第74話 「懐かしき場所と存在」


 ――リノの様子がおかしい。

 トラッドが異変を感じ取ったのは、サマンオサへ向かって二日目の事。
 一日目の彼は舵取り、彼女は食事の準備。
 ほとんど顔を合わす機会がなかったので、すぐに気がつけなかったのだ。
 とはいえ、リノは元々口数が少ないため、表面上はあまり変化がない。
 それでも察する事ができたのは、彼女に対してトラッドが鋭いおかげだった。
(……きいて、みよう)
 そして、三日目の夕食後。彼は、ついに決心した。


「寒っ……」
 星は全て隠れ、月すらも霞む、鈍い曇天模様の夜。
 甲板に一歩踏み出したトラッドの第一声は、外気についての感想だった。
 彼は二枚の毛布をぎゅっと抱き締め、はぁっと吐息を漏らした。
 白い。純粋な白が、中空に溶ける。
 闇夜においては、酷く優しいようで、どこか儚い。一抹の不安が、彼の胸中をよぎった。
「……とりあえず」
 トラッドは辺りを見渡し、程なくして見張り中のリノを見つけた。
 場所は船の先頭。彼女は進行方向の南側を見据え、立ち尽くしている。
「リノー!」
 そして、トーンの一つ高い声で名前を呼びながら、小走りに駆け寄っていった。
「見張り……交代?」
「あ、いや。ちょっと早いんだけど……話があって」
「……そう」
 だが、振り向くリノの表情はよそよそしく、瞳を合わせようとしない。何よりも声が冷たかった。
 これでは、まるで――初めて会った時みたいだ、と。
 彼は、アリアハンが一望できる、あの丘の風景を思い出していた。
「話って?」
 不意を突いて、リノが呟く。だが、話の流れとしては、ごく自然な問いかけ。
 それもトラッドが呆然となっていたせいだ。
「あ、ああ……うん」
 しかし、どう切り出せばよいのか。
 尋ねる覚悟は決めたものの、肝心の方法までは考えていなかったのだ。
 しっかりしているようで、どこか抜けている。彼らしいと言えば、彼らしい。
「……トラッド?」
「えっと……ほら!」
「なに?」
「あの時、レイヴンの部屋で肖像画を見てなかったか? その……どうしたのかと思って」
「え……」
 そこでトラッドは、記憶の片隅に引っ掛かっていた疑問を口にした。
 リノも顔を上げ、ようやく視線を交錯させる。が、やはり一瞬。垣間見えた表情も強張ったままだ。
「み、見間違えかもしれないけど――」
「ううん……見てた」
 しかし、リノはぽつりと遮る。

 初めて温もりを教えてくれた、この人は。
 どうして、こんな私の事を見守ってくれるのだろう、と想いつつ。

「昔……助けてくれた人に似てたから」
 だから、かもしれない。咄嗟に嘘をついてしまったのは。
 最後の鍵が眠っている祠で出会った『彼』に、額を合わせ、励ましてもらった事が、どうしても言えなかった。
 彼女は自覚したばかりの気持ちを胸に、うっすらと赤い顔を伏せる。
「……そっか」
 一方、トラッドは素っ気ない言葉を返した。自分から尋ねたにも拘わらず、だ。
 いつもなら、考えるはずがない。何となく面白くない、などとは。
 だが、少女の潤んだ音色に、彼は動揺していた。自分に向けられた感情だと、まるで気づく事もなく。
「……トラッド。私からも、いい?」
「え?」
 直後、唐突な問いかけ。彼は疑問符を浮かべるが、曖昧に首肯もした。
 当初の目的は、リノが纏う雰囲気の影響で、既に忘れている。
「ルザミでの約束、覚えてる?」
「あ、ああ。一緒に旅をする話だろ?」
「……うん」
「どこか行きたいところでも、見つかったのか?」
「えっと……そうじゃなくて」
 忘れるはずもない。トラッドには、大切な約束だ。
 あの時、こくりと小さく頷いたリノにとっても、きっと。
 気持ちの大きさは比べる事ができない。けれど、そんな必要はない。
 同じくらい大切で、優しい誓いだ、と。彼は、そう思っていた。
(……そう、だよな。やっぱり、リノは)
 壁なんか作っていない。少し疲れているだけで、全部自分の思い過ごしだ。
 トラッドはトパーズの瞳を輝かせ、じっと言葉を待った。
 しかし、リノが紡いだのは。

「もう、忘れて……ほしい……」

 深く静かな。それでいて、揺るぎない拒絶だった。
「……え?」
 予想外の一言に惑うトラッドと、
「勝手なのは分かってる、けど……ごめん」
 ひたすら謝り続けるリノ。
「なら、なんで! なんで、そんなこと――」
 当然、彼には彼女が分からない。だからこそ、ひたすらに叫ぼうとする。
 リノの下した哀しい決断と、今の理不尽な状況。
 何よりもここに至るまで、また気づけなかった自分への不甲斐なさに。
「お願い、だから……っ!」
 だが、リノは理由を答えず、相手すらも見ず、懇願を繰り返した。

(私は、やっぱり……トラッドと同じ……人間じゃ、ない、から…………忘れ、なきゃ)


 こんなにあったかくて、痛い気持ち、忘れなきゃ――――


 胸中では嗚咽しながらも、決して雫は落とさずに。
 彼女は、全てから逃げ出すように顔を背け、走り去っていった。
「……リノ……」
 残されたトラッドが、独り呟く。
「なんで、そんなこと……言うんだよ……」
 心の内に漂う、ありとあらゆる感情を吐き出すように。
 刹那、二人分の毛布は、ばさりと甲板に広がった。



 出発して、五日目。
 船はグリンラッドの陸を横目に、南へ進んでいく。ここまでくれば、レイヴンに教わった旅の扉がある祠は、目と鼻の先。トラッドの故郷であるサマンオサへは、三日と掛からないだろう。
「ごちそうさま」
 そんな中、食べる以外に口も開かず、また話される事もなく。
 静かな夕食を終えたリノは、早々に席を立つ。
 普段なら、この後の予定を告げたり、洗い物を手伝うため、紅茶を飲むなどして待つところ。
 また、食卓に華が欲しい、リノちゃんがいないと寂しい、などなど。ナギサがワガママを言う事も多々ある。
 しかし、今日に限っては、何も起こらなかった。
 リノが留まる事もなければ、ナギサが留める事もなかった。いや、できなかった。
 こういう時、真っ先に声をかけるはずのトラッドも、虚ろに食事の手を止めただけだった。
「…………」
 結局、最後まで誰も何も言えないまま、リノは部屋を後にした。
 更に数分後。
「……ごちそうさま」
 次に席を立ったのはトラッド。声は不機嫌そうだが、表情は落胆の色が強い。
「……トラッド」
 ナギサは昨日察したリノの異変について尋ねようと、彼を呼び止めた。
 こういった場合、彼が原因である事が多いという理由は、もちろんある。哀しい事に。
 例えそうでなくても、解決の糸口ぐらいは掴めるかもしれない、とも考えていたからだ。
「何だよ?」
「…………舵と見張り、行っていいわよ。洗い物は片付けておくから」
「……ああ」
 だが、実際に告げたのは、何の差し障りもない言葉。
 聞き出すどころか、促す事すらできなかった。
 ナギサが躊躇するほど、彼を包む空気は濁り、荒んでいたのである。
 それから、ばたん、と。部屋を出たトラッドが、少し乱暴にドアを閉じたのは、間もなくの事だった。
「らしくないな」
「……そうね。自分でも驚いてるわ」
 二人になった直後、呟いたのはラザ。ナギサは答えつつ、空になった全員分の食器を片付ける。
 それから、まるで気分転換でもするように、ゆっくり流しへ歩いていった。
「いつもだったら、叩き伏せてでも白状させるところだけど……あんな顔されちゃ、ね」
 彼も続けて立ち上がるが、向かう先は彼女と違う棚。
「手伝ってくれないの?」
「さっき、自分が片付けるって言ってなかったか?」
「ラザも数に入れたんだけど?」
 しかし、彼は肩を竦めるだけで従わず、代わりに棚から袋と小さな砂時計を取り出した。
「どうあっても手伝うつもりはないが……紅茶ぐらいは用意しておこう」
「あら、随分と気が利くのね?」
 すると、皮肉げな不機嫌さはどこへやら。
「それもステキなお手伝いよ」
 ナギサは一仕事終えた後の紅茶を楽しみに、口笛混じりで皿洗いに取り掛かった。
(……少しは持ち直したか)
 対してラザは、胸中で密かに安堵し、着々とカップやポット、砂糖をテーブルに並べていく。
 ちなみに紅茶は、船酔い対策の一つとして、レイヴンからもらった物。
 何でも、世界樹の葉が少し混ぜられた、貴重な一品らしい。
 そのせいか、ナギサも最初は味に期待していなかったのだが、
(よっぽど好きなんだな)
 初めて口にした二日酔いの夜以来、毎日一杯嗜んでいた。
 しかも、その時の彼女の顔は、飲む前から決まって幸せそうにとろけている。
 付き合いでしか紅茶を飲まないラザが、つい興味を持ってしまうほどに。
(……まぁ、貰おうとは思わないが)
 というより、譲ってくれそうにない。ただでさえ、紅茶好きの彼女だ。貴重な物なら尚更である。
 ラザは苦笑しつつ、一人分の茶葉を温めていたポットに入れようとするが、
「あ、ラザ。ちゃんと二人分淹れてる?」
 背中を向けたままのナギサが、手を休めずに釘を刺した。
「……は?」
「まさか、私を独りにするつもりだったの?」
「いつも独りで飲んでなかったか?」
「……呆れた。女心の一つや二つ、さっと理解しなさいよ」
 束の間思案を巡らし、
(ああ、そういうことか)
 ラザは納得する。リノとトラッドの事を、彼女は引きずっている、と。
「……気を遣わなくてもいい。それに、残れと言われれば、残るつもりだったからな」
 とはいえ、ラザも。それを理解した上で、彼女の分だけ淹れようとしていた。
「全く……分かってないわね」
 だが、ナギサはため息混じりの声を落とした後、
「食事と同じで、紅茶も誰かと一緒の方が、ずっと美味しいのよ」
 手を止めただけでなく、わざわざ振り返ってまで、そんな言葉を続けた。
「毎回は、さすがに悪いから誘わないけど……こういう気分の時ぐらい、付き合ってくれてもいいでしょ?」
 自分ができる事は少ない。と、ラザは頷きながら思う。
「……言っておくが」
「なによ?」
 しかし、何もできないわけではない。
「別に、紅茶は嫌いじゃない……だから、その……」
「もう……はっきり言ったら?」
 ほんのささいな事。例えば、紅茶を一緒に飲むだけでも――彼女はとても嬉しそうにする。
「……いつでも、付き合うからな」
「へ?」
 そう思った彼は、視線を外しながら呟いた。
「どういう風の吹き回し?」
「別に。まぁ、迷惑なら聞き流してくれて構わないが」
「そんなこと――」
 咄嗟に返事をしかけたナギサだが、慌てて口を噤むと、
「ラ、ラザこそ気を遣わなくてもいいけど……………………じゃあ、時々は」
 珍しく薄紅色の顔で、こくりと頷く。

 そうして、片付けと準備が終わった、数十分後。
「はぁ……やっぱり、美味しい」
「ああ」
「……ラザ、初めて飲んだでしょ? この芳醇な味わいに驚いてないの?」
「いや、十分驚いているが」
「…………ホント、分かりづらい男ね」
 二人は丸窓の向こう側、深みを増していく夜を眺めつつ、ちぐはぐなティータイムを楽しんだ。



 更に時が流れる事、二日半。西の山に、陽が沈みつつある頃。
 立ち込め続けた暗雲に、度重なるモンスターの襲撃。
 不安を覚える要素は幾つもあった。
 しかし、天候が崩れる事も、誰かが大きな傷を負う事もなく。
 驚くほど容易い、順調な道のりを経て。ついに、四人は辿り着いた。

 トラッドにとっては、忌まわしい記憶が眠る故郷――サマンオサへと。


 このサマンオサという国は、昔のアリアハンのように閉ざされている。
 鎖国という意味では酷似しているが、大きく異なる点が一つあった。
 それは、周囲の環境だ。

 アリアハンは島国。取り巻く海流は複雑だが、船で上陸できない事はない。
 つまり、鎖国という姿勢を取ってはいるものの、侵入自体は可能なのである。
 更に言うと、現在のアリアハンでは、誰もよそ者を嫌ってはいない。
 ルイーダの酒場が冒険者で賑わっている事が、何よりの証拠だ。
 もっとも、酔うと質が悪くなる冒険者に関しては、例えの外だが。

 一方、サマンオサは険しく連なる灰色の山々に囲まれている。
 北東に、海水の入り込んでいる場所はあるが、その手前は浅瀬。無理をすれば、間違いなく船が沈む。
 加えて、グリンラッド南の小島にある旅の扉も、サマンオサ側に魔法を施された扉があった。
 マネマネ銀から作られた最後の鍵がなければ、開く事は叶わなかっただろう。
 もはや、鎖国というより、隔絶。それこそが、アリアハンとの大きな違いであった。


 そんな厳しい印象とは裏腹に、大陸内部は新緑が豊かに芽吹いていた。
 モンスターが多く棲んでいるため、不用意に森へは近づけないが、
「へぇ……結構、キレイな所なのね」
 見る者の心を癒すには、十分な彩りだった。
 だが、安らいでいた空気は一変する。ほんの一歩、城下町に足を踏み入れただけで。
「何があったんだよ……?」
 レイヴンから聞いてはいた。酷い有様だ、と。
 それでも、トラッドは驚きを隠せなかった。
 想像を遙かに超える、故郷の荒れ果てた姿を前にして。
「……そうね」
 そして、ナギサも。おそらくは彼と同じ心境で、呟きに唇を割る。
 トラッドが振り返ると、リノやラザも。口には出していないが、表情で全てを物語っていた。
「昔はもっと……俺が町を出る前は……もっと、笑顔が溢れて、た」
 にも拘わらず、今はどこにも面影が残っていない。
 初めてサマンオサを訪れた三人ですら、はっきりと分かってしまうほど。
 トラッドは、右手で銀色の髪をくしゃくしゃにした後、愕然とうなだれた。
 とはいえ、町自体は無傷。過ぎ去った年月こそ感じられるが、損壊した建物はない。
 一見すると、傷跡が生々しいルザミの方が、よっぽど酷い状況に思える。
 しかし、町を歩く誰の瞳にも、光が宿っていなかった。夢も希望も、何もかもを失ったかのように。
 本来なら珍しいはずの旅人にも、興味を持つ人間は皆無である。
「……とりあえず、宿へ行こう」
 その時、何の前触れもなく、乾いた音が鳴り響いた。
(最初から……酷いのは、分かってたはずだ)
 わずかに驚いた三人はハッとなり、音がした方を向くと、
(それをどうにかするために、帰ってきたんだ)
 赤い頬を携えたトラッドが顔を上げて、じっと故郷を見据えていた。
 先ほどの音は、彼が自らの頬を叩き、気合いを入れ直した音色らしい。
(改めて現実を知っただけで……挫けるわけにはいかない……!)
 彼は強い決意を胸に秘め、町の入口付近にある宿屋へと歩き出した。
 だが、受けた衝撃は、まだ残っている。そもそも、簡単に拭い去れる出来事とも思えない。
 気づいたリノは、いてもたってもいられなくなり、正面へ回り込んで、声をかけようとした。
 自分勝手な理由で、彼を遠ざけた事も忘れ、
「……トラッ――」
 代わりに、あの温かくて切ない気持ちを、二つの黒い瞳に滲ませながら。
 が、次の瞬間。
「え?」
 不意に、トラッドともラザとも違う、男の声が聞こえてきた。それも、すぐ傍から。
 男が宿から出ようとした矢先に、彼女が進行方向へ割り込んでしまったらしい。
「わ……」
 自分たちの位置から、死角になっていた。
 四人がそう気づいたのは、リノが誰かとぶつかって倒れかけている直後。
「危ない……!」
 しかし、身体は地面に落下せず、不自然な姿勢で中空に留まっていた。
 素早く飛び出した青年が、彼女の腕を掴んだ事によって。
「あ……」
「大丈夫?」
「は、はい」
 彼は小さく礼をした後、すぐさまリノの後頭部へ右手を回す。
 それから、彼女を起こすだけでなく、体勢が安定するまで肩に手を添えた。
「ごめん。ちょっと考えごとをしてたから、気づけなくて」
「い、いえ……私が急に飛び出したりしたから……ごめん、なさい」
 身体に触れる事への一礼や、起こした後を考えた所作。
 こちらに非があるにも拘わらず、真っ直ぐな謝罪の言葉。
 咄嗟でありながらも、隅々まで行き届いた心配りに、
(きっと……トラッドみたいに優し――)
 リノは思わず、後ろで佇んでいる彼の事を考えてしまい、慌てて両手をバタバタさせた。
「どこか怪我でもした?」
「え? あ……これは、その……違い、ます」
 間髪入れずに、気遣う声がかけられる。
 つられて、少し顔を上げたリノは、初めてまともに青年を見た。
 彼は鋭い深海色の瞳を携えていた。
 だが、髪はふわっと耳を覆う栗色で、全体的に柔和な印象を受ける。
 身長はリノより頭一つ分高いが、すらりと細く、しなやかで。
 健康的な肌色の顔立ちは、穏やかに整っていた。人混みに紛れ込んでも、目を引く容姿である。
 宿から出てきたのだから、旅人かもしれないが、初対面には間違いない。
(でも……)
 しかし、不思議と。リノは懐かしさを覚えていた。
 ふと気がつくと、彼も。右小指で髪を耳にかけながら、同じ表情を浮かべている。
 そうして、二人が見つめ合って、数十秒を経た後。
「……もしかして、リノちゃん?」
 先に沈黙を破り、教えていないはずの名前を呟いたのは、彼だった。
「…………え?」
 それは、誰の声だったのか。
 理解できないまま、我を忘れるリノ。
 一方、確信に至ったらしい青年は、ぎゅっと手を握って、ぶんぶん振り回した。
 しかも、落ち着き払っていた深海色の瞳は、喜びにすっかり幼くなっている。
「どうして名前を……?」
「ほら、覚えてない?」
「……そう、言われても」
「あ、そっか。お互い大きくなったし……久しぶりだからね」
 すると彼は手を離し、また小指で髪を玩び始めた。どうやら、考えごとをする時の癖らしい。
「……あっ」
 その何気ない仕草に、リノは目を見開き、ぼんやり唇を上下させた。
「…………お兄ちゃ――じゃなくて……! えと……ティルク、さん?」
 だが、自分がつい紡いでしまった言葉に取り乱し、すぐさま訂正する。
「いいよ、お兄ちゃんで」
「でも――」
「実は、結構気に入ってたし」
「そ、そうじゃなくて……!」
「どうかした?」
 苦笑混じりに、きょとんと尋ねるティルク。
 動揺が続いているリノは、視界の端に映った布を掴むと、
「わわ、わたし、が……恥ずかしい、から……!」
 真っ赤な顔を俯き隠し、途切れ途切れに呟いた。
「……うん。じゃあ、ティルクでいいよ」
 少し残念そうな顔を見せるが、それも束の間。彼はリノの頭を撫で、淡く微笑んだ。


 リノとティルクが、再会を喜び合っている中。
 うっすらと状況を理解している、ナギサとラザはというと。
「ねぇねぇ、どういう関係だと思う?」
「……少なくとも、ナギサが期待するような関係ではないな」
 ひそひそと、嬉しそうに内緒話に興じていた。もっとも、笑顔なのはナギサだけだが。
「そうかしら?」
「ああ。昔からの知り合いだろう」
 しかし、彼女の表情は自信に満ちている。
 ため息を吐いたラザが、目線だけで説明を求めると、
「まぁ、私もそう思うわ。もし、そうだったら、旅の途中で分かるもの」
 ナギサはあっさりと、同じ意見を口にした。
「…………嘘がつけないからな」
「そういうのは、純粋で可愛いって言うのっ」
「……それで?」
 一応、納得した表情で彼は促す。
「いい? 私たちは冷静に判断できるけど……一人、分からないヤツがいるのよ」
「……ああ、なるほど」
 いつの間にか、碧眼はラザから外れており、少し前方を見据えていた。
 視線は追っていない。が、彼も的確に同じ方角を盗み見ると。
「なのに、まだ気づいていない、か」
 その先には、戸惑いながらも頬を膨らませ、右下方に顔を背けているトラッドがいた。
「良い意味で、自覚するキッカケなら問題ないけど……本当に、鈍いったらありゃしない」
 怒りを滲ませながらも、どこか不安げな彼女。
(……ナギサも人のことは言えないと思うが)
 それを受けたラザは、胸中で呆れた感想を落としかけた――のだが。

「でも、リノちゃん……可愛くなったね」

 突然、ティルクが紡いだ一言に、無理やり意識を引き戻した。
 トラッドも弾かれたように顔を上げ、両の拳を固く握り締めている。
「あ、いや……そ、そんなはず……ない」
「ううん。昔から可愛いな、って思ってたけど……今は、もっと可愛いよ?」
「っ……!?」
 三人の位置からは、リノの横顔がかろうじて見えない程度。
 しかし、耳が真っ赤に染まっているため、表情は簡単に想像できた。
「……やっぱり、うん」
「え?」
 ティルクは、更に続ける。真剣そのものと言える、深海の眼差しで。
 そうして、ただ戸惑うだけしかできないリノに、ぽつりと呟いた。
「やっぱり、リノちゃんみたいな娘が好きだな、って――良い妻になってくれそうだしね」
 間違いなく、誰もが言葉を失う。そんな、衝撃的告白を。
「…………」
「よかったら、どうかな?」
「え?」
「だから、お嫁さんの話」
「そ……それは」
 だが、リノが何かを紡ぎかけた瞬間。
「あ、あの!」
 これまで静かだった――いや、沈黙せざるを得なかったトラッドが、不自然に遮る。
「俺たち、急いでるから、その……失礼します!」
「わ……」
 そして、強引にリノの手を引くと、逃げるように宿の中へと走り去っていった。 「えっと、ティルクさん?」
「はい? あ、すいません。挨拶がまだでしたね」
 直後、取り残された二人が、沈痛な面持ちで彼に歩み寄る。
「……それよりも、申し訳ない。久々の再会だというのに」
「本当に、ごめんなさい。あの銀髪バカには、きつーく言っておきますから」
「うーん……じゃあ、お互いさま?」
「へ?」
 しかし、ティルクは苦笑いを浮かべるだけ。まるで、怒っているように見えない。
 ナギサは振り回していたハリセンを止め、思わず声を裏返らせる。
「ちょっと冗談が過ぎたみたいだし」
「じょう、だん……?」
「それで彼も、困ってるリノちゃんを助けようと、一生懸命だったんじゃないかな」
 この時、二人は思った。

 もし、本気だったら――トラッドに、まず勝ち目はない気がする、と。

「……ところで。まだしばらくは、サマンオサに?」
 そんな想いを知る由もないティルクは、髪を小指で梳きながら尋ねる。
 対して、まだ混乱中の二人は、言葉の代わりに首肯で答えた。
「だったら、また今度ゆっくり。構わないかな?」
「そうね……いいわよ。私も、お話したかったし」
「よかった。じゃあ、楽しみにしてるよ」
「ええ」
「それじゃ」
 悪人には見えない。リノが警戒心を持っていない事からも、明らかだ。
 純粋に興味を抱いたナギサは、笑顔で。
(リノとの関係……やっぱり、気にしてるな)
 彼女の心境が、手に取るように分かるラザは、複雑な表情で。
 それぞれ、遠ざかる背中を見送るのだった。



 一方、その頃。宿の中では。
(トラッド、急にどうしたのかな……)
 荒い呼気を落とす彼を横目に、リノは首を傾げていた。
(……怒ってた)
 ふと記憶に蘇ったノは、四日前の事。伴って、心がちくりと痛みを訴える。
(私のこと……嫌いになった、から?)
 そして、次々と、
(もう、笑顔も見たくない、って思ったから?)
 彼女の一番恐れていた光景が、脳裏を掠めていく。
(でも、これで……優しくて、あったかい人を……傷つけなくて、いいんだ)
 しかし、同時に安堵もした。
 一緒にいない方が、彼にとっては幸せだ。そう、自分に言い聞かせて。


 だからこそ、リノは再び手放した。
 すがるように掴んでいた、彼の服と――ひとひらの小さな願いを。






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