|
一面の常闇。淡く輝くは、幻想的な三日月。実体を有さず、人の肌よりも冷めた生温かい風が吹き荒ぶ。 果てのない上空に浮かぶ雲が、目まぐるしく東へ流れている中。 「……準備はいいかい?」 掌に滲む汗を握り潰し、ティルクは問いかけた。常には遠く及ばない、密やかな声で。 「いつでも」 「ああ」 最初に答えたのはナギサとラザ。声はティルクよりも若干大きいが、端的な短い返答だ。 真っ先に返事しただけあって、平静を保ってはいるが。 「構わねぇよ」 「……うん」 続いて、カンダタとリノ。やはり短い。 が、誰よりも場数を踏んでいる大盗賊からは、覆面越しでも分かるほどの余裕が窺える。 対照的に、少女は緊張を隠し切れていなかったが、瞳には一切の迷いがなかった。 そして、最後に残されたのは。 「……トラッド君?」 夜において、最も深い闇――影に俯く、銀髪の彼だった。さっきだけでなく、今の呼びかけにすら反応を示さず、立ち尽くしている。表情は闇に紛れて見えないが、纏う空気には不穏なものが漂っていた。 「トラッド?」 「え? あ……ああ、うん」 再度呼びかけたのは、リノ。そこで彼はようやく顔を上げるが、やはりぎこちない。 ここはサマンオサ城のテラス。目的地である王の部屋は、すぐ目の前ではある。 しかし、まだ何も始まっていない。あくまで心構えを確かめている段階だ。 にも拘わらず、彼の態度は明らかに不自然――と、リノが不安を表情に滲ませた時。 「……おい、小僧」 突然、カンダタが彼に話しかけた。 「なんだよ?」 トラッドは頬を膨らませながら返事をする。おそらく、皮肉でも言われると思ったのだろう。 「……迷うなよ」 「え?」 だが、予想に反して。 「迷いってのは、それこそ魔物だ。判断を鈍らせ……時には死を招く」 「…………」 「要するに迷ったまま戦うってことは、命を投げ捨てるってことだ。違うか?」 返ってきた言葉は、本当に心配から生まれた助言だけで。 「……悪い、どうかしてた」 すぐさま反省した彼は、素直に聞き入れた。 「分かればいい。分かれば、な」 対してカンダタは、念を押しつつも安堵した――かのように見えた。傍目からは。 しかし、内心は違う。 (盗賊の眼……か) 彼自身も迷いを抱いていた。 リノたちはおろか、ティルクにも。かつての仲間にすら話していない、もう一つの真実を。 話すべきか、否か。彼は悩み続けていた。初めて知った数十年前から、長く。永く。 (……いや) とはいえ、カンダタも無為に秘匿しているわけではない。 むしろ、そうせねばならない必然が、確固たる理由が、あった。 (せめて今の戦いが終わってから……だな) しばしの逡巡を経て。彼は再び機会を見送った。 この真実は誰にとっても重すぎる。また、いつか必ず話す、と自分に言い聞かせて。 彼は一歩を踏み出したが。 「……ちょっと待って」 弾けた砂利の音を掻き消して、凛とした音色が響く。 全員がハッと振り向いた先には。右人差し指を唇に添え、神妙に月を仰ぎ見るナギサの姿があった。 「どうかしたのか?」 含みなく、ラザが問う傍らで。 (まさか気づいたのか……?) カンダタが焦燥する中。 「ん……まぁ、改めて言うことでもないんだけど……」 右手を下げ、今度は左薬指に金糸を絡める彼女は、 「私の呪文はアテにならないから、そのつもりでお願いね」 珍しく自嘲めいた言葉を口にした。 しかし、リノたちには周知の事でも。 「呪文?」 「どういう意味だ、姐さん?」 「……へ?」 他の二人にとっては違うため、疑問符を浮かべていた。 何故なら、カンダタは過去に二度、ナギサの呪文を見ている。ティルクに至っては、彼女が呪文を使える事すら知らない。覚える疑問点こそ異なっているが、どちらにせよ事情を知らないのは当然だろう。 「あ、そっか。話してなかったわね」 そこでようやく、彼女は自分が勘違いしていると気づき、簡単に説明し始めた――のだが。 (妙だな) この場で唯一、ラザは引っかかりを感じていた。 ナギサが呪文について触れるのは、唱えるべき機会が訪れた時だけではなかったか、と。 少なくとも戦いを前に、アテにならない、などと告げた事は、一度たりともない。 (……いや) それならトラッドが先に察するはずだ、とも思う。 彼は何かと鋭いのだ。自分よりも遙かに。ただ、ある特別な感情に関しては、それこそ微塵もアテにならないが。 他に、こうも考えられる。 仮にも国一つを根城にしているモンスターが相手。どれほど手強いかも分からない。 だからこそ彼女は、予め気を引き締めたのでは、と。 「えっと……変わってるね」 「ああ。姐さんの性格と同じだな」 「……どういう意味よ」 そんな中、どこか緊張感の欠けた会話を耳にしつつ。ラザは結局、気のせいだ、と首を横に振った。 数十分を経て。 気配と足音を消した六人は、王の部屋へ無事忍び込んでいた。 リノやラザ、ティルクは愛用の剣。トラッドは鋼鉄の鞭とダガーを数本。カンダタは戦斧。ナギサは念を入れてハリセンに鉄の爪、と。それぞれの武器は、もう構えられている。 一見、万全とも思える状況下。考えられる最悪の事態は、一つ。 異変を察したモンスターたちの増援だ。 いくら民家ほど大きいといっても、所詮は部屋の内。拓けた平野の広さには敵わない。 もし、挟撃を受ければ。勝利を収めるどころか、いざという時の逃亡もほぼ不可能――と思われていたのだが。 実は既に解決済みだった。全てを見通していたティルクによって。 城内には、協力者――モンスター側から見れば内通者――がいたのである。 彼が信頼と尊敬を寄せ、またサイモンの親友でもあり、サマンオサ兵を一身に纏める、ブレナン、という男が。 リノたちがラーの鏡を求め、南の洞窟を探索していた頃。ティルクは彼の元へ足を運び、計画を練り終えていたのだ。 決行する時。つまりは、今日の現在。 城にブレナンと一部の者だけを残しておき、増援を食い止めてもらう、という計画を。 永遠とも錯覚してしまいそうな、長い間。 慎重に味方を見極め。加えて、相手に悟らないよう細心の注意を払い。 彼はひたすら堪え忍び、得たのだ。英雄オルテガの娘とその一向。即ち、リノたちの助力という絶好の機会を。 今という刻は、祖国を愛する者たちが命がけで作り出したもの。無駄にしてはいけない。 ティルクは熱き思いを両眼に滲ませ、六人の顔を見た。 それから、各々の首肯と決意を確認すると。彼は小さく喉を鳴らし、道具袋からラーの鏡を取り出した。 円形の台座を縁取るように、奇妙な文字が描かれている神秘的な鏡だ。 ティルクは一度深呼吸をしてから、それを静かに掲げた。 眼前でだらしなく眠る偽者の正体を曝き、故郷サマンオサの未来を掴むために。 直後、魔力を帯びて輝く鏡面に、容赦なく映し出された真実は。 毒々しい緑色の巨躯も。狂気に彩られた瞳も。当然、人とは似ても似つかない。 敢えて言えば、四肢の本数と形状だけが、かろうじて人間に近いモンスターだった。 「みぃ〜たぁなぁぁぁ〜〜?」 次の瞬間、変化が解けたと気づいたモンスターは、不明瞭な雑音を響かせた。 身体が醜悪に肥大し始める。 「っ……!?」 そうして、数秒も経たない内に現れたのは。 巨大な棍棒と異常な再生能力を持つ異形――――ボストロールであった。 ボストロールは、リノがテドンで戦ったトロルの上位種に当たる。 例えるなら、大ガラスとデスフラッターの関係だが、実力差に歴然の開きがあった。巨体ながらも素早い身のこなし。その上、棍棒で効率よく相手を砕くため、ルカナンまで操る。 カタチのない恐怖を分かりやすく具現化したモンスター、と言えるだろう。 しかし、過去に対峙し、勝利を収めた事があるカンダタは、特徴をすかさず五人へ告げた。 その言葉を受け、まずリノが鋭くボストロールを見据える。一切の構成を必要としない、魔封じの瞳。マホトーンと同効果でありながらも、遙かに強い拘束力を持つ彼女の眼は、あっさりルカナンを封じ込める。 更に厄介な再生能力。これについても、ナギサが対策を示した。 彼女自身もケイチとの旅の途中、トロルとは何度も戦っている。が、記憶に新しいのは、テドンでの事だ。 あの時、リノは剣で倒せないと判断し、咄嗟にライデインを唱えた。 一見すると、剣が通じない相手に呪文を使ったまでの話。不自然はない。 しかし、ナギサは確信に至った――熱を与えれば再生能力を抑えられるのでは、と。 ただし、容易ではない。魔道士の杖によるメラ程度では、せいぜい皮膚を焦がすだけだろう。 そこでナギサが考えた方法とは。 剣や斧でついた傷口に、いかづちの杖が生む閃熱を間髪入れず浴びせる、という方法だった。 さすがに再生自体は止められなかったが、細胞をほぼ死滅させ、遅らせる事はできた。 これを主にナギサが、時折リノのベギラマも加えて、何度も放った。むろん、深追いはせずに。 何せ、ボストロールの振るう棍棒は、全てが全て必殺。たったの一撃が、呆気なく死を招く。 外見通りの頑丈さを前に焦燥を覚えるが、冷静さを保ち、慎重に戦わなければならない。 万が一の事など起こしてはいけないのだから。絶対に。 戦闘開始から、約一時間後。 ボストロールは目に見えて弱り始めた。が、リノたちも限界に近い。 無理もない。元々の体力に差がありすぎるのだ。ナギサの神業がなければ互角にすらならなかった、と改めて痛感してしまう。 (次で……!) だからこそ、リノは一層の気力を奮い起こし、鋼鉄の剣を眼前に構え直す。 いつの間にか割れていた窓から、不意に風が流れた。戦い前と同じ、不気味な生温かさを纏った息吹が。 艶やかな黒髪を、なびかせる。 もしかすると、前触れ。知る術のない、前兆、だったのかもしれない。 彼女は全員の顔を見回し、無言で意志を伝えた。理解した仲間たちは頷き、囮となるために動いた。 誰一人として気づく事もなく――いや、気づけるはずもなく。 リノは真っ直ぐに駆け出した。今こそが雌雄を決する時、とばかりに。 戦場らしく荒れ果てた絨毯と床が、あらゆる所で振動を発する。 小刻みで潜まっている足音は、リノたち六人。 不規則にけたたましい足音は、ボストロール。 (もう、少し……!) 間合いは、おおよそ十歩分。まだ気づかれていない。リノは備えて、躊躇わず剣を振り上げた。 九歩。八歩。七、六歩。徐々に距離が縮んでいく。 何かが始まり、何かが終わる。そんな零の瞬間を目指して、確実に。 そして、五歩。互いの攻撃が届く範囲まで、残り三歩となった――――刹那。 「……あ」 視界の左端を、頼りなげに輝く月がほのめいた。 正確には月光と似て非なる灯り。だが、それも当然だ。何故なら、彼女が床の上に見つけた物は。 淡く幻想的な三日月をその身に映す、ラーの鏡なのだから。 (ラー……の、鏡) リノの眼が見開かれる。 (真実を、明らかにする……かが、み) 鏡の意味を自らに問う。 (わたしの、真実……?) 自問が彼女を支配する。 (わたしの……しんじ、つ) 想像が脳裏を駆け巡る。 (私は……人間、じゃない) 自答が恐怖を生み出す。 (わたしは、違う) 恐怖が剣を下げさせる。 (みんなと……トラッドと……ちがう) 恐怖が足をすくませる。 (だから私は、鏡に映ったら私は――) 恐怖が彼女に思わせる。 身も心もモンスターに変わり果て、誰とも一緒にいられなくなる、と。 リノは呪文の影響で赤くなった瞳に、胸騒ぎを滲ませた。根拠のない推測に心を奪われ、立ち尽くした。しかも力を失った掌からは、鋼鉄の剣が絨毯のない床へ零れ落ちる。 その金属音が教えてしまう。倒すべき相手に、自分の場所を。そこで一歩下がったボストロールは、巨大な棍棒を振り上げた。 黒髪の少女を、たったの一撃で砕くために。 「リノ!」 しかし、唐突に声が響いた。トラッドである。 リノが剣を落とす寸前に察した彼は、既に走り始めた後だった。 (間に合え……) 左右の手にはダガーが二本ずつ、指に軽く挟まれていた。 この時。ナギサやラザ、ティルクを包んだのは、不可思議な感覚。 (……え?) (これ、は……?) まるで自分の身体が自分のものではない、奇妙な浮遊感だった。実際、地に足はついている。見える景色も歪んでなどいない。ただ、研ぎ澄まされた五感だけが、現実から遠ざかっているような。とても理解の及ばない錯覚。 (あの小僧……やりやがった) が、一人だけ。この感覚の正体に気づいた者がいる。トラッド以上にトラッドの事を知る人物、カンダタだ。 彼は身を持って、過去に何度も実感していた。これは――盗賊の眼、と。 (なら大丈夫だ) 人が扱うには、大きすぎる力。ゆえに、トラッドの父親ですら自在に操れない。 しかし、一度発動してしまえば。 あらゆる事象が彼に見通され、圧倒的な優劣も全て意味を失う。 カンダタは安堵の様子は隠しつつ、戸惑う三人へ首肯した。 過程は分からないが、誰も傷つかずに戦いは終わる、という意を込めて。 一方のトラッドは自覚もなく。リノを助けたい、という想いを胸に走り続ける。 同時に、どこかで何かが綻んでもいた。 心の奥底。最も脆く柔らかい部分。確かにそれは、ひっそりと息づいていた。 その何かがちりちりと。想いを焦がし、蝕んでいた。 まず、トラッドが投げたのは、左手のダガーを二本。狙いは頭部。ボストロールの両眼だが、変哲もない軌道で当たるはずもない。現にぐらりと右へ揺れた巨体は、刃を避けるべく動いていた。 だが、これは囮。別の目的を秘めた偽装投擲。 思考は追いついてなくとも、未来を見通した身体は始まっている。どころか、次の段階へ至る初動を――終えていた。 トラッドは先刻の勢いに逆らわず、身体を時計回りさせた。 (頼む……間に合ってくれ……!) そして、絶妙の瞬間で右腕を振り抜いた後、疾走に身を任せた。 放たれたのは、より速く地を這っていくダガーが二本。彼の狙いは、傾いた重心の逆側。不安定に揺られ、また死角となる左足だった。 トラッドも気づかれている以上、普通に投げても当たらない。 だから、彼は一度目のダガーで注意を逸らし、死角を作り出したのである。 ダガー四本で転倒させるのは、ほぼ不可能。もちろん、そうなるに越した事はないが、例えそうでなくても。 「リノ……!」 「え?」 リノを助け出すだけなら、十分の時間がある――はずだった。 確かにダガーは命中した。左足の傷跡に。 予知に近い予測通り、ボストロールの巨躯は大きく崩れ、狙いが外れた。 トラッドはリノの身体を、棍棒の届かない位置まで突き飛ばしていた。 更には自らも懐に潜り込んで、軸がブレた必殺の一撃をやりすごそうとした。 それこそ、盗賊の眼が導く結末のはず――――だったのだ。 しかし、五人が目の当たりにした光景は。 捕捉した未来とは違う現実に打ちのめされ、部屋中に鈍い音と鮮血を撒き散らせる。そんなトラッドの姿だった。 力なく宙を舞った彼は、容赦なく壁に叩きつけられた。 「あ……」 その激突音により、ふと我へ返ったリノが立ち上がる。 「……ぁ……ぁ」 状況はおろか、言葉さえも忘れたように呻きながら、二足を懸命に走らせる。 程なくして、赤い海に溺れる彼の元へ辿り着いた頃。 「……トラッド……?」 最初はゆっくりと。 「トラッド……トラッド……っ!」 徐々に強く激しく。 「……返事、して」 リノは、当然血に染まる事も厭わず、彼の身体を揺り動かした。 「おねがい、だから……いつもみたいに、大丈夫だ、って…………笑って」 そして幾度となく、愛しい人の名前を呼び続けるものの、 「トラッ、ド……ト、ラッド……!!」 返事はない。 もう二度と、あの優しい声で呼び返してくれる事は、ないのだろうか――と少女が、彼の頬に雫を落とした時。 トパーズ色の瞳がうっすらと開き、ひとひらの温もりを露わにした。 だが、彼女は気づかない。涙にぼやけた視界は、喜ばしい事実を伝えようとしない。 (リノが、泣いてる) 霞む視界の中、トラッドは足掻く。 果てなき慟哭を繰り返す彼女に、声をかけようと。 常と同じく落ち着かせるために、抱き寄せようと。 俺は大丈夫だ、という事を伝え、元気づけようと。 トラッドは、足掻いた。 なのに、声が出ない。身体が動かない。彼女を元気づけるどころか。 何も。声を聞く事すらも、できない。 唐突に、彼は理解する。 (……ああ。泣いているのは……俺のせい、か) 自分が生と死の境を彷徨っているという事に。 途端に、どろりと。錆びた鉄の味が、遅れて口内に広がった。 (見たくないのに。リノの泣いてる顔、なんて……見たくないのに) 更に想う。 (リノにはいつも……笑っていて欲しい、のに) 想い続け、 (……どうして? どうして俺は……いつも、そう思ってるんだ……?) はたと思い、 (…………) しばし考える。 (…………ああ、そうか) そして、気づく。 (俺はリノが…………リノのこと、が) ――――好き――――なんだ と。彼は初めて自覚し、意識を失った。 「嬢ちゃん」 その時、二人の側へ駆け寄ったカンダタは、リノを呼んだ。 「おい、嬢ちゃん」 しかし、聞こえてくるのは返事ではなく、嗚咽。振り向く素振りも見えない。 そこでカンダタは、彼女の顎に左手を添え、顔を持ち上げた後、 「え……」 跳ねた血と伝う涙に塗り潰された頬を、軽くはたいた。 「カン、ダ……タ?」 「……目、覚めたか?」 頷きでぎこちなく応えるリノに、彼は続ける。 「一つ聞くが……泣きわめけば、小僧が助かるのか?」 「……助から、ない」 「なら、どうするか分かってるな? 俺にはできねぇが……嬢ちゃんにはできること、あるだろ?」 彼が言っているのは、回復手段。つまりは、呪文の事。 「……うん」 リノはぎこちなく、頷きで応える。 「じゃあ、小僧を助けてやってくれ…………頼む」 すると彼は、少し乱暴に頭を撫でて、次にこう呟いた。 「それに、嬢ちゃんのせい、ってわけでもねぇ。むしろ、悪いのは」 「え?」 彼女は微かに、柔らかく眉をひそめるが、 「……いや、話は後だ」 鋭く言い放ったカンダタは、それ以上は言葉を重ねずに走り出した。 必死でボストロールを食い止めている、三人の元へと。 そうして、戦いが終わった。 部屋の中心。仰向けに転がっているボストロールの死体。 これでさほど遠くない未来。サマンオサには平和が訪れるだろう。 「……ベホマ」 しかし、誰からも歓喜の悲鳴は上がらない。代わりに、先ほどから明滅を繰り返しているのは。 「ベホ……マ」 リノの掌から生み出される、癒しの光。 「ベホ、マ」 顔も服も、横たわっている床も。一面の赤に染まったままだが、壊されたトラッドの身体は、確かに治っていた。 後は彼が目を開きさえすれば、日常が帰ってくる。 「ベホマ……ベホマ」 五人はそれだけを待ち望んでいるというのに。光は虚しく夜を払うだけで、彼には目覚めの兆しが表れない。 リノの瞳から涙が零れ、また彼の頬が濡れた――その時。 「……ぅ……」 弱々しい呟きと共に、トパーズがゆっくりと開かれた。 「トラッド……トラッド!」 今度は見逃さなかった彼女が、掠れた声で懸命に名前を呼ぶ。 ここに戻ってきた彼を留めたい一心で、何度も。何度も。 (リノ、が……よんでる……?) が、トラッドには届いていない。 (まだ、ないてる……のか) もう、届かないのかもしれない。 (うごけ……たの、む) だからこそ、彼は強く願った。 (うごいてくれ……!) 再び気を失ってしまう前に、成すべき事をしなければならない、と。 思った瞬間、指がほんの少しだけ、動いた。 続けて、腕が持ち上がる。驚くほど軽く、簡単に。 「……トラッド……?」 そうして、彼はリノの頬に人差し指を添えると―― 「リ……ノ……」 愛おしげに、名前を呼んで。 「ぶ、じ……で」 優しく、涙を拭い去ってから。 「……よかっ…………」 心から、彼女の無事を喜んだ後。 「…………た」 腕を落として、瞳を閉じ。 「………………」 意識を――――手放した。 次の話へ
|