第86話 「求める答えは己の中に」


 眠れる夜と目覚めの早い朝を、一つ。
 眠れぬ夜と目覚めの遅い朝を、二つ。
 越えて、越えて。超えたというのに。

 先に通ずる道が、未だ視えてこない。

 日常の"解放"か――希望の"壊崩"か。

 先に待つ選択が、未だに定まらない。

 ただの欠片すらも。
 ただの断片さえも。



 リノとティルクを乗せた海賊船は、樹海の北端へ到達していた。
 ここまでの行程は、二日。太陽の降下具合からすると、わずかに二日を回ったところだろう。
 早いか遅いかで言えば――早い。それも圧倒的に。
 だが、常軌を逸しているかと問われれば、そうではない。単に異なっているだけだ。
 国を住処とする船乗りたちと、海を棲処とする海賊たちの――世界という名の"常識"そのものが。この絶対的な差は、当然にして必然の結果。
 海、つまりは船に携わってきた歳月が違い過ぎるのである。
 とはいえ、疑う余地がないほどに早いかどうかは――やはり、誰にも識る術はないのだが。


 上陸の時は、程なくして訪れる。
 惜しみなく蒼穹を散りばめていたはずの空は、いつしか仄暗く厚い雲の群れに覆い尽くされていた。おかげで今や太陽は、影も形も見えない。
 事ある毎に目を細めた道中が、無遠慮な輝きに目の眩んだ道程が――全て虚構めくように。
「俺たちはここまでか……すまねぇな、嬢ちゃん」
「い、いえ、そんな」
 そんな空の下、リノとティルクは二日振りに大地を踏みしめていた。土と靴の摩擦音が、身体を受け止めるような感触が、酷く懐かしいと思った。
 二人の両手にあるのは、畳んでも丸めても嵩張るほどに大きな防寒具が一式。常日頃から海賊船に積んである物だ。北へ向かう途上、肌を突き刺すような冷気を予感した彼らは、迷いも躊躇いもなく譲ってくれたのである。
「本当に……助かりました」
 視線で促され、防寒具に袖を通しながら呟くリノ。もちろん、紛れもなく本心から出た言葉だ。
 船を携えて駆けつけてくれた事も、防寒具を譲ってくれた事も。
 加えて、眠れない夜が続いた自分を、心身共に気遣ってくれたことも。
 彼女は感謝の気持ちで一杯だった。むしろ、謝罪するのはこちらの方、とも思っていた。
 しかし、リノが"ありがとう"と唇を割るよりも早く、
「なに、いいってことよ。可愛い嬢ちゃんの頼みならお安いもんだ――なぁ?」
 一人の海賊は強面顔に不敵な笑みを浮かべ、周囲に意見を求める。即座に返ってきたのは、同意する無数の低い声々。
 予想外の言葉に囃し立てられたリノは、ぼっ、と頬を上気させながら俯いてしまう。
「おお、それだそれだ。うちのおかしらも美人にゃ違いねぇんだが……そういう反応は期待できねぇからなぁ」
「えとあの……その、それは……え、っと」
 更に耳まで赤くなり、顔が熱くなる。伴って、紡ぐ声の何もかもがしどろもどろになっていく中。
「ま、そういうのを抜きにしても、俺たちは気に入ってるんだがな」
 突然、乱暴な所作で頭を撫でつけられた。
「え?」
 その行動と言葉に、リノはきょとんと面持ちを上げる。理由が分からない、とでも言いたげに。
「あんたらはおかしらの――いや、俺たちの頼みを聞いてくれたからな」
「……頼み?」
 しかも続けられた内容まで覚えがない。などと、彼女が困惑していると、
「おいおい、サマンオサを救ってくれたんだろ?」
 海賊は大げさに苦笑しつつも明確に告げた。
 とはいえ、リノにしてみれば、やはり違う。確かにきっかけはレイヴンだが、あくまできっかけに過ぎない。偶然、引き受けた形になった――ただそれだけのこと、と彼女は考えている。
「でも――」
「気の向いた時にしか足を運ばないとしても、あの国は俺たちにとって大切な場所だ。その恩義は、こんな簡単に返せるもんじゃねぇよ」
 が、男は胸中を見通したのか、強引に遮りつつ言い連ねた。
「だから、嬢ちゃんは気にせずにだな……その……なんだ」
 かと思えば、不意に強面顔を逸らし、声を澱ませた後。
「また……いつでも遊びに来い、よ?」
 今までの饒舌さが何処かへ旅立ったかのように、妙にぎこちない疑問符混じりの声色でそう告げた。一方の彼女も緊張につられたのか、固い表情で言葉を探している。
「ほら、リノちゃん」
 しかし、見かねた様子のティルクに肩を叩かれると、
「あ、あの! えっ、と……皆さんも、レイヴンさんも……本当にありがとう、ございました」
 たどたどしくはあったが、嬉しそうに潤んだ上目遣いで感謝の気持ちを伝えた。
 それと同時に。この場では口にしなかったものの。
 次にレイヴンや彼らと再会した時は、話したい、と思っていた。

 自分が初めて出会った名前も知らない海賊――あの優しい"彼"について。



 海賊と別れた二人が方位磁石の指し示す"南"へ進み、数時間経った頃。
 足音も前触れもなく、世界は劇的な変化を終えていた。その源となる主は、空と大地一面を白に染め上げるタンポポの綿毛めいた――淡雪。
 最初は上から下へ、ゆらゆらりと。起伏の小さな曲線を無数に描きつつ、穏やかに降り注ぐだけだった。それがいつしか強くなった風に乗り、勝手気ままに目まぐるしく吹雪いているのである。
 当然、靴音は耳慣れないモノへと変わり、視界もおもむろに霞ゆく。
 しかし、心許ないのは確かだが、最悪の状況というわけでもない。
(……まずいな)
 にも拘わらず、油断なく前方を見据えるティルクは、焦燥を募らせていた。
 その理由は、彼の右隣を歩く少女。
「リノちゃん、大丈夫?」
 先ほどから何度呼びかけても、頷く素振りが感じ取れるだけで、
「…………」
 一向に言葉が返ってこないのだ。
 それに反応があるといっても、ささやかで。気配はあまりに希薄すぎる。
 だから、彼は思った――限界が近い、と。
(……早く休める場所を探さないと)
 とはいえ、普段ならここまで心配する事もなかっただろうが、彼は知っていた。
 今のリノが、決して"普段通りではない"という事を。
 何故なら、ここへ辿り着く二日間。彼女は船室に閉じこもりがちだった上に、食事すらまともに摂っていなかったのである。無理に食べようとしても、身体がまるで受けつけないようだった。ゆえに先の戦闘でも、動きは明らかに精彩を欠いていた。
 誰であっても気づけないわけが、ない。
 それに原因は分かり切っている。というより、他に有り得ない。
(やっぱり……そうか)
 彼女はそこまで想っているのだ――ダーマで眠り続けている"銀髪の彼"を。
(まだ――いや……)
 ティルクは無力感に苛まされた。
(また、か)
 支えたいと願っても、支える事ができない。そんな自分の不甲斐なさに、唇を噛んだ時。
(……ん?)
 殆どが白に埋め尽くされた視界の中を、一瞬だけ"何か"が浮かんで――消えた。
 よく目を凝らすと、今度はほんの少しだけはっきりと映った。
 儚く頼りなく揺れる、仄かな灯りが。
(家……こんなところに?)
 人の住める大地とは到底思えないが、微かに見えた光は炎特有の赤橙せきとう色。ただし、裏を返せば"迷い込んだ旅人を誘い込むモンスターの罠"という可能性もある。
 だが、あれがもし民家だとすれば、衰弱の一途を辿る彼女を――休ませる事ができる。
「……リノちゃん」
 ティルクは返事も待たず、また念のために右掌を剣に添え、力強く歩き始めた。
 既に頷く事すらできなくなっているリノの手を引いて。



 二人を待ち構えていたのは、幸いにも民家の方だった。
 が、まだ油断はできない。とりあえずティルクは、扉を三回ほど叩いてみる。
 返事はない。
 そこで次は慎重に、軽く扉を押してみたところ――あっさり開いた。
 しかし、まだ返事はない。
 吹き荒れる風音が、轟々と鳴り響いているというのに、だ。
「誰か……いませんか?」
 不審に表情を強張らせながらも、意を決したティルクは薄い暗闇に呼びかけてみた。
 すると、次の瞬間。立ち尽くす二人を出迎えたのは、
「……にゃーん?」
 一匹の白い――ちょうど雪を思わせる毛色の――猫。
 人間か魔物か。その二つの可能性しか考えていなかった彼は、呆気なく言葉を失う。
 だが、猫は気にする風もなく。どころか、雪色尻尾を揺らして歩み寄ってくると、
「……え?」
 リノの足元で、ふにゃーん、と丸くなってしまった。
「あ、あの……ネコ、さん?」
 外は吹雪な上に、扉も開きっぱなし。このままでは、猫にまで寒い思いをさせてしまう。
 ふと我に返ったリノは膝をつき、猫を家の中へ追いやろうとしたのだが、
「わ……」
 動きを察した猫は、低くなった姿勢を利用し、
「わ、わわっ」
 するすると器用に身体を登り始めた。
「ちょ、ちょっと待――」
「にゃぉーん」
「わ、わわ」
「にゃんっ」
 挙げ句の果てに、彼女の冷たくなった頬をしきりに舐めている。
「ネコさ――こ、こら……く、くすぐったい……ってば」
 ここまでの旅を労い、温もりを分け与えるかのように。
 どうやら猫は、彼女をすっかり気に入ったらしい。
「にゃーにゃー」
「……もう」
 一方、しょうがない、といった様子で困惑しているリノ。
 とはいえ、さほど嫌がっているようにも見えない。
「ほら……風邪引いちゃうよ?」
 その証拠に声は幾分弾んでおり、眼差しも柔らかく――優しい。
 幼さとあどけなさが残った年相応の少女らしい可憐な笑顔だ。
 酷く懐かしい、と今度はティルクが我を失いかけた。
「扉を閉めてくれんか?」
 が、それも束の間。
「え?」
「寒くて敵わんわい」
 直後、薄闇の中心より声が。宙に漂う"空気"という名の不可視元素全てを震わせる――そんな低音が響いた。
「は、はい」
 何者だろうか、と疑問に思わないでもない。しかし、指摘自体は的を射ている。
 戸惑いはあるものの、ティルクはひとまず素直に従った。伴って、濃度を増した闇が室内に降りる。そこで彼はすぐに深海色の瞳を凝らし、相手を見極めようとしたものの。
「こんな場所に客人とは珍しいのう。随分と久しぶりじゃ」
 声の主はランプを片手にひょこひょこと、無警戒な歩みで姿を現した。
 正体は背が極端に低い老人――ホビット。森林色が基調の服を纏っていた。
「えっと……すいません。勝手に上がり込んでしまって……」
 身の内にあった緊張を思わず弛緩させた彼は、深々と頭を下げる。人間でも魔物でも、ましてや猫でもないホビットの態度に、毒気も拍子も抜けてしまったようだ。
「なんのなんの、別に構わんよ。それに外は生憎の吹雪じゃ。家を見つけたら誰だって入りたくなるもんじゃろ。それに……ふむ」
「な、なんでしょうか?」
 だが、ホビットはからからと陽気に笑い飛ばす。迷惑がっている節は、到底見受けられない。
「娘がワシ以外の者に懐くのも、珍しいと思っての。なら、あんたたちは悪い人間でもあるまいて」
 更に穏和な目を細めると、さも嬉しげに続けた。視線の方向から察するに、彼が言う"娘"とは猫の事。普段の猫煩悩っぷりが、容易に想像できる声だ。
「ほれ、あまり客人を困らせるんじゃない。こっちへ来るんじゃ」
 しかし、いかにも上機嫌な足取りで飼い主の元へ戻った猫は。
「にゃーっ!」
 唐突に荒々しく鳴き、問答無用で老人の右腕を――引っ掻いた。
「あたたたっ!? こ、こら、やめんか……!?」
 直後、引き裂かれた森林色の一部は、ランプの灯火と重なりつつも散りばめられる。ちょうど木の葉が舞い踊るようで、どことなく幻想的な光景ではある。
 ただし、動揺混じりの悲鳴があるせいで、全て台無しになっているが。
 ともあれ彼は、気難しげな顔で静寂に身を委ね、何やら考え込んだ後。
「……ふむ。客人の前だから照れとるんじゃな」
 ぽつぽつり、と。もしくはしみじみと独り言を漏らす。
 だが、哀しい事に。
(うわー……絶対に懐かれてなさそうだ……)
 まるで説得力がない――とティルクが俯き、沈痛な面持ちを隠す傍ら。
(ネコさんって、こういう懐き方もするんだ……?)
 リノだけは何故か、妙に納得していた。


 ノムルス、と名乗るホビット。ハルカ、と紹介された猫。
 一人と一匹は突然の来訪にも拘わらず、二人を快く迎え入れてくれた。
 ただ、当初は"人が住んでいる"という事実も、にわかに信じ難かったのだが。
(へぇ……)
 開扉の影響で消えた灯火が、早々に点け直されると――室内は温かな光に満ち、生活感溢れる空気が漂い始めた。その雰囲気は、正しく"人が住む家"という事実の証明だった。
 そして、現在――二人は。
「……世界樹、か」
 温かいスープとキツネ色に焼けたトーストを前に、世界樹の事をノムルスに尋ねていた。
 話の流れ上、ではある。しかし、ここに居を構える彼なら詳しい場所を知っているかもしれない、という希望も少なからずあった。
「樹海の真ん中……確か目印があったかのう」
 すると幸いにも。もしくは期待通り、と言うべきか。
 しばし考え込んだノムルスは、二人が初めて耳にする言葉を呟いた。
「目印?」
 間を置かず繰り返したのは、リノ。珍しく性急な音色だが、それだけ焦燥に駆られているのだろう。

 ところで、少し余談になるが。
 今の彼女は船旅の時とは違って、随分元気になっていた。
 その理由は――ハルカ。ノムルスが"娘"と呼ぶ、雪色の猫。
 事ある毎に甘えてくる"彼女"の存在が、リノの不安を和らげているようだった。
 現に今もハルカは彼女の膝上で、ふにゃー、と丸くなっており。リノも時々食事の手を休めては、身体を撫でている。
 世界を救おうとする勇者ではなく――ごく普通な少女の笑顔で。

 それはきっと、何気ない日常に違いない。
 しかし、時折横目で眺めていたティルクは、想う。
 他の誰でもない"リノ"が織り成すがゆえに――この風景は"日常とくべつ"なのだ、と。

 などと、胸中で想ったからかもしれない。
 つい過去の記憶を手繰り寄せようとしたティルクだったが、
「どんな目印なんですか?」
 続けられたリノの質問に、再び意識を話に集中させる。
 対して、ノムルスから返ってきたのは、
「……すまんが、よく覚えとらん」
 芳しくない回答と。
「じゃが、どちらにせよこの吹雪の中では、どんな目印でも見えやせんよ」
 至極真っ当な意見。そして――
「まぁ、しばらく泊まっていくとええ。それにここの天気は変わりやすいから、じきに止むじゃろうて」
 深く温かい気遣いの言葉。
 懸念や胸騒ぎは残っていたが、二人は彼の申し出をありがたく受け入れた。


 だが、翌日も吹雪は止まないまま、世界は時を刻み重ね。
 リノとティルクがダーマを出発してから――三度目の夜が訪れた。


(……ん?)
 ティルクが異変に気づいたのは、そろそろ休もうと思い、廊下を歩いていた最中。
 きっかけはリノの部屋から聞こえてきた、ハルカの鳴き声。鬼気迫る、というのは少々過剰な表現だが、兎にも角にも慌ただしいのである。
 おかしい、と彼の直感が訴えた。
 思い返すしてみると"彼女"が荒く鳴いたのは、飼い主を引っ掻いた最初の時だけ。
 今日一日。更に遡れば、昨夜。
 リノが頻繁に外を窺っていた時も、一緒に眠っていた時も大人しいものだった。
 つまり、決して気性が激しいわけではないのだ。
 なら何か理由がある。そう考えたティルクは、
「……リノちゃん、どうかした?」
 こんこんと扉を叩き、同時に耳も澄ませ、中の様子を探ろうと試みた。
「ティ、ティルクさん? う、ううん……何もない、けど」
「ホントに?」
「もう眠ろうと思ってたぐらい、だから」
 しかし、返事はぎこちなく。おまけにがさがさと音がする。
 少なくとも、これから眠ろうとする者の気配とは、違う。
「そっか。じゃあ、おやすみ」
「うん……おやすみ」
 そこでティルクは、一旦挨拶をした後、
(……よし)
 何かあってからでは遅い、と――思い切ってドアを開けた。
「え?」
 すると部屋の中には。
「リノ、ちゃん?」
「あ……」
 防寒具を纏った少女の呆然と立ち尽くす姿が、あった。
「……なにしてるの?」
「えっと……こ、これは」
「これは?」
「明日の、準備」
「もう寝るんじゃなかった?」
「……急に不安に、なって」
 不意を突かれ、酷く狼狽している彼女。
 そんな事は分かっている。
 不意を突いて、酷く狼狽させたのは彼。
 そんな事も分かっている。
 嫌というほどに、思い知らされている。
「……だったら防寒具を着る必要はないよね?」
 だが、問い詰める声は止めず、止められず――止めるわけにもいかない。
「それに……こんな吹雪の中じゃ無理だよ」
 止めるべきは、彼女なのだから。
「……見つかるかも、しれない」
「え?」
「ううん……絶対に見つける。だから――」
「それはできない」
「どうして!? 私はトラッドを……助けたいだけ、なのに……っ!」
 しかし、リノは尚も頑なに拒み続け、最後は激昂に至る。
 悲痛に叫ぶ声には。
 揺るぎない意志が。
 常にはない険しさを帯びた瞳には。
 明らかに冷静さを損なった判断が。

 即ち"彼"への想い全てが――どうしようもなく、滲んでいた。

(……リノちゃん)
 ティルクは右小指を髪に絡め、考える。
 一体どうすれば。どんな言葉を用いれば、彼女を止められるのだろうか。
 言い換えると、どうすれば本当の意味で少女の"力"になれるのだろうか、と。
(ああ……そっか)
 だが、程なくして可能性は見つかった。
 最善と思しき答えは、リノや"彼"だけでなく――自分の中にもあるのだ。
 とても簡単なのに、伝える事が難しい。そんな矛盾した"言葉"が。
「す…………から」
「え?」
 だから彼は、決心した。
 彼女を"勇者"としてではなく"少女"として見つめ。

「リノちゃんのことが、ずっと……ずっと昔から――……好き、だから」
「……えっ」

 秘めていた想いを、ありのままの掠れ声で紡いだ。

「……実はね、時々アリアハンに行ってたんだよ」
 突然の告白に、リノはわずかに頬を上気させ、戸惑う。
「だからリノちゃんがいつもあの丘にいることも、どうしてそうなったのかも……全部知ってた」
「しって、た……?」
「うん。でも、何て言えばいいのか分からなくて――いつまで経っても話しかけられなかった」
 しかし、ティルクは一切構う事なく。
「……それからしばらく経った後、かな。旅を始めたのは」
 再び右小指を髪に絡めながら、慎重に想いを綴る。
「強くなれば、いつかリノちゃんの力になれるって……そう、思ったから」
「ティルク、さん」
「本当にずっと……ずっと好きだった、から」
 更に彼は、空いた左手で彼女の髪を梳き始めると、
「だから……分かるよね?」
 不意に諭すような口調で、こう問いかけた。
「好きな人を心配する気持ち……リノちゃんにも分かるよね?」
「……あ」
 その時、彼女はようやく理解した。
 ティルクが自分を想う気持ちは、自分が"彼"を想う気持ちと同じで。
 自分が"彼"を心配するだけでなく、自分も心配されているのだ、と。
「ティルク、さん」
「うん」
「ごめん……なさい」
「……うん」
 それに、もう一つ。リノには告げなければならない事がある。
 とても簡単なのに、伝える事が難しい。そんな矛盾した"言葉"が。
「でも、私は……わたしはト――」
「いいよ、言わなくても」
 だが、遮ったティルクは、瞳を潤ませる彼女から離れ、素早く背を向けた後、
「……聞かなくても分かってるから、ね」
 たったそれだけを言い残して部屋を出て行った。
 まるで、何事もなかったかのように。
 そう――先刻の告白さえも。



 銀色の草原。トパーズの空。ぬかるむ地面。
 ここが何処で。ここが何か。
 眼に視えるモノが真実か。
 眼で視ている自分が虚構か。
 そんな根本的な疑問すら些末事に過ぎない、空間。
 ありとあらゆる何もかもの境界線が曖昧な、世界。
 止まない声に導かれる彼は、思考を放棄していた。
 だが、異変は唐突に現れる。
 それは、人影。
 つまり、他者。
 この場で自分が自分である事を認識できる、存在――が。
 近くて遠い。此処ではない何処かで。
 陽炎のように揺れていた。
 遠くて近い。此処ではない"向こう側"で。
 夢幻のように漂っていた。
 何よりもその人物は――声を紡いでいる気がした。
 確証はない。自信もない。しかし、不思議と確信があった。
 この声が。あの声の主こそが。
 自分の探し求めていた"誰か"だと。
 だから彼は、忙しく足を動かし始めた。
 銀色の草幻もトパーズの空も相変わらずの異形だが、身体は軽くなっていた。
 ぬかるむ地面は、いつの間にか乾き切っていた。
 踏み込んだ分だけ、心地良い感触が返ってきた。
 一心に走り。ひたすらに駆け。
 息を切らしながらも、曖昧然とした"何処か"へ辿り着いた時。
 彼は先に待つ誰かが"誰なのか"解った刹那、ぽつり胸中で呟いた。



 父さん――と。



 そして、更に夜気が深まった頃。
「う……ん……?」
 動揺と焦燥。更に"銀髪の彼"への想いを抑え、やっと眠ったリノだったが。
 ふと目が覚めてしまった。
 いや、起こされた、と言った方が正しいのかもしれない。
 胸元で丸くなっていたはずのハルカが、耳元で囁いた気がしたのである。
「……さむい?」
 半ば夢現のとろけた声で、リノは問いかける。
(あれ……?)
 だが、よくよく耳を傾けてみると。外壁や屋根、窓と衝突を繰り返す結晶の音が、小さくなっている。要するに、吹雪の止む兆候が感じ取れるのだ。
「ごめん……もしかして、どこか踏んだ?」
 そこで彼女は、次に思いついた可能性を、謝罪と共に尋ねてみる。
 だが、月明かりを身に受け、淡い白光を放つハルカが口にしたのは、
「にゃーん」
 という愛らしい鳴き声――ではなく。

「四つの岩山の中心……そこに世界樹があります」

 今正に、欲していた言葉。
「……え?」
 しかし、耳を疑ったリノが両眼を見開いた時には。
「にゃん?」
 "彼女"は紛れもなく"猫"だった。
(夢……?)
 不思議で不可解な、ほんの一瞬の出来事。
(いまのが本当、に……ゆ、め?)
 だが、その事に疑問符を浮かべているのはリノだけで。
「……にゃぉん」
 当のハルカは気怠げに鳴いたかと思えば、既に毛布の中へ潜り込んでいた。
 リノは思い返そうとするものの、睡魔は容赦なく襲いかかってくる。
 やがて、程なくして。
 かろうじて保っていた意識の消失を、過たず察した彼女は。
(四つの……いわや、ま……)
 最後に告げられたかもしれない言の葉を、もう一度だけ心に繋ぎ止めた。



 一方、彼女と同じくベッドへ入っていたティルクはというと。
「ふぅ……」
 眠れない夜を持て余し、幾度となくため息を零していた。
 脳裏をよぎるのは、やはり――先ほど彼女と交わしたばかりの会話、である。
「……こうなることぐらい、分かってたのに」
 それから誰もいない場所で、何も無い中空に。
「とっくに覚悟なんて……してたはず、なのに」
 途切れ途切れの頼りなげな独り言を、淡々と落とし続ける。
「……やっぱり」

 しかし――

(結構、辛い……なぁ)

 最後の想いこえは音にならず――ただ、胸中へ溶けていくだけだった。



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