顔がかろうじて見えない程度。 しかし、耳が真っ赤に染まっているため、表情は簡単に想像できた。 「……やっぱり、うん」 「え?」 ティルクは、更に続ける。真剣そのものと言える、深海の眼差しで。 そうして、ただ戸惑うだけしかできないリノに、ぽつりと呟いた。 「やっぱり、リノちゃんみたいな娘が好きだな、って――良い妻になってくれそうだしね」 間違いなく、誰もが言葉を失う。そんな、衝撃的告白を。 「…………」 「よかったら、どうかな?」 「え?」 「だから、お嫁さんの話」 「そ……それは」 だが、リノが何かを紡ぎかけた瞬間。 「あ、あの!」 これまで静かだった――いや、沈黙せざるを得なかったトラッドが、不自然に遮る。 「俺たち、急いでるから、その……失礼します!」 「わ……」 そして、強引にリノの手を引くと、逃げるように宿の中へと走り去っていった。 「えっと、ティルクさん?」 「はい? あ、すいません。挨拶がまだでしたね」 直後、取り残された二人が、沈痛な面持ちで彼に歩み寄る。 「……それよりも、申し訳ない。久々の再会だというのに」 「本当に、ごめんなさい。あの銀髪バカには、きつーく言っておきますから」 「うーん……じゃあ、お互いさま?」 「へ?」 しかし、ティルクは苦笑いを浮かべるだけ。まるで、怒っているように見えない。 ナギサは振り回していたハリセンを止め、思わず声を裏返らせる。 「ちょっと冗談が過ぎたみたいだし」 「じょう、だん……?」 「それで彼も、困ってるリノちゃんを助けようと、一生懸命だったんじゃないかな」 この時、二人は思った。 もし、本気だったら――トラッドに、まず勝ち目はない気がする、と。 「……ところで。まだしばらくは、サマンオサに?」 そんな想いを知る由もないティルクは、髪を小指で梳きながら尋ねる。 対して、まだ混乱中の二人は、言葉の代わりに首肯で答えた。 「だったら、また今度ゆっくり。構わないかな?」 「そうね……いいわよ。私も、お話したかったし」 「よかった。じゃあ、楽しみにしてるよ」 「ええ」 「それじゃ」 悪人には見えない。リノが警戒心を持っていない事からも、明らかだ。 純粋に興味を抱いたナギサは、笑顔で。 (リノとの関係……やっぱり、気にしてるな) 彼女の心境が、手に取るように分かるラザは、複雑な表情で。 それぞれ、遠ざかる背中を見送るのだった。 一方、その頃。宿の中では。 (トラッド、急にどうしたのかな……) 荒い呼気を落とす彼を横目に、リノは首を傾げていた。 (……怒ってた) ふと記憶に蘇ったノは、四日前の事。伴って、心がちくりと痛みを訴える。 (私のこと……嫌いになった、から?) そして、次々と、 (もう、笑顔も見たくない、って思ったから?) 彼女の一番恐れていた光景が、脳裏を掠めていく。 (でも、これで……優しくて、あったかい人を……傷つけなくて、いいんだ) しかし、同時に安堵もした。 一緒にいない方が、彼にとっては幸せだ。そう、自分に言い聞かせて。 だからこそ、リノは再び手放した。 すがるように掴んでいた、彼の服と――ひとひらの小さな願いを。 次の話へ
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