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彼女にとっての彼、とは。 好きなだけでなく、大好きで。 愛しいだけでなく、愛おしくて。 恋しいだけでなく、恋い焦がれている。 何処にでも行けるだけでなく、何処に行っても楽しくて。 隣にいたいだけでなく、隣にいて欲しくて。 温もりに触れるだけでなく、温もりを感じ合いたい。 そんな そんな 呼吸。体温。鼓動。言葉。約束。未来。希望。 消失が連鎖し、果ては全てを司る源、生命までもが喰らい尽くされた後。 これはもう人じゃない。限りなく人に近いモノだ、と。 声が声もなくそう蠢いた――ような気がした。 認められない。認めたくない。認めていいわけがない。 にも拘わらず、喪失に支配された身体は、冷たい真実を突きつける。 生まれた空虚に忍び込んだ"絶望"と共に。 音もなく、光もない。まるで世界そのものが生を放棄したような、絶無。だが、実際に月は燐と輝いており、風も凜と吹いている。両者は各々の声色で、紛れもなく囁き合っていた。 ただ、感じ取りたくない。五感を晒して現実を受け入れる事が、怖い。 が、たった一人だけ。否応なく耳に残響する音を伴い、眼に焼き付く光景を描く者がいた。 それは少女――リノの掠れた嗚咽と、溢れる雫。一度目の当たりにした以上、視聴覚を物理的に塞いだ程度では、離れそうもない。 また、彼女は血塗られていた。黒髪に旅装束、雪色の顔に至るまで、全身余すところなく。彼から流れ出た真紅によって。 皮肉にも、その姿は橋の役割を果たしていた。絶望という概念を明らかな形とし、際限なく増長させてしまう橋――触媒。 はっきりとではなくとも、感覚的に解ってしまった四人は、彼女どころか自身にもかける言葉を見出せない。無力に、成す術なく。"死"に飲み込まれるだけである。 だが、これもたった一人だけ。冷たい真実に貫かれて尚、正気に踏み止まる者がいた。 (……終わらせない) 未だ碧眼に光を宿し、状況を見据える金髪の美女――ナギサだ。 とはいえ、絶望を覚えていないわけではない。むしろ、戦っていた。 遺された者の痛み。生き続ける事の辛さ。 更には――旅の終わりを予感させる現状、と。 他の三人より受け入れられているからこそ、彼女は想像を振り払い続けていた。 鋭利な直感。豊富な知識。的確な判断力。これらの要素を持ち合わせる彼は、この上なく頼れる心強い仲間ではある。 しかし、何よりも大切な事は、彼がリノの支えであり、全てのキッカケであるという事。 (……ううん) いや、違う。 彼は誰にとっても欠けてはならない存在で、乗り越えられる強さなど他の誰にもない。 当然、何事もなかったかのように、旅を再開できるはずもなく。 そもそも、誰かがいなくなった誰かの居場所など、もはや居場所ですらない。 ナギサは即座に考えを打ち消し、そう思い直す。 (私は、許さない) 同時に、深く理解した。胸中に逆巻く感情の正体を。 (この二人が幸せになれない結末、なんて……許せない) それは激情と呼んでも差し支えのない、怒り、だった。 彼に、ではなく。彼女に、でもない。何もできなかった自分自身と―― "死"という最悪の手段を用いて、二人を引き裂いた"運命"に、である。 (まだ、終わってない) 落胆に染まりきった四人の事も忘れ、ナギサは思考に没頭した。 (……こんな終わりは違う。まだ……まだ何か――――) 何者であっても終末は予見できない。ゆえに根拠はない。 だが、これは間違っている。そう確信するナギサは、ひたすらに奇跡を模索し続け、 (方法は、ある) 辿り着いた。可能性が、驚くほど身近にあったからだ。 「リノちゃん」 返事はない。今の彼女に声が届かない事ぐらい、分かり切っている。 「リノちゃん……行くわよ」 だからこそ、歩み寄ったナギサは少女の細い腕を引いて、無理やりに立ち上がらせた。 「……どこ、に?」 逆に掠れ声で問い返され、彼女は呟いた。 「ダーマよ」 一筋の希望が眠る場所の名を、強く。そして、不安を与えないよう翳りを抑え隠し、 「疲れて眠ってるトラッドを叩き起こすために、ね」 限りなく普段通りの笑みを浮かべ、目的を明かした。 雲と星だけでなく、太陽も月も漂わないトパーズ色の空。 おかしい。 銀光を放つは、身の丈程度に揃えられた草が形作る草原。 ありとあらゆるが、おかしい。 彼方も、数歩先さえも見通せない、事象の歪曲した空間。 こんな風景は、おかしい。 こんな場所は、知らない。 降り立った――いや、堕とされた人影は自失し、呆然となっていた。 夜気の根も乾かぬ内に。というより、始まったばかりの常闇の中。リノたちは、キメラの翼が発する蒼穹の輝きに身を委ね、ダーマを訪ねていた。 しかし、ラザとカンダタの姿はない。二人は王に一連を説明すべく、サマンオサに留まったのだ。ティルクの協力者、ブレナンも事情は知っているだろうが、顛末を見届けた人間も必要ではないか、と考えた結果である。 ただ、支障はないにせよ、若干気に掛かるやり取りがあった。 それは、ダーマに向かう意志を告げた時の事。 「というわけだから……お願いしてもいい?」 ナギサは当初、ティルクとカンダタに、その役目を頼んだ。 「構わねぇぜ。あの偏屈王とも知らねぇ仲じゃないしな」 まず、二つ返事で承諾したのはカンダタ。自分が適任と思ったのだろう。王と面識があるのは、意外だったが。 ところが、一方のティルクは、栗色の髪を右小指に遊ばせた後。 「……誰かの代わりに、僕が行くのはダメかな?」 予想外の問いかけを返した上に、 「その方が王様に説明しやすいから……こっちの都合で悪いんだけど」 聞き返すよりも先に理由と謝罪を添えたため、ナギサは一瞬で理解を示した。 おそらく彼は、リノたちの事も説明するつもりでいた。しかし、本人の姿がなければ、どうしても滞る箇所が生じてしまう。加えて――これも推測だが――囚われだったサマンオサ王は、衰弱している可能性が高い。そのため、少しでも身体を気遣おうとしたのだろう。決して些細な問題ではない。 ただ、そうなると誰を残すべきか――と、ナギサが考えを巡らせていると。 「俺が残る」 同じく思案顔のラザが、右足を一歩前へ踏み出した。 「リノもナギサもダーマに行くべき……となると、俺が適任だ」 「それは……そうかもしれない、けど」 唯一方法を知るナギサ。少しの間でも引き離したくない、リノとトラッド。もう一つ言えば、自分がついていったところで何の力にもなれない。そういった彼の意図は、解る。 「ラザはいいの?」 とはいえ、仮にも旅路を共にする仲間の危機。心配や不安を感じているはずだ。 「……気にするな」 対して、察した口振りのラザは、呟く。やはり思考の読めない表情で。 「でも――」 「それに、いつも側にいることだけが、正しい道とは限らない。違うか?」 微かに強く、厳しい。暗に、迷う暇はない、と告げているような声でもあった。それでも間違ってはいないのだから、怒るに怒れない。 「…………分かったわよ」 にも拘わらず、ナギサは唇を尖らせて言った。不謹慎と思いつつも、ラザはつい苦笑してしまう。 が、それも束の間。 「ティルク、三人を頼む」 俯き加減で彼に向き直ったラザが、改めて深々頭を下げると、 「……うん。こっちこそ無理を聞いてくれて、ありがとう」 受けた本人も、神妙な表情の同じ所作で応えた。 などと、記憶を手繰り終えたナギサは、ふと気づく。自然を装った不自然、ささやかなる違和感の正体に。 それは――ティルクの言動、だった。 彼が同行を申し出た時の事。それ自体は、理由も含めて問題ない。むしろ、理に適っていると言える。しかし、その後の説明不足が、どうも『らしく』ない。ナギサの中にある印象と、どうしてもズレるのだ。すぐ気づけなかったのは、彼女の理解力が優れていたからこそ、だろう。 しかも、この感じは初めてではなく、二度目。こうも続けば、何かがある。逆になければ、道理が屈折する。半ば直感で思い、再びの推測に身を投じたナギサだが、ほんの数秒で察した。 栗色の青年に違和感を覚える傍らには、 (本当の理由は……リノちゃんが心配だから?) 常に彼女の存在があった、と。そして、同時に思う。 つまりは"そういうこと"なのだろう、とも。 とはいえ、これは現状を悪化させる一因でも、また他人が関与すべき事でもない。瞬時に結論を打ち消したナギサは、相変わらずの重厚感に彩られた門をくぐろうとした――のだが。 「そういえば、リノちゃん」 「なに?」 「前から思ってたんだけど、ダーマの結界は大丈夫なの?」 不意に足を止め、振り返りながら問いかけた。以前に訪れた時、もしや無理をしていたのでは、という危惧を密かに抱いていたのだ。 「えっと……うん」 が、リノはいくらか息を吹き返した声で、戸惑いがちに返答した後、 「多分だけど、人が作った結界なら大丈夫みたい」 自身の意見を、あくまで推察として述べた。 ノアニール。最後の鍵の祠。おそらくはテドンも。思い返してみれば確かに、どれも人の手による領域ではない。 なるほど、と安堵を交えて納得したナギサは、今度こそ扉を開き、足早に歩き始める。リノと、トラッドを背負うティルクも、それきりは無言で後を追った。 深緑の内壁に覆われた、通路。等間隔に煌々と連なる、灯火が―― 時折、迷い込んだ微風に。 時折、通り掛かる人影に。 淡く儚く、揺れる。彷徨える何者をも導くように、ほのめく。 棲まう智者と集う修行者。彼らが生む昼の喧噪が虚構と化す、夜のダーマ内部。 門番から許しを得たリノたちは、ナギサを先頭にひた歩き、とある部屋の前で立ち止まる。 物々しくも簡素な、木製の扉。ナギサは、こんこん、と控え目にノックした。 「はぁいー……? いーまー開けーまーすねー……」 すると平和に間延びした、いかにも眠たげな声が近づいてくる。リノには聞き覚えがあった。 「……まぁ、予想はしてたけど」 そして、ナギサが若干の申し訳なさに呟いた直後、扉はいとも無防備に開かれた。 眼前に立っていたのは、わずかに乱れた桜色のパジャマを身に纏う少女。跳ねた空色の髪に丸メガネを乗せ、草花を思わせる瞳もとろけるままに首を傾げている。 「どちらさまですかー……?」 「久しぶりね、アーニー」 「……………………ナギサちゃん?」 親友に名前を呼ばれ、今更ながら親友だと気づく、呑気な大神官。完全に寝惚けているようだ。でなければ元より、小脇に枕を抱えて現れるわけがない。 「ちょっと待ってね……えと、メガネメガネ……」 「……頭の上にあるわよ」 「ふぇ? ……うん。あったあった、っと」 「…………相変わらずね」 兎にも角にも、何とものどかな会話を経てから。 「ナギサちゃん久しぶりー」 愛用の丸メガネをかけ、ようやく本調子になりかけたアーニーだが、 「それにリノさんもトラッドさんも――……あれ?」 はたと見知らぬ人物の存在に気づき、またきょとんとなった。 「ティルク、です……その……初めまし、て」 先に名乗ったのは、彼。 「あ、はい。私はアーニーって言います」 受けてアーニーも、穏やかに名前を告げる。が、彼は上気した顔をぎこちなく逸らし、髪を左小指に遊ばせ始める。単なる人見知りとするには、あまりに挙動が不審だった。 「えっと、ティルクさん?」 「……はい」 彼女は思い切って話しかけてみるものの、やはり反応は芳しくない。 「もしかして、具合でも悪いのでしょうか?」 「いえ、そういうわけではないのですが……あの……」 どころか、困っているようにすら見える。とはいえ、今日が初対面のはず、と思い当たる節のないアーニーが、ますます疑問を色濃くした――刹那。 「……アーニー」 「なあに?」 不意にナギサが呆れた声で呟いた。しかも何故か視線を明後日へ向け、静かに自身の胸元を指差している。 久しぶりに訪ねてきてくれた最愛の親友は、自分に一体何を伝えようとしているのか。 アーニーはしばし考え込んでから、とりあえず彼女に倣って俯き、 「………………え?」 やっと気づいた――――上から二つ、パジャマのボタンが外れている事に。 「えと、あの……これは、その……!」 同性ならいい。笑って済む話だ。しかし、今目の前にいるのは、異性。しかも彼は紳士的な性格ゆえに、指摘できようはずもない。 「ご、ごご、ごっご……ごめんなさい……っ!」 ともあれ彼女は、かろうじての理性で声を潜め、両手をわたわたと謝罪する。それから間髪入れずベッドに潜り込み、急いで寝間着の乱れを直すのだが、 「……とにかく入らせてもらうわよ」 慣れた様子のナギサは枕を拾うと、極めて冷静に椅子へ座った。 そうして、簡単な説明に約数十分を費やした後。 「……分かった。すぐに取り掛かるから、ついてきて」 事情を理解したアーニーの案内で、トラッドを含めたリノたち四人は部屋を出た。 淡々と刻まれる、足音。繰り返される、深緑。ゆるりと軋む、灯火。 やがて強固なる、鉄扉。開いた奥には、階段。地下へと誘う、入口。 「知らなかったわ……こんなところ」 「無理もないよ。ここは成人した大神官にだけ、伝えられる場所だから」 「そんな場所、怒られない?」 「……うん、多分。でも、事情が事情だから気にしないで」 おもむろにくすみゆく内壁。伴って、何かが深化する。 拒絶するようで、受諾するような。根源とも呼べる、何か、が確実に。 その中で言葉を交わすナギサは、ふと察する。 親友であり、大神官である彼女の顔に、一抹の翳りが滲んでいる、と。 「この先には何があるの?」 そこで彼女は、原因と思しき目的地の事を訊いてみた。 「ダーマがダーマで在るための場所、かな」 「どういう意味?」 「……ダーマの大神官が、代々引き継がれているのはどうしてだと思う?」 だが、アーニーは要領を得ない返事と問いかけを紡ぎ。 「魔力に恵まれてるからじゃない?」 「うん。じゃあ、どうして代々賢者の素質を持つ子供が生まれてくると思う?」 更に答えず、問いを重ねた。しかも彼女の表情は、依然として変わらない。 「……両親の影響かしらね」 引っかかりを覚えながらも、ナギサがそう告げた時。 「確かにそれもあるけど、一番大きな理由は――」 アーニーは、いつの間にか眼前に現れた鉄扉を開き、 「この部屋にあるの」 ぽつり呟いて、リノたちを中へ招き入れた。 そこは広大なダーマとは裏腹で、真ん中に粗末なベッドがあるだけの矮小な部屋。一見すれば、ただそれだけの場所である。 「なによ……この、場所」 にも拘わらず、ナギサは驚愕の声を漏らした。何故なら、椅子や机など家具の類に書物はおろか、一片の人間味すらも感じられなかったからだ。見える物と視えないモノの差違が激しすぎる、底冷えが鳴る空間であった。 「ティルクさん、トラッドさんを寝かせてもらっていいですか?」 「このベッドでいいのかい?」 「はい。それと……ナギサちゃん」 一方のアーニーは、手は休めずに振り返り、立ち尽くす彼女を呼びかけた。 「ここは、簡単に言うと魔力を高める場所」 「魔力を……? でも、そんな呪文は――」 かつて何冊もの書物を紐解いたナギサでさえも、有り得ない、と呟きかける。 「確かに存在しない……あくまで、表向きには」 「え?」 が、アーニーは不穏を添えた言葉で遮り、尚も続けた。 「こういう領域を造るには、いくつもの構成を複雑に重ね合わせる必要があるわ」 「要するに結界ね?」 「……うん」 「それでも、こんな大呪文が何の本にも記されてないなんて――」 おかしい。そう言いかけて、ナギサは思い出した。自分が読んでいない――いや、読む事のできない、ある書物を。 「悟りの、書」 気づけば推測は、声になっていた。 「……だから……ダーマがダーマで在るための場所」 対してアーニーは頷き、そのまま俯き、束の間の逡巡を経て、唇を割る。 「けど、魔力を強くする効果は、副産物に過ぎなくて……本当は別の目的があるの」 「別の目的?」 この時、既に誰の手も止まっており。 「……ここで……子を成すこと」 繋がれた一言で、誰もが息を呑んだ。 そしてアーニーは、ナギサも見た事がない冷めた表情で、静かに語り始めた。 「呪文の始まり……ナギサちゃんは知ってるよね?」 「確か元々は魔物が扱う力で、ある賢者がそれを研究して、魔力を持つ人間にも使えるようにしたのが……そうよね?」 「その賢者が、ダーマを興した初代大神官で――悟りの書を天から授かった人っていうのは?」 「……え?」 前半部は聞いた事もあるが、後半部は知らない。と疑問符を浮かべつつも、ナギサは納得する。これまでは当然のように言われてきたが、よくよく考えれば不自然なのだ。 というのも、人間と魔物は敵対している上に、意思の疎通も殆どできないため、歩み寄りが難しい。ならば、どうやって力を研究したのか、となる。戦闘中に見極めた、という可能性もないとは言えない。だが、呪文も使えない頃の人間に、そんな余裕があるとは到底思えなかった。 しかし、悟りの書に呪文の知識が記されていたなら、少なくとも不可能ではない。 「彼は得た知識から呪文を編み出し、それを人々に伝えていった。最初は魔物に対抗する術として……でも、やがて彼は力に溺れていき、こう思ったの――ダーマを永遠に、自分の血脈で繁栄させられないか、って」 「……有り得る話ね」 人の上に立ちたい、もしくは特別でありたい。程度はあっても、それは誰もが抱く欲望。 過ぎた力を持っていれば、尚更かもしれない。 「彼の子供は、幸いにも力に恵まれていた。でも、それが永遠に続くとは限らない」 「……まさか」 そこでナギサは、結界の意味に気づく。アーニーも弱々しく首肯し、紡いだ。 「ここでの交わりは、力――悟りの書そのものの後継を意味するの」 賢者と呪文の始まりにまつわる、ダーマの黒い真実を。 「……ちょっと待って」 しかし、ナギサにはまだ疑問があった。もしくは、微かな希望、だっただろうか。 「他にも賢者はいるはずよ? なのに、誰も気づけなかったの?」 悟りの書が読めるのは、大神官の血脈だけではない。ならば、読んだ人間の数だけ、結界の構成が知れ渡っているはずだ。にも拘わらず、長い歴史の中で一度たりとも例外がないのは、これもまた不自然な話だった。 「元々、悟りの書は書物じゃなくて……単なる知識の塊。ガルナの塔にある物は、後を継いだ大神官が都合良く書いただけに過ぎない、の……」 「じゃあ……この構成については書かれてないってこと?」 「…………うん」 「でも、完全な偽物ってわけでもない、か」 返事こそないが、ナギサは自身の過去から確信し、一つの結論に至っていた。 それは悟りの書の事でも、ましてや自分の事でも、ない。 真相を知った日からずっと傷つき、また自由すらも許されなかった彼女――アーニーの事だ。 「……どうして?」 「えっ……」 生まれついての賢者というだけで、心優しい彼女は罪悪感を覚えていたに違いない。 「だから、どうして話してくれたの?」 「それ、は」 なのに、賢者になれないナギサと縁があり、強い絆が結ばれてしまった。 「話す必要なんて、どこにもないじゃない」 彼女の性格上、無限の苦しみから解き放たれたかっただけ、とは思えない。 「……ごめんなさい」 不意に、謝罪の声が聞こえてきた。とても、震えていた。 顔を見なくても分かる。泣いているのだと。 「何で、謝るのよ」 「っ! ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい……ごめん、なさい……!」 「だから何で――」 「だって! だって、私は……私は、ずっとナギサ、ちゃんを騙し、て……」 「そんなの、関係ない」 「関係、ない……?」 「……ムオルで話したこと、覚えてる?」 少し前から、ナギサは後悔していた。自分がした、数々の無神経な振る舞いを。 『賢者って……何?』 親友の苦悩も知らずに問いかけて――深く傷つけてしまった事を。 「覚えてる、けど」 「なら分かるでしょ? ……謝るのは私の方だ、って」 「そんなこと――」 「それに!」 しかし、尚も謝ろうとする彼女を、ナギサは割れた声で遮り、 「アーニーはアーニーなんだから、私やラザが嫌いになるはず……なれるはず、ないじゃない」 大切に、大切に。大切な親友の名前を呼んで、ありのままを告げた。 落下する雫が、互いの姿を霞ませ、互いに似て非なる景色を映した頃。 「……さっきの答え」 「え?」 いつの間にか寄り掛かっていたアーニーが、耳元で囁いた。 「こんな時だけど知って欲しかったの……嫌われてもいいから、ずっと、話したかったの…………友達、だから」 対してナギサも、背中に手を回し、耳元で囁く。 「…………バカ」 酷く、潤んだ音色で。 そんなナギサとアーニーが、羨ましかったのだろうか。 『リノはリノだから』 この時、リノは彼の声を脳裏に浮かべつつ、こう思った。 また名前を呼びたい、また名前を呼んで欲しい――と。 彼女は小さな願いに想いを馳せ、ひとひらの夢を見ていた。 「早速始めるね」 準備らしい準備は必要なかったらしく、唐突にアーニーは呟いた。しかし、慟哭の跡は残っている。お世辞にも立ち直ったようには、誰の目にも見えない。 「……もう大丈夫なの?」 「うん、平気だよ。それに折角来てくれた皆さんを、私のワガママでお待たせするのは悪いもん」 それでも彼女は頷いた。瞳は少し赤いが、揺るぎもない。 「じゃあ……お願い」 だからナギサも、励ますように軽く背中を叩いただけで、それ以上は何も言わなかった。 始まりは――アーニーの吐息で厳かに告げられた。 まず、雲が走るように早く。草花が育つように強く。魔力が芽吹く。 次に歌うように。謳うように。黄金色の糸が構成を練り紡いでいく。 その編まれる軌跡は、正しく奇跡だった。 更に答えるように。応えるように。部屋の各々から光の産声が響く。 加えて、集まる。悟りの書を受け継ぐ者の魔力を、膨大に高めゆく。 そうして気は研ぎ澄まされ、機が熟した。 その時、凜とした声に力を乗せ、彼女が呟いたのは。 悪魔を憐れむように死を覆し、天使が微笑むように生を再構築する、言葉。 「――――ザオリク」 とても"呪われし文"という真名が似合わない、完全なる蘇生呪文、だった。 刹那、不可視の黄金色が世界に顕現し、トラッドの身体を包み込む。 その輝きからも、たゆたう清浄な空気からも。唱えた本人だけでなく、この場の誰もがはっきり理解した。 紛れもなく呪文は成功し、彼はすぐにでも目を覚ます、と。 穏やかなトパーズが露わになるのも。 優しい音色が唇から零れ落ちるのも。 細い体躯に温もりが帰ってくるのも。 もう間もなくのはず、だった。 しかし、わずかな時が過ぎても。ほんの少し、身体を揺らしてみても。 彼は目覚めない。 憑き纏う死の気配が――まだ、消えない。 次の話へ
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