第81話 「時を越え、刻を超えるために」


 誰かが何かを言ったわけではない。むしろ、誰一人として口を開いてもいない。
 だが、確かに。声なき声は、誰彼の耳にも突き刺さっていた。

『もう二度と、逢えない』

 そんな"希望こえ"なき"絶望こえ"が――――


 いかに人智を越えた力であろうとも、起こらなければ"奇跡"などと呼ばれない。
 崇められ、讃えられ、願いが求められる事は、ない。
 また、人智を越えた神の所業であり、起こせないからこそ"奇跡"とも呼ばれる。
 崇められ、讃えられ、願いを切望される事が、ある。

 果たして、その成否に歓喜し、落胆する事は――人の傲慢、なのだろうか。


 素っ気も飾り気も人間味すらもない、仄暗き地下室。瞬間の黄金色は、場を構成する負の要素全てを滅し、心地良い安らぎをもたらした。
 アーニーの織り成した事象は、紛れもなく"奇跡"と呼ぶに相応しい光景だった。
(呪文は成功したはず、なのに)
 しかし、ナギサが口にしようとした通り、何も起きない。望みが叶わない。
 リノの大切で大好きな人が――穏やかなトパーズを見せてくれない。
「……ぁ……」
 ぽつりと。呟きにも満たない音色を残し、少女が崩れ落ちる。偶然にも隣に立っていたティルクは、慌てて身体を支えた。
「リ――」
 そして、間髪入れずに話しかけようとしたものの、
「っ……!」
 できない。名前を呼ぶ事も、許されない。それほどまでに小さな体躯は恐怖に震え、黒の瞳は虚路に歩を進めていた。加えて、こんな時は真っ先に声をかけるはずのナギサも、反応さえ示せずに俯くだけだった。

 幸運にも、人の身であるがゆえに想った、触れる事の幸福感。
 不幸にも、人の身であるがゆえに陥った、離れる事の喪失感。

 皮肉にも、人の身であるがゆえに届かず、己の無力さを知った三人は。

 引き返せない深淵やみに、心を踏み堕とす間際にいた。
「……ナギサちゃん」
「あ……うん、ごめん……なに?」
 しかし、そんな具現化された絶望を目の当たりしたから、だろうか。
「まだ方法は、あるよ」
「ほう、ほう……?」
 かろうじての平静を保っていたアーニーが、呟く。曖昧然としていながらも、希望のカケラを。
 対して顔を上げ、潤んだ碧眼で彼女と目を合わせたナギサは、
「まさか……」
 思考の暇もなく閃き、気づかされた。世界の始まりと共に芽吹いた――ある大木の事を。確かに可能性は、十分。どころか十二分、と言ってもいい。
「……でも」
 と同時に、一抹の不穏も感じた。それは、今明かしておかなければならない疑問。
「アーニー、訊いていい?」
 すぐさま問いかけようとする彼女だが、
「……うん。ザオリクのこと、だよね?」
 既に察していたらしいアーニーは、半ば確信めいた口調で返事をする。その表情には、芯が通った凛々しさと、麗しき聡明さが備わっていた。先刻部屋を訪ねた時に見た人物と同じとは、まず思えないほどに。
 だが、ナギサは知り抜いている。
 こういう事態に直面した彼女が、此の上なく頼りになる事を。
 加えて、思い知らされてもいる。
 いかなる事態においても彼女は、自分よりも遙かに強い事を。
 その感想は胸中密かに、ナギサは一度神妙に頷くと、
「どうして効果がなかったの?」
 心強い親友に挫けかけた気持ちを寄り添わせるよう、問いかけた。するとアーニーは、一旦口元を掌で覆い隠し、新緑の瞳を柔らかく閉じる。
 これは彼女が言葉を纏め、選ぶ時の癖――と、昔から知るナギサは急がせず、待ち詫びた。一切の焦燥を微塵も滲ませる事なく、ひたすらに。
「多分、だけど」
 そうして、ほんの数十秒を経た後。
「ザオリクが"彷徨える御魂を呼び戻す呪文"っていうのは……ナギサちゃんも知ってるよね?」
 アーニーは物静かな口調で話し始めた。一方のナギサは、再びの首肯で返し、
「……生きた魂までが人の"手"が届く限界、だったわね」
 小さく儚い声で、一言を添えた。
 つまり、人が死体となった直後は、まだ空になった状態、という事だ。ちなみに腐った死体などは、体躯を殻に仮初めの命――おそらくは膨大な瘴気――を宿らされ、無理やり動かされているのでは、という説がある。
「もしかすると、トラッドさんの魂は――」
「ちょっと待って」
 思わず遮って、ナギサが反論する。
「トラッドが死――……いえ。眠ってから、まだ一日の半分も過ぎてないわ」
 死体が朽ち、屍と成ったのなら。
 死屍が果て、土に還ったのなら――まだ、解る。
 しかし、彼の身体は温もりを失って間もない。おかしな表現だが、魂の猶予は残されているはずだった。突き詰めて言えば、信じたい、という気持ちが強いだけでもあるが。
「……その逆」
「え?」
 が、アーニーは力なく首を横に、告げる。
「もしかしたら、トラッドさんの魂はまだ――身体の中に在るのかもしれない」
 酷く漠然で、不確かで、明らかな矛盾を含んだ推測を。思考の外から来る一言に、ナギサの脳裏が漂白した。
「……ううん。しがみついてる、って言った方がいいのかもしれない」
 そこでアーニーは、少し訂正する。どうやら彼女も同じ心境であるらしい。
「本来、離れた後の魂は身体の傍を漂うだけ、って言われてるの」
 ナギサはふと、ジパングで隠れた壷を思い出す。大きく造られているのは、魂が窮屈を感じないように、という理由だったはず、と。ならば、あながち的外れでもないのだろうか。
「じゃあ、しがみついてるだけなら……いつかは、ってこと?」
 まだ自失しているリノに聞こえないよう小さく、また言葉を慎重に選びつつ。彼女は信と疑を半々に、尋ねる。
「……それも、逆。例えるなら、海、かな」
「海?」
「穏やかなら漂うこともできるけど、荒れてるならきっと……何かにしがみつくのが、精一杯」
 しかし、アーニーは再度首を水平に振って、希望の芽を摘んだ。それしか、できなかった。
「一度こうなったら、どんな状況であっても……魂は飲み込まれるだけ、だから」
 おそらくは"死"に。無遠慮に、無慈悲に。もしくは高慢に、傲慢に。
 当然、人である以上、その圧倒的な力に抗う術などあろうはずもない。
 生があるからこそ、死の足音が響き。
 死があるからこそ、生の足音が響く、のだから。
「つまり――」
 時間が、ない。
 漂っているならまだしも、しがみついてるとすれば、尚更。一度手を離した魂に、彷徨えるだけの力があるとは思えないからだ。
 付け加えると、これは明かしておくべき疑問などでは、そんな生やさしい話などでは、ない。

 たった今、現在。正しく、この刻に。
 それこそ"奇跡"に近い方法で、解決しなければならない――危機。

「アーニー。時間はどれくらいあると思う?」
 訊いてどうなるものでも、答えが出るものでも。ましてや、気休めにもならない。と思いつつ、ナギサは問う。
「……分からない、けど」
「けど?」
「ここは生命の誕生に縁深い場所だから……それでもきっと――」
 残り僅か。やはり、予想通りの答えだった。解りきっていた事である。
 ただ、改めて状況を思い識らされたかっただけなのだ。

 足りないのは到達点ではない。そこに至る道筋だと。

 時間。人間にとっては有限で、世界にとっては無限の。
(どうする……どうすれば、いい?)
 流れに身を委ねる事はできても。
 流れを歪み曲げる事ができない――普遍と不偏から成る、不変なる概念。
 壊れた時計なら秒針も突き動かされないが、そんなものは単なる現実逃避に過ぎない。
(ピオリム、ボミオス……は、違う)
 この場に残された手段は、呪文のみ。だが、思いつけない。そもそも根源――悟りの書を受け継いだアーニーですら至れずにいる。数多とはいえ、普通の書物を読み解いた程度のナギサでは、辿り着ける道理もない。
 道はあるのに、あるはずなのに。そう信じたいのに。
 ありとあらゆる何もかもが、無い。
「……目を開けて」
 声がした。常の鈴鳴りとは程遠く掠れているが、リノのものだ。
「早く、起きて」
 気づけば少女は、彼の胸に顔を埋め、一心に懇願していた。
「お願いだから…………起き、て」
 きっと、神に祈っていた。これまで手を差し伸べてくれなかった存在に初めて、すがっていた。
(リノ、ちゃん)
 ナギサは思う。もしこのままなら、彼女はどうなるのか、と。
 勇者としての使命は、まっとうするかもしれない。本当に優しい娘だから。
 しかし、その先は――決まってる。間違いなく、後を追おうとする。
 消えない悲しみが充ち満ちた世界で生きるだけの理由を、彼女は知らない。おそらく、欲さない。何者であろうと、束の間忘れさせる事すらも、不可能。
(でも、時間が……止められないまでも、せめて――――)
 と、その時。ナギサの持つ知識に、何かが引っ掛かる。
(時間を、止める?)
 有り得ない事象にも拘わらず、発想と可能性が逆巻く。
(私たちが流される時間は、確かに止められない……けど……)
 粉々に砕かれた希望のカケラが集まっていく。求めた道を育んでゆく。
「リノちゃん!」
 いてもたってもいられず、彼女は呼んだ。その唯一無二の"標"である少女を。
 が、答えはない。答えられようはずもない。
「……ごめん」
 だから、ナギサはリノを無理やりに振り向かせ、短く謝った後。
「え?」
 呆然としている彼女の頬へ、ぱしん、と――平手を打った。
「目を覚まして」
「…………」
「時間がないの」
「……でも」
 ようやくの返答で、意識が戻った事を視認したナギサは、更にこう重ねた。
「やっと方法が見つかったのに、それをできる人にしょげててもらったら困るの。だから、ねっ?」
「……え?」
 微かな可能性を断言へと昇華させ、強く。


 そうして、数分後。簡単な状況説明に耳を傾けつつ、涙を拭い去ったものの、
「アストロンって使える?」
 尚も慟哭の跡が生々しいリノに、ナギサが問いかける。
「えっと、うん……身体を鉄に変える呪文のこと、だよね?」
 対して、戸惑いつつも頷き答える彼女。
「そうね。まぁ、鉄に変える呪文ってわけじゃないけど」
「え?」
 しかし、ナギサは一旦肯定しながらも、やんわり否定して続ける。
 誰もが意図を掴めず、ただ次を待った。
「アストロンは全てから身を守る"鋼鉄化呪文"と言われてるわ。でも、それは見た目に由来して付けられた仮の……要するに、ただ分かりやすいだけの呼び名ってところかしらね」
「そうなの?」
「ええ。本当の名前は――"隔絶化呪文"」
 更に告げられたのは、随分と物々しい響きの言葉。リノは思わず息を呑む。
「単なる鋼鉄で砕けないのなら……例えば、鋼鉄の剣だって折れたりしないと思わない? 大体、ドラゴンの炎は鉄も溶かすのよ? なのに"全てから身を守る"って伝えられてるのは、やっぱりおかしいでしょ?」
「それはそうかもしれない、けど……」
「だから"隔絶化呪文"なのよ」
 が、構わずナギサは例を並べ立て、最後には確信まで添える。まるで思考する暇も与えないように、間隙なく畳みかける。
「でも、それがどうして方法に?」
 とはいえ、まだ理由の明瞭さが不足している。リノの質問は、もっともだった。
「いい? アストロンが"全てから身を守る"のは"全てから身を隔絶"するからで……つまり、世界の理から完全に切り離されることを意味するの。その代わり、身動きは取れないけど、如何なるモノにも働きかけられることはないわ」
 そして、ノアニールの"眠り"と少し似ているかも、と付け足された時。
 彼女以外の人物は、あっ、となる。気づいたのだ。

「例えそれが"時間"であっても、ね」

 時間が止められなければ、彼自身を止めてしまえばいい――という、ナギサの狙いに。
 そんな中で、ただ一人。アーニーだけは、おや、となっている。この一見すると完璧な案に、思うところがあるらしい。
 しかし、鋭く察したナギサは目を合わせ、おまけに何故かウインクもする。
(……そっか)
 さすがは親友と言うべきか。それだけで真意を理解した彼女は、慌てて口を噤んだ。
「でも……まだ問題が三つあるわ」
「問題?」
 それでも安心や油断はせずに、話を切り出すナギサ。笑みを零しかけたリノの顔にも、つられて真剣味が帯びたものの、
「……うん。呪文の効果と範囲……この二つについては大丈夫だと思う、けど……」
 不意にナギサは、声と表情に澱みと翳りを滲ませた。それも、曇った碧眼に少女の姿を映したまま。だが、リノはすぐさま気づく。というより、解ってしまう。
 今の様子から思考を巡らせれば。これまでの話を手繰れば、答えは一つしかない。
「……だったら、大丈夫」
 ナギサは自分の身体を心配しているのだ、と。
 そう。アストロンとライデインは同じ類の呪文。正確に言えば、呪文ではなく――聖を司る、魔を祓いし法。したがって、リノにしか扱えない特別な力だ。瘴気に蝕まれた彼女が行使すれば、激痛の果てに昏睡を伴う事になる。
 いくら状況が状況とはいえ、やはり心苦しいのだろう。
 だが、その気遣いは違う。何故なら、これは今考え得る限り最上の手段であり。
「今以上の"痛み"なんて、どこにもないから……それに――」
 喪失を覆し、日常へ導く、唯一の道であり。
「折角、見つけてくれた方法を無駄になんて、できない」
 自分のように挫けなかったナギサが、精一杯探し当ててくれた標なのだ。臆病を感じる心など、あっていいはずがない。
 加えて、リノは声にこそ出さなかったが、別の意味で感謝もしていた。

 人でない事を思い知らされるだけの苦痛が。普段からずっと疎んでいただけの事実が。
 大切な彼を救う、かけがえのない力になる――そう、教えてくれたのだから。

「……変なこと言って、ごめん。余計なお節介だったわね」
「ううん……それよりもどうすればいい?」
 上手く笑えているだろうか。無理をしているように見えないだろうか。
 言い換えれば、自分の弱い心は怯えていないだろうか。
 決して小さくない不安を胸中に、リノは次なる指示を仰ぐ。
「……アーニー、この部屋は誰の魔力でも強くなるの?」
「え? あ、うん」
 と、そこで一旦アーニーに問いかけ、首肯を確認したナギサは、
「じゃあ、次は構成ね」
 人差し指を唇に当てつつ、今正に求めていた返事をした。
「構成って、アストロンの?」
 どうやら大丈夫らしい、と判断した彼女は安堵を織り交ぜ、訊き返す。
「ええ。アストロンって、結構範囲が広いんでしょ?」
「……だと思う」
「だからなんだけど……リノちゃんは"構成を変えて"呪文を唱えたことはある?」
「構成を……変えて?」
 しかし、再びの問いかけ。リノには意味が分からず、当初は首肯も否定もできなかったが、
「ベギラマの範囲を拡げる、とか」
 具体的な例を挙げられ、ようやく首を横へ振った。
 呪文にせよ、魔を祓いし法にせよ。源や成り立ちは異なれど、練るという点に関しては同一。
 同じ一を要するだけの工程、であり。
 同じ位置に着くための過程、である。
 リノは"呪文"なら瞬時に唱えられるが、それでも、だ。
 だが、構成を"変"えるとは、一体どういう事なのだろうか。そもそも構成が違えば、別の呪文として顕現。最悪、暴発を招くのでは――などと、リノが至極真っ当な疑問を抱いていると。
「呪文の構成っていうのは、人が唱えやすい形になるのが自然なの。ちょうど無意識の呼吸や歩き方が自分の適した型になるみたいに、ね」
「え、っと……?」
「結論を言うと、構成を練る上での約束さえ守られていれば――呪文は発動する、ってこと」
 より不鮮明な内容の言葉がナギサの唇から紡がれ、更に話は続けられる。
「そうねぇ……本来の構成――魔法陣の大きさが範囲、線の太さが威力を表すから……全てを合わせた基本の構成を、例えば"十"と考えてみて」
「う、うん」
「けど、範囲を拡げようと魔法陣を大きくしても呪文は発動しない。どうしてかは解る?」
「……基本の"十"より大きくなるから?」
「そう。なら、どうすれば呪文が発動すると思う?」
 そこでリノはしばしの思案に暮れた後、程なくして理解し、
「線を細くして――威力を抑える」
 射抜くような黒を引き連れ、小さく断言した。
「ご名答。さっすがリノちゃんね」
 要するに、微笑みながらリノの頭を撫でる彼女が言いたい事、とは。

 基本を『十』とし、構造を『五+五』とするならば。
 再構築形は『七+三』『二+八』などに限定される、ということ。

 加えて言えば、今回の場合。
 威力を強め、範囲を狭める必要があるのだから、ちょうど良い。
「……でも」
 とはいえ、先刻の鋭い視線が示す通り、リノには不安もある。初めてでも上手くできるのだろうか。そんな心配が。
 リノとアストロンの性質上、機会は一度だけ。決して失敗は許されないのだ。無理もない。
「大丈夫よ。エルフの森で私がしたこと、覚えてる?」
「え?」
 しかし、察したナギサは揺らぎなく、頼もしい声で言う。
「ほら、森に施された幻術を見破ったじゃない。あの時は感じ取るだけだったけど、術者に触れれば構成を視ることもできるわよ」
 リノは思い出し、目を見開く。ナギサは見破っただけでなく、綻んだ箇所に目印まで残していた、と。しかも魔力においては、人よりもエルフの方が遙かに高位。なら、彼女の自信も十分と言っていいだけの根拠がある。
「だから大丈夫。最初に本来の構成さえ浮かべてくれれば、私が指示した通りに整えてもらうだけでいいわよ」
 加えて、アストロンを唱える時、彼女はリノに触れる必要がある。
 つまり、誰かの温もりを――仲間の支えを実感できる、という事。
 こんなに心強い絆はきっと、ない。
「……うん」
 リノは幾分はっきりした音色と共に頷き、彼の元へ歩み寄った。



 音が――いや、声がした。
 荒々しく、ぶっきらぼうで。粗野な笑いばかりが記憶にある、音色。
 酷く懐かしい、と思いつつも。
 もう聞けない、と知っている――そんな、声。
 大切な誰かの奏で紡ぐ、声色。
 佇む人影。霞がかった意識の持ち主は、今。
 トパーズと銀が渦巻く非日常的な風景の中、初めての一歩を踏み出した。



 そして、ダーマにて。
 奇跡への挑戦――日常への回帰を示す第一歩が、始まった。


 作るべきは、道なき道。もしくは、"絶望みち"なき"希望みち"か。
 弾ける。彼と世界を別つ、隔絶の構成が描かれる。
 伴って細胞が、血管が、心臓が、呼吸が――軋む。
 まるで、存在という存在を消し去るように、迸る。
「っ……!」
 堪えきれず、桜色の唇が少し割れ、傷痕を紡いだ。
 そんな中、リノは思い出していた。

 他者によって生かされ、自分のために殺された――名前も知らない海賊の事を。

 もし、彼女の歩む道が神の意思ならば。
 もし、彼の歩んだ路が神の意志ならば。
 彼は、運命と名付けられた世界の尊い犠牲であり、生贄。
 再びの邂逅だけでなく、断片を識る事さえも許されない。

 だからこそ、思う。理不尽な犠牲者は、もう沢山だ、と。

 自分がここでこうしていられる、のは。
 この刻へ導いてくれた仲間たちとの絆だけでも、眼前の彼に抱く想いだけでも、ない。
 もう二度と会えない"彼"への思いもあるからこそ、立っていられる。
 姿形や命の有無は違えど、今のリノを支えているのは、紛れもなく"人"だった。


 理解する気も起きない鮮烈な軌跡を視るナギサもまた、戦っていた。
 辿り着いた奇跡を蝕む、酷く闇塗られたモノと。
(これが、瘴気……!?)
 不可視であるがゆえに、見通しが甘かった。
 目の色が変わる、激痛を伴う、だけではない。その程度では決して、ない。
 リノに宿った瘴気は、事も無げに想像を凌駕していた。

 だが、構成そのものを醜悪に歪めてしまい、普通に扱う事さえも難しい。
 などと――果たして、誰が考えつけるというのか。

(なら……抑え込む、だけ……!)
 しかし、ナギサには培われた力があった。一度決めた事をやり遂げられるだけの心も、持ち合わせていた。
 そのため、成し得てしまったのだ。テドンの時と同じように。
 今は、的確な構成を指示しつつ、瘴気を退けてしまうという――人には過ぎた行為を。

「アス……トロ、ン」

 やがてリノの喉が途切れ途切れに割れ、魔を祓いし法の真名が呟かれる。
 すると、陽が大地を温めるように。また、雨が大地を潤わせるように。十重二十重、縦横無尽に織り編まれた光の網が、トラッドを淡く包み込む。
 そうして、刹那。たった一人、彼の身体だけが"全て"と、理と切り離された。
 今度こそ――と全員が確信した、その時。
 不意にナギサが、その場へ崩れ落ちた。力を使ったリノではなく、彼女が、である。
「ナギサさん!?」
 だが、血相を変えて起こそうとするティルクとは裏腹に、
「えっと……うん。ちょっと疲れてた、みたい」
 当の本人は手をパタパタと振って、何事もなかったように立ち上がる。
 その様子に、リノとティルクは安堵の息を吐くものの、
(ナギサちゃん……?)
 アーニーだけは少し離れたところで、訝しんでいた。



 幸い昏睡に至らなかったリノを宿屋へ。少し用事を思い出した、とキメラの翼で飛び立つティルクを外へ。
 二人をそれぞれ見送った後。
「でも、びっくりしたよ」
「何が?」
 ナギサはすぐに休もうとしないばかりか、アーニーを部屋まで送る、と言って踵を返した。
 そういった経緯で、今二人は緩やかに歩を進めている。
 とはいえ、それは建て前。
 本音を言えば、久々に再会した親友と少し語らいたかっただけなのだ。
 不謹慎かもしれないが、こんな時だからこそ、ともナギサは思っていた。
 ちなみにアーニーも気づいてはいたが、わざわざ口にしない。というより、する必要がない。
 自分も同じ気持ちなのだから。
 これを不謹慎と呼ぶなら、彼女も同罪に違いなかった。
「アストロンのこと」
 しかし、そうは感じていない二人の話は、続く。今の内容は、先刻の事についてだ。
「あら、何のことかしら?」
「もう……本当は知ってたんでしょ? "隔絶化呪文"っていう名称は一説に過ぎない、って」
「……やっぱり、バレてたのね」
 そう。アーニーは気づいていた。彼女が話した真実は――数ある可能性の一つだ、と。
 アストロン。それにライデイン。いわゆる"魔を祓いし法"は、圧倒的に使い手が少ないため、呪文ほど知られてはいない。かろうじて、存在は確認されているものの、まだまだ未知に包まれた領域だ。
 だから、ナギサも疑問を覚えさせないよう『らしい言葉』で畳みかけたのだが、
「説明してる時、凄く不自然だったよ? 私から見れば、だけどね」
 それが却っていけなかったらしい。彼女は少し反省した。もっとも生かされるのは、"銀髪の彼"に対してだけに相違ないが。
「まぁ、上手くいったんだから、ね? それに実証もできたじゃない」
 ともあれ、結果良ければ全て良し、とでも言うように、ナギサはウインクをする。
「……でも、誰がどこで唱えたかまで聞かれるから、やっぱり誰にも言えないよ」
 しかし、返事をするアーニーは、極めて冷静沈着。取り付く島もない。
 更に直後訪れたのは、嵐の前の静けさめいた、何とも筆舌に尽くし難い雰囲気だった。
 非常にまずい。このままでは、和やかな語らい、どころではない、と察し。すぐさま矛先を変えるべく、別の話題を探し始めたナギサだが、
「あ」
 ちょうど数時間前にもノックした扉が、碧眼に映し出された。アーニーの部屋である。
「また今度話すけど……くれぐれも無茶だけはしないでね」
「子供じゃないんだから、自分の限界ぐらい分かってるわよ……でも、ありがと」
 間一髪、と言うべきか。名残惜しい、と言うべきか。
 どちらかといえば、やはり後者の心境で、二人は就寝の挨拶を交わし合う。
 そして、ナギサが背中を向け、アーニーが扉を開けた――瞬間。
「……ナギサ、ちゃん」
 不意に呼び止められた。それも、あの地下室を連想させる仄暗い声で。
「なに?」
「えっと……あの、ね」
 加えて、しばし戸惑いを露わにした彼女だったが、突然弾かれたように顔を上げると。

「身体……本当に大丈夫なの……?」

 覚悟と不安が入り混じった音色で、ぽつり尋ねた。
 何の変哲もない、素朴な問いかけ。長く離れていれば、尚更に自然さが増す。
 だが、振り向いたナギサは穏やかに微笑むだけで、答えない。

「そんなの……大丈夫に、決まってるじゃない」

 いや――すぐに応える事ができなかった。



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