第82話 「標された道の名は」


 昇る太陽が朝日と名付けられ、白んだ空が澄んだ蒼に移りゆく最中。
「……ぅう……ん」
 まどろみも気怠さも、躊躇いさえもなく。リノの瞼が素早く持ち上げられた。
 微かに光が差し込んでいるせいか、部屋は仄明るい。漂う清廉な空気からも、世界は紛れもなく朝を告げている。
 彼女はふと、記憶の糸を手繰り寄せた。
 眠りの中で夢を見た覚えは、ない。
 すぐ寝つけなかった覚えも、ない。
 彼が"あんな状態"にも拘わらず、だ。
 戦闘で疲れ切っていた上に、魔を祓いし法まで行使し、しかもベッドへ潜り込んだ時間は遅かった。思い返せば、納得もできなくは、ない。
 しかし、それでもリノは――自分を冷たい人間だと思わずにいられなかった。


 修行に修験。神への祈祷。飽くなき智の探求に神殿内の掃除、などなど。何らかの形でダーマに携わる者たちは、一部を除いて非常に朝が早い。
 現にじんわりと。おもむろに、ではあるが。
 昨夜の生温かい静寂が虚幻きょげんめくように、色彩豊かな喧々騒々を予感させる熱が帯び始めていた。常よりも随分早い時間に目が覚め、何となく歩を進めるリノは、つい感心してしまう。
 また、だ。そんな場合ではないというのに。
 自失する暇もなく、彼女が自責の念に駆られた――その時。
「リノちゃん、おはよう」
「おはようございます」
 耳馴れた音の挨拶が二つ、背中にかけられた。驚き振り向くと、よく見知った顔が二人。
 ティルクとアーニーだ。
「……おはよう、ございます」
 間髪入れず我に返ったリノは、心持ち声のトーンを上げつつ、ぎこちなく応えた。大神官の手前、口調は丁寧に。もっとも、これは彼女の自己判断であり、当の本人は気軽に話される事を好む。ただ、リノが不器用だと理解しているからこそ、無理強いどころか表にも出さないのだが。
 また、今のような間柄でも十分に幸せを感じている、というのも事実だった。
「お身体の具合はどうですか?」
 ともあれ、別段機嫌を損ねた様子もなく。むしろ、心配を露わにアーニーは尋ねる。昨夜、リノとナギサが交わした会話や様子から、おおよその事情を推測していたのだろう。さすがと評するべき観察眼で、大神官の名に相応しい理解力だ。
「特に、は」
「じゃあ、これから一緒に朝食でも――あら?」
 だが、彼女は自身で言葉を遮り、疑問符を浮かべる。つられて、リノも首を傾げると、
「もう……ダメじゃないですか」
 アーニーは懐から柑橘色の櫛を取り出し、流麗に歩み寄ってきた。
 そして、惑う彼女には微塵も構わず、艶やかな黒髪に触れた後、
「ほら、寝ぐせ。今すぐに直しますからね」
 まるで誰かを連想させる指摘を、迷わず行動へ移した。
 こうやって気に掛けてもらえるのは嬉しいが、同時に申し訳なくも思う。
「で、でも……旅には何の支障も――」
「ダメです。リノさんも年頃の可愛い女の子なんですよ? 勿体ないじゃないですか」
「勿体ないって、そんな――」
「とにかく、終わるまでじっとしてて下さい」
 が、そんな胸中すらも見抜いているアーニーは、少女の言葉をことごとく遮る。丁寧だが、若干厳しい声で。本当に、よく知る誰かのようだ。
 半ば諦めたリノは、腕を組んでいるティルクに狼狽の瞳で訴えかけてみるものの、
「すぐ終わるよ」
 返された一言は、同意と苦笑が入り混じった励まし。助けは期待できそうにない。
「なるべく……早く終わらせて下さい」
 完全に諦めたリノは力なく呟き、反対にアーニーは極めて上機嫌で応える。
「お気持ちは、お察しします……けど」
「……けど?」
「焦りは禁物、ですよ?」
 続けて、ぽそぽつりと。互いにしか聞こえないような声で、彼女は囁く。
「あせ、り?」
 一方のリノは、思わず疑問符を浮かべるものの、
(……違う。私はただ――冷たい、だけ)
 敢えて言葉は発さず、首を横に否定の意を表した。
「いいえ、焦ってます」
 だが、彼女とは対照的に言葉のみで否定するアーニーは、
「無理もなさってます」
 もう一つ重ね紡いで、
「……例えどんなに悲しいことがあっても、哀しみに囚われ続けるのではなく」
 音色はより密やかに、
「むしろ、感情をありのままに受け入れ――"人"として顔を上げるべき、ではないでしょうか」
 質問と独白の境で揺られるような呟きを、凜と落とした。
 不可視であり不定形であり、不可侵の領域――心。
 仮に形を定めたとしても、一向に姿は定まらず。内実は多種から多様に至り、絶えず移ろうもの。または、源。命と並ぶ"人"を司りし、根源。
 だからこそ、一つの場所に留まっていては、たったの一歩も踏み出せない。きっと、そう言いたいのだろう。
 しかし、アーニーは子供っぽい無邪気な笑顔で、
「実は、全部ナギサちゃんの受け売りなんですけどね」
 最後にこう添えた。そこでリノはハッとなり、今更ながら気づく。
「そういえば、ナギサは?」
 かつてダーマに携わっていた名残か、普段は誰よりも朝の早い彼女がいない事に。
 しかも"こんな時"に限って。
 より深く、今の今までを思い返してみれば。宿では同じ部屋に泊まる機会が多いにも拘わらず、一度も姿を見ていないのだ。
 これもまた"今日"に限って。
 ふと沸き上がった疑問を起点に、リノは得も知れぬ予感を膨らませる。
「あ、えっと……ナギサちゃんは、ですね」
 しかし、曖昧然とした感覚を拭うように、どこか緊張した面持ちで切り出したのは、アーニー。
「ダーマに来ると、いつも泊まってる部屋があるんです」
「え?」
「それで、さっき覗いてみたら……その、疲れてるみたい、で」
「ということは、まだ眠ってるんですか?」
「はい」
 初耳、だった。いや、言う必要はないと思ったから、告げなかっただけなのかもしれない。
 確かに仲間であるからこそ、個人の事情を知ってしまう時はある。だが、決して全てではない。隠しておきたい事もあって、自然。
 実際にリノも――彼には想いを告げられずにいる。不自然を覚える道理は、ない。
「昨夜……ナギサちゃんは、こう言ってました」
 所在が分かり、リノが安堵する中、彼女は続ける。
「万が一、自分が起きられなければ――お二人に"これからのこと"をお願いしたい、って」
「これからの……そう、ですか」
「だから朝食をご一緒しながら、ご説明したいと思うんですけど……構いませんか?」
 千変万化の機転を以て、数々の窮地を救い。また、誰彼の支えでもあるナギサが――不在いない。疑いようもなく心許ない事実、だった。
 とはいえ、彼女も人。いかに頼れる存在であっても、疲れは必ず生じる。
 加えて、時間もない。歩みを止め、立ち尽くす猶予など、世界の何処にもありはしない。
 だからこそ、リノに今できる事は。小さな体躯が成すべきは、前に進む事。何よりもその行動は"彼"だけでなく"彼女"のためにもなる。
「いこう、リノちゃん」
「……うん」
 少女はこくりと頷いた。傍目からは、青年に促される形で。
 胸中を見通せば、自ら強く決意して。
「では、早速向かいましょう。もう準備はできていますから」
 束の間、ティルクと微笑み合ったアーニーは櫛を直し、こちらへ、と手を伸ばして歩き出した。

 だが、この場にもしトラッドが。或いはラザ、ヤヨイがいれば。
 瞬時に気づくか、訝しんだかもしれない。

 いかなる状態でもあの・・ナギサが、今の・・リノを放っておくのは妙だ、と。


 相も変わらず瑞々しさが深い、数々の野菜料理。広く知られてはないが、これも間違いなくダーマが誇るべき数多の一つ。
 リノは味わいながらも控え目に。ティルクは舌鼓を打ちながら普段通りの量を食べ終え、それぞれが紅茶を楽しみ始めた頃。
「あの、アーニーさん……どうして私が焦ってると思ったんですか?」
 先ほどから気になっていた事を、リノは耳打ちでそっと尋ねた。
「ふふ……以前のリノさんを知っていれば、すぐ分かりますよ」
「以前の、私?」
 同じく耳打ちを返すアーニーは小声で、何故か楽しげに告げる。
「はいっ。今のリノさん、あの時よりも可愛らしいですから」
「えっ……」
 刹那、リノの頬がぼっと上気した。
「自分では何が変わったか分からないかもしれませんけど……何か"大切なこと"に気づいたんじゃないんですか?」
 更に続けられ、ますます顔が赤くなる。ある感情を持つ少女特有の、不可思議な熱を伴って。
 もう言葉を返せない。話題を変える術も、見出せない。
 一度でも唇を割ってしまえば、零れ落ちそうな気がしたのだ――想いや涙、などといった諸々の気持ちが。
「また今度、ゆっくり聞かせて下さいね。では……そろそろ本題に入りましょうか?」
 しかし、不意に身体を遠ざけたアーニーは問い詰めないばかりか、多少強引に話まで切り替えた。おそらくはリノの困惑を解しての行動。
 ともあれ、リノとティルクは神妙に首肯する。対して、二人の意思を視認したアーニーは、椅子に立て掛けてあった羊皮紙を手に取った。
「お二人は"世界樹"をご存じですか?」
 そして、問いと共に細く丸まったそれを伸ばし、小さな世界を眼前に広げた。旅の必需品と言える道具――地図だ。察するに"これからのこと"とは、既に定まっている目的地への旅立ち、を意味するのだろう。
 ただ、意図は理解できても、"世界樹"という単語は聞いた事がない。
 などと、リノが言葉を滞らせていると、
「神話にある"世界の始まりと共に芽吹いた大木"の別称……でも、それがどうかしたんですか?」
 今まで静かだったティルクが答え、逆に問い返した。アーニーが頷くところを見ると、正解のようだ。だが、すぐさま桜色の唇を右掌で覆い隠し、しばし黙り込む。尋ねたは良いものの、後の事を考えていなかったらしい。
 とはいえ、沈黙は束の間に去り。
「最初に……そうですね。ザオリクのことから、お話ししましょうか」
 再び顔を上げた彼女は、草花の瞳で二人を見据えつつ、こう切り出した。
「ザオリクは確かに"完全蘇生呪文"と呼ばれていますが……実際は違うのです」
「違う?」
 言うなれば、不完全。あの奇跡とも思える黄金色の輝きが、だ。
 リノは小さな驚愕と共に、つい聞き返してしまった。
「はい――といっても、"世界樹の葉"と比べれば、なんですけど」
 が、特に落胆の色も滲ませず、アーニーは続ける。
「ザオリクはあくまで"彷徨える魂を呼び戻す"呪文です。魂の力が足りなければ、もしくは身体が朽ちてしまえば、何も起こせません。ただ、トラッドさんの場合は少し事情が違い……おそらく、魂がしがみついている状態かもしれません」
「なるほど……魂が不完全に残っているからこそ、ザオリクが効かないんですね?」
 頷き、彼女は紅茶を一口。リノとティルクも、それに倣う。
「ですが、"世界樹"に生い茂る葉を用いた薬は、どんな傷でも癒す上に――"魂を定着させる"と、伝えられています」
「魂を……?」
「言ってしまえば、真の"完全蘇生"です――それこそザオリクなど足元にも及びません」
 つまり、死者がいかなる状態でも関係がない、という事。話を聞く限り、正しく"奇跡"に等しい。
 しかし、不可解な部分もある。
「でも、その"世界樹の葉"が使われたという話を聞かないのは、どうしてですか?」
 口にしたのは、リノ。至極真っ当な疑問でもあった。
 誰彼の傍らにも死が寄り添う世界において、求められないはずがないのだ。
「……"悟りの書"によると、いくつかの条件があるからです」
 若干間を置いて、アーニー。条件、と眉をひそめたのはティルク。
「まず、天寿を全うした人と、魂が完全に離れてしまった人には効きません。これはザオリクも同じですが……」
 リノは息を呑み、綴られる言葉を待つ。
「問題は――蘇生を望む者が自ら手に入れ、調合も処方も行わなければならない、という点ですね」
「つまり、誰かに取ってきてもらうことはできない……」
「はい。他者に手渡された瞬間、跡形もなく消えてしまう上に……ちぎれる葉は、一人の生涯に一枚だけとも限られています」
 そこでアーニーのたおやかな人差し指が、トン、と初めて地図を叩く。
「しかも場所が……ここ、です」
 直後、示されたのはダーマの北。湖を越えた先にある、森。人が一望できる小さな世界――地図上にも拘わらず、広大さを想像する事が容易い"樹海"だった。
「辿り着くのは困難だと思います」
「……確かに」
 現実的とは言えない。一国が総力を挙げれば別だが、個人で雇える傭兵の数など、精々一人か二人。それも余程の手練れを連れて行かなければ、雇い主自身が生きて帰れる保証もない。奇跡が起きた話を聞かないのも、道理である。
 多少は腕に覚えがあるティルクでも――おそらくは、リノも――やはり不安は拭い去れなかった。かといって、二人に諦めるという選択肢は、当然存在し得ないのだが。
 そんな中、彼女の指がまた動く。その方角は、ほぼ南東。
「ここにムオルの村があるんですけど……ここから北、森の東側は浅瀬になっています」
「船は入り込めない、か。途切れる場所は?」
「えっと、陸に沿って北上した……ここ。ちょうど川になる辺りですね」
 気づけば、なぞる指が増えている。質疑応答を繰り返すティルクのものだ。地図を見る事が今一つ苦手なリノは、無言で傍観していた。
 普段、こういった役割である"彼"を思い出しながら。
「じゃあ、まずはこの川を目指すとして……世界樹はどこですか?」
 ともあれ、大体の見当をつけたティルクは、確信の一言を口にした。
 そう。これまで話し合っていたのは、あくまで途上。決して終着では、ない。
 しかし、問われたアーニーは、数十秒ほど口元に掌を添えた後、おそるおそる机上の世界に触れた。
「この辺り……としか言えません」
「……え?」
 刹那、指し示された場所は、一面の緑も色濃い中心部。しかも漠然さを表すように、小さな円まで描いている。
 地図上なら、分かる。が、それだけだ。実際に訪れた時の参考にはならない。
「"悟りの書"には、森の真ん中、と記されてるんですけど……」
「……どこが真ん中かは、行ってみないと解らない、か」
 世界は広い。ただでさえ。人の視界が一度に収められる景色など、極々一部に過ぎない。仮に幾千幾万の"極"という文字を重ねても足りないぐらいに、矮小。
 ゆえに、リノとティルクは自覚した。想像だけではなく、現実としても。
 アストロンが成功しても、限られた時は皆無を越えた絶無に等しい、と今更ながら。
 軽率。迂闊。惨憺たる暗澹。果ては、後悔。
 ありとあらゆる負の感情が渦巻き、リノの胸中を逆巻き、自責の一途を迷わず疾走した。
 例え焦っていたとしても。いくら落ち着く時間が必要だったとしても、だ。
 同時に一つの事実に気づき、彼女は慌てて部屋を飛び出そうとした――のだが。
「リノちゃん」
「……え?」
 焦燥に支配された行動は、前触れも断りもなく阻止される。穏やかな声色とは裏腹に、力強く腕を引いたティルクによって。
「わっ……」
 完全なる不意打ちの反動で、リノは背中から倒れそうになるものの、
「おっと、っと……ごめん、大丈夫?」
 それを難なく、右手一本で支えたのも、彼。
 一見すると、少女が後ろから抱き寄せられたような形で、二人はぴたりと静止していた。
 が、ティルクは何故かすぐに離そうとせず、
「一応訊くけど、リノちゃんが心配してるのは船のこと、だよね?」
 余った左小指で髪を玩びながら、やや複雑な面持ちで問いかけた。
 彼女はこくりと頷く。自失気味ではあるが、緊張はないらしい――銀髪の彼の時とは違って。
「だったら、やっぱり大丈夫」
「だい、じょう……ぶ?」
 そこでようやく彼女を解放し、くるりと振り返らせたティルクはこう呟く。
「……うん。もう手は打ってあるからね」
 この時、彼の表情は、紛れもなく笑顔だった。
 ただ、ほんの少し。微か。誰かが指摘しなければ、悟られる事はない程度に。
 まるで、ひとひらの夢から覚めたような、物寂しい笑顔、だった。



 声が、止まない。声が、紡げない。
 だから、呼びかける術がない。
 だから、足を動かすしかない。
 だから、分かった。理解した。
 触れられない銀の草を、無為に掻き分け進む人影は、思い知らされた。
 無作法で無遠慮で。物心つく前から、嫌というほど繰り返し聞かされて。
 正直、返事をするのも煩わしく感じた事さえある声が。
 本当は酷く温かくて、自分が慕っていた音色だった、と。
 兆しも容赦もなく――気づかされてしまった。
 ゆえに、青年は祈り。何度も夢見ていた事を、願い。
 声を捉える耳だけを頼りに。何故かぬかるむ足元に、拘泥もせずに。
 非日常の空と同じ色の瞳を、空虚に塗り変えつつ――ただ、求めた。



 天をたゆたう白と蒼の斑点具合が、緩やかに反転を始めた頃。
 ティルクを先頭に、まだ時間があるらしいアーニー。リノ、と。
 晴れやかなる陽光の下、三人はダーマから少し離れた場所を歩いていた。
 言葉は少ない。むしろ、紡いでいるのは、二人だけ。
 案内役のティルクと、漂う霧に注意を払うアーニーだ。リノに口を開く余裕もなければ、話しかけられる雰囲気でもなかったのである。
 心配もあれば、不安もある。だが、それ以上に心を占めている目的が、あった。
 一刻も早く世界樹の葉を持ち帰らなければならない、という使命にも似た気持ちが。
 だからこそ、二人も必要最低限の指示に言葉を留め、積極的に構おうとはしない。何より、彼女にそういった気遣いを求めている節がない。
 何故なら、誰よりも強くそう望んでいるのは、彼女自身なのだから。
 やがて、程なくして。
 山のように高くはないが、平地のように低くもなく。かといって、人の足では踏破できそうにもない。そんな地形を縫うように、か細く拓かれた場所へ、三人は辿り着く。一応は、道と呼べるモノだろう。あくまで"人が歩ける大地"と定義や解釈を拡大すれば、の話ではあるが。
 要するに、悪条件が揃い並べられた路、だった。
 歩行を妨げるのは、一つの物質が成す二つの要素。物質とは、突起した岩。要素とは、突起する方向。即ち、横から伸びた岩には頭を打つ可能性が。下から伸びた岩には足を躓く可能性が、手ぐすねを引いて待ち構えているのだ。
「先ほどより霧は薄れていますが……気をつけて下さいね」
 アーニーの呟き。三人はふと足を止め、周囲を見渡す。その数十秒後、無言で頷き合うと、再び歩き始めた。
「ティルク、さん……この先に船、が?」
 これまでの道のりも、決して平坦と言えない。だが、今の道のりの比ではない。
 さすがに疲れが滲んできたアーニーは、気を紛らわせようと彼に問いかけた。
 実を言えば、ダーマを出て間もなくに覚えた疑問でもあった。
「うん。待ってもらってる」
「でも……どうして、こんな場所に?」
 ダーマに港はないが、辺りの川や湖は狭くない。また、断崖絶壁というわけでもない。むしろ、細い所で船を操る練習場所になっているぐらいだ。しかも神殿と船上は、双方から互いを確認できるほどに近い。最適の上陸場所と断じても、過言ではないだろう。
 言い換えれば、こんな辺鄙な所に船を停泊させる理由が見当たらないのだ。
「行けば分かるんだけど……ちょっと事情があってね。誰かに見られると困るんだ」
 苦笑いで曖昧に答えるティルク。
 とその時、アーニーは気づいた。ここからはダーマが見えない、という事に。ただし、備えを要する程度でもない。例え万が一を考えたとしても、杞憂どころか徒労にしかならない死角だ。
「……じゃあ、私は?」
「え?」
 更に、彼女は自分を指差して問いかけた。しかし、当のティルクは意味が分からず、聞き返す。
「ですから、私には見られても大丈夫なんですか? 一応、大神官なんですけど……」
「あ」
 そこで具体的に質問され、彼もようやく意図を掴んだ。どうやら、すっかり忘れていたらしい。
 とはいえ、本人が自覚している通りでもあるため、無理もないのだが。
「うーん……」
 早速の思案に暮れるティルク。だが、アーニーはどこか楽しげに、返事を待ち侘びている。
 リノはふと、自分の寝ぐせを直す彼女を脳裏に浮かべ、何となく胸中で落とした。
 さすがはナギサの親友だ、と。
 穏やかで優しいだけでなく、悪戯好きでもあるのかもしれない。そう思うと急に、この呑気な大神官が身近な存在に感じられた。
 ともあれ、三者三様に考えを巡らし。しばらくは会話もなく、歩を進めた後。
「……やっぱり、うん。アーニーさんなら大丈夫かな」
 ティルクは唐突に、まるで不安のない声で呟いた。
「あら、どうしてですか?」
 少し弾んだ声で理由を尋ねるアーニーに、彼はこうも添える。
「見た目や肩書きだけで、誰かを判断するような人に見えないからね」
 それは信頼が感じ取れる、一点の曇りもない言葉だった。出会って間がないにも拘わらず、だ。
「……はいっ」
 力強く頷く彼女。嬉しくないはずがない。
 後ろを歩くリノに表情は窺えないが、極上の笑顔である事は想像するまでもなかった。
 そして、同時に。彼女は漠然と、別の推測を立ててもいる。

 この先で待っている相手とは――"あの人"たちではないか、と。

 結果、リノの予想は当たっていた。
「わぁ……」
 隣で真っ先に声を上げたのは、アーニー。しかし、当然の反応だった。
 というのも今、三人の眼前に浮かんでいるのは、真っ白な帆に真っ黒な髑髏が描かれた――海賊船。驚くのが普通で、取り乱さないだけでも大したものである。
「納得してもらえた?」
「…………」
 してやったり、のティルク。だが、彼女からの返事はない。
「……アーニーさん?」
「はい?」
 疑問符が漂う、二度目の呼びかけ。ようやく振り向く。
「どうかした?」
「えっと、その……」
 続けて、三度目。そこで我に返った彼女は、束の間瞳を泳がせた後。
「……すみません。初めて見たものですから、つい……感激してしまいまして……」
 世間一般とは異なる感想を、上気した頬で口にした。
 確かに、船乗りか世界を駆け回る商人でもなければ、まず見かけない。というより、お目に掛かりたくもないはずだ。だから、やはり彼女はズレている。そう言わざるを得ない状況だった。
「と、とにかく……この場所を選んだのは、無用の混乱を避けるためだったんですね」
 両手をわたわたと慌てさせながらも、アーニーは的確に理由を言い当てる。聡明と天然の差違が激しいとは思いつつ、感心混じりにティルクが首肯した時。ふと気づいた。
 船に向く二つの黒が――無垢な少女の瞳が、不可思議に揺れている事に。
 何を思っているのか、思い出しているのかは分からない。ただ、酷く遠い。そんな目だった。
 しかし、ティルクが呼びかけるよりも早く。
「もしかして、昨夜の用事って……船のこと?」
 リノは問いかけた。これ以上は聞かないで欲しい、と拒絶するように。
「……必要になるかも、と思ってね。レイヴンさんから借りてきたんだ」
 なら聞けない。きっと、聞いてはいけない傷痕。
 察したティルクは、何事もなかったかのように話を続ける。
「じゃあ、中に?」
「ううん、残念だけど……でも、レイヴンさんから伝言は預かってるよ」
「え?」
 そして、きょとんと首を傾げているリノに伝えた。

『リノたちが困ってるんなら、いつだって力を貸す。もちろん、遠慮なんていらないよ。ただ……そうだね。また酒を飲みに来るのが条件、かな。世界が平和になった時にでも、さ』

 海の荒くれ者を束ねる頭領――彼女の言葉を。
「レイヴンさん、が……?」
「よっぽど気に入られてるみたいだね」
 本音を言えば、意外な内容だった。
 おそらくレイヴンは、自分を嫌ってはいない。だが、決して好んでもいない。
 なら、もう会わない方がいいかもしれない――と、リノだけが思い込んでいた。
 だから、嬉しい。そう感じずにはいられなかった。
「……そう、なんだ」
「うん」
「ティルクさん……教えてくれて」
 ありがとう、とリノ。どういたしまして、とティルク。
 その直後、交錯したのは漆黒と深海の視線。既に迷いはなかった。
 いや――迷う必要など、世界のどこにもありはしなかった。

 何故なら、この先は。
 真っ直ぐに伸びた一筋の細い糸は。
 今、自分が歩もうとしている道は。

 沢山の人々が標してくれた"絆"なのだから。

 そうして、アーニーに出発の意思を告げた二人は、足早に海賊船へ乗り込んだ。



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