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「……嬢ちゃん、そいつをどこで聞いた?」 リノの呟きに、すぐさま問いかけるカンダタ。一見したところ、態度は崩れていない。 「こいつは、そうそう表に出る言葉じゃねぇ。なら、よっぽどの原因があるはずだ」 だが、動揺までは隠しきれないらしく、音色は微かに強張っている。 「え、あ……その……言葉だけ。イシスの女王様、から。でも、詳しくは知らないって」 逆に驚いたリノは、全員の視線に戸惑いながらも返事をした。 彼女が聞いたという相手も意外だったが、 「あー……あの女は親父さんに惚れてたからな。国が少し力を入れりゃ、名前ぐらいは分かるだろうよ」 納得混じりに呟くカンダタの答えも、また予想外のものだった。 「惚れてって……あんな綺麗な人がっ!?」 黙する三人に代わり、ナギサが半ば狂乱気味に叫ぶ。 「トラッドの父さん……そんなにかっこいいの……?」 しかも、相当にショックを受けたらしく、独り言のような口調になっていた。 「その辺りはよく分からねぇが、この小僧とよく似てる」 「じゃあ、悪くはない、か……で、性格は良いの?」 一瞬、意外な感想を呟くナギサに、ラザは微かに目を見開く。 「不思議と人を惹きつけるのは確かだが……外見で男の良し悪しを判断しているようじゃ、姐さんもまだまだ未熟だな」 「あのねぇ……別にそれが全てだなんて、一言も言ってないわよ。それよりも、盗賊の眼って?」 しかし、彼女はカンダタの呆れた声に興味が失せたのか。 ラザのため息も聞こえないフリをし、言葉と手の仕草で話を促した。 「同じ力の持ち主しか感覚を共有できないようだが……要は、全てを見通す力だ」 「全てを、見通す……?」 「ああ。予知と言ってもいいだろう。あくまで動きに限った話だが」 この場にいる全員の意識が、銀髪の彼に注がれる中。 「トラッドは、そんな凄い力を持ってるのか?」 聞き役に徹していたラザが、組んでいた腕を解き、ぽつりと尋ねる。 「間違いない。例えば……そうだな」 だが、言葉ではどう綴っても補えない部分がある。 そこでカンダタは、しばし首に右手を当てて考え込んだ後、 「初めて戦った時のことは、覚えてるか?」 ラザ以外の三人に向き直り、二度の邂逅という共通点から説明を始めた。 「本当なら、嬢ちゃんたちに勝ち目はなかったはずだ」 「そうね。私は疲れ切ってたし、トラッドも怪我してたから……勝つのは難しかったと思うわ」 対してナギサは、万全の状態なら負けていない、という内容を暗に漂わせつつ、物静かに返答する。 負けず嫌い。不意にそんな言葉が、四人の頭をよぎった。ただ、誰も口にはしなかったが。 「なら、あの時……俺が毒針を避けられなかったのは、何故だと思う?」 「私が魔道士の杖で気を逸らしたからでしょ?」 続く質問に、ナギサが淡々と答えた。 「違うな。あれこそが、盗賊の眼の力だ」 しかし、カンダタは首を横に否定する。確信に満ちた音色を伴って。 「そもそも、気を逸らそうと考えたのは誰だ?」 「……あ」 「小僧だろ?」 無言でこくりと彼女。 「つまり、コイツが迷いなく決断した時点で、俺たちの動きは全て見抜かれていた、ってわけだ」 「……随分、デタラメな力ね。それじゃ、まるで呪文――」 と言いかけて、ナギサは口を噤んだ。 何故なら以前、トラッドの異質な鋭さに同じ感想を抱いた、と思い出したからである。 「呪文、か。巧い例えだが……何せ、場を狂わせるほどの力だ。もしかすると、それ以上かもしれねぇな」 確かに、彼の言う通り。これは呪文だけでなく、先読みの域すら超えている。どちらかといえば、トラッドにとって都合の良い現象を引き寄せる結界、といったところだろうか。 それだけに、人が扱うには過ぎた力。と、ナギサが思うと同時に、 「傍からじゃ偶然にしか見えねぇし、俺もその時の感覚を知っていたからこそ気づいたんだが……弱点もある」 カンダタは、その推測にもっとも近い言葉を漏らした。 「弱点?」 「親父さんが言うには、意識して使いこなせるシロモノじゃないらしい」 「……それって、全くアテにならないってこと?」 そこで、彼女がきょとんと要約すると、 「少なくとも、切り札にはならねぇな」 彼は的確に、致命的な答えを返した。 トラッドは妙にいたたまれない気持ちを覚える。ナギサですら不憫と感じてしまうぐらい、はっきりと。 それから、数秒程度の沈黙を経た後。 「…………とにかく。それが、どうして逃れられない理由に?」 幾分沈痛な面持ちで、リノが改めて疑問を投げかけた。 「盗賊の眼を持つ人間は、必ず世界に一人現れる。二人になるのは、先代から受け継いだ者と、これから受け継ぐ者が出会った時だけだ」 この場合。受け継いだ者は父親。受け継ぐ者はトラッド。四人は素早くそう理解し、神妙に頷く。 「でも、出会えるとは限らないんじゃ……」 「いや……と言っても、やはり受け継いだ人間にしか分からないことだが……」 カンダタは運命という不確かなものを断言し、更に語る。 「どうも大昔から、この二者は出会う事を約束されているらしい。おそらくは、勇者を助けるため――いるのかどうかも分からない、神によってな」 「……また神様」 リノはふと、最後の鍵を手に入れ、死んでからも守り続けた優しい彼を思い出していた。 「なんだ?」 「……ううん、何でもない」 だが、言えない。何故か、トラッドの前では。 そして、当の彼はというと。 「じゃあ、父さんは……それに従って……?」 まるで裏切られたかのように暗鬱と、落ち込んだ音色を零れさせていた。これまで信じてきた父親への想いを、神の定めた運命呼ばわりされたのだ。何も思わないわけがない。 「……ったく。これだから、ガキってヤツは……」 しかし、カンダタは露骨に顔をしかめる。 「おい、小僧」 「なんだよ……!?」 「例えどんな理由でも、どこの誰かも知らないガキに、愛情を与える大人がいると思うか?」 「え?」 「そりゃ、中にはそういうヤツもいるだろうよ。だがな、少なくとも親父さんは違う。かといって、自分を簡単にねじ曲げられる人でもねぇ」 「……断言、できるのかよ」 普段の穏やかさを消し、トラッドは口を尖らせる。酷く哀しい表情で。 「ああ。俺はお前よりも長く親父さんと一緒にいた。それぐらい知ってて、当たり前だ」 それでもカンダタは迷う素振りすら見せずに、力強く頷いた。相手を自分の事のように理解していなければ、とても紡げる声ではない。 「傍から見てても……正直、少し羨ましかったぐらい、自然な親子だったよ。お前らは」 「……俺だけじゃなくて、か?」 するとカンダタは唐突に席を立ち、ラザを横目に窓際へと歩いていく。 よく見ると、誰彼構わず射抜きかねない黒の瞳は、わずかに潤んでいた。その視線の先には、奇妙な形で生い茂る木々たち。 (いや……あれは) 家。というより、廃屋。かろうじて見えた窓らしき物に、ラザはそう判断する。 カンダタが物憂げに眺めるという事は、きっと彼らが住んでいた場所。今は使われていないらしい。 「……お前も分かってんだろ? わざわざ聞くなよ」 ラザが色々思考を巡らせていると。 彼は本人に宛てたような、それでいて独り言めいている呟きを落とす。 一方、その言葉を受けたトラッドは、唇こそ固く結んだままだが、ほんの少し嬉しそうである。 リノの前ではよく見せるようで、どこか異なる。柔らかくも初々しい表情。 彼は父親と。また、父親は彼と。血は繋がっていなくとも、心の通った仲の良い親子だったに違いない。 そう思わせるだけの雰囲気が、今のトラッドにはあった。 (やっぱり、誤解だったのね) ナギサは思わず微笑み、リノとラザへウインクをする。だが、それも束の間。 「じゃあ……あの時、本当は何があったんだ?」 と 最後に残された真相を問うトラッドの声に、再び緊張が満ちた。 忘れていたわけではない。ただ、思い出すのが憚られた、というだけの事。 とはいえ、状況は好転している。それは、今の質問からも明らかだ。 バハラタでナギサが覚えた疑問に、ようやく彼も辿り着いたのだろう。 「言ったよな? 俺がこの男を殺した、って」 「……ああ」 「でも……今更だけど、信じられない」 もし、カンダタが手をかけていないのであれば。 これまでトラッドが抱いてきた憎しみは、一体何になるのか。 意味を失うだけならまだしも、もし自分がカンダタの命を奪っていれば。 それは、彼だけでなく、支えてくれた仲間にも罪を感じさせる事になる。 誰一人命を落としていない現在の状況は、あくまで良い結果に過ぎないのだから。 だが、トラッドも覚悟を決めていた。 自分が間違っていたかもしれない事も。その時は、罪を償うべきだという事も。全てを理解した上で。 でなければ、尋ねられるはずもない。 しかし、それはあくまで覚悟を決めた"つもり"に過ぎなかった。 現に、彼がこれまで積み上げてきた世界は―― 「親父さんは…………俺をかばって、死んだ」 その一言で呆気なく、見知らぬモノへと変わり果てた。 「どう、して……」 「あの日は雨が降っていた。ちょうど今みたいにな」 はたと気づけば。囁いていたはずの雨は激しさを増して、一心に窓へ叩きつけられていた。 トラッドの心境を具現化したようでありながら、どこか嘲笑うように。 「俺は視界のせいでモンスターに気づかなかったばかりか、ぬかるんだ地面に足を取られ――」 「そうじゃない……!」 カンダタが状況を説明しようとした矢先。掠れた叫びが、鋭く遮る。 「……俺が、聞きたい、のは……!」 刹那、彼の唇から風鳴りが零れた。これまでにない感情に震えた喉が、少しおかしくなったのかもしれない。 トラッドをじっと見据え、カンダタは待つ。 一方、彼は両拳を固く握り締め、複雑な感情に唇を噛む。 それから、ぽたぽたりと。紅茶に落ちた赤い雫が波紋を広げた直後。 「なんで……あんな嘘、吐いたんだよ……!?」 トパーズに今までとは違う憎悪を滲ませつつ、トラッドは改めて問い詰めた。 「本当のことを話してくれれば……俺は、憎まずに……済んだ」 秘めていた告白は、血の滴りを伴って続く。 「兄のように思っていたアンタを……憎まなくても、良かったんだ……!」 「…………」 「そんなに……苦しめたかったのかよ」 「……いや」 「なら、答えろ!」 世界を巡り、様々なものに触れる中も。トラッドの心には、いつも闇があった。 これまで表に出さなかったのは、彼が言った通り、もっと大切な存在ができたからだろう。 だが、一度堰を切ってしまえば最期、止める術などない。 「親父さんは、俺に何かあったら小僧を頼む、と言っていた。それも、ことある毎にな」 「……え?」 激昂を繰り返し、肩で息をするトラッドに、カンダタはようやく重い口を開いた。 「にも拘わらず、お前は今にも後を追いそうだった……もう、覚えちゃいないだろうが……」 「…………」 「だがな、正直忘れたままでも良かった。俺のことをどれだけ嫌おうが、生きてさえいれば」 「……まさ、か」 不意に一つの推測が、トラッドの脳裏をよぎる。 「俺を憎む気持ちを生きる目的にする。あの時は、そんな最悪の方法しか……思い浮かばなかったんだ」 死臭漂う鮮明な記憶と、自分が覚えた果てしない絶望と共に。 カンダタを救うため、命を犠牲にした父親。 その彼はトラッドを生きさせるため、自身の気持ちを犠牲にしている。 感謝こそすれど、憎んでいいはずがない。何があっても、だ。 「ったく……どうも、情が移っちまったらしいな」 自分が何故そんな行動を取ったのか分からない。といった様子のカンダタは、困惑に身を委ねて、首に手を当てた。 「だが、お前が気に病む必要はない。これは、俺が勝手にやった――」 そして、悪いのは全部自分、という意の謝罪をしようとした瞬間。 「っ!!」 珍しく乱暴に、トラッドは椅子を蹴倒して立ち上がると、 「トラッド……!?」 名前を驚き叫ぶリノに構わず、部屋を飛び出した。 更に、彼女も。間髪入れずに、彼を追いかけていった。 「行かなくていいのか?」 それから、数分の静寂を経た後。カンダタはおもむろに、尚も留まる二人へ尋ねた。 「……そうしたいのは、山々なんだけど」 しかし、ナギサが動こうとする気配は、一向に見られない。 敢えて違う点を挙げるとすれば、ラザの目を見つめ、互いに頷き合ったぐらいである。 まるで何かを期待し、焦がれ、外へ出た二人を待ち続ける、とでも言いたげに。 「小僧のこと、心配してるんだろ?」 訝しげに思ったカンダタは、答えの分かり切っている質問を投げた。 「当然よ。大切な仲間なんだから」 「その割に、扱いが酷い気もするが」 「あら、そんなことないわよ。あれは私なりの愛情表現だもの」 「……そうは見えないぞ」 「ふぅ……ラザもまだまだね」 受けた二人は、カンダタの予想から少し外れてはいるものの、至って自然なやり取りを返す。 確かに、ラザの口調から察するに、普段の光景はきっと同情を誘うものに違いない。 が、同時に温かみも感じられる。二人が今交わしたのは、そんなやり取りだった。 「なら、どうして行かないんだ?」 カンダタは質問を変える。胸中では、先ほどの問いは必要なかった、と密かに反省しながら。 「きっと、リノちゃんが一番なのよ。トラッドのことに関しては、ね」 「兄さんは?」 「ああ。俺もそう考えている」 すると、今度は揃って、同じ意見を口にする。 一見すると、仲が良いのか悪いのか分からないが、 「……そうか。随分と信頼してるんだな」 もしかすると、これも彼らにとっては日常の一環かもしれない。 漠然と感じ取ったカンダタは、在りし日の自分たちと彼らの姿を重ね、初めて椅子に深くもたれかかった。 そうして、ぎしりという音が、部屋に横たわった直後。 「でも……ようやく、分かった気がするわ」 「何がだ?」 ナギサの半ば確信を秘めた一言に、ラザが問いかけた。 「トラッドの鈍い理由よ。普通、それも特定の感情にだけ、あそこまで疎くないでしょ?」 「それはそうだが……どういう意味だ?」 一方、傍らで聞いていたカンダタも、にわかに興味を示す。 彼女の言う感情とは。外へ飛び出した二人が、互いを想う深い絆。 二度の対峙で既に確信していた彼にとって、今更驚くような事でもない。 付け加えると、淡い心の聡い鈍いに、理由などあるのだろうか、とも。 などと、考えていると。 「きっと……トラッドの時間は、あの日から止まったままなのよ――そういう気持ちを知る前に、ね」 何となく金糸を耳にかけたナギサが、碧眼を細めて呟いた。それも、幼さの残る不釣り合いな声で。 かといって、カンダタを責めるような響きはない。どちらかといえば、自身に言い聞かせている感じだった。 「そんなこと有り得るのか?」 「それで、多分よ。けど、もしトラッドが復讐のことしか考えていなかったとしたら……それが一番自然じゃないかしら」 「……なるほどな」 しかし、彼女は首を横へ振って、こう告げた。 「でも、話すつもりはないわ。こんな推測、もう必要ないもの」 「小僧が全てを知ったから、か?」 次に唇を上下させたのは、知らぬ内に身を乗り出しているカンダタ。 思うところがあるのか、表情は芳しくない。 「ええ。後は立ち直ってさえくれれば、あの二人も少しは……ね? もっとも、当たっていればの話だけど」 「……随分と気に入ってるんだな」 「けど、こういうことって周りが口を出すわけにはいかないでしょ? だから、こっそり力になりたかったのよ」 最終的にどうするかを決めるのは、二人自身。だが、何かしら原因があるのなら、自分のできる事をしたい。 ナギサがずっと、胸中で秘めていた想いだった。 「もちろん、好奇心もあったけどねっ」 が、瞬間。ナギサはちょこんと舌を出し、艶のある苦笑いを浮かべ、答えた。 正直、色々なものを打ち壊した感はあるが、新鮮な表情は可愛らしい、と思ったのもまた事実。 相反する感想のギャップに、ラザは重いため息を吐きかけるが、 (……ん?) ふと、彼女の右手がシーツを握り締めている事に気づき、察する。 (まぁ、好奇心もあったんだろうが……本当に素直じゃないな) これは、半分照れ隠しなのだ、と。 「……だろうな」 だからこそ、彼は何事もなかったかのように、呆れ返って見せた。 無論、機嫌を損ねた時の恐怖がないとは言えないが。 「やっぱり……俺は間違っていたんだな」 その時、不意にカンダタが澱んだ声を落とす。 忌まわしい追憶。取り返せない後悔。突きつけられた無力感。 様々な負を渦巻かせた、罪の告白を。 しかし、彼に咎はない。それ以前に、正しさと過ちの境界線すら見えない。 もし、この場でカンダタを元気づけられる人物がいるとすれば――トラッドの父親ぐらいだろう。 と、そこまで理解しているにも拘わらず、 「……そうね」 瞼を下ろし、ウサギの耳まで取り外したナギサは、あっさり肯定した。 「いくら思いつかなかったとしても、憎しみを糧に生きさせるなんて……間違ってる」 更に重ねられたのは、研ぎ澄まされた言葉の刃。 うなだれるカンダタを横目に、ラザは彼女を止めようとした。 「ナギサ! 何を――」 「でも!」 だが、ナギサは一際甲高く遮ると、 「そのおかげで、トラッドはアリアハンに来て、もっと大切なことに気づくきっかけに出会えたのよ……だったら、全部が間違ってたわけじゃないわ」 一転して小さな声で、本当に言いたかった想いを紡いだ。 そして、雨粒の咆哮だけが、部屋に響く中。 「ったく……姐さんには、敵わねぇな」 カンダタは声を大にして、初めて豪快に笑った。 「それはどうも……ただ……」 「何だ?」 「その、姐さん、っていうの、止めてもらえない? 何だか、盗賊団の姐御扱いされてるみたいなんだけど……」 しかし、あっけらかんと流しそうなナギサは、頬を膨らませている。どうも、複雑な心境であるらしい。 「……あんたなら十分やっていけそうだけどな。兄さんもそう思うだろ?」 そこで、彼はすかさず話を振ったが、 「…………」 つい想像し、似合っていると思ってしまったため、ラザも否定できずに顔を逸らすだけだった。 おそらく怒りの矛先を向けられるであろうトラッドに、胸中で謝罪しつつ。 一方、その頃。 「はぁ、はぁ……」 黒髪から爪先まで雫を滴らせているリノは、呼気も整えずに走り彷徨っていた。 絶え間なく降りしきる雨のせいか、町には誰も歩いていない。 だから、だろうか。彼女の耳にこびりつく水たちの音は、より焦燥を掻き立てた。 (トラッド……どこ……?) 霞がかる視界。水を吸った服に重くなる足取り。まだ把握していない町の地理。 不安に拍車をかける要素だけが、リノの心を埋め尽くしてゆく。 もし、一度でも立ち止まってしまえば、きっともう歩けない。この空と同じように、泣き崩れてしまう。 (けど……今度は私が、支えなきゃ) だが、彼女は足の痛みも心の悲鳴も忘れて、ひたすらに歩を進める。 (こんな気持ち、忘れなきゃいけないけど……トラッドの力になりたい……!) 矛盾を含んだ彼への想いだけを胸に息づかせ、捜し続ける。 それでも叶わず、ついにリノが途方に暮れかけた時。 「あ……」 何となく、足を踏み入れられなかった町の北東。数多の墓標が並ぶ場所で。 冥福を祈るように。また、懺悔するように。誰かのひざまずいている姿が見えた。 「……トラッド!」 人影が形作る、曖昧な輪郭。たったそれだけで確信したリノは、銀髪の彼を呼んだ。 「トラッド……ここに、いたんだ……」 そして、頼りなく駆け寄りながらも安堵し、手を差し伸べようとしたのだが。 「…………いでくれ」 「え?」 捜し求めた想い人の紡いだ言葉は―― 「こっちに……来ないでくれ」 嗚咽に震える拒絶だった。 「でも……このままじゃ風邪を引く、よ……?」 「構わない」 「どうして……!?」 更にトラッドは振り向かず、墓標に額を当てたまま続ける。 「俺は、まがい物なんだ……何もかもが」 同時刻。 「そういえば、一つ気になっていたんだけど」 「なんだ?」 「トラッドのこと、どうして名前で呼ばないの?」 静かに帰りを待っているナギサが、同じ様子のカンダタに問いかける。 「小僧も似合ってるし、悪くないとは思うわ。でも、名前で呼んだ方が喜ぶんじゃない?」 彼は、しばらくの間を置いた後。 「……違和感がどうしても、な」 容量を得ない言葉を零した。 「違和感?」 ラザは思わず、一つ音階の上がった声で繰り返し、カンダタはそれに答えようとする。 「ああ。小僧が名乗っている、あの名前は――」 再び、雨中のサマンオサ。 「まがい、物?」 「間違った復讐も……この、名前でさえも」 「えっ……?」 尋ねるリノに、トラッドは弱々しく頷き、 「トラッド、っていう名前は…………本当は父さんの名前、だから」 誰にも口にしないと決めたはずの真実を、静かに告白した。 次の話へ
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