第77話 「後継」


 孤独な死を望み、旅を選んだ彼女。
 孤独な生を望み、復讐を選んだ彼。
 だが、それもかつての話。
 時に支え合い、時にすれ違うという同じ月日を重ねていく内に、薄れていった感情だ。
 そうして心を通わせていった二人は、本当の意味での仲間となり――その思いは、いつしか想いになった。
 目には見えない。けれど、確かにここにある、甘い痛みを伴った淡い気持ち。
 もっとも、自覚しているのは彼女だけで、彼は気づいていながらも理解していない。

 そして、現在。慟哭が響く空の下で。
 彼女は数日前に。彼は今まさに。
 深く想い合うがゆえに、互いが互いの差し伸べられた掌を掴めないままだった。


「……じゃあ、本当の名前は……?」
 激しい疾走を終え、熱くなっていたはずの身体は、既に冷め切ろうとしていた。
 止まない雨と、唐突に突きつけられた真実によって。
 リノは後に残された息苦しささえも忘れ、呆然と問いかける。
 しかし、トラッドは――いや、トラッドと名乗っていた銀髪の想い人は、
「……ないんだ。俺の名前なんて、どこにも」
 力なく首を横に、そう返事をした。
「昔から、小僧とかお前って呼ばれてたし、それを不便に思ったことも、名前が欲しいなんて言って困らせるつもりもなかった。でも、父さんが死んで、みんなと離れ離れになった後……俺は初めて、あの場所以外の自分が誰でもないことに気がついた」
 それを聞いた時、リノはランシールで彼が紡いだ言葉を思い出した。

『それに……リノはリノだから……俺はこれからも一緒に旅がしたい』

 全てを知った上で、自分を包み込んでくれた、あの温もりと共に。
 彼に名前を呼ばれる度に。リノは、リノという一人の人間として、見てもらえている気がした。そして、あの時は純粋に、そんな当たり前の事が嬉しくて、心強かった。
 だが、彼にはその当たり前のカケラがない。
 呼吸をし。怪我をすれば血を流し。何よりも心があって、想いを声に乗せる事ができる。
 加えて、瘴気を身に宿すリノからしてみれば、彼の方がよっぽど人間だ。
 にも拘わらず、目の前にいる優しい人には、呼んでもらえる名前がないのだ。
 それが、どれほど寂しい事で。また、どんな心境で名前を呼んでくれたのかも。
 リノにはとても想像がつかない。
「でも、父さんの名前を名乗った理由は……そうじゃない」
「え?」
「きっと、すがりたかっただけなんだ」
「ト――……あ」
 告白は続く。しかし、名前を呼ぶ事も叶わず、リノは口を噤んでしまう。
「そうすれば、俺も父さんみたいになれて……いつか父さんが、勝手に名乗ったことを叱りにきてくれるんじゃないか、って……思ってた。もう、一生逢えないことぐらい、分かってたはずなのに……それに」
「それ、に?」
 風が凶暴さを増す中、堪えるように言葉を待つ彼女。
 一方、ようやく振り向いた彼は、虚ろなトパーズの瞳で呟いた。
「……俺は、利用してた」
「利用、って……?」
「間違った復讐なんかのために、リノたちの優しさにつけ込んで……利用、してたんだ」
「っ……違う! そんなこと、ない……!」
 しかし、リノはきつく瞼を閉じ、激しく首を横に振る。
 彼は視線を墓標へ戻しただけだが、滲む空気は極めて否定的なものだった。
「でも、知らなかったんだから――」
「だからって……! 俺がリノたちと一緒に戦って、カンダタを殺そうとしたことは……事実なんだ」
 その時、一際大きな雫が雨に紛れて、大地へと吸い込まれていった。
「あ……」
 よく見ると、雫は赤が混じったトパーズの瞳から、とめどなく零れている。
 おそらくは宿を出てから、ずっと。真実が示す、所在の分からない罪に。彼は独りで泣いていたのだ、と。
 気づいた途端、リノの頭の中は真っ白になった。同時に彼女の両足は、一歩、また一歩と、いつの間にか歩み寄っていた。
 そうして、彼の左隣で膝を着いて、ぱしゃんと水しぶきを上げた後。
「トラッド……!」
 心に深く刻まれた名前を呟きながら――これまでのように、抱きつくでも抱きしめられるでもなく。

 リノは初めて自分から、トラッドを柔らかく抱きしめた。

「リ、ノ……?」
「ナギサも、ラザも、ヤヨイも……もちろん、私だって」
「え?」
 嗚咽が混じった彼女の声は、途切れ途切れに言葉を繋ぐ。
「誰もそんな、こと……思って、ない……っ!」
 不意に、ぽたりと。トラッドの頬に雫が落ちた。
 それは天の恵みである雨と違って、ほんのり温かい――リノの涙。
 胸元に抱かれているトラッドには、見る事もできないが、はっきりと分かる。
「……それにトラッドは、私の願い……叶えてくれた」
「リノの、願い……?」
 その時、彼女はだらりと下がった彼の手を握るが、酷く冷たい。雨風に長く晒されていたせいだ。
 リノは一瞬驚くものの、すぐに手袋を外してぎこちなく指を絡ませた。
 微かな温もりを伝え、分け与えるように。
「初めて会った時のこと、覚えてる?」
「あ、ああ」
 ほんの偶然、と言ってしまえばそれまでだが、二人にとっては全ての始まり。忘れられるわけがない。
「あの時は、もう諦めてた……人と話すこと、なんて」
「……え?」
「私のことを知ったらまた、って思うと……怖かった、から」
 リノは勇者の娘でありながら魔を身に宿す、矛盾を内包した存在。
 ゆえに、彼女は何もかもを失ったのだから、そう思うのも無理はない。
「もし、トラッドがいなかったら、誰とも話せないままで……ずっと、独りだったと思う」
「……違う。俺は何も知らずに、リノを――」
 それでも、自分がリノにとって、全てのきっかけだったとは思えない。
「リノを――ずっと……傷つけてた」
 むしろ、逆だ。テドンやランシールで知った彼女の事だけではなく、今も彼の事で。
 彼女に辛い思いをさせている原因は、全て自分にあるとしか思えなかった。
 とても直視できない。これまでのように、話す事なんてできない。
 穢れたトパーズに、彼女の澄んだ黒を映していいはずがない。
 しかし、少女はわずかに身体を離し、トラッドの両頬に雪色の掌を二つ添える。
「リノ?」
 そして、ゆっくり彼の顔を持ち上げると、
「……ちがう、よ」
 震える呟きに唇を割った。雨と涙でぼろぼろになった顔で、淡く微笑んだ。
 それは自然で、思わず息を呑んでしまうほど綺麗で。彼は、ただただ魅せられた。
 彼女がこんな表情をするのは、彼と一緒にいる時だけだとは、互いに気づく事なく。
「トラッドが全部知ってからも、支えてくれて、追いかけてきてくれたから……私もこうしたいって想ったの」
 リノは再び彼を、先ほどよりも強く抱きしめ、言葉を綴っていく。
「みんなと一緒にいたいって気持ちは……トラッドが教えてくれたの」
「俺、が?」
「うん。私には誰かの気持ちを察するなんて、できてない。けど、これだけは……トラッドがいつも私たちを支えてくれたことだけは……みんなが知ってる、一番確かな真実なの」
「…………」
「だから、私たちにも支えさせて欲しい、のに……トラッドに拒絶されたら、どうしていいか、分からない……よ」
「……ごめん」
「う、ううん。私こそ、こんな時にワガママ言って……ごめん、なさい」
 そう告げた後、嗚咽を吐き続けるリノに、トラッドは謝る事も許されない。
 自分が立ち直り、変わらなければ、何も言えない気がした。
 だが、たった一つだけ。どうしても伝えたくて、伝えなくてはいけない事があった。
「前にリノが言ってたこと……分かった気がする」
「な、にが?」
 トラッドはリノの双肩に掌を乗せ、とん、と遠ざけた――のも束の間。
「え? え――……あ」
 今度はトラッドが、リノをふわりと抱きしめた。
「ト、トラッ……ド?」
 更に彼は、右手をリノの頭に、左手を背中にそれぞれ回し、頬を頬に寄り添わせて呟く。
「俺もリノとこうしていると凄く落ち着くんだ、って……やっと、分かった」
「トラッド、も?」
「……うん」
 トラッドの返事には間があった。しかし、リノの問いかけも強張っていた。
 その理由は、酷く簡単だ。もちろん、紡いだ想いに嘘はないのだが、
(少し恥ずかしい、けど)
 と、互いに想いながらも、
(でも、私だけこんなの……ヘン、だよね)
(俺だけ、だよな……こういう風に思ってるの、って)
 互いに同じ気持ちだとは、気づいていないからである。
「だから、もう少しこのままで……いさせて欲しい」
 トラッドは彼女の髪を撫でて続ける。
「…………うん。トラッドが、落ち着くまで……こうしてて、いいよ。わ、わたしもトラッドとこうしてると、その……落ち着く、から」
 頬を桜色に染めたリノは、こくりと頷いた後、

「だから――……だから、もっと強く……抱き、しめて」

 零れそうになる想いのひとかけらを、熱帯びた唇に芽吹かせた。
 彼からの返事はなかったが、背中へ回された手にはいっそう力が込められる。
「……ん」
 わずかに身じろいで、リノも力を入れた途端、緩やかに気持ちが解け合った気がした。
(でも……ここ数日のリノは、どうして様子がおかしかったんだ?)
 しかし、徐々に雨足が弱まりつつある中。
 トラッドの心には、仄暗い陰が差し込み始めていた。



 それから、ほんの少し前。
 ナギサは一度部屋を出て、戻ってきた後、忙しなくたむろしていたのだが。
「名前。どうして、付けなかったの?」
 カンダタの話が終わるや否や、勢いよくテーブルに手を突いて、そう尋ねた。
 固く結ばれた唇。険しさを増した碧眼。声は普通だが、怒っているのは明らかだ。
「文字通り、俺も親父さんも三日三晩悩んだんだがな……」
「でしょうね。話から察すると」
「……数ヶ月後、小僧を船番に預けてルザミへ行った時、アイツが疎まれた捨て子じゃないと知った」
「それで?」
「で、もしかしたら、小僧の母親が考えていた名前が、って……要は、気兼ねしちまったんだよ」
 カンダタは話し終えて、一息吐く。
 一方、いつの間にか不機嫌そうに腕を組んでいた彼女は、
「……全く、親子揃って不器用なんだから」
 沈痛な面持ちで、ため息混じりに呟き、更に言葉を重ねた。
「傍から見てても、羨ましいぐらい親子だったんでしょ?」
「あ、ああ」
「だったら、付けてあげればよかったのよ」
「…………姐さんの言う通りだ」
 とはいえ、やはり責める響きがないのは、彼女も二人の人柄を察しているからだろう。
 だからといって、すぐに言葉が見つかるわけではない。
 そうして、誰も何も言えないまま、重苦しい時が流れ始めた直後。
 閉ざされていた扉が、不意に軋みを上げた。
 それぞれが弾かれたように振り返り、身を乗り出す。
「ただい、ま」
「その……ごめん」
 そこには、真っ直ぐに三人を見据える、リノとトラッドが立っていた。
「……おかえり。あんまり遅いから、心配――って、ちょっと!」
 呆れながらも安堵したナギサは、真っ先に笑顔で出迎えようとしたものの、
「ずぶ濡れなのは分かってたけど……まさか、風邪まで引いてきたの!?」
 二人の頬が朱に染め上げられている事に気づき、血相を変えて詰め寄ってきた。
「え、あ……こ、これは違う、の」
「あ、ああ。その、何て言うか……大丈夫、だから」
 確かに口調こそぎこちないが、実は二人の言う通りだった。
 何故なら、互いの温もりに落ち着いた後、互いに照れていただけなのだから。
 ナギサが知れば、もっと怒り狂う事は間違いない。
「そんな真っ赤で大丈夫なわけないじゃない!」
 その事に関しては、動揺している彼女に気づかれていないものの、別の意味では怒り狂っている。
「とにかく……リノちゃん!」
「は、はいっ!?」
 珍しくナギサに怒鳴られ、身を竦ませるリノ。返事も妙に丁寧だ。
「宿の人にお風呂を準備してもらってるから、早く入ってきなさい!」
 しかし、次の言葉に息を呑んだ彼女は、視線を泳がせた。理由は分からないが、明らかに戸惑っている。
「……リノが、先に入ってくれ」
「え?」
 が、直後。唯一、トラッドだけが迷いの理由を察し、彼女に入浴を促した。
「俺が出て行ったのは自業自得だけど、リノは心配して来てくれただけなんだから」
「で、でも……」
「大丈夫、俺も後で入るから。それに、頑丈さにも自信があるし」
 そう。リノは自分よりも長く雨に当たっていたトラッドを心配していたのである。
(……へぇ)
 少し後れて察したのはナギサ。取り乱していれば洞察力が鈍るのも当然だが、やはり回復は早い方だ。
 その彼女が、トラッドに感心していた。これもまた、珍しい事に。
(何があったのかは聞き出すつもりもないけど……いい傾向ね)
 リノにはトラッド。トラッドにはリノ。これまでも何かあった時、二人は互いを支え合ってきた。
 今回もきっと、と。ナギサだけでなく、ラザも半ば確信していたのは、紛れもない事実だった。
 とはいえ、人と人の絆は不可視のもの。いくらなんでも、絶対的な自信があったわけではない。
 だからこそ、目の前の微笑ましい光景は、ナギサもラザも純粋に嬉しかった。
(けど、トラッドに先を越されるなんて……一生の不覚ね)
 後れを取った事に関しては、やはり思うところがあるようだが、少し面白くない理由は他にもあった。
 二人には幸せになって欲しい、とは誰しもが願っている事。もちろん、ナギサも例外ではない。
 加えて言えば、リノにも良い変化が表れるかもしれない。女の子らしい会話にも、ついつい期待してしまう。
 一見すると、ナギサにとっても良い事尽くめである。
 となると、問題はトラッドの方。
 二人の仲が進展すれば、彼には隙がなくなるように思える。確かにそれも、良い事には違いない。
 しかし、彼への愛情表現の一つ。ハリセンを振るう機会が減るのでは、と危惧しているのだ。
 先ほどラザに告げた言葉は、嘘偽りのない本音だったのである。
 もし、実は一番状況を把握しているヤヨイが、今のナギサを見れば。
「ナギサさんってば……寂しがっちゃダメですよっ」
 などと、胸中で微笑み混じりに呟きそうで。

 そして、この複雑な乙女心らしきものを、ラザが知れば。
「……まぁ、機会が減ることはないと思うが」
 などと、胸中で呆れ混じりに呟きそうである。

「……リノ」
 一方、ナギサの心に気づかないラザは、リノへ歩み寄った。
 そして、厚手の布をぱさりと彼女の頭に掛けて、小さくこう囁く。
「トラッドは責任を感じている。部屋を飛び出したことだけでなく、リノに追ってきてもらったことにもだ。それは分かるな?」
「……う、うん」
「だから、もしリノが風邪を引けば……トラッドはますます自分を責めるだろう」
「あ……」
「何よりも、トラッドはリノを心配している。リノがトラッドを心配するように、な」
「…………分かった」
 まだ迷いを拭い去ってはいない。だが、それ以上に彼女がトラッドを想う気持ちは強い。
「早く、帰ってくるから」
 リノは上目遣いで彼を見た後、慌ただしく部屋を出て行った。
「……次はこっちね」
「へ?」
 そんな彼女を見送ったナギサは、すかさずトラッドにもう一枚の布を被せる。
「ちょ、ちょっと待……っ!?」
 更に、ナギサは布越しに頭を軽く叩き、
「いいから、ここで! じっと、してなさい!」
 不吉な予感に備える彼を、半ば強引に椅子へと座らせた。
 続いて、わしゃわしゃと。乱れ跳ねる銀糸に構う事なく、両腕をテンポ良く動かし始めた。
「ナギ、サ?」
「……なによ? 髪を乾かさないと、トラッドだって風邪引いちゃうでしょ?」
「それは……そうだけど」
「だったら、大人しくして」
 有無を言わせない迫力。トラッドはこくりと頷き、ぴたりと止まる。
 しかし、ぽかんとした表情が醸し出す疑問符は、未だに漂っていた。
「もしかして……私じゃイヤなの?」
「へ?」
 唐突にナギサは、布でトラッドの視界を覆い、哀しげな声色で尋ねる。
 理由は簡単。楽しげな顔を隠し、彼を騙すためである。
「やっぱり、リノちゃんの方が良かったんだ?」
「……何でリノの名前が出てくるんだよ」
「可愛いから」
「それは、俺も思――じゃなくて!」
 巧みな話術。思わず本音を零しかけたトラッドは、慌てて口を噤む。
 当然、頬だけでなく、耳まで赤い事は言うまでもない。
 さすがに堪えきれなくなったナギサは、小さな笑い声を落とした。
「……ラザ、気づいてただろ」
「ああ」
「なら、止めてくれよ……」
 ようやく察したトラッドは、素知らぬフリのラザに告げる。
「より酷い目に遭わされると分かっていても、か?」
「……そうか。うん、そうだよな」
 だが、正論じみた理不尽な答えに、あっさり陥落した。最初から逃げ場などなかったのだ、と。
「じゃあ、どうして不思議そうな顔してるの?」
 すると元凶である本人は、何事もなかったように本題を切り出す。
「一応、世話を焼いてる身としてはね、やっぱり気になるのよ」
「……驚いただけだ」
「何で?」
「あんまり……怒ってない、から」
「怒って欲しかったの?」
「いや、そうじゃないけど……気になって」
 以前からナギサはよく、リノにだけは心配かけるな、と言っていた。
 もちろん、リノに限った話ではないが、彼もそう理解していた。
 だが、現実にトラッドは、誰彼も心配させてしまった。
「本音を言えば、サマンオサ中を引きずり回した後、ぐったりなった所でトドメを刺したい程度には、今も怒ってるわよ」
 彼の呟きを受けたナギサは、物騒な物言いで気持ちを表現する。というより、むしろ本気でやりかねない。
 しかし、申し訳なさと恐怖に俯いているトラッドに、彼女はこうも言った。
「……でもね、何だかんだで無事に帰ってきてくれたことの方が……多分、嬉しいみたい」
「ナギサ……」
 そして、彼女は極上の笑みを携えて、最後にこう添える。
「だからね、この気持ちはこれから……それも愛情と手間暇をかけて、少しずつ解消していこうと思うの」
「え?」
 地獄の日々の始まりを告げる、ナギサらしい言葉を。
 ちなみにラザとカンダタは、既に不穏な気配を感じ取っていたらしく、眉をひそめていた。
「…………」
「まさか断るようなマネ、しないわよね?」
 今更ながら企みに気づき、冷たい汗を額に浮かべるトラッド。
「えっと……死なない程度で、お願いします」
 結局、成す術のない彼は、丁寧な口調で頷くのが精一杯だった。
 そうして、話が一段落した時。
「さて、と」
 カンダタはおもむろに席を立ち、背を向けた。
「……どこに行くんだ?」
「どこって……帰るんだよ。もう、俺の役目は終わっただろ?」
 元々、彼がナギサに呼ばれたのは、真実の語り手としてである。
 確かに全てを話し終えた今、共にある意味は皆無と言ってもいい。
 カンダタもそれを察したからこそ、未練なく立ち去ろうとしているのだ。間違ってはいない。
 だが、トラッドは困惑の覚めやらぬ頭で考える。
 本当にそうなのだろうか。少なくとも、自分には言うべき事があるのではないか、と。
 ひたすらに考えている。
「……余計なことで悩むなよ」
 不意にカンダタは振り返り、諭すように一言。
「余計、って……何だよ、それ」
「余計なことは余計なことだ」
 対して、弱々しくナギサの手を解いたトラッドは、力なく立ち上がるが、それだけ。
 答えは見つかっていない。
「俺が嘘を吐き、お前を騙していたことに変わりはない……違うか?」
「っ!」
 しかし、彼は唐突に気づく。
「……確かに、俺はアンタを憎んでて、真実を知った今でも……まだ許せそうに、ない」
 まず一つ。カンダタの声が緊張したままだという事。
 全てを話した上で、何も変わらないのなら、これまでと同じ関係に戻るだけだ。緊張する必要はない。
 特別な理由でもない限りは。
「だから、帰ってやるって――」
 そして、もう一つ。
「でも……こんな気持ち、終わらせる」
 トラッドは強引に遮って、ようやく見つけた答えを紡いだ。
「どれだけ時間が掛かるか分からないけど、終わらせなきゃいけないんだ」
「別に許してもらおうなんざ、思ってねぇよ」
「でないと! みんなが支えてくれたことも……アンタが話してくれたことも、全部無駄になる」
「……それで、俺にどうしろと?」
 尚も冷たく言い放つカンダタを見据え、彼は口を開いた。
「その日まで……待ってくれ。自己満足とも偽善とも、俺のことはどう罵ってもいい。けど、ちゃんと向き合えるようになるまで……生きててくれ」
 微塵も揺らがない、トパーズの瞳を携えて。
 ほんの数刻。彼が出て行った時間は、さほど長くない。
 だが、トラッドは強くなっていた。まだ不安定ではあるが、確実に。
 状況を見守っていたナギサとラザは、驚きを隠せず息を呑んだ。
 しばらく間を置いて。カンダタは無言で彼に歩み寄り、まだ乾いていない頭に掌を乗せた。
 直後、銀色の髪をくしゃくしゃと乱すと、
「……トラッド」
「え?」
 父親の名前で、初めて彼を呼んだ。当然、トラッドは間の抜けた返事しかできない。
「何惚けてんだ」
「だって、その名前は――」
「仲間からは、こう呼ばれてるんだろ?」
「それは……そうだけど」
 カンダタにとってのトラッドは、唯一尊敬する人物の事。
 いくら自分が彼の子供で、旅先で名乗っていたとしても、簡単に呼べるとも、また呼ばれる資格もない。
「……俺が名乗っても、いいのか?」
 見捨てられたから。もう二度と関わるつもりがないから、だろうか。
 脳裏でそう推測したトラッドは、おそるおそる尋ねる。
「お前に名前がないのは、俺や親父さんがつまらないことを考えたせいだ」
「でも、俺は恨んでなんかいない」
「分かってる。お前がそういうヤツじゃないことも、ずっと悩んできたことも、全部な」
 この時、彼もまた、トラッドと向かい合っていた。
 つまりはこの本心を隠すために、先ほどの緊張があったのである。
「だが、親父さんは喜んでると思うぜ」
「……父さんが?」
 カンダタは、半ば確信めいた口調で続ける。
「ああ。他の誰でもない自分の子供に尊敬されて、喜ばない親はいないだろうよ。親らしいことをしてやれなかった、と思っていれば尚更だ」
「でも、そんなの……」
 全てが都合のいい解釈。それもトラッドにとっての、だ。
 口にこそ出せないが、亡くなった人間の気持ちは、誰にも分からないのだから。
「さっきも言っただろ? 親父さんとの付き合いは、俺の方が遙かに長い、ってな」
「あ……」
「だから、継いでやれ」
 おそらくこれは、カンダタと亡き父の本心であり、もう一つの真実。
「お前は胸を張って、あの人の名前を……継いでやると、いい」
 心と感覚でそう捉えたトラッドは頷き、
「……継ぐよ」
 たった三文字の、世界で最も重い言の葉を部屋に響かせた。
 カンダタは満足げに鼻で笑うが、すぐさま眉根を寄せ、右手を首の後ろに当てる。
 この仕草は、彼が考え事をする時の癖だ。
「どうした?」
 それをよく知るトラッドは、訝しげに問いかけた。
「……だから、言いたくなかったんだ」
「何を?」
「違和感が、どうもな。簡単に消えねぇことは分かっていたが……」
「なら無理しなくても――げほっ!?」
 しかし、カンダタは彼の背中を叩いて、激しく咳き込ませる。
「まぁ、お前が強くなった時には、俺も名前で呼んでやるよ」
 そして、嬉しげに呟いた後、
「じゃあな」
 間髪入れずに部屋から立ち去っていった。

 再び椅子に座ったトラッドは、ぽつりと呟く。
「……小僧も嫌いじゃないけどな」
 既に姿の見えなくなった、兄のような存在である彼に向けて。






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