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眠れる夜と目覚めの早い朝を、一つ。 眠れぬ夜と目覚めの遅い朝を、二つ。 越えて、越えて。超えたというのに。 先に通ずる道が、未だ視えてこない。 日常の"解放"か――希望の"壊崩"か。 先に待つ選択が、未だに定まらない。 ただの欠片すらも。 ただの断片さえも。 リノとティルクを乗せた海賊船は、樹海の北端へ到達していた。 ここまでの行程は、二日。太陽の降下具合からすると、わずかに二日を回ったところだろう。 早いか遅いかで言えば――早い。それも圧倒的に。 だが、常軌を逸しているかと問われれば、そうではない。単に異なっているだけだ。 国を住処とする船乗りたちと、海を棲処とする海賊たちの――世界という名の"常識"そのものが。この絶対的な差は、当然にして必然の結果。 海、つまりは船に携わってきた歳月が違い過ぎるのである。 とはいえ、疑う余地がないほどに早いかどうかは――やはり、誰にも識る術はないのだが。 上陸の時は、程なくして訪れる。 惜しみなく蒼穹を散りばめていたはずの空は、いつしか仄暗く厚い雲の群れに覆い尽くされていた。おかげで今や太陽は、影も形も見えない。 事ある毎に目を細めた道中が、無遠慮な輝きに目の眩んだ道程が――全て虚構めくように。 「俺たちはここまでか……すまねぇな、嬢ちゃん」 「い、いえ、そんな」 そんな空の下、リノとティルクは二日振りに大地を踏みしめていた。土と靴の摩擦音が、身体を受け止めるような感触が、酷く懐かしいと思った。 二人の両手にあるのは、畳んでも丸めても嵩張るほどに大きな防寒具が一式。常日頃から海賊船に積んである物だ。北へ向かう途上、肌を突き刺すような冷気を予感した彼らは、迷いも躊躇いもなく譲ってくれたのである。 「本当に……助かりました」 視線で促され、防寒具に袖を通しながら呟くリノ。もちろん、紛れもなく本心から出た言葉だ。 船を携えて駆けつけてくれた事も、防寒具を譲ってくれた事も。 加えて、眠れない夜が続いた自分を、心身共に気遣ってくれたことも。 彼女は感謝の気持ちで一杯だった。むしろ、謝罪するのはこちらの方、とも思っていた。 しかし、リノが"ありがとう"と唇を割るよりも早く、 「なに、いいってことよ。可愛い嬢ちゃんの頼みならお安いもんだ――なぁ?」 一人の海賊は強面顔に不敵な笑みを浮かべ、周囲に意見を求める。即座に返ってきたのは、同意する無数の低い声々。 予想外の言葉に囃し立てられたリノは、ぼっ、と頬を上気させながら俯いてしまう。 「おお、それだそれだ。うちのおかしらも美人にゃ違いねぇんだが……そういう反応は期待できねぇからなぁ」 「えとあの……その、それは……え、っと」 更に耳まで赤くなり、顔が熱くなる。伴って、紡ぐ声の何もかもがしどろもどろになっていく中。 「ま、そういうのを抜きにしても、俺たちは気に入ってるんだがな」 突然、乱暴な所作で頭を撫でつけられた。 「え?」 その行動と言葉に、リノはきょとんと面持ちを上げる。理由が分からない、とでも言いたげに。 「あんたらはおかしらの――いや、俺たちの頼みを聞いてくれたからな」 「……頼み?」 しかも続けられた内容まで覚えがない。などと、彼女が困惑していると、 「おいおい、サマンオサを救ってくれたんだろ?」 海賊は大げさに苦笑しつつも明確に告げた。 とはいえ、リノにしてみれば、やはり違う。確かにきっかけはレイヴンだが、あくまできっかけに過ぎない。偶然、引き受けた形になった――ただそれだけのこと、と彼女は考えている。 「でも――」 「気の向いた時にしか足を運ばないとしても、あの国は俺たちにとって大切な場所だ。その恩義は、こんな簡単に返せるもんじゃねぇよ」 が、男は胸中を見通したのか、強引に遮りつつ言い連ねた。 「だから、嬢ちゃんは気にせずにだな……その……なんだ」 かと思えば、不意に強面顔を逸らし、声を澱ませた後。 「また……いつでも遊びに来い、よ?」 今までの饒舌さが何処かへ旅立ったかのように、妙にぎこちない疑問符混じりの声色でそう告げた。一方の彼女も緊張につられたのか、固い表情で言葉を探している。 「ほら、リノちゃん」 しかし、見かねた様子のティルクに肩を叩かれると、 「あ、あの! えっ、と……皆さんも、レイヴンさんも……本当にありがとう、ございました」 たどたどしくはあったが、嬉しそうに潤んだ上目遣いで感謝の気持ちを伝えた。 それと同時に。この場では口にしなかったものの。 次にレイヴンや彼らと再会した時は、話したい、と思っていた。 自分が初めて出会った名前も知らない海賊――あの優しい"彼"について。 海賊と別れた二人が方位磁石の指し示す"南"へ進み、数時間経った頃。 足音も前触れもなく、世界は劇的な変化を終えていた。その源となる主は、空と大地一面を白に染め上げるタンポポの綿毛めいた――淡雪。 最初は上から下へ、ゆらゆらりと。起伏の小さな曲線を無数に描きつつ、穏やかに降り注ぐだけだった。それがいつしか強くなった風に乗り、勝手気ままに目まぐるしく吹雪いているのである。 当然、靴音は耳慣れないモノへと変わり、視界もおもむろに霞ゆく。 しかし、心許ないのは確かだが、最悪の状況というわけでもない。 (……まずいな) にも拘わらず、油断なく前方を見据えるティルクは、焦燥を募らせていた。 その理由は、彼の右隣を歩く少女。 「リノちゃん、大丈夫?」 先ほどから何度呼びかけても、頷く素振りが感じ取れるだけで、 「…………」 一向に言葉が返ってこないのだ。 それに反応があるといっても、ささやかで。気配はあまりに希薄すぎる。 だから、彼は思った――限界が近い、と。 (……早く休める場所を探さないと) とはいえ、普段ならここまで心配する事もなかっただろうが、彼は知っていた。 今のリノが、決して"普段通りではない"という事を。 何故なら、ここへ辿り着く二日間。彼女は船室に閉じこもりがちだった上に、食事すらまともに摂っていなかったのである。無理に食べようとしても、身体がまるで受けつけないようだった。ゆえに先の戦闘でも、動きは明らかに精彩を欠いていた。 誰であっても気づけないわけが、ない。 それに原因は分かり切っている。というより、他に有り得ない。 (やっぱり……そうか) 彼女はそこまで想っているのだ――ダーマで眠り続けている"銀髪の彼"を。 (まだ――いや……) ティルクは無力感に苛まされた。 (また、か) 支えたいと願っても、支える事ができない。そんな自分の不甲斐なさに、唇を噛んだ時。 (……ん?) 殆どが白に埋め尽くされた視界の中を、一瞬だけ"何か"が浮かんで――消えた。 よく目を凝らすと、今度はほんの少しだけはっきりと映った。 儚く頼りなく揺れる、仄かな灯りが。 (家……こんなところに?) 人の住める大地とは到底思えないが、微かに見えた光は炎特有の だが、あれがもし民家だとすれば、衰弱の一途を辿る彼女を――休ませる事ができる。 「……リノちゃん」 ティルクは返事も待たず、また念のために右掌を剣に添え、力強く歩き始めた。 既に頷く事すらできなくなっているリノの手を引いて。 二人を待ち構えていたのは、幸いにも民家の方だった。 が、まだ油断はできない。とりあえずティルクは、扉を三回ほど叩いてみる。 返事はない。 そこで次は慎重に、軽く扉を押してみたところ――あっさり開いた。 しかし、まだ返事はない。 吹き荒れる風音が、轟々と鳴り響いているというのに、だ。 「誰か……いませんか?」 不審に表情を強張らせながらも、意を決したティルクは薄い暗闇に呼びかけてみた。 すると、次の瞬間。立ち尽くす二人を出迎えたのは、 「……にゃーん?」 一匹の白い――ちょうど雪を思わせる毛色の――猫。 人間か魔物か。その二つの可能性しか考えていなかった彼は、呆気なく言葉を失う。 だが、猫は気にする風もなく。どころか、雪色尻尾を揺らして歩み寄ってくると、 「……え?」 リノの足元で、ふにゃーん、と丸くなってしまった。 「あ、あの……ネコ、さん?」 外は吹雪な上に、扉も開きっぱなし。このままでは、猫にまで寒い思いをさせてしまう。 ふと我に返ったリノは膝をつき、猫を家の中へ追いやろうとしたのだが、 「わ……」 動きを察した猫は、低くなった姿勢を利用し、 「わ、わわっ」 するすると器用に身体を登り始めた。 「ちょ、ちょっと待――」 「にゃぉーん」 「わ、わわ」 「にゃんっ」 挙げ句の果てに、彼女の冷たくなった頬をしきりに舐めている。 「ネコさ――こ、こら……く、くすぐったい……ってば」 ここまでの旅を労い、温もりを分け与えるかのように。 どうやら猫は、彼女をすっかり気に入ったらしい。 「にゃーにゃー」 「……もう」 一方、しょうがない、といった様子で困惑しているリノ。 とはいえ、さほど嫌がっているようにも見えない。 「ほら……風邪引いちゃうよ?」 その証拠に声は幾分弾んでおり、眼差しも柔らかく――優しい。 幼さとあどけなさが残った年相応の少女らしい可憐な笑顔だ。 酷く懐かしい、と今度はティルクが我を失いかけた。 「扉を閉めてくれんか?」 が、それも束の間。 「え?」 「寒くて敵わんわい」 直後、薄闇の中心より声が。宙に漂う"空気"という名の不可視元素全てを震わせる――そんな低音が響いた。 「は、はい」 何者だろうか、と疑問に思わないでもない。しかし、指摘自体は的を射ている。 戸惑いはあるものの、ティルクはひとまず素直に従った。伴って、濃度を増した闇が室内に降りる。そこで彼はすぐに深海色の瞳を凝らし、相手を見極めようとしたものの。 「こんな場所に客人とは珍しいのう。随分と久しぶりじゃ」 声の主はランプを片手にひょこひょこと、無警戒な歩みで姿を現した。 正体は背が極端に低い老人――ホビット。森林色が基調の服を纏っていた。 「えっと……すいません。勝手に上がり込んでしまって……」 身の内にあった緊張を思わず弛緩させた彼は、深々と頭を下げる。人間でも魔物でも、ましてや猫でもないホビットの態度に、毒気も拍子も抜けてしまったようだ。 「なんのなんの、別に構わんよ。それに外は生憎の吹雪じゃ。家を見つけたら誰だって入りたくなるもんじゃろ。それに……ふむ」 「な、なんでしょうか?」 だが、ホビットはからからと陽気に笑い飛ばす。迷惑がっている節は、到底見受けられない。 「娘がワシ以外の者に懐くのも、珍しいと思っての。なら、あんたたちは悪い人間でもあるまいて」 更に穏和な目を細めると、さも嬉しげに続けた。視線の方向から察するに、彼が言う"娘"とは猫の事。普段の猫煩悩っぷりが、容易に想像できる声だ。 「ほれ、あまり客人を困らせるんじゃない。こっちへ来るんじゃ」 しかし、いかにも上機嫌な足取りで飼い主の元へ戻った猫は。 「にゃーっ!」 唐突に荒々しく鳴き、問答無用で老人の右腕を――引っ掻いた。 「あたたたっ!? こ、こら、やめんか……!?」 直後、引き裂かれた森林色の一部は、ランプの灯火と重なりつつも散りばめられる。ちょうど木の葉が舞い踊るようで、どことなく幻想的な光景ではある。 ただし、動揺混じりの悲鳴があるせいで、全て台無しになっているが。 ともあれ彼は、気難しげな顔で静寂に身を委ね、何やら考え込んだ後。 「……ふむ。客人の前だから照れとるんじゃな」 ぽつぽつり、と。もしくはしみじみと独り言を漏らす。 だが、哀しい事に。 (うわー……絶対に懐かれてなさそうだ……) まるで説得力がない――とティルクが俯き、沈痛な面持ちを隠す傍ら。 (ネコさんって、こういう懐き方もするんだ……?) リノだけは何故か、妙に納得していた。 ノムルス、と名乗るホビット。ハルカ、と紹介された猫。 一人と一匹は突然の来訪にも拘わらず、二人を快く迎え入れてくれた。 ただ、当初は"人が住んでいる"という事実も、にわかに信じ難かったのだが。 (へぇ……) 開扉の影響で消えた灯火が、早々に点け直されると――室内は温かな光に満ち、生活感溢れる空気が漂い始めた。その雰囲気は、正しく"人が住む家"という事実の証明だった。 そして、現在――二人は。 「……世界樹、か」 温かいスープとキツネ色に焼けたトーストを前に、世界樹の事をノムルスに尋ねていた。 話の流れ上、ではある。しかし、ここに居を構える彼なら詳しい場所を知っているかもしれない、という希望も少なからずあった。 「樹海の真ん中……確か目印があったかのう」 すると幸いにも。もしくは期待通り、と言うべきか。 しばし考え込んだノムルスは、二人が初めて耳にする言葉を呟いた。 「目印?」 間を置かず繰り返したのは、リノ。珍しく性急な音色だが、それだけ焦燥に駆られているのだろう。 ところで、少し余談になるが。 今の彼女は船旅の時とは違って、随分元気になっていた。 その理由は――ハルカ。ノムルスが"娘"と呼ぶ、雪色の猫。 事ある毎に甘えてくる"彼女"の存在が、リノの不安を和らげているようだった。 現に今もハルカは彼女の膝上で、ふにゃー、と丸くなっており。リノも時々食事の手を休めては、身体を撫でている。 世界を救おうとする勇者ではなく――ごく普通な少女の笑顔で。 それはきっと、何気ない日常に違いない。 しかし、時折横目で眺めていたティルクは、想う。 他の誰でもない"リノ"が織り成すがゆえに――この風景は" などと、胸中で想ったからかもしれない。 つい過去の記憶を手繰り寄せようとしたティルクだったが、 「どんな目印なんですか?」 続けられたリノの質問に、再び意識を話に集中させる。 対して、ノムルスから返ってきたのは、 「……すまんが、よく覚えとらん」 芳しくない回答と。 「じゃが、どちらにせよこの吹雪の中では、どんな目印でも見えやせんよ」 至極真っ当な意見。そして―― 「まぁ、しばらく泊まっていくとええ。それにここの天気は変わりやすいから、じきに止むじゃろうて」 深く温かい気遣いの言葉。 懸念や胸騒ぎは残っていたが、二人は彼の申し出をありがたく受け入れた。 だが、翌日も吹雪は止まないまま、世界は時を刻み重ね。 リノとティルクがダーマを出発してから――三度目の夜が訪れた。 (……ん?) ティルクが異変に気づいたのは、そろそろ休もうと思い、廊下を歩いていた最中。 きっかけはリノの部屋から聞こえてきた、ハルカの鳴き声。鬼気迫る、というのは少々過剰な表現だが、兎にも角にも慌ただしいのである。 おかしい、と彼の直感が訴えた。 思い返すしてみると"彼女"が荒く鳴いたのは、飼い主を引っ掻いた最初の時だけ。 今日一日。更に遡れば、昨夜。 リノが頻繁に外を窺っていた時も、一緒に眠っていた時も大人しいものだった。 つまり、決して気性が激しいわけではないのだ。 なら何か理由がある。そう考えたティルクは、 「……リノちゃん、どうかした?」 こんこんと扉を叩き、同時に耳も澄ませ、中の様子を探ろうと試みた。 「ティ、ティルクさん? う、ううん……何もない、けど」 「ホントに?」 「もう眠ろうと思ってたぐらい、だから」 しかし、返事はぎこちなく。おまけにがさがさと音がする。 少なくとも、これから眠ろうとする者の気配とは、違う。 「そっか。じゃあ、おやすみ」 「うん……おやすみ」 そこでティルクは、一旦挨拶をした後、 (……よし) 何かあってからでは遅い、と――思い切ってドアを開けた。 「え?」 すると部屋の中には。 「リノ、ちゃん?」 「あ……」 防寒具を纏った少女の呆然と立ち尽くす姿が、あった。 「……なにしてるの?」 「えっと……こ、これは」 「これは?」 「明日の、準備」 「もう寝るんじゃなかった?」 「……急に不安に、なって」 不意を突かれ、酷く狼狽している彼女。 そんな事は分かっている。 不意を突いて、酷く狼狽させたのは彼。 そんな事も分かっている。 嫌というほどに、思い知らされている。 「……だったら防寒具を着る必要はないよね?」 だが、問い詰める声は止めず、止められず――止めるわけにもいかない。 「それに……こんな吹雪の中じゃ無理だよ」 止めるべきは、彼女なのだから。 「……見つかるかも、しれない」 「え?」 「ううん……絶対に見つける。だから――」 「それはできない」 「どうして!? 私はトラッドを……助けたいだけ、なのに……っ!」 しかし、リノは尚も頑なに拒み続け、最後は激昂に至る。 悲痛に叫ぶ声には。 揺るぎない意志が。 常にはない険しさを帯びた瞳には。 明らかに冷静さを損なった判断が。 即ち"彼"への想い全てが――どうしようもなく、滲んでいた。 (……リノちゃん) ティルクは右小指を髪に絡め、考える。 一体どうすれば。どんな言葉を用いれば、彼女を止められるのだろうか。 言い換えると、どうすれば本当の意味で少女の"力"になれるのだろうか、と。 (ああ……そっか) だが、程なくして可能性は見つかった。 最善と思しき答えは、リノや"彼"だけでなく――自分の中にもあるのだ。 とても簡単なのに、伝える事が難しい。そんな矛盾した"言葉"が。 「す…………から」 「え?」 だから彼は、決心した。 彼女を"勇者"としてではなく"少女"として見つめ。 「リノちゃんのことが、ずっと……ずっと昔から――……好き、だから」 「……えっ」 秘めていた想いを、ありのままの掠れ声で紡いだ。 「……実はね、時々アリアハンに行ってたんだよ」 突然の告白に、リノはわずかに頬を上気させ、戸惑う。 「だからリノちゃんがいつもあの丘にいることも、どうしてそうなったのかも……全部知ってた」 「しって、た……?」 「うん。でも、何て言えばいいのか分からなくて――いつまで経っても話しかけられなかった」 しかし、ティルクは一切構う事なく。 「……それからしばらく経った後、かな。旅を始めたのは」 再び右小指を髪に絡めながら、慎重に想いを綴る。 「強くなれば、いつかリノちゃんの力になれるって……そう、思ったから」 「ティルク、さん」 「本当にずっと……ずっと好きだった、から」 更に彼は、空いた左手で彼女の髪を梳き始めると、 「だから……分かるよね?」 不意に諭すような口調で、こう問いかけた。 「好きな人を心配する気持ち……リノちゃんにも分かるよね?」 「……あ」 その時、彼女はようやく理解した。 ティルクが自分を想う気持ちは、自分が"彼"を想う気持ちと同じで。 自分が"彼"を心配するだけでなく、自分も心配されているのだ、と。 「ティルク、さん」 「うん」 「ごめん……なさい」 「……うん」 それに、もう一つ。リノには告げなければならない事がある。 とても簡単なのに、伝える事が難しい。そんな矛盾した"言葉"が。 「でも、私は……わたしはト――」 「いいよ、言わなくても」 だが、遮ったティルクは、瞳を潤ませる彼女から離れ、素早く背を向けた後、 「……聞かなくても分かってるから、ね」 たったそれだけを言い残して部屋を出て行った。 まるで、何事もなかったかのように。 そう――先刻の告白さえも。 銀色の草原。トパーズの空。ぬかるむ地面。 ここが何処で。ここが何か。 眼に視えるモノが真実か。 眼で視ている自分が虚構か。 そんな根本的な疑問すら些末事に過ぎない、空間。 ありとあらゆる何もかもの境界線が曖昧な、世界。 止まない声に導かれる彼は、思考を放棄していた。 だが、異変は唐突に現れる。 それは、人影。 つまり、他者。 この場で自分が自分である事を認識できる、存在――が。 近くて遠い。此処ではない何処かで。 陽炎のように揺れていた。 遠くて近い。此処ではない"向こう側"で。 夢幻のように漂っていた。 何よりもその人物は――声を紡いでいる気がした。 確証はない。自信もない。しかし、不思議と確信があった。 この声が。あの声の主こそが。 自分の探し求めていた"誰か"だと。 だから彼は、忙しく足を動かし始めた。 銀色の草幻もトパーズの空も相変わらずの異形だが、身体は軽くなっていた。 ぬかるむ地面は、いつの間にか乾き切っていた。 踏み込んだ分だけ、心地良い感触が返ってきた。 一心に走り。ひたすらに駆け。 息を切らしながらも、曖昧然とした"何処か"へ辿り着いた時。 彼は先に待つ誰かが"誰なのか"解った刹那、ぽつり胸中で呟いた。 父さん――と。 そして、更に夜気が深まった頃。 「う……ん……?」 動揺と焦燥。更に"銀髪の彼"への想いを抑え、やっと眠ったリノだったが。 ふと目が覚めてしまった。 いや、起こされた、と言った方が正しいのかもしれない。 胸元で丸くなっていたはずのハルカが、耳元で囁いた気がしたのである。 「……さむい?」 半ば夢現のとろけた声で、リノは問いかける。 (あれ……?) だが、よくよく耳を傾けてみると。外壁や屋根、窓と衝突を繰り返す結晶の音が、小さくなっている。要するに、吹雪の止む兆候が感じ取れるのだ。 「ごめん……もしかして、どこか踏んだ?」 そこで彼女は、次に思いついた可能性を、謝罪と共に尋ねてみる。 だが、月明かりを身に受け、淡い白光を放つハルカが口にしたのは、 「にゃーん」 という愛らしい鳴き声――ではなく。 「四つの岩山の中心……そこに世界樹があります」 今正に、欲していた言葉。 「……え?」 しかし、耳を疑ったリノが両眼を見開いた時には。 「にゃん?」 "彼女"は紛れもなく"猫"だった。 (夢……?) 不思議で不可解な、ほんの一瞬の出来事。 (いまのが本当、に……ゆ、め?) だが、その事に疑問符を浮かべているのはリノだけで。 「……にゃぉん」 当のハルカは気怠げに鳴いたかと思えば、既に毛布の中へ潜り込んでいた。 リノは思い返そうとするものの、睡魔は容赦なく襲いかかってくる。 やがて、程なくして。 かろうじて保っていた意識の消失を、過たず察した彼女は。 (四つの……いわや、ま……) 最後に告げられたかもしれない言の葉を、もう一度だけ心に繋ぎ止めた。 一方、彼女と同じくベッドへ入っていたティルクはというと。 「ふぅ……」 眠れない夜を持て余し、幾度となくため息を零していた。 脳裏をよぎるのは、やはり――先ほど彼女と交わしたばかりの会話、である。 「……こうなることぐらい、分かってたのに」 それから誰もいない場所で、何も無い中空に。 「とっくに覚悟なんて……してたはず、なのに」 途切れ途切れの頼りなげな独り言を、淡々と落とし続ける。 「……やっぱり」 しかし―― (結構、辛い……なぁ) 最後の 次の話へ
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