第87話 「死せる者は土へ。生きる者は――」


 吹雪が止み。暗雲が去り。後に残されるは、透き通った蒼と点在する白。おまけに陽光も、木々たちの間隙を縫っては降り注いでくる。旅立つには文句のない快晴だ。
 そんな青空の下、幾分視界も良い樹海を歩くリノとティルクはというと。
「……うん、大丈夫」
 基本的には南へ進み。時折立ち止まっては、注意深く周囲を見渡していた。
 いくら方位磁石があっても、確認を怠るわけにはいかない。
 世界樹の目印であるらしい――四つの岩山を。

 この目印について確信に至ったのは、つい今朝方のこと。
 夢か幻か。それとも、紛う事のない現実だったのか。
 昨夜聞いたハルカの"言葉"が引っ掛かっていたリノは、それとなくノムルスに尋ねてみたのである。すると彼は、束の間考え込んだものの、同意した。
 それも記憶を覆っていた靄が晴れたかのような、清々しくも無骨な笑顔で。
 ならば、きっと間違いではない。
 付け加えれば、他に手掛かりもない――と考えた二人は。

 樹海の中からでも容易く視認できる岩山を頼りに、出発したのである。

 そうして、約二時間後。
「でも、本当に不思議な話だね」
「うん……正直、まだ信じられない」
 まだ昇っている途上の太陽を揃って仰ぎ見る二人の間に、少し弾んだ声が飛び交う。言葉通りの疑問は覚えていても、手掛かりが見つかった事の方が嬉しいようだ。
「……ねぇ、リノちゃん」
 しかし、唐突に。
「なに?」
「もしかしたら、だけど」
 真剣味を帯びた表情で、彼は告げた。
「ハルカちゃんは、リノちゃんが心配だったから黙ってたのかもね」
「どうして?」
「あの吹雪じゃ、外に出ても岩山は見えなかっただろうし……それに」
「それに?」
 尚もきょとんとする少女に対し、彼が続けた言葉は、
「リノちゃん……酷く疲れてたから、ね」
 やはり推測だった。当然、根拠などない。
 だが、何故か信じられる気もした。
「……お礼」
「ん?」
 理由は簡単だ。
「お礼、ちゃんと言えなかったなぁ、って思って」
 昨夜に起こった何もかもが確証もなく、説明のできない現象だとしても。
「大丈夫……多分、伝わってるよ」
「そうかな?」
「うん。だって、あんなに一緒だったのに……伝わってない方がおかしくない?」
「……だといいな」
 全てが全て、希望の標へと繋がったのだから。
 加えて、もう一つ。
 今の言葉を紡いだのは、ティルク。
 自分の事を女の子として"好き"と言ってくれた、唯一の人。
(気持ちには応えられない、けど)
 それでも――いや、だから、かもしれない。
 リノは信じたい、と思った。
 いつもと変わらぬ彼の手前では、口にできなかったが。


 背中に見える岩山が遠く霞みだし。
 東西に見える岩山が平行に近づき。
 正面に見える岩山が、留まる事を知らずに存在を主張し続ける頃。
「……ところでリノちゃん」
 黙々と足を動かしていたティルクが、不意に彼女を呼び止めた。
 自分が気づかないだけで、いつの間にか眼前の風景に変化が――即ち、世界樹の片鱗が現れていたのだろうか。と、リノは一瞬考えた。
 しかし、それにしては音色が浮かない。微かにだが、澱んでいる。
「……どうかした?」
 彼女はひとまず逸る心を抑え、なるべく平静に応える――が。
「うん。実はずっと聞こうと思ってたんだけど……」
 剣呑な深海色の瞳を向けるティルクの言葉は、
「トラッド君には、いつ気持ちを伝えるつもりなの?」
 推測、思考、想像などが一切役に立たない、核心を突く問いだった。
「……え?」
「聞こえなかったなら、もう一度言うけど――」
「い、いや! き、きこえた……けど……」
「じゃあ、答えは?」
 リノは慌てて遮るが、質問に対しては成す術がない。
 代わりにあるのは、不意打ちを受けた惑いと、文字の連結も覚束ない思考。そして、緩やかに帯びゆく――熱。
 一緒にいたい。許されるなら、ずっと。
 確かにそう思ってはいたものの、今まで考えた事がなかったのである。
 銀髪の彼に、たった一言。

 ――好き――

 と、伝えるなんて。
 彼女にとっては夢や願にすら成り得ない"想い"だった。

「……あの」
「なに?」
「こ、こたえなきゃ、ダメ?」
「うーん……できれば聞きたいかな」
 口調こそ柔らかいが、ティルクに引き下がる雰囲気はない。むしろ、使命感にも似た強い意志が窺える。
「い、いまは……まだ、言えない」
 だが、上気した顔を隠すように伏せていたリノは、か細い声で紡いだ。
「今は?」
 更には、こくり、と首肯。
 普段と異なる少女の様子に、彼は少し驚く。もっとも、表情には出さないが。
「前までは、ずっと黙っていよう、って……そう、思ってた。ティルクさんも知ってる通り、私の身体は……他のヒトとは違う、から」
「…………」
「でも……ティルクさんが教えてくれた」
「……何を?」
 そこでリノは、はっきりと彼を見据えて呟く。
「そんなの関係ない、って」
 真っ赤な笑顔で。
 ゆえにティルクは悟った。

 長く、永く。アリアハンの丘で"独りっきり"を過ごしてきた彼女は。
 出会った"彼"に恋心を抱いて。
 再会した"彼"の恋心を受けて――現在いま

 やっと自身の気持ちと、本当に向き合えるようになったのだ、と。

「……じゃあ、どうして"今"は言えないの?」
 胸中を明かせば、辛い。例え自ら呼び込んだ状況といっても、だ。
 しかし、それは彼女も同じ――いや、性格を含めればそれ以上に違いない。
 にも拘わらず、心を綴る、という事は。
 不器用な少女の、不器用な感謝の示し方かもしれない。
 ゆえに彼も、応えたい、と思えたのである。
「……怖いから」
 会話は尚も続く。
「怖い、って……?」
 彼への想いが実らない事が、だろうか。
 一瞬、言い方を選ぼうとしたティルクの眉根が寄る。
「ううん……身体の、こと」
 が、察したリノは首を横に振りながら呟き、
「さっきはああ言ったけど、……やっぱりまだ、怖い」
 おずおずと説明を添える――が、間髪入れずにこうも言った。
「でも……旅が終わったら、ちゃんと伝えたい」
「え?」
「バラモスを倒せたら……少しは自信が持てるかもしれない、から」
 孤独と共に歩んだ歳月は、決して短くはなく。また、簡単に癒せる"傷"でもないはずなのに、彼女は前へ進もうとしていた。少しずつではあるが、着実に。
 それが誰の影響であるかなど――考えるまでもない。
(やっぱり……敵わないな)
 自分にできなかった事をやってのけた"銀髪の彼"だ。
 とはいえ、こんな本音に意味はない、とあくまで冷静を装うティルクは、
「……安心した」
 代わりに"もう一つ"の本心を、穏やかに告白した――直後。
「えっ?」
 今まで意図の見えなかった始まりの問いが。
「身体のことを気にして言わないかもしれない、って思ってたからね」
 今正に意図の読めなかった終わりの答えと。
「もし、本当にそうだったら……怒るつもりだった」
 交錯した。
 一体彼はどこまで見抜いているのだろうか、と彼女は呆然と自失する。
「ティルク、さん」
「見てれば分かるよ」
 しかし、表面上は普段と全く変わりがない。
「あの――」
「それよりも長話が過ぎたね」
 どころか飄々と軽い口調で成すべき事を優先し、リノの声をことごとく閉ざす。記憶に新しい"昨夜"を再現するかのように。
「少し先を急ごっか」
「……うん」
 こうなっては、もう何も伝えられない。言葉だけでは足りない、感謝の気持ちすらも。
 ほんの少し差し込む陰を俯き隠し、こくんと頷くのが精一杯だ。
 けれど時間が経てば、いつかきっと届けられる――と、リノが右拳を固く握り締めた刹那。
「……え?」
 二つの黒と深海色に映る風景が、鮮烈な"緑"に埋め尽くされた。
 いや、違う。
 発生の過程や色合いが馴染みあるモノと異なっているが、これは紛れもなく"光"と呼ばれるモノだ。だが、前触れも脈絡もないはずなのに、目の灼ける感覚がない。付け加えれば、不意な世界の変質に伴う恐怖すら、微かたりとも存在していなかった。
 更には、中心。創造を連想させる光源らしき場所に。
 一層色濃く、瑞々しい"深緑"が落ちた瞬間――始まった。

 種が芽を出し。
 芽が木と成り。
 木から枝が分かれ。
 枝から葉が息づき。

 一本の樹が根付く。

 そんな膨大な歳月を要する"成長"が始まり――既に終わっていた。
 果たして、一瞬だったのか。
 もしくは、永遠だったのか。
 どちらかは分からない。解らないが、確かにあった。
 何もかもと密接に関わる時の概念を、別の"法則ことわり"へと昇華させ。
 リノとティルクの眼前に、疑いようもなく存在した。
 高貴なる光輝。
 真正なる神聖。
 それら全てを兼ね備え、静謐で纏め上げる"樹"が現れた、かと思えば。
 ひらひらりと、無色の中空を舞い降りた。
 ふわふわりと、少女の掌で、舞い踊った。

 先刻、光と名づけられた"いのち"を携えし"葉"が。

 しかし、世界は瞬く間に――消失する。
 正確には"元の場所に帰ってきた"と言うべきか。ささやかに移ろいざわめき、今も周囲を取り巻く樹海が何よりの証拠である。
 ただ一つ。変化があるとすれば。
「これが……」
 リノの掌に残る、幽かにざらついた感触と。
「……うん」
 不可思議な深緑の光沢が同居した、三つ叉の葉っぱのみ。
 これこそが訝しむまでもない、唯一無二の神秘――世界樹の葉。
「なるほど……」
「え?」
 一方、ティルクは小さな声で呟いたが、
「……ううん。それよりも早く帰ろう」
 リノの疑問符には答えず、何食わぬ顔でキメラの翼を取り出した。
(そういうこと、か)
 が、額に青い宝玉を当て、ダーマの風景を思い浮かべつつも考える。
 世界の始まりと共に芽吹いた大木――"世界樹"について。

 何故、蘇生を望む者が手に入れなくてはならないのか。
 何故、調合も処方も自らが行わなくてはならないのか。
 何故、一人の生涯に一枚だけしか許されていないのか。

 そもそも、どうして――"世界樹"は枯れないのか。

 三つ目まではともかく、四つ目は今気になったばかりだ。つまり、根本ではあるが取るに足らない程度の疑問だった、という事。
 だが、ティルクは根拠もないままに納得した。
(枯れるも何も現実に存在していない……それに――)
 先ほど、自分と彼女が圧倒された世界。
 人である限り、見届ける事が叶わない"成長"の過程。
 あんな時が。あれほど生命の脈動が充ち満ちている刻など。
 たった一度ですら奇跡に等しい瞬間を、二度も目の当たりにできるはずがない。
 ティルクは軽く瞼を擦り、キメラの翼を上空へ放り投げた。



 外壁を夕暮れ色に染める、ダーマ。
 帰ってきたばかりでも労いもなく、また帰ってきた方もそれを望まず。
 リノは薬の調合を、アーニーは書物片手に指示と。双方とも緊張に声を強張らせながらも、それぞれの役目を果たそうとしている。
 そして、ナギサとラザ、ティルクは同じ部屋で二つの背中を見つめていた。
 邪魔にならないため退室しようとしたところを、リノに引き止められたのである。

 もし、よければ――自分を見守っていて欲しい、と。

 だから、三人はここにいる。
 一言も喋らず。動きも抑え。息さえも殺し。
 優しく穏やかに――少女を見守っていた。


 やがて、世界に夜が降り始めた頃。
「これで完成、ですね」
 安堵を織り交ぜた音色で、アーニーが告げる。
「かんせい……?」
 対して、リノは呆然と繰り返した後、
「……ありがとう、ございます」
 感謝の言葉を紡ぎつつ、コップに入った液体を見た。
 世界樹の薬。
 それは、葉と同じ深緑を保ちながらも向こう側が見通せる、不思議な色彩だった。伴う香りも、木々たちが仄かに漂わせるもの。
 純粋で純真で、純度の高い純然たる液体。
 深緑でありながら透明感があるという矛盾など、この神々しさの前では些末事に過ぎなかった。
「できたの!?」
 二人の様子を見たナギサが真っ先に詰め寄り、ラザとティルクも続く。
 声を受けたアーニーも、一旦は頷いたものの、
「た、ただ……その……」
 すぐにさっと表情を曇らせ、更には両頬を淡く上気させた。
「どうかしたの?」
 当然、ナギサはきょとんとなり、理由を尋ねようとする――が。
「……飲ませてくる!」
「え? あ、あの……!」
 それよりも早く部屋を出て、リノは"彼"の元へと駆け出してしまった。
 会話を気に止めるどころか聞こえてすらいない。という慌ただしい彼女に、四人は思わず顔を見合わせる。
「……薬は完成したんでしょ?」
 その沈黙を破ったのは、ナギサ。
「う、うん」
「何か問題でもあるの?」
「えっと……問題というか問題じゃないというか……薬に問題はないんだけど……その」
「……そういうことね」
「え?」
 だが、しどろもどろなアーニーの答えを待つ間に、気づく。
「大丈夫よ。リノちゃんも分かってるだろうし」
「でも――」
「そりゃあ、少しは躊躇うかもしれないけど……やっぱり、大丈夫よ」
「そう……なのかな?」
 ところで自然と聞き耳を立てる形になった、ラザとティルクはといえば。
「何の話かな?」
「さぁな……悪い方向には進んでいないと思うが」
 揃って眉をひそめつつ、首を傾げていた。
 話はまだ続く。
「むしろ、逆に嬉しいんじゃない?」
「逆って?」
「ほら、リノちゃんも年頃の女の子なんだから」
「えっと……そういうものなんだ?」
「……アーニーにはまだ早いのね」
 しかし、ナギサは予期せぬ答えに呆れつつ、ふと何を思いついたのか。
「……まぁ、その代わり」
「その代わり?」
 唐突にハリセンで、一度だけ軽く空を斬った直後、
「アイツが元気になったら、思いっきり叩く必要があるけどね」
 愛らしさと恐ろしさが同居した不敵な笑みで、さも楽しげに呟いた。


 それから程なくして、リノは辿り着いた。
 寝息もなく眠り続ける"彼"が待つ、あの部屋へと。
 顔を見た途端、比較的落ち着いていた呼吸が乱れ始める。
「トラッド……」
 続けて名前を呼ぶと、とくん、と心音が強くこだまする。
 今からする事を思い、また彼の事を想い、少女は動揺していた。
 ナギサの言う通り、彼女は理解していたのである。
 しかし、リノは首を横に振って躊躇いを打ち消し、そっと彼の頬へ触れる。するとアストロンの効果は既に解けており、冷たくなりつつある温もりが伝わってきた。正しく、間一髪だったらしい。
「……トラッド」
 そこで彼女は再び名前を呼んだ後、世界樹の薬を口に含むと。
(帰って、きて)
 ひとひらの想いを乗せて――――唇を重ね合わせた。



 後ろに括られた長い銀髪を、携え。油断も隙もないトパーズの両眼で見据え。
 幾分、険しい表情を浮かべる。
 父さん、と彼が胸中で呟いた先に立っていたのは、そんな男だった。
 年齢だけを除けば、二人は似ていた。
 形は異なれど、同じ色の髪と瞳。
 粉雪には若干及ばない、肌の白。
 細かな仕草や、何気ない歩き方。
 彼からすれば"男"は未来の自分のようで。
 男からすれば"彼"は過去の自分のようで。
 二人はよく――本当によく似ていた。
 ただし、一つ決定的な差違がある。
 それは、視線。言い換えれば、心情の表れ。
 彼はトパーズを潤ませ、今にも駆け寄りそうだったが。
 男はトパーズを鋭くし、まるで拒んでいるようだった。

 父さん。

 気づかない彼は声なき声を内に響かせ、右足を一歩踏み出す。
 しかし、返ってきた音色は。
「……来るな」
 寒暖のない世界ですら底冷えが鳴る声だった。
「こっちに来るなよ」

 どうして。

 彼は思わず問い返すが、やはり声は届かない。
「お前はまだ、違うだろ」
 だが、男は的確に思考を見抜き、尚も言葉を重ねる。
「……お前は道に迷っただけだ。まだ"此処"に来る時じゃないんだよ」

 どうして……そんなこと、言うんだよ。

 ほんの少し、景色が揺らいだ。

 俺はずっと父さんに会いたくて……名前まで騙って、旅をして。
 いつかそのことを怒りにくるんじゃないか、って。
 それが、ずっと怖くて。

 ずっと――楽しみにしてた、のに。

 想いはことばにしなければ届かない。
 なのに、声が紡げない。
 数え切れないほどの伝えたい事が、何一つとして伝えられない。
「ったく……なに泣きそうな顔してんだ」
 しかし、男は粗野な動きで背中を向け、舌打ちをする。
「せっかく"此処"から遠ざけようとしてるってのに……」
 更に、ぷつぷつりと。
「何でお前は……そんな顔するんだよ」
 明かすつもりのなかった心の断片を。
「……別れづらく、なるだろ」
 儚げに繋げる。全ては解らなくとも、根源は理解したのだろう。
 気づけばこの時。四つのトパーズが捉える風景は、既に揺らぎを超えていた。
「なぁ……知ってるか?」
 だが、再び向き直った男は、まるで何事もなかったかのように唇を割り。
「死んだ人間ってのは土に還るもんだが、生きてる人間ってのはな……」
 それは同時に。突然、視界が白に染め上げられた彼にとって。

「同じ"人"に帰るんだよ」

 父親から聞いた、最期の言葉となった。


 そして――変わる。


(……え?)
 うっすらと開いたトパーズに映る世界が、変わった。
 代わりに今、眼前にあるのは。
 銀色の草原でも、トパーズの空でも。ましてや、懐かしい面影でもない。
 黒い瞳から大粒の涙を零す――黒い髪の少女。
 彼女が誰なのかなど、記憶を辿らなくても分かる。
(リノ……)
 自分の好きな人、だ。
 しかし、声も音も何一つとして、聞こえない。
 どうして彼女が泣いているのか尋ねようにも、口を開く事さえできない。
(……ああ、そうか)
 だから、彼は思った。

 あの境界線が曖昧然とした世界も。
 二度と叶わないはずだった再会も。
 何も紡げず、何も聞こえない事も。
 目の前に大好きな彼女がいる事も。

 ありとあらゆる何もかもが、最期に見る夢。

 そう――ゆめだ、と。

 にも拘わらず、彼女は泣いている。
 いつでもどこでも笑っていて欲しいのに、透明な雫を流し続けている。
 だが、もう遅い。自分にできる事は何も、ない。
 ゆえに、彼は思った。
 これが最後の最期に見る夢ならば。
 せめて夢の中だけでも、行動で伝えよう、と。

 彼は何故身体が動くのかは疑問を覚えずに、右腕を伸ばし。
「……え?」
 優しく丁寧な所作で、頭を引き寄せて。
「ト――……ん……っ!?」
 夢の中の彼女が何かを呟くよりも早く。


 唇を――重ねた。


 柔らかく、温かく。不思議と薬の苦みがある。
 けれど、全てが全て愛おしい――彼女の感触。
 言葉と行為の順序が逆、という罪悪感もあったが、
(……リノ)
 彼は一心に、彼女への想いを伝えようとした。


 一方、リノはというと。
(トラッドが……すごく近くに、いる)
 一瞬何が起こったのか分からず、ただ事実を繰り返していた。
 しかし、徐々に時が流れ。
(わ、わたし……いまなにしてるんだろ……?)
 冷静さを取り戻していく途中で。
(………………えっ!?)
 ようやく理解する。


 大好きな彼と自分は唇を重ねている、と。


 瞬間、ぼっ、と顔が熱くなった。
(で、でも……ダメ、だよ……)
 が、間髪入れず。彼女の脳裏に、ティルクに告げたばかりの言葉がよぎる。
(旅が終わったら、って決めたのに……こんな、こと)
 即ち、自らに立てた誓いを。
 今はまだ、破るだけの"勇気"がないのだ。
 しかし、彼の温もりが唇を通して伝わってくるにつれ、思考が漂白していき――彼への想いが抑え切れなくなる。
(トラッド……)
 伴って、心の中で無意識に名前を呼んだ後。
(…………好き)
 リノはすっと目を閉じて、彼に気持ちを委ね――かけたのだが。
(えっ?)
 刹那、前触れもなく。彼の身体がベッドへと沈み、温もりが遠ざかっていった。
 思わず熱を帯びた吐息を落とし、真っ赤な顔のリノはぺたんと床に座り込む。
「ト……トラッド?」
 そして、戸惑った表情で理由を尋ねようと試みたのだが。
「…………」
 直後、耳に入ってきたのは寝息。しかも穏やかで、紛れもなく熟睡している者の音色だ。
 そこで彼女は、やっと気づく。
「トラッドの……」
 彼が寝惚けていたか。
 またはリノの口に残る薬を求めたから、という可能性に。
 どちらにせよ、トラッドが目覚めた事に変わりはないのだが、
「……バカ」
 決心の鈍ってしまった事を怒るのも、無理はなかった。
 だが、やがて静かに立ち上がったリノは、
(トラッド……)
 そのまま起こさないように歩み寄った後。
「……おかえり」
 と呟き、今度は自分から彼の額に。


 ――キスを、した。



次の話へ

目次へ