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吹雪が止み。暗雲が去り。後に残されるは、透き通った蒼と点在する白。おまけに陽光も、木々たちの間隙を縫っては降り注いでくる。旅立つには文句のない快晴だ。 そんな青空の下、幾分視界も良い樹海を歩くリノとティルクはというと。 「……うん、大丈夫」 基本的には南へ進み。時折立ち止まっては、注意深く周囲を見渡していた。 いくら方位磁石があっても、確認を怠るわけにはいかない。 世界樹の目印であるらしい――四つの岩山を。 この目印について確信に至ったのは、つい今朝方のこと。 夢か幻か。それとも、紛う事のない現実だったのか。 昨夜聞いたハルカの"言葉"が引っ掛かっていたリノは、それとなくノムルスに尋ねてみたのである。すると彼は、束の間考え込んだものの、同意した。 それも記憶を覆っていた靄が晴れたかのような、清々しくも無骨な笑顔で。 ならば、きっと間違いではない。 付け加えれば、他に手掛かりもない――と考えた二人は。 樹海の中からでも容易く視認できる岩山を頼りに、出発したのである。 そうして、約二時間後。 「でも、本当に不思議な話だね」 「うん……正直、まだ信じられない」 まだ昇っている途上の太陽を揃って仰ぎ見る二人の間に、少し弾んだ声が飛び交う。言葉通りの疑問は覚えていても、手掛かりが見つかった事の方が嬉しいようだ。 「……ねぇ、リノちゃん」 しかし、唐突に。 「なに?」 「もしかしたら、だけど」 真剣味を帯びた表情で、彼は告げた。 「ハルカちゃんは、リノちゃんが心配だったから黙ってたのかもね」 「どうして?」 「あの吹雪じゃ、外に出ても岩山は見えなかっただろうし……それに」 「それに?」 尚もきょとんとする少女に対し、彼が続けた言葉は、 「リノちゃん……酷く疲れてたから、ね」 やはり推測だった。当然、根拠などない。 だが、何故か信じられる気もした。 「……お礼」 「ん?」 理由は簡単だ。 「お礼、ちゃんと言えなかったなぁ、って思って」 昨夜に起こった何もかもが確証もなく、説明のできない現象だとしても。 「大丈夫……多分、伝わってるよ」 「そうかな?」 「うん。だって、あんなに一緒だったのに……伝わってない方がおかしくない?」 「……だといいな」 全てが全て、希望の標へと繋がったのだから。 加えて、もう一つ。 今の言葉を紡いだのは、ティルク。 自分の事を女の子として"好き"と言ってくれた、唯一の人。 (気持ちには応えられない、けど) それでも――いや、だから、かもしれない。 リノは信じたい、と思った。 いつもと変わらぬ彼の手前では、口にできなかったが。 背中に見える岩山が遠く霞みだし。 東西に見える岩山が平行に近づき。 正面に見える岩山が、留まる事を知らずに存在を主張し続ける頃。 「……ところでリノちゃん」 黙々と足を動かしていたティルクが、不意に彼女を呼び止めた。 自分が気づかないだけで、いつの間にか眼前の風景に変化が――即ち、世界樹の片鱗が現れていたのだろうか。と、リノは一瞬考えた。 しかし、それにしては音色が浮かない。微かにだが、澱んでいる。 「……どうかした?」 彼女はひとまず逸る心を抑え、なるべく平静に応える――が。 「うん。実はずっと聞こうと思ってたんだけど……」 剣呑な深海色の瞳を向けるティルクの言葉は、 「トラッド君には、いつ気持ちを伝えるつもりなの?」 推測、思考、想像などが一切役に立たない、核心を突く問いだった。 「……え?」 「聞こえなかったなら、もう一度言うけど――」 「い、いや! き、きこえた……けど……」 「じゃあ、答えは?」 リノは慌てて遮るが、質問に対しては成す術がない。 代わりにあるのは、不意打ちを受けた惑いと、文字の連結も覚束ない思考。そして、緩やかに帯びゆく――熱。 一緒にいたい。許されるなら、ずっと。 確かにそう思ってはいたものの、今まで考えた事がなかったのである。 銀髪の彼に、たった一言。 ――好き―― と、伝えるなんて。 彼女にとっては夢や願にすら成り得ない"想い"だった。 「……あの」 「なに?」 「こ、こたえなきゃ、ダメ?」 「うーん……できれば聞きたいかな」 口調こそ柔らかいが、ティルクに引き下がる雰囲気はない。むしろ、使命感にも似た強い意志が窺える。 「い、いまは……まだ、言えない」 だが、上気した顔を隠すように伏せていたリノは、か細い声で紡いだ。 「今は?」 更には、こくり、と首肯。 普段と異なる少女の様子に、彼は少し驚く。もっとも、表情には出さないが。 「前までは、ずっと黙っていよう、って……そう、思ってた。ティルクさんも知ってる通り、私の身体は……他のヒトとは違う、から」 「…………」 「でも……ティルクさんが教えてくれた」 「……何を?」 そこでリノは、はっきりと彼を見据えて呟く。 「そんなの関係ない、って」 真っ赤な笑顔で。 ゆえにティルクは悟った。 長く、永く。アリアハンの丘で"独りっきり"を過ごしてきた彼女は。 出会った"彼"に恋心を抱いて。 再会した"彼"の恋心を受けて―― やっと自身の気持ちと、本当に向き合えるようになったのだ、と。 「……じゃあ、どうして"今"は言えないの?」 胸中を明かせば、辛い。例え自ら呼び込んだ状況といっても、だ。 しかし、それは彼女も同じ――いや、性格を含めればそれ以上に違いない。 にも拘わらず、心を綴る、という事は。 不器用な少女の、不器用な感謝の示し方かもしれない。 ゆえに彼も、応えたい、と思えたのである。 「……怖いから」 会話は尚も続く。 「怖い、って……?」 彼への想いが実らない事が、だろうか。 一瞬、言い方を選ぼうとしたティルクの眉根が寄る。 「ううん……身体の、こと」 が、察したリノは首を横に振りながら呟き、 「さっきはああ言ったけど、……やっぱりまだ、怖い」 おずおずと説明を添える――が、間髪入れずにこうも言った。 「でも……旅が終わったら、ちゃんと伝えたい」 「え?」 「バラモスを倒せたら……少しは自信が持てるかもしれない、から」 孤独と共に歩んだ歳月は、決して短くはなく。また、簡単に癒せる"傷"でもないはずなのに、彼女は前へ進もうとしていた。少しずつではあるが、着実に。 それが誰の影響であるかなど――考えるまでもない。 (やっぱり……敵わないな) 自分にできなかった事をやってのけた"銀髪の彼"だ。 とはいえ、こんな本音に意味はない、とあくまで冷静を装うティルクは、 「……安心した」 代わりに"もう一つ"の本心を、穏やかに告白した――直後。 「えっ?」 今まで意図の見えなかった始まりの問いが。 「身体のことを気にして言わないかもしれない、って思ってたからね」 今正に意図の読めなかった終わりの答えと。 「もし、本当にそうだったら……怒るつもりだった」 交錯した。 一体彼はどこまで見抜いているのだろうか、と彼女は呆然と自失する。 「ティルク、さん」 「見てれば分かるよ」 しかし、表面上は普段と全く変わりがない。 「あの――」 「それよりも長話が過ぎたね」 どころか飄々と軽い口調で成すべき事を優先し、リノの声をことごとく閉ざす。記憶に新しい"昨夜"を再現するかのように。 「少し先を急ごっか」 「……うん」 こうなっては、もう何も伝えられない。言葉だけでは足りない、感謝の気持ちすらも。 ほんの少し差し込む陰を俯き隠し、こくんと頷くのが精一杯だ。 けれど時間が経てば、いつかきっと届けられる――と、リノが右拳を固く握り締めた刹那。 「……え?」 二つの黒と深海色に映る風景が、鮮烈な"緑"に埋め尽くされた。 いや、違う。 発生の過程や色合いが馴染みあるモノと異なっているが、これは紛れもなく"光"と呼ばれるモノだ。だが、前触れも脈絡もないはずなのに、目の灼ける感覚がない。付け加えれば、不意な世界の変質に伴う恐怖すら、微かたりとも存在していなかった。 更には、中心。創造を連想させる光源らしき場所に。 一層色濃く、瑞々しい"深緑"が落ちた瞬間――始まった。 種が芽を出し。 芽が木と成り。 木から枝が分かれ。 枝から葉が息づき。 一本の樹が根付く。 そんな膨大な歳月を要する"成長"が始まり――既に終わっていた。 果たして、一瞬だったのか。 もしくは、永遠だったのか。 どちらかは分からない。解らないが、確かにあった。 何もかもと密接に関わる時の概念を、別の" リノとティルクの眼前に、疑いようもなく存在した。 高貴なる光輝。 真正なる神聖。 それら全てを兼ね備え、静謐で纏め上げる"樹"が現れた、かと思えば。 ひらひらりと、無色の中空を舞い降りた。 ふわふわりと、少女の掌で、舞い踊った。 先刻、光と名づけられた" しかし、世界は瞬く間に――消失する。 正確には"元の場所に帰ってきた"と言うべきか。ささやかに移ろいざわめき、今も周囲を取り巻く樹海が何よりの証拠である。 ただ一つ。変化があるとすれば。 「これが……」 リノの掌に残る、幽かにざらついた感触と。 「……うん」 不可思議な深緑の光沢が同居した、三つ叉の葉っぱのみ。 これこそが訝しむまでもない、唯一無二の神秘――世界樹の葉。 「なるほど……」 「え?」 一方、ティルクは小さな声で呟いたが、 「……ううん。それよりも早く帰ろう」 リノの疑問符には答えず、何食わぬ顔でキメラの翼を取り出した。 (そういうこと、か) が、額に青い宝玉を当て、ダーマの風景を思い浮かべつつも考える。 世界の始まりと共に芽吹いた大木――"世界樹"について。 何故、蘇生を望む者が手に入れなくてはならないのか。 何故、調合も処方も自らが行わなくてはならないのか。 何故、一人の生涯に一枚だけしか許されていないのか。 そもそも、どうして――"世界樹"は枯れないのか。 三つ目まではともかく、四つ目は今気になったばかりだ。つまり、根本ではあるが取るに足らない程度の疑問だった、という事。 だが、ティルクは根拠もないままに納得した。 (枯れるも何も現実に存在していない……それに――) 先ほど、自分と彼女が圧倒された世界。 人である限り、見届ける事が叶わない"成長"の過程。 あんな時が。あれほど生命の脈動が充ち満ちている刻など。 たった一度ですら奇跡に等しい瞬間を、二度も目の当たりにできるはずがない。 ティルクは軽く瞼を擦り、キメラの翼を上空へ放り投げた。 外壁を夕暮れ色に染める、ダーマ。 帰ってきたばかりでも労いもなく、また帰ってきた方もそれを望まず。 リノは薬の調合を、アーニーは書物片手に指示と。双方とも緊張に声を強張らせながらも、それぞれの役目を果たそうとしている。 そして、ナギサとラザ、ティルクは同じ部屋で二つの背中を見つめていた。 邪魔にならないため退室しようとしたところを、リノに引き止められたのである。 もし、よければ――自分を見守っていて欲しい、と。 だから、三人はここにいる。 一言も喋らず。動きも抑え。息さえも殺し。 優しく穏やかに――少女を見守っていた。 やがて、世界に夜が降り始めた頃。 「これで完成、ですね」 安堵を織り交ぜた音色で、アーニーが告げる。 「かんせい……?」 対して、リノは呆然と繰り返した後、 「……ありがとう、ございます」 感謝の言葉を紡ぎつつ、コップに入った液体を見た。 世界樹の薬。 それは、葉と同じ深緑を保ちながらも向こう側が見通せる、不思議な色彩だった。伴う香りも、木々たちが仄かに漂わせるもの。 純粋で純真で、純度の高い純然たる液体。 深緑でありながら透明感があるという矛盾など、この神々しさの前では些末事に過ぎなかった。 「できたの!?」 二人の様子を見たナギサが真っ先に詰め寄り、ラザとティルクも続く。 声を受けたアーニーも、一旦は頷いたものの、 「た、ただ……その……」 すぐにさっと表情を曇らせ、更には両頬を淡く上気させた。 「どうかしたの?」 当然、ナギサはきょとんとなり、理由を尋ねようとする――が。 「……飲ませてくる!」 「え? あ、あの……!」 それよりも早く部屋を出て、リノは"彼"の元へと駆け出してしまった。 会話を気に止めるどころか聞こえてすらいない。という慌ただしい彼女に、四人は思わず顔を見合わせる。 「……薬は完成したんでしょ?」 その沈黙を破ったのは、ナギサ。 「う、うん」 「何か問題でもあるの?」 「えっと……問題というか問題じゃないというか……薬に問題はないんだけど……その」 「……そういうことね」 「え?」 だが、しどろもどろなアーニーの答えを待つ間に、気づく。 「大丈夫よ。リノちゃんも分かってるだろうし」 「でも――」 「そりゃあ、少しは躊躇うかもしれないけど……やっぱり、大丈夫よ」 「そう……なのかな?」 ところで自然と聞き耳を立てる形になった、ラザとティルクはといえば。 「何の話かな?」 「さぁな……悪い方向には進んでいないと思うが」 揃って眉をひそめつつ、首を傾げていた。 話はまだ続く。 「むしろ、逆に嬉しいんじゃない?」 「逆って?」 「ほら、リノちゃんも年頃の女の子なんだから」 「えっと……そういうものなんだ?」 「……アーニーにはまだ早いのね」 しかし、ナギサは予期せぬ答えに呆れつつ、ふと何を思いついたのか。 「……まぁ、その代わり」 「その代わり?」 唐突にハリセンで、一度だけ軽く空を斬った直後、 「アイツが元気になったら、思いっきり叩く必要があるけどね」 愛らしさと恐ろしさが同居した不敵な笑みで、さも楽しげに呟いた。 それから程なくして、リノは辿り着いた。 寝息もなく眠り続ける"彼"が待つ、あの部屋へと。 顔を見た途端、比較的落ち着いていた呼吸が乱れ始める。 「トラッド……」 続けて名前を呼ぶと、とくん、と心音が強くこだまする。 今からする事を思い、また彼の事を想い、少女は動揺していた。 ナギサの言う通り、彼女は理解していたのである。 しかし、リノは首を横に振って躊躇いを打ち消し、そっと彼の頬へ触れる。するとアストロンの効果は既に解けており、冷たくなりつつある温もりが伝わってきた。正しく、間一髪だったらしい。 「……トラッド」 そこで彼女は再び名前を呼んだ後、世界樹の薬を口に含むと。 (帰って、きて) ひとひらの想いを乗せて――――唇を重ね合わせた。 後ろに括られた長い銀髪を、携え。油断も隙もないトパーズの両眼で見据え。 幾分、険しい表情を浮かべる。 父さん、と彼が胸中で呟いた先に立っていたのは、そんな男だった。 年齢だけを除けば、二人は似ていた。 形は異なれど、同じ色の髪と瞳。 粉雪には若干及ばない、肌の白。 細かな仕草や、何気ない歩き方。 彼からすれば"男"は未来の自分のようで。 男からすれば"彼"は過去の自分のようで。 二人はよく――本当によく似ていた。 ただし、一つ決定的な差違がある。 それは、視線。言い換えれば、心情の表れ。 彼はトパーズを潤ませ、今にも駆け寄りそうだったが。 男はトパーズを鋭くし、まるで拒んでいるようだった。 父さん。 気づかない彼は声なき声を内に響かせ、右足を一歩踏み出す。 しかし、返ってきた音色は。 「……来るな」 寒暖のない世界ですら底冷えが鳴る声だった。 「こっちに来るなよ」 どうして。 彼は思わず問い返すが、やはり声は届かない。 「お前はまだ、違うだろ」 だが、男は的確に思考を見抜き、尚も言葉を重ねる。 「……お前は道に迷っただけだ。まだ"此処"に来る時じゃないんだよ」 どうして……そんなこと、言うんだよ。 ほんの少し、景色が揺らいだ。 俺はずっと父さんに会いたくて……名前まで騙って、旅をして。 いつかそのことを怒りにくるんじゃないか、って。 それが、ずっと怖くて。 ずっと――楽しみにしてた、のに。 想いは なのに、声が紡げない。 数え切れないほどの伝えたい事が、何一つとして伝えられない。 「ったく……なに泣きそうな顔してんだ」 しかし、男は粗野な動きで背中を向け、舌打ちをする。 「せっかく"此処"から遠ざけようとしてるってのに……」 更に、ぷつぷつりと。 「何でお前は……そんな顔するんだよ」 明かすつもりのなかった心の断片を。 「……別れづらく、なるだろ」 儚げに繋げる。全ては解らなくとも、根源は理解したのだろう。 気づけばこの時。四つのトパーズが捉える風景は、既に揺らぎを超えていた。 「なぁ……知ってるか?」 だが、再び向き直った男は、まるで何事もなかったかのように唇を割り。 「死んだ人間ってのは土に還るもんだが、生きてる人間ってのはな……」 それは同時に。突然、視界が白に染め上げられた彼にとって。 「同じ"人"に帰るんだよ」 父親から聞いた、最期の言葉となった。 そして――変わる。 (……え?) うっすらと開いたトパーズに映る世界が、変わった。 代わりに今、眼前にあるのは。 銀色の草原でも、トパーズの空でも。ましてや、懐かしい面影でもない。 黒い瞳から大粒の涙を零す――黒い髪の少女。 彼女が誰なのかなど、記憶を辿らなくても分かる。 (リノ……) 自分の好きな人、だ。 しかし、声も音も何一つとして、聞こえない。 どうして彼女が泣いているのか尋ねようにも、口を開く事さえできない。 (……ああ、そうか) だから、彼は思った。 あの境界線が曖昧然とした世界も。 二度と叶わないはずだった再会も。 何も紡げず、何も聞こえない事も。 目の前に大好きな彼女がいる事も。 ありとあらゆる何もかもが、最期に見る夢。 そう―― にも拘わらず、彼女は泣いている。 いつでもどこでも笑っていて欲しいのに、透明な雫を流し続けている。 だが、もう遅い。自分にできる事は何も、ない。 ゆえに、彼は思った。 これが最後の最期に見る夢ならば。 せめて夢の中だけでも、行動で伝えよう、と。 彼は何故身体が動くのかは疑問を覚えずに、右腕を伸ばし。 「……え?」 優しく丁寧な所作で、頭を引き寄せて。 「ト――……ん……っ!?」 夢の中の彼女が何かを呟くよりも早く。 唇を――重ねた。 柔らかく、温かく。不思議と薬の苦みがある。 けれど、全てが全て愛おしい――彼女の感触。 言葉と行為の順序が逆、という罪悪感もあったが、 (……リノ) 彼は一心に、彼女への想いを伝えようとした。 一方、リノはというと。 (トラッドが……すごく近くに、いる) 一瞬何が起こったのか分からず、ただ事実を繰り返していた。 しかし、徐々に時が流れ。 (わ、わたし……いまなにしてるんだろ……?) 冷静さを取り戻していく途中で。 (………………えっ!?) ようやく理解する。 大好きな彼と自分は唇を重ねている、と。 瞬間、ぼっ、と顔が熱くなった。 (で、でも……ダメ、だよ……) が、間髪入れず。彼女の脳裏に、ティルクに告げたばかりの言葉がよぎる。 (旅が終わったら、って決めたのに……こんな、こと) 即ち、自らに立てた誓いを。 今はまだ、破るだけの"勇気"がないのだ。 しかし、彼の温もりが唇を通して伝わってくるにつれ、思考が漂白していき――彼への想いが抑え切れなくなる。 (トラッド……) 伴って、心の中で無意識に名前を呼んだ後。 (…………好き) リノはすっと目を閉じて、彼に気持ちを委ね――かけたのだが。 (えっ?) 刹那、前触れもなく。彼の身体がベッドへと沈み、温もりが遠ざかっていった。 思わず熱を帯びた吐息を落とし、真っ赤な顔のリノはぺたんと床に座り込む。 「ト……トラッド?」 そして、戸惑った表情で理由を尋ねようと試みたのだが。 「…………」 直後、耳に入ってきたのは寝息。しかも穏やかで、紛れもなく熟睡している者の音色だ。 そこで彼女は、やっと気づく。 「トラッドの……」 彼が寝惚けていたか。 またはリノの口に残る薬を求めたから、という可能性に。 どちらにせよ、トラッドが目覚めた事に変わりはないのだが、 「……バカ」 決心の鈍ってしまった事を怒るのも、無理はなかった。 だが、やがて静かに立ち上がったリノは、 (トラッド……) そのまま起こさないように歩み寄った後。 「……おかえり」 と呟き、今度は自分から彼の額に。 ――キスを、した。 次の話へ
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