第88話 「再会であい


 深き眠りに就いていたとある青年の目覚めより、少し時は遡る。

 具体的に言えば、とある国の王がとある二人に勅命を下した――翌日。
 言い換えれば、とある国の王がとある人物から報告を受けた――当日。
 要約すれば、一週間には満たないほんの数日前。

 正確な時間を表せば、ちょうど昼を過ぎた午後のこと。

 とある国の王へ報告を終えたとある人物――"彼"はポルトガの地を踏んでいた。
 明確には、待っていた。
 潮風と喧騒が尽き途絶える事の少ない港で、とある一隻の船を。
 特に珍しい風景というわけでも、ない。
 ポルトガの代名詞とも評すべき港で待つモノと言えば、やはり船である。詳細を語れば、人や荷物の可能性もなくはない。
 だが、それらを乗せて運ぶのは船に他ならない。そういった意味においては、港で待つモノはやはり船以外に存在しない。逆にそういった意味で考えなければ、者や物など待つモノの選択肢は増える――が、それはただそれだけのこと。
 根本の"何かを待つ"という状況には、何一つ影響を及ばさないのである。
 兎にも角にも、彼は待っていた。
 船に乗る人でも船に在る物でもなく、船そのものを。
 これも別段珍しい事では、ない。
 何故なら、彼は――船でしか行けない場所へ向かうため、船に乗ろうとしているのだから。

 時折、海原の香りを運ぶ潮風に茶色の髪をなびかせつつ。
 時折、遠慮のない陽光に猛禽類めいた黒瞳こくどうを細めつつ。
 暇を持て余せば、港を行き交う人波を観察し。
 心を持て余せば、寄せては返す小波を傍観し――やがて船が到着すると、彼は悠然とした足取りで乗り込んだ。
 さて、実のところ。
 ポルトガ、ロマリアなどで悪名を轟かす彼は、本来なら気軽に船へ乗れる立場ではない――が、それでも問題はなかった。
 何故なら、名と姿は広く識られていようとも、顔は全く知られていないからである。
 確かに居合わせた乗客や船乗りたちは、何気なく彼を注視してはいる。しかし、それは服装によるもの。黒一色とは珍しい、といった節の――言うなれば純然たる好奇の視線だった。
 もう一つ付け加えると、彼の態度があまりに堂々としているからだろう。
 顔を知られず。あからさまな不審は表さず。要は素顔で飄々としていれば、まず気づかれる事はない。過去の経験から彼は、それをよく知っていたのだ。
 ゆえに、他の乗客たちは十人十色の嬉々とした表情で船に歩を、船乗りたちは着々と賑やかに準備を進め――数刻を経た後。
 彼を乗せた船は、何食わぬ顔で出航するのであった。

 ちなみに。
 "彼"の名と姿が広く知られるようになった原因は金品強奪で、それは紛れもない事実だった。
 つまり、何も知らない船乗りたちは図らずも危険人物を乗せてしまった事になる。
 だが、実際に問題はなく。むしろ、必然とも呼べる平穏だけがあった。
 当然だ――肝心の本人にその気がないのだから、問題など起こり得るはずがない。そもそも彼は金銭的価値ではなく、稀少的価値で獲物を決める性質だ。よって下される罪状も、正確さを求めるなら"珍品強奪"と名付けるべきなのである。
 ともあれ――そして、どころか。
 彼は自ら船乗りたちの手伝いを申し出てもいた――何故か?
 一見すれば、万が一の可能性を考慮しての偽善的行為、と受け取れなくもない。しかし、内実は至って明瞭で、おまけに明快でもあった。
 その理由とは。
 暇の潰しようがない。
 身体が鈍ってしまう。
 船賃を安くして貰える。
 この三つのみ。
 まるで悪意のない理由ばかりで、彼の名を識る者が聞けば驚くかもしれない。
 だが、彼自身を――無益な窃盗と殺生を好まない、という本質を知る者ならば、さほど驚く事でもない。
 此処は戦場ではなく、船上。言うなれば、長々と海を徘徊する牢獄のような場所だ。そんな場所での窃盗には否応なく殺生が、気絶させるだけにしても監視という労力が憑き纏う。
 何よりも彼の興味を惹くような珍品もなければ、無駄に旅路を滞らせるだけの意味もない。
 この旅には目的が――そう、一応は目的があるのだから。
 よって、結局のところ。
 帆船は沈没の気配もなく、海上に浮上し続け。
 危機は浮上の気配もなく、水底に沈没し続け。
 要するに日々は、平穏無事の順風満帆という言葉が相応しい様相で、ただただ流れ去っていった。


 そんなこんなで目的地に到着したのは、ほぼ百六十八時間後のこと。
 分かり易く言えば、一週間後の昼。


 しかし、彼が船旅の疲れを癒すべく宿に入ったのは夕方頃。積み荷運びを手伝っていたためだ。
 当初、船乗りたちも彼の申し出を断った。助かるのは事実でも一応は客人だから、という本音は混じりつつも真っ当な理由で。
 にも拘わらず彼は、
『なに、これもついでだ』
 と理由にもなっていない理由で、労働力の提供を強行したのである。
 何処であっても早々お目にかかれない積み荷の量を目の当たりにし、手伝わなければ、と使命感を覚えた――はずもなく、本当に"ついで"のつもりでしかなかった――かのように見える態度だったが、実は違う。そこには思惑が秘められていた。
 もっとも、思惑と呼ぶにはさほど邪な他意でもなかったが――兎にも角にも、彼の狙いとは"町を知ること"にある。
 何せ予備知識を全くと言って良いほど持ち合わせておらず、識っている事と言えば。
 出来たばかりの町。
 発展が絶え間なく、発展の跡が頻繁に窺える。
 顔見知りの人物が創始者の一人である。
 精々この三つぐらいだ。しかも最後の一つ以外は、噂を聞いた人物の噂なので信憑性は今一つ薄い。
 付け加えると、顔見知りの人物と再会を懐かしむつもりもないため、町を識るには自らの足で情報を稼ぐ必要があった。
 更に、好都合な事に――船には多数の商人が乗り合わせていた。
 等号つまり、積み荷運びを手伝えば店へ容易に侵入できる、ということ。
 かといって、おろし立てにすら満たない品の数々を盗む下調べ、ではなく。それでも敢えて"盗む"という表現に拘るのなら、この場合の獲物は"情報"――即ち、効率的な盗み聞きが彼の目論見だった。
 酒場を始めとして店には人が集まる。集まった人々は言葉を交わす。交わされた言葉は、やがて他の誰かにも届く。
 そんな繰り返しが構築をもたらしては崩壊し、再構築されては再崩壊に至り――結果、高い純度と密度を兼ね備えた情報共有の場が形成される。
 中には他愛もない世間話も多いが、町で話を聞くよりは有益な情報が少なくはない、と判断したからこそ、彼はこの方法を選んだ。
 とはいえ、何故"識る"必要があるのか。もしくは、その必要性に迫られているのか。
 それは彼自身も、未だに訝しく思っていた。

 そうして宵闇が町を去り、ちらほらと星が瞬き始めた頃。

「……ふむ」
 野菜類が少なく肉に偏った食事を早々に終えた彼は、盗み聞いた情報を淡々と無言で吟味していた。
 ただし、表情は芳しくない。ただでさえ強面の顔が、より強張ってしまうほどに。
 が、無理もない。不穏な内容が多かったためである。
 ある意味では、予想通りでもあった。町へ入った直後、活気に比例しない軋んだ印象を受けたのだから。
 しかし、彼は初めて訪れた町特有の錯覚だろう、と判断した。
 根拠こそないものの、噛み合わなかったのだ。
 創始者の一人。顔見知りの人物。
 突き詰めて言えば、こちらが一方的に顔を知っているだけにしか過ぎない――"少女"。
 確かに彼女の人柄を理解しているわけでは、ない。
 わずか数十分。言葉を交わしたのは、ほんの数分に満たない数秒。その程度の邂逅で他者を理解できるはずも、ない。
 だが、それでも――引っ掛かる。
 放置された鋼鉄に付着する錆のような、そんな違和感が脈々と息づいていた。
 しかし、刹那。
「…………いや」
 右の中指と薬指で乾いた唇をなぞる彼は、はたと考えを改める。
(根拠はある、か)
 やはりそぐわない。
 あの少女が創始者の一人であるなら他の創始者も悪い人間とは思えない、と確信が芽吹く。
 伴って、そこに至る根本的理由――彼女と旅をしていた仲間たちの事を脳裏で描き浮かべながら、
(……確かめてみるか)
 盗み聞いた話から"真実に一番近い"と推測した場所へ向けて、彼は部屋を後にした。


 程なくして行き着いた場所とは。
 民家よりも小さな立方体の、素っ気ない石造りの小屋。色は黒ずんだ灰色。一見すると倉庫のようだが、それにしてはあまりに寒々しく、合わせて空々しい。そして、中は堅牢強固な鉄格子と底冷えの鳴る空気が支配し、いかに多種多様であろうとも空以外は何も見通す事のできない閉鎖感の具現化された領域。

 すなわち――牢獄、だった。


 彼の耳にした話では、この牢獄には創始者の一人が閉じこめられているらしい。
 何故、一人だけなのか。そもそも何故、閉じこめられているのか。
 見張りがいない事も含めて、不明瞭な点は多々ある。
 だが、違和感の払拭に最も適した場所には変わりない。
 例え獄中の身であろうと、仮にも創始者。全ては知らなくとも、何かは知っているはずなのだ。
 加えて、彼はこうも考えていた。
 投獄された創始者の一人――まさか"彼女"のわけがない、と。
 これも根拠はなかったが、まだ幼い少女が牢に閉じこめられる、という現実は彼の常識になかったのである。
 ゆえに、気配と足音を殺し。
 時計回りの渦状で構成された道に従って、ゆっくり歩を進め。
 程なくして牢屋に辿り着き、念のため、と壁際から様子を窺った――瞬間。
 彼にしては珍しく、それも我を見失うほどに、驚愕が細胞中を余す事なく駆け巡っていった。
 何故なら、牢の中には。
 居る可能性を百と否定し、零と断定した人物。

 "彼女"が座り込んでいたのだから。

 酷い――本当に酷い有様だった。
 控え目に露出している肌という肌は、どこもかしこも灰をかぶったように煤け。
 健康的で、見るからに柔らかそうだった頬はすっかりこけ落ちており。
 暗がりでも分かるほど芳醇だった黒髪の艶は影も形もなく、何よりも黒瞳からは生気が損なわれ、虚ろに堕ち果てていた。
 当然、彼女の仲間が呟いていた『きっと美人になるのに』という将来の展望など、何処にも見当たらない。
(どういうことだ?)
 一体、何日閉じこめられているのだろうか――少なくとも一日二日の話ではない。
 一体、彼女が何の罪を犯したというのか――いや、それ自体もにわかに信じ難い。
(……考えるのは後だな)
 しかし、優先すべき事は別にある、とすぐさま我に返った彼は、
「よう、嬢ちゃん」
 普段なら絶対に出さないような、
「まぁ、何だ……久しぶり、というか奇遇だな」
 努めて明るい声色で、ガラにもなく励まそうと話しかけた――のだが。
「……え?」
 この時――正確には鉄格子の向こう側に居る彼女が茫然とした声を落とした瞬間。
 自身が忘れていた事実による最大の過ちに気づく。
 再会を懐かしむつもりはない、どころか再会にすらなりはしない。
 即ち――彼女は自分の"素顔"を知らない、という解りきっていた事実に。
 だが、それは些細な、気に病む必要すらない些末事だ。
 したがって、彼の思う過ちとは。
 彼女が自分と。
 この純粋な少女が、純粋とは程遠い自分の"正体"に気づき――

 ――ほんのわずかでも関わりを持ってしまう可能性がある、ということ。

 ゆえに再会を懐かしむつもりがなかった。
 彼女はきっと、彼がどのような存在であっても関わろうとする。
 推測の域こそまだ出ていないが、そんな予感は燻っていた。
 以前に見た別れ際の――彼を"悪人"だと思っていなさそうな屈託のない表情から、ひしひしと。
 本来なら関わるべき相手ではない、というのに。
 また、少女と共に旅した仲間の中には"彼女"がいる。
 鋭利で鋭敏な観察眼を持ち、怪しい言動やウサギ耳が印象深い"彼女"が、である。
 例え目前の少女が気づいていなくとも、あの時既に察していた節の彼女が何かしら良いように話している可能性は高い。
 だから再会を懐かしむつもりも――元より再会にすら至るつもりもなかったのだ。

 しかし、黒い髪と瞳の少女は。
「……あ、あの」
 此処を訪れるべきではなかったと胸中密かに後悔する彼と、小さな天窓から見える夜空とを忙しなく。また中空から虚空へと目まぐるしく視線を彷徨わせた後。
「だれ……です、か……?」
 相も変わらず呆然と。
「い、いや……どなたでした、っけ?」
 だが、彼にとっては幸運で。
「あ、いえいえ……どちらさま、でしょうか?」
 彼女にとっては幸か不幸か分からない言葉を返した。
「えっ、と……あ、あれ? あれ、あれ?」
 しかも気づいていないだけでなく、
「わ、わた、わたし……一度お取引した方の顔は忘れない……はず、なんですけど」
 誰か偉い人物と間違えてもいるようだ。
 彼女らしくはある。確かにらしくはある、が。
(この嬢ちゃんが取引……?)
 彼女に与えられた役割については、甚だ疑問が残る結果であった。
 もしかすると最善の選択かもしれない、とも微かに思ってはいたが。
(……っと)
 ともあれ、少しばかり間が空いたからか。
 はたまた、自分以上に動揺している少女の姿を見たからか。
 それとも、従来は澄んでいたであろう彼女の瞳が、わずかでも生気を取り戻していた事にガラにもなく安堵したからなのか。
 いずれにせよ、常の冷静さを思い出した彼は。
「あー……わりぃ」
「はい?」
「人違いだ。人違い」
「……ひとちがい、ですか?」
「知り合いによく似てたもんだから、間違えちまった」
「…………はぁ」
「ああ……すまねぇな、嬢ちゃん」
 事も無げに嘘を吐き、何食わぬ顔で初対面を装った。
「いえ――でも」
 一方、視線を不審に彷徨わせる事は止めた彼女だったが、
「……人違い、ですか」
 訝しげな表情は尚も崩れる兆しがない。此処を訪れる前の彼が感じたモノと似ているように、何かが引っ掛かったのかもしれない。
 もしくは嘘に気づいたのだろうか――嘘であるがゆえに。
 しかし、ぽつぽつりと唇を割った少女が呟いた言葉は、
「えっと……お兄さんの知り合いさんは、こんな場所に縁がある方なんですか?」
 至極真っ当なようで、的外れな問いかけだった。
 少なくとも、今の特異な状況下や特別な条件下で問う内容ではない特殊な疑問である。
「……いや」
 対して彼は、感情を消したつもりで首を横へ振った後。
(正直、今でも信じられねぇよ)「よく考えてみりゃ、有り得ねぇな」
 器用に本音を隠しつつも、何処か不器用な面持ちで返答した。
「……で、だ」
「なんでしょうか?」
 そして、彼は切り出す。
「嬢ちゃんはどうしてこんなところにいるんだ?」
 今でも信じられない、と評した光景を生み出す、そもそもの原因を聞き出すために。
「…………」
 だが、一瞬だけ俯いた後、穏やかに微笑んで見せた少女の答えは。

「私が――……わたしが"悪いこと"をしたから、です」

 より一層信じ難く、同時に求めても聞きたくもない"一方的な事実"だった。


 商人のたまご。年齢は十五――と、彼女は話し始めた。
 他にも、数字を数えるのが苦手な事や自分で作った服を着ている事、以前は素敵な人たちと共に旅をしていた事。果ては、見張りがいない理由――自分は絶対に逃げ出さないと必死で訴えた結果らしい――まで。
 こんな怪しい場所で出会った、妖しい事この上ない初対面の相手であっても。
 微塵も警戒心を抱こうともせずに、心の底から嬉しそうな顔で。しかも頻繁に声を弾ませては、身振り手振りまで交えて。
 少女は自身についてを語った。自己紹介のつもり、かもしれない。
 一方、彼はというと。
 自分の事こそ明かさなかったが、会話の合間合間に適度で適切な相槌を打ち。無表情ではあるものの、彼女が元気になってきた事を喜ばしく思ってはいた――のだが。
 時折、隙を見つけては投げかける問い。
「で――嬢ちゃんはどんな"悪いこと"をしたんだ?」
 唯一、この点に関してだけは、
「悪いことは悪いこと、ですよ」
 明確な答えが返ってこない事に苛立ちを募らせていた。ちなみに四度目である。
 しかし、彼があまりにもしつこく尋ねてくるからだろうか。
「……どうして」
「ん?」
「どうしてそんなに気にして下さるんですか?」
 彼女は初めて、これまでとは異なる反応を見せた。
(どうして、か)
 そこで彼は、束の間だけ返答に詰まる。
(どうして……だろうな)
 正確には戸惑っていた。
 彼女の言う通り、本来なら気にする必要も、気になる理由も皆無――そう、絶無のはず、だった。
 にも拘わらず、現に知りたいと思い、彼女の罪を曝こうと躍起になっている自分がいた。
 加えて、知った上で可能ならば――と"何か"が閃きかけた矢先。
(それこそ……信じられねぇよ)
 眉間に皺を寄せた彼は、それを真っ先に否定し、
「別に……少しばかり興味が沸いただけだ」
 まるで答えになっていない、漠然とした言葉を呟いた。
「じゃあ、どうして興味が沸いたんですか?」
 対して彼女は、矛盾を指摘するように繰り返す。当然のごとく不思議に思い、不可解を覚えたからだろう。
 しかし、早くも平静状態にあった彼の答えは――決まっている。
 町へ入った時。噂話を盗み聞いた時。そして、現在の状況、と。
「嬢ちゃんが"悪いこと"をするようには見えねぇからだよ」
 違和感を覚えた始まり全てが、来訪に繋がる全てのキッカケなのだから。
「そうは見えない、ですか」
「ああ」
「そんなの……分かるんですか?」
「大体はな」
 だが、それでも彼女は。
「……ありがとうございます。そう言って頂けるのは、凄く嬉しいです――……でも」
 見るからに心優しそうな黒髪の少女は、儚く首を横へ振った後、
「でも、私に関しては間違ってます」
 天窓の向こう側に広がる空を仰ぎ見ながら、尚も続ける。
「私は罪を犯したからこそ此処に入るよう言われました」
 その音色は、疑いようもなく震えていた。
「それに私自身も納得して、罪を償うために此処にいます」
 だが、二つの黒瞳は紛れもなく揺らいでいなかった。
「本当に簡単な……ただそれだけの話、なんです」
 自分は正しい事をしている。罪を犯してしまったからこそ、罪を償おうとしている。
 ただ、それだけの――それだけに過ぎない、こと。
 それは言葉だけでもなければ、迷いも曇りもない確固たる決意が秘められた瞳さえもそう語っているかのようで。同時に信じ切った者のみが宿す純粋な光を、彼女は携えていた。
 彼としては確かに納得できない。今回に限っては信じたくもない言葉ではある――が。
 そんな真っ直ぐな眼差しを前に何を紡げばいいのかも分からない。
「……そうかよ」
 結局、彼は吐き捨てるように呟き、渋々と真実の探求を諦めた。
 今。現在。この時だけは――そう思いながらも。



 そうして、彼の追求が止んだからかもしれない。
 彼女は途切れていた話を、しばしの沈黙を経た後で生き生きと再開させた。
 内容は主に町作りについて。
 相応にして膨大な苦労もあるはずなのだが、それよりも楽しかった思い出が大半以上を占めていた。正確には、苦労すらも楽しげに話している、と言うべきか。要するに、彼女にとっては何もかもが良き思い出のようで、それは零れっぱなしの眩しい笑顔からも明らかだった。
 付け加えると、彼女は先刻よりも随分と元気を取り戻していた。
 もちろん、他愛もない会話に人恋しさが紛れたせいでもあるだろう。
 だが、それ以上に。
 自身が関わった"町"の事を誰かに伝えられる、という喜びが音色の端々に滲んでいた。
 彼も良い事だと思った。
 例え話すべき相手として自分は相応しくないと知りながらも、こうして言葉かたちにする事で少女が元気になるのなら、それは良い事だ――と信じていた。
 ただ、耳を傾けながらも思う。
 会話を楽しんでいるのが事実で、元気を取り戻しているのが現実だとしても。
 罪に触れられたくない。
 内実を知られたくない。
 胸中でそう考えているのも真実ではないか、と思ってしまう。
 現に彼女は、話に区切りがつく度に言葉を探しては、わずかな空白を嫌うように地を撫でている。
 ざら、ざら。ざらざら、と。
 あれほど大仰だった身振り手振りも控えて、冷たく荒れた床に掌を彷徨わせている。
 錯覚や思い過ごしの類なのかもしれない。しかし、判別する手段がない。判別できなければ言葉を掛ける事も、ましてや選ぶ事も叶わない。
 それは自然なようであり、極めて不自然な状況だった。
 居心地の良い空間に居心地の悪さが同居している事も。また自分が何故、居心地の良さを感じているのかも含めて――何もかも。
 だが、存在すら不明瞭な思惑によって継ぎ接ぎだらけな有様の会話は、唐突に終幕を想起させる。
 うっすらと空が青みがかってきたのだ。
「さて、と」
 彼は若干目を細めはしたが、音もなく立ち上がる。現時点で回答のでない疑問に思案を巡らせる趣味はない、といった本音は表に出さず、あくまで平然と。
「じゃあな」
 そして、一応は別れの挨拶をぶっきらぼうに呟いた――直後。
「……あっ」
 ほんの少し。
 わずか数秒だけ緊張に表情を固くした少女は、
「……あ、あの!」
 ちょうど砂と砂が身を擦り合わせたような掠れ声で、初めて彼を呼び止めた。
「ん?」
「あ……あの」
「まだ何か用か?」
 そう。呼びかけは何処か必死だった。
「その……用、と言いますか」
「なんだよ?」
 にも拘わらず、後に続く言葉がはっきりしない。どころか、微塵も意図が伝わってこない。何となくだが珍しい、と彼は思った。
 だから、かもしれない。らしくなく、待ってしまう。
 迷いつつ惑いつつも、いずれは唇を別つであろう少女の言葉を待ち侘びてしまう。
 しかし、さして間も置かずに。
「……あ゛っ」
 身体の何処から絞り出されたのか分からない声と共に、きょとんとなった後。
「私、ヤヨイって言います……忘れてました」
 申し訳なさそうで恥ずかしそうに、別れの瀬戸際で名前を告げた。全く持って今更である。
 とはいえ、お互いさまでもあった。
「それで、えっと……」
 確かに彼は名乗るつもりなど毛頭なかったのだが、
「お兄さんは何てお名前ですか?」
 どう見積もっても若くはない自分を"お兄さん"と呼ぶ彼女の感性に、たった今疑問を覚えたのだから。ゆえにお互い様であり――つまりは揃いも揃って今更な二人であった。
 ともあれ、一つの咳払いで気を取り直した彼は、
「あ、ああ……俺は」
 彼女につられて名乗ろうとした――ものの、
「カ――」
 慌てて口を噤み、今度は二つ咳払いを落とす。
(っと……あぶねぇ)
 決して明かすつもりのない本名を、図らずも口走りかけたのだ。まさしく間一髪で留められたのは僥倖と言えるが、このまま黙っているわけにもいかず。せめて彼女が咳き込んだだけと勘違いしている内に、改めて名乗る必要がある。
 が、焦る暇もなく一秒後。咄嗟に脳裏を過ぎったのは、
「カ……カルロス、だ」
 つい最近――おそらくはポルトガ――耳にした記憶のある名前で、彼はその嘘偽を半ば反射的に事実として告げていた。
 伴って、不可解な痛みが体内で鈍く残響する。
 嘘を吐いたからだろうか。
 嘘など数え切れないほど吐いてきたというのに。
 もしくは嘘が見抜かれる刻を予感し、恐れてしまったからだろうか。
 その時は静かに――何も言わずに姿を消せば済む話だというのに。
 しかし、不鮮明に定まらない心境など知る由もないヤヨイは、
「あ、あの……カルロス、さん」
 不意に改まった口調と挙動で、ぽつり、呟く。

「また……また、お話に来て下さいます、か……?」

 それは一片も予想ができない、彼女らしからぬ"ワガママ"なようで。
 それは欠片も意図が読めない、ささやか過ぎる無垢な"願い"だった。

 彼は、知らない。
 返すべき返事も。
 答えるべき回答も。
 彼と向かい合う少女の事も。
 何も。
 何もかもを知らず。
 いつしか、彼女と向かい合う自分の事すらも解らなくなった――それゆえに。

 彼は。ひとまずはカルロスと名乗った男には、
「……気が向いたらな」
 そんなどっちつかずの言葉を残しつつも、足早に立ち去るのが精一杯で。
 自身の背後で少女が嬉々と顔を綻ばせている、などとは夢にも思っていなかった。



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