第85話 「愛と想い出」


 翌日の朝。
 つまり、リノとティルクがダーマを発って二日後。
 または、ラザがダーマに戻って来てからも二日後。

 即ち、彼のトパーズが光を失ってから――三日後。

 時は今も自身の歩みを誤る事なく、自分の歩みを世界に刻み続けていた。


 ダーマの一室。ナギサが好んで寝泊まりする部屋の前では。
(……遅いな)
 所在無げに深緑の内壁へもたれるラザが、この上なく暇を持て余していた。
 そんな彼が、今している事と言えば。
 忙しくこまめに腕を組み直す。剣の柄を握り、掌へ馴染ませる。傍らの窓から、本日の空模様を観察する。右太股側面を、右人差し指と中指で叩く。準備に抜け落ちがないか確かめる。静かに穏やかに、深呼吸を繰り返す――などなどだが、どれもこれも大した手間はなく、すぐに終わってしまう。加えて、剣の鍛錬や手入れに情熱を傾けられる状況でもない。
 よって彼は、潰しようのない暇を転がし、複雑な面持ちを浮かべていた。
(本でも借りておけば……いや、荷物になるか)
 そうして、わずかな後悔と苛立ち、おまけに迷いも抱き始めた頃。
「おまたせー、っと」
 前触れなく開かれた木の扉から、金髪碧眼の彼女――ナギサが、ウサギ耳を揺らしつつ現れた。相も変わらずの眩しい笑顔は、素直に綺麗だと思った。
 ふと少なからずの動揺に気づいたラザは、
「随分時間が掛かっていたが、何かあったのか?」
 それが表にでないよう、すかさず疑問で覆い隠す。
 しかし、待ちぼうけさせた当の本人は、
「待たせたのは悪かったと思うし、ラザには関係ないことだけど……」
 頬を膨らませて一応の謝罪――をしたかと思えば。
「まぁ、一応は女だから準備について怒らないでもらえると助かるかなー……なんて理由じゃ、ダメ?」
 誰よりも"女性"である事を意識している彼に対し、上目遣いで告げた。
 反省の色は微妙にしか見えない。見えない、が。
「……怒ってるわけじゃ、ない」
「そなの?」
「ただ、その」
「……ホントに、ごめん」
 彼女があまりに神妙な声を紡いだため、
「……とりあえず、行こう」
 ラザには他の答え方ができなかった。
 日常でもなく、非日常でもない。敢えて言うならば、微日常、といった様相。
 数日前は想像もしていなかったような、不可解で不明瞭な雰囲気。
 一体、何が起こったのだろうか。
 とすら気づけない二人が、若干固い所作で右足を踏み出そうとした矢先。
「ナギサちゃーん」
 うららかに淡い声が背中から聞こえてきた。
 二人がゆっくり振り返ると、満面の笑みを携えたアーニーが、
「ラザくーん」
 ぱたぱたと走ってくる途中で、
「おはわっ!?」
 ――こけた。
「え、っと……?」
 斬新な朝の挨拶に戸惑うナギサと、
「大丈夫か、アーニー?」
 逆に自ら歩み寄って手を伸ばそうとするラザ。
「うん……だいじょーぶ……そ、それよりもおはよう」
 だが、アーニーは彼の手が届くよりも早く起き上がり、改めて頭を下げた。
「これから行くの?」
「ええ。お土産は何がいい?」
「うーん……楽しいお話、かな」
「分かったわ。期待しててね」
 ちなみに彼女は、二人がどこへ行くかを知っている。昨晩の夕食で話したからだ。最初は首を縦に振らなかった彼女だが、決め手となる一言があった。
 それは――――

「一応な上に、ちょっと頼りにならない護衛が付いてるんだし、大丈夫よ」
「まぁ、ラザくんが一緒なら……うん」

 という、やり取りだった。
 引っ掛かる所がないわけではない。というより、引っ掛かる所しかない。
 ラザとしては複雑極まりないが、アーニーはこの会話を経て納得したのである。

「でも無理は――」
「禁物、でしょ?」
「……うん」
「じゃあ、そろそろ行くわね」
「うんっ! いってらっしゃい」
 ともあれ彼女は、柔らかく右手を振って送り出した。
 傍目からは仲睦まじく隣り合っているように映る――二つの背中を。
 その姿が消えるまで見つめていたアーニーが、まず零したのは。
「……もう」
 ため息、だった。しかし、落胆の色はなく、どちらかといえば呆れの感がある。
「本当に……好きなんだね」
 だが、温かな響きも強く混じっていた。
「……早く言っちゃえばいいのに」
 更にぽつぽつりと。
「そうすれば私も……安心できるのに」
 ぎゅっと掌を閉じ、独り言っぽい口調でそう続けた時。
「アーニー様!」
 不意に鋭い、ともすれば叱咤めいている声で呼びかけられた。
「は、はい!?」
 一度は慌てた返事をしてしまった彼女だが、
「……なんでしょうか?」
 顔を合わせた瞬間は、既に大神官の表情となっていた。自身の立場を深く理解しているからこそだろう。ただ、振り返った反動でメガネがずれている事には、微塵も気づいていなかったが。
 しかし、駆けてきた白ローブの大男は、後ほどこっそりお教えしよう、と胸中に落とすと。
「はい。実はですね」
 表面上は淡々と、何事もなかったかのように話し始めた。
「つい先ほど、今すぐアーニー様にお会いしたい、という方が来られたのです」
「私に? どなたでしょうか?」
 少なくとも、朝に誰かと会う約束をした記憶はない。
「それが私にも覚えがありません。見たところ、商人風の男でしたが……」
 だが、次の一言には思い当たる節と、
(商人……でも、男性……?)
 釈然としない箇所が同時に存在した。
「……分かりました。すぐに向かいます」
 だからこそ、アーニーは揺るぎなく選択する。推測と疑問も半々に。



 一方、ラザとナギサは"船乗りの骨"の導きに従って、船と共にポルトガを訪れていた。
 示した方角ももちろん、船の方が徒歩より速く移動できる、というのが主な理由だ。
 だが、操舵が可能なのはラザ一人。となると、戦闘や食事諸々の準備は、ナギサ一人になってしまう。
 そのため、少しの間だけ船乗りを雇おう、という結論に至った。
 そこでナギサは、まず城へ赴いた。王に仲介を依頼したい、と考えたのである。
 とはいえ、二人は一介の旅人。本来なら気軽に面会できる立場ではなく、今は共に旅する"勇者"の姿も、ない。
 しかし、以前に――船と黒胡椒の破格な物々交換、という一件も経ている。ナギサはこの数奇な"縁"に賭けたのだ。
 別の言い方をすれば、根拠はこの一点のみ。
 ゆえに、彼女も不安は隠しき切れなかったのだが――

「姐御、今の方角で合ってますかい?」

 結果はこの通り、一事が万事憂う隙もなく順調だった。あっさりし過ぎていて、拍子抜けしてしまうほどに。王は先の一件――バハラタ、と呟いたナギサの事を覚えていたのである。
 加えて言えば、きっかけこそ王の紹介状であったものの、今は違う。船乗りたちは何故か彼女自身もえらく気に入っていた。特別な事をしたわけでもないというのに、だ。
 現に彼らは皆、ナギサを"姐御"と野太い声で呼び、強面顔をガラにもなく綻ばせている。
 それは何とも不思議な光景だったが、
(……まぁ、ナギサだからな)
 ラザはすんなり納得していた。
 というのも――これも以前の話になるが――今と近い状況に居合わせたからだ。そう、船乗りと似て非なる存在、海賊の住処を訪れた先日の事。あの時もまた、彼女は妙に好かれていた。
 こうも続けば、ナギサは船に携わる人々を虜にする魅力でもあるのでは、とラザも思ってしまう。無論、眉根を寄せているのは言うまでもないのだが。
 兎にも角にも、初めてとなる二人っきりの旅路は、幸先の良い始まりを告げた。


 さて、数時間後。最も高い位置にあった太陽が、緩やかに降下の兆しを見せる頃。
 昼食を取るべく、二人は馴染みの船室へ向かったものの、
「せっかくだからみんなと一緒に食べよっか?」
 ナギサはふと足を止め、ラザに同意を求めた。
 反対する理由はない。むしろ、賑やかな方が楽しく、食事も弾むというものだ。
「ああ、そうだな」
 思った彼は、迷う素振りもなく頷いた――のだが。

 その安易な判断がいけなかった。

「ここらで兄さんも一杯やるかい?」
「いや、俺は……」
「ままま、固いことは言いっこなしで。さっきから酌ばかりさせて申し訳ねぇしなぁ」
「だが、いつ魔物が――」
「そろそろガーッと飲んで、パーッと騒ぎたくなる頃合いでしょうに」
「そーよー、ラーザっ。お酌なら私が代わるわよー」
「いやいやいや! 姐御にそんなことはさせられねぇ! ……おい、誰か!!」
『へいっ!!!』
「姐御にもう一杯……って、一人でいい! 押すな押すな!!」

 今や船上は戦場で。賑やかな食卓どころか、飲めや歌えやのどんちゃん祭り。
 そう評しても過言ではないぐらい、場は物凄い事になっていた。
 原因は分かり切っている。

「あっしらは少しぐらい酒を飲んでた方が調子もいいんですがねぇ……」
「そう言うと思いやして……これを」
「……ほほう、こいつは」
「へっへっへ……こっそり積んどきやしたぜ」

 とある船乗り二人が交わした、このやり取りに。
「あら、イイもの持ってるじゃない?」
 当然のごとく、お酒に目がないナギサが乗っかったからだ。なら、今のこの状況――疑いようもなく"必然"と言える。そもそも"船乗りを雇う"と決まった時点で、ラザは多少なりとも懸念しなければならなかった。例え、酔った船乗りたちがモンスターを難なく追い払っているとしても。
 だが、起こってしまった事は仕方がない。と彼はなけなしの良心で、一滴も飲まずにいる。
(……悪いことばかりでもない、か)
 それに本音を言えば、ありがたくもあったのだ。
 改めて"想い"を自覚した彼は、密かに恐れ、否応なく感じ取っていたのである。
 もし、昨日のような雰囲気が再び訪れれば――きっと自然に話せない、という事を。
(全く……俺は)
 胸中ですら言葉を飲み込んだラザは、知らず知らずため息を吐く。焔に映るは、一瞬だけ金色。後は空の青と海の蒼。
 しかし、意識は依然として彼女に向けられたままだった。
 仕事と昼食を建前とした宴を目まぐるしく繰り返す船乗りたちは、知る由もない。
 が、ただ一人。遅れて視線を察したのか。もしくは、単なる偶然なのか。
「…………」
 束の間呆然と葡萄色のワインを揺らしたナギサは、
「野郎どもー! 何か変わったことはー!?」
 底抜けに明るくぶっきらぼうな口調で、見張り中の船乗りたちへ問いかけた。
 標は方角だけだが、船で進み始めて数時間が経過している。おまけに望遠鏡ではもうロマリアが見えており、ここは内海という名の行き止まり。
 つまり――あくまで推測が正しければの話、だが――この海域に"何か"あるはずなのだ。
 ともあれ、彼女の言葉を受けた船乗りたちは、四方八方にしばらく目を凝らした。
「……うーん」
「今のところは何も……?」
 しかし、返ってくる言葉は、ことごとく芳しくない。
 もしかすると当てが外れたのだろうか――と、ナギサが何となく"船乗りの骨"を取り出し、右手で遊ばせた時。
「……へ?」
 掌から全身に、微かな震えが伝えられた。
「あ、姐御っ! あれを!?」
 同時に一人の船乗りが叫び、無数の視線が前方に向けられる。
 その先には確かに、在った。
「こんな話……聞いたこともねぇ……」
 音も前触れもなく現れた――奇妙な空気を纏う一隻の船が。



 ぼろぼろに破れ、役割を見失った帆。容赦なくへし折られ、静かに横たわる見張り台。嵐に巻き込まれたのか、船員同士の諍いがあったのかは定かでないが、極限までに朽ち果てた甲板。
 何よりも目を引くのは、浸水の気配がまるで見られない無数の穴。
 いつ沈んでも――否、何故まだ沈まずにいられるのか。
 だが、実際に船は浮かんで――これも否、漂っていた。
 無惨という言葉を具現化したような有様で、今もなお悠然と。
「姐御……本当に行くんですかい?」
「ええ、これが目的だもの」
 船の外観を備えながら、船の内面を損なった船。誰彼の目にも明らかなる異常であり、異形。幾度となく荒れ狂う海やモンスターの脅威を乗り越えてきた船乗りたちでも、さすがに不安の色は隠せない。
 しかし、酒気を帯びた桜色の頬を携え、彼女は断言する。
「大丈夫よ。ちゃんと帰ってくるから」
 まるで彼らの内に立ち込める暗雲を薙ぎ払うように。
「そのかわり留守は遠慮なく任せるから……ねっ?」
 澄み切った青空がよく似合う、太陽のような笑顔で。
「姐御……わかりやした!」
「お二人の留守は任せて下さい!」
「大体俺たちの姐御が負けるわけねぇんだ!」
「お、おう! そうだそうだ!!」
 すると途端に、船乗りたちの顔に光が戻った。むしろ、今まで以上に心強さを感じる。
 だが、そう導いたのは他ならぬナギサだ。
 彼女らしいと言えばらしく、彼女そのものと言えばそのものである瞬間だった。
「随分好かれているな」
 ラザは微笑ましさのあまり、弾んだ小声で当の本人に告げた。
「……船乗りさんたちが、みんないい人だからよ」
 対して彼女は、同じ声量でやんわりと否定する。照れているらしい。
 しかし、こうも続けた。
「でも……ちょっと船乗りになってみたいかも」
「は?」
「ほら、やっぱり慕われるのって嬉しいし……それに」
「それに?」
 彼の心は自然と身構えていた。それは何に対してか――決まっている。
「女船長っていうのも、かっこいいじゃない」
 後に重ねられる、きっと突拍子もないであろう一言に、だ。
「まぁ……悪くないか」
 とはいえ、確かに似合う気がする。想像したラザは、素直な感想を述べてしまった。
「いや、あの……冗談なんだけど」
「そうなのか?」
 相変わらず冗談が通じない、と呆れる彼女。
 相変わらず先が見通せない、と苦笑する彼。
 全く持って、どこもかしこも食い違っている。
「……とにかく行くわよ」
「ああ」
 が、例え場違いであっても、悪い雰囲気ではない。
 互いにそう思うも、互いにそうとは知らず。二人は緩やかに歩を進め始めた。


 ぎしぎしりと悲鳴を上げるのように軋む、謎の船。
 その甲板に降り立ち、周囲を見渡した後、最初の一言を発したのはナギサ。
「別世界……って言ったところかしらね」
 頬は未だ上気したままだが、意識や神経は一分の油断もなく研ぎ澄まされている。
「別世界?」
 一方のラザもやはり警戒は解かず、気になった単語を拾い尋ねた。
 受けた彼女は抜き身のハリセンで遙か頭上を指し示す。
「ほら」
 ふと訝しみつつも、ラザが空を仰ぎ見ると。
「……なるほど」

 在るはずの"空"が――無かった。

 虚空、虚無、空虚といった生やさしい類のモノではない。
 広がるは一面の、光明すら赦されぬ闇。
 それも天が織り成す全ての事象を虚絶したかのような――"深淵やみ"だけが、在る。
「ふむ……的を射ているな」
「……褒められても嬉しくないわよ」
「だが、少しでも状況を把握しておくことは大切だろう」
「こんな状況でも?」
「ああ、どんな状況でもだ」
 見慣れた風景がないというだけで、身の竦む思いだった。
 得体の知れない光景は、吸い込まれてしまいそうだった。
 しかし、それは錯覚に過ぎない。実際、身体は甲板に支えられている。足を動かす事もできる。
 これが――この感覚こそが、現実。
 そもそも引き返すつもりがないのであれば、過ぎた恐怖は枷にしかならない。
「……多分、だけど」
 一瞬考えたナギサは、ささやかな気分転換に思案を紡ぐ。
「"船乗りの骨"は、ここに辿り着くための"鍵"だったんじゃないのかしら?」
「鍵?」
「ええ。船乗りさんも言ってたでしょ? "こんな話は聞いたことがない"って」
「……言われてみれば」
 つられてラザも思案を巡らせた後、やがて肯定する。
 そう。確かにおかしい――突然現れた事ではなく、船乗りが誰一人として識らないという事実が。
 何故なら、船乗りたちは旅人たちと同じく、常日頃から情報交換を欠かさない。理由はもちろん、航海をより安全に行うためだ。ゆえに彼らは、誰よりも"海"に精通している。なら、こんなに分かりやすい"異常"を知らないという事が、果たして有り得るのだろうか。
 ましてやここはロマリア近辺の内海。しかも、ロマリア兵が見張りの際に気づけそうな位置だ。いくら"灯台下暗し"という言葉があっても、やはり偶然とは考えにくい。
 これらの推測は、あくまで推測に過ぎない。が、妙に現実味を帯びた考察でもあった。
「となると……何者なんだろうな?」
「なにが?」
 その時、ラザははたと謎に気づく。
「もし"船乗りの骨"が"鍵"だとすれば、俺たちは"扉"を開けてここを訪れたことになる」
「まぁ……そうなるわね」
「じゃあ誰が、一体何の目的で"鍵"と"扉"を作ったんだ?」
「あ……」
 それは"船乗りの骨"と"沈まない船"が持つ意味――根源。
 導かれるように。またいざなわれるように。漠然と訪れたナギサにとって、行動の原点であるがゆえに至らない疑問だった。
「例外はあるかもしれないが……」
 ラザは更に続ける。
「俺にはこの二つ――"鍵"と"扉"を同一人物が作ったとは思えないんだが」
「……そうね。"扉"には閉じる意図があり、"鍵"には開く意図がある……」
 片やナギサは瞬時に思考を切り替え、再び展開させた後、
「だったら……ここに来て欲しい誰かと、来て欲しくない誰かがいるってことかしらね」
 独り言のように一つの結論を紡いだ。それに一旦は頷くラザだが、もう一つだけ思う。
「ふむ……罠の可能性は?」
「それはないと思うわ。罠にしては"鍵"を渡す相手が不鮮明だし……何よりも遠回しすぎるもの」
 しかし、彼女は間髪入れず否定すると、
「どっちにしても、目的は決まったわね」
 全ての迷いを打ち消した碧眼で、こうも断じた。ナギサの言う通り、今や目的は変わったも同然である。
 もし、誰かの意志が介在した事象であるならば。
 明かすべきは"先に在る物"ではなく"秘められた真意"で――おそらくはそれこそが、答え。
「と……その前に」
「ああ」
 片付けるモノがいる、と二人は曖昧然とした言葉で頷き合い、静かに対峙した。
 こんな場所でも潜んでいるモンスターたちへ。


 それから戦闘を終え、やがて船首に辿り着き、今度は逆側から折り返し始めた直後。
「全く……何度見ても理不尽な光景だな」
「なにが? もしかして、さっきの幽霊船長さん?」
 ランプを片手にため息を吐くラザが、唐突に呟いた。隣のナギサは一応問い返したものの、まだ首を傾げている。
 ちなみに彼女の言う"幽霊船長"とは、先ほど出会った人物。肉体を失っても尚、この船が沈まない事を誇りに思っているようだった。
 既に"沈む以上の状態"に陥っているとは知らずに、だ。
 ともあれ、彼は弱々しく首を横に、落胆が滲む声で尋ねた。
「……普通、剣でも弾く相手をハリセンで砕けるものなのか?」
 殻が固い事で有名なガニラス、マリンスライムが――容易く屠られる様子を思い出しながら。
 普段、自分が苦戦を強いられるモンスターだけに、無理もない疑問だった。
「前にも訊かれたわね……でも、私が"気"を扱えることぐらいラザも――」
 しかし、何を今更、といった口調の返事を、自ら遮った彼女は、
「……アーニーから聞いてない?」
 予想外にも親友の名前を挙げ、また質問を投げてきた。ラザは再び首を横に振る。
 するとナギサは、幾分遠い声で語り始めた。
「今はもういないらしいけど……昔々あるところに"ハリセン作り"の名匠がいたの」
 より一層、突拍子もない昔話を。
「……は?」
「でも、頑固な人だったらしくてね。自分が気に入らない相手には、決して腕を奮わないから……アーニーも最初は断られたみたい」
「じゃあ、どうやって作ってもらったんだ?」
「断られても諦めずに通ったの。それで確か……三回目の時、だったかな。ようやく、それも笑顔で頷いてくれたんだって」
「…………」
「だから、このハリセンは特別なの……って、これは理由じゃないか」
 話し終えた彼女は、誤魔化すように笑う。十中八九、照れ隠しだろう。
 ただ、そんな中でも碧眼は嬉しそうに、また愛おしそうにハリセンへ注がれている。
 本当に。本当に大切で、かけがえのない――宝物なのだ。
「いや……いい話、だな」
 なら、理由なんてどうでもいい、と彼は想う。そして、告げた言葉も本心ではある。
 とはいえ、ハリセン。どこをどうひいき目に見ても、ハリセンにまつわる話。
 そう思うと、複雑な心境であるのも、また事実だった。口が裂けても言えないが。
「にしても……やっぱりみんなそうなのよねぇ……」
 その時、音もなく人差し指を唇に当てたナギサが辺りを窺う。視界に映っているのは、ぎーこぎーこ、と儚げな掛け声で船を漕ぐ人々。
「……ああ。違いないな」
 察したラザも、真剣な声色で同意する。ここは紛れもなく"彷徨える幽霊たちが棲まう船"だ、と。
 ありとあらゆるが不確かな場所で、根拠となる邂逅があった。それが、先刻彼女が呟いた"幽霊船長"なる存在。全く話を聞こうとしない彼に苛立ったナギサは、問答無用でハリセンを振るったのだが――虚しく空を切ってしまった。加えて、形作る輪郭が酷くぼやけてもいた。彼だけでなく、誰も彼も全てだ。
 幽霊を師匠に持つ彼女は、だからこそ"幽霊"だと確信したのである。
 ぎーこぎーこ、という声はまだまだ響く。儚げでありながらも、誇らしげに。
 肉体を失った船長の、失われていない意志を証明しようと、一心に。
 だが、不意に――
「……ビ……ア」
 異なる音色の言葉が、耳に入ってきた。
「ラザ、今のって……」
「行ってみよう」
 同時に気づいた二人は、すぐさま駆け出す。
「オ……リ……」
 断続的に聞こえてくる、掠れた声を頼りに。
「……リ……ア」
 やがて、程なくして辿り着いた。
 灰色のみすぼらしい服と、足首に繋がれた鉄枷が痛々しい青年の元へ。
 彼は雫も光も身体さえもなく――泣いていた。
「オリ……ビア……」
 誰かの名前らしい単語を響かせ、涙していた。
「あなた、は……?」
 ナギサがおそるおそる話しかけると、
「……生きてる、ヒト?」
 彼もまたおそるおそる尋ね返してきた。
「まぁ、うん……あなたから見れば、そうなるわね」
 初めて受けた類の質問に、二人は困惑顔を見合わせて返事をする。それはきっと、聞いた者には不安の残る回答だったに違いない。
「やっと……やっと来て、くれ、た」
 だが、彼にとっては十分な言葉だったらしく。
「え……?」
 刹那、呼応するように。道具袋から飛び出した"船乗りの骨"が、彼の中へと還っていった。
 そこで二人は、前触れもなく理解する。
 誰かを待ち望んでいた"誰か"とは――この青年だ、と。
 しかし、二人が理由を問いかけるよりも早く、
「お願いが、あります」
 青年は焦りに駆られた褪せない声と共に、深く頭を下げた。
「オリビアに逢いたいんです」
 そして更に、彼は名乗るどころか返事も待たず、ひたすらに願いを告げる。
「とっても大事な女性ひとなんです」
 愛しい人だと容易に推察できるほど切なげに、ただただ想いを綴ってゆく。
「だから、どうか……お願い、します」
 肉体を失い。帰路を失い。何よりも命を失った果てに、訪れた機会。
 果たして彼は、どれほどの時間を祈りに費やしたのだろうか。
 そんな悠久を越えた願いを、一体誰が想像できるというのか。
 きっと誰も――断片を窺い知る事すらできないだろう。
 だが、例え胸中が想像できなくとも。
「……ラザ」
「ああ」
 辛く寂しいという事だけは、嫌でも解ってしまう。
 だからこそナギサは、ラザの意志を確かめた後、
「見つかる保証はないけど……それでよかったら」
 不安が滲んだ声と表情で彼の申し出を受けた。
 願いを叶える事が、彼の元を訪ねた生者の義務だと思ったのである。
「あ……ありがとうござい、ます」
 青年は初めて笑顔を浮かべつつ、懐から何かを取り出した。
 それは海が魅せる千変万化の表情を身に宿したような――蒼石のペンダント。
 一見、巧みな意匠を凝らしてある装飾品だが、所々に荒削りな部分が目立つ。そんなちくはぐな印象の、何とも不思議なペンダントだった。
「僕が作ったんです――オリビアの、隣で」
 しかし、紡がれた音色が示す通り。
 彼がどれほど彼女を想って作られた物かなど――考えるまでも、ない。
「あの時は本当に幸せで……これを贈れば、二人とももっと幸せになって、永遠に忘れられない"愛の想い出"になるって、信じてました…………でも、僕は――」
 が、瞬間。まだ鮮明だった声が、次第に薄れ始めた。二人は気づくや否やペンダントから意識を外し、顔を上げる。
「あ……そう、いえ、ば」
 すると眼前には、今正に消えようとしている青年の姿。
「ちょ、ちょっと……!」
 ナギサは慌てて手を伸ばす。無駄な事だと頭では分かっていながら、それでも。
 しかし、尚も笑顔を絶やさない青年は、
「僕の名前……エリックって、言いま……す」
 最後の最期に自分の名とペンダントを遺して――

 ――消えてしまった。

 あまりに突然の出来事に、呆然と立ち尽くす二人。
 だが、数分後。ナギサのコートを軽く引いたラザは、ぽつり呟く。
「リノとトラッドには……幸せになってもらいたいな」
「……うん」
 一方の彼女は震えた声で頷く――と同時に。

 ふと、こんなことを思った。

 "エリック"が"船乗りの骨"で"鍵"という形の"願望"ならば。
 "幽霊たち"が"沈ま亡い船"で"扉"という形の"願望"ならば。


 その正体は――"愛"と"想い出"なのだろうか、と。



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