第89話 「再開わかれ


 ――結局のところ。

「すごく美人なんですよ、ナギサさんって」
 初対面という名の衣を纏った再会から、四日間。
「それにリノさんも凄く可愛いんですっ!」
 毎夜毎晩、彼は牢獄を訪れては、ヤヨイが楽しげに綴る旅の話に耳を傾けていた。
「ラザさんも優しくてかっこいいですし――」
 散歩のついで、寝つけない、近くに寄る用事があった、など。四日目に至っては、何となく、などと。納得し易いものから納得し難いものまで、とにかく理由を添えて。
 どれだけ言い繕っても、理由はたった一つしかないというのに、だ。
 付け加えると、彼は文字通り"耳を傾けている"だけなので、返事の殆どがぶっきらぼうな相槌である。
 ただし、例外もあった。
 彼は最初の邂逅以降は極めて冷静で、飾り気のない返事を基本としていたのだが。
「師匠も……師匠も、そうなんですけど……ただ」
「ただ、何だ?」
 この時、とある人物の話題について、だけは。
「少し――……いえ、かなり鈍いんですよねぇ」
「……そうか」
「弟子としては心配です」
「ったく……どっちが師匠なんだか」
「え? 師匠は師匠ですよ?」
「…………そうか」
 ため息混じりの呆れた音色でしか呟けなかった。

 兎にも角にも、それでも。いついかなる時も。
 声も表情も弾ませっぱなしの彼女は、本当に楽しそうで――彼にはそれが理解できなかった。
 よくよく思い返してみれば、何一つ尋ねてもこない。
 素っ気ない返事や、取って付けたような理由についても。カルロスと名乗った自分の事さえも。
 それは人恋しさのせいか。彼が話を聞いている事を理解しているからか。それとも、彼女にとっては穏やかであるらしい時間を終わらせたくないのか。
 はたまた、実は彼の正体に気づいているからなのか。
(……いや)
 だが、彼は解らないなりに三つ目と四つ目の推測を打ち消す。
 三つ目に関しては理由が思い当たらず、四つ目に関しては、その必要性もないからだ。
 そもそも彼女らしく思えない――気づいていながらも気づかないフリをする、などとは。
 ゆえに彼はこの問題においては思考を中止し、別の問題――

 ――告げなければいけない"別離おわり"の言葉を探し始めた。


 遡ること、二日前の夕刻。場所は酒場。


 彼は決して嫌いではない酒も飲まず。かといって、本格的に食事を摂るわけでもなく。だが、何も頼まないわけにはいかないので、塩で味付けして火で炙っただけの簡単なナッツ料理を注文後。時折、周囲を盗み見ては机上に視線を戻す、という行動を繰り返し。程なくして届いたナッツを適当に口へ放り込みつつも、料理に不釣り合いとも言える真剣な表情で考え込み。ただ、傍からの捉えようによっては怠惰とも思える時間を、彼は過ごしていた。
 用心深く、好奇心よりも警戒心が旺盛でありながらも、時を無為にしないよう直感で動く。
 そんな性格の彼にしては、何とも珍しい光景であり、食べている物も彼には似合わない可愛らしさほぼ満点の"おやつ"である。
 しかし、実際に彼は考え込んでいた。
 料理を味わう事も、人目を憚る事もできずに、とつとつ、と何度もため息を落として、だ。
 とはいっても、決して難題ではない。
 彼の考え事とは、それだけ取るに足らない悩みだった。
 本当にささやかで、密やかで。本当は必要などないもので。だが、持ち合わせていなければ落ち着く事もままならない、そんな不思議な問題。
 つまりは、どういった理由で"少女"の元を訪ねたものか――ただ、それだけなのである。
 これも彼にしては珍しく、似つかわしくもなく。おまけに気づいてもいなかった。
 自分が何故、こんなことを考えているのか――そもそも何故、この町を訪れようと思ったのかさえも。
 ともあれ、その時。
「よくきた」
「いえ……遅くなってすみません」
「いい。きにするな」
 酒場の隅。奥まっているせいか、墨染め色の影がより一層濃くなった片隅。
 そんな寂れかけの空間で会話を始めた二人の声が、そっと忍び寄るように耳へ入ってきた。
 響きから推測するに、片方は老人で男。もう片方は自分より歳が上であろう男。他人の事を言えた義理でもないが、何とも色気のない組み合わせである。
 とはいえ、特別に通る声というわけではない。むしろ、周囲の喧騒から逃れる事に執着したような細い声で、事実巧妙に紛れ込んでいた。
 しかし、だからこそ――皮肉にも彼の好奇心を刺激してしまったのだ。

 基本的に情報とは"生物"であり、その多くには寿命という名の"鮮度"が存在する。
 つまり、いかなる情報であっても、広がりすぎれば"有益さ"が幾分損なわれてしまう。
 言い換えれば、広まる前――情報のやり取りが秘密裏に行われている内は、"有益"な可能性が高いというわけである。

 彼はそういった考えから、会話が秘密裏であればあるほど盗み聞く、という行為を癖付けていた。
 とはいえ、全てが全てとは一概に言えず。また、あくまで彼の持論に過ぎず。加えて、世間一般の目から見れば、決して良い趣味とは言えない。
 だが、不必要なら利用しなければいいだけの話。胸中にしまいこめば、誰かに迷惑を掛ける悪癖でもない。
 それよりも何かしらの"可能性"を常に持ち合わせておく事で、万が一の事態に備える。もしくは、万が一の事態の好転に活用する。
 それが彼の情報を"盗む"理由であり、辿り着いた生き方なのである。
 したがって、彼にとっては今回の事も何ら特別ではなく。
(……ふむ)
 無害で無罪な盗みを働けども、決して特殊で特異な心の動きがあったわけではなかった。
「それより、頼む」
「はい。ダーマには無事辿り着けましたが……"彼女たち"には出会えませんでした」
「…………」
「ですが、大神官様にお目通りが叶い、お話を伺ったところ――」
「ど、どうだった?」
「彼女たちは数日前に訪れたばかりで、近日中に帰ってくる予定だそうです」
 なかったはず、なのだが。
「それに言伝も、大神官様は快く引き受けて下さいました」
「そうか!」
 単なる一情報にしては、気に掛かる響きが多かった。正確には、自分が知る状況との符合が幾つかある、と言うべきなのかもしれない。
「ですから、きっと――いえ、絶対に大丈夫ですよ」
 しかし、どちらにしても内容自体が不明瞭という事実に変わりはなく。声色や言葉からは、彼らに限っては朗報である、といった程度の雰囲気しか伝わってこない。
 つまり、自分に無関係な事は元より、何かしらに役立ちそうな情報の類ではない、と。
 持論と分析に基づいて、彼がそんな判断を下しかけた――矢先。
「げんき、だろうか」
 その言葉は聞こえてきた。

「……ヤヨイ」

 昨夜、本人に直接告げられるよりも以前から知っていた――あの少女の名前が。
 がたたん、と。
 気づけば彼の身体は、造りが粗雑な木製の椅子から離れていた。
 かつかつ、と。
 気づけば彼の歩みは、暗鬱な表情の二人を目指して進んでいた。
 そこに意志の介入する時間など存在していない。
 にも拘わらず、彼は何処か苛立たしげでありながらも、ごく自然な動作で歩み寄っていた。
「おい」
 そして、乾いた唇が上下に袂を別ち、不躾にぶっきらぼうな声で呼びかける。
 振り返った二人は、至極真っ当に芽吹いた警戒心を露わにする。既に緊張状態にあったはずの表情を一層、より顕著に強張らせて。
「……誰だ?」
 そんな中、かろうじて問いを絞り出したのは男。老人は無言で顔を伏せている。とはいえ、警戒は色濃くとも恐怖は微塵も感じ取れない。
 察せられる気配といえば、そう――存在の秘匿について、だろうか。
 確かに、よくよく思い返してみると、二人は先ほどからずっと声を潜めていた。しかも会話には向かない喧々騒々が極まった酒場の中で、だ。
(なるほど、な)
 それは話を聞かれたくない"誰か"がいるからだ、と彼は納得した。
 だが、結局は目もくれず。覚えはなくとも降りかかる自身への疑心など歯牙にも掛けずに。
「あの嬢ちゃんは――どうして"あんな場所"にいるんだ?」
「……え?」
 ただ本題のみを、一応は曖昧然とした言葉を選んで切り出した。
 同時にこの時、彼は無意識下では気づいていた疑問を初めて自覚し、改めて推測する。

 彼らの言う"彼女たち"と、自分の知る"彼女たち"。
 それはもしや――同じ人物を指しているのではないか、と。

 すると、刹那。
「あんたは一体……?」
 図らずも顔を上げてしまった男の口から、呆然とした声が落ちる。しかし、警戒の色は若干薄れており、代わりに疑問の色が濃度を増していた。
「ん? ……ああ」
 ちょうど良い頃合い、と感じた彼は、無造作に伸びた顎髭の感触を右手で確かめた後。
「あの嬢ちゃんとは昨――……いや、旅先で少し話した程度の知り合いだ」
 事実を虚構で覆ったのか。
 虚構を事実で覆ったのか。
 が、例え判別は付かなくとも、昨日少女にうそぶいた事よりも真実には近い。
 そんな虚実を絶妙に入り混ぜた言葉で、彼はひとまず正体を明かした。


 さしたる間も置かず、彼が席を移動した直後。
 男はフラック、老人はトバリ、とそれぞれ名乗り。彼も二人に倣って名前を告げた。もちろん、仮初めの名前を、だ。
 いかに利害が一致しようとも、本当の名前を知られればどうなるか分からない――と、お得意の"万が一"を考慮した結果である。
 ただ、先刻の発言に実は不安もあったのだが、幸いにも気づかれる様子はなく。しかも、彼が"あの嬢ちゃんが罪人には見えない"と訝しく呟いた事により、あれほど深かった警戒心は謝罪と共に消え失せていた。
 単純、と思いつつも呆れ、果ては不思議にすら思う。だが、藁にも縋る思い、と考えれば理解できなくもなく。
 もしくは、証明かもしれない、とも思った。
 彼女の周囲に悪人はいない――裏を返せば"彼女は誰彼からも慕われている"という事の、証明。要するに彼女は、当初から抱いていた印象通りの少女、なのだろう。
 兎にも角にも、彼はまず二人に説明を求めた。
 状況。経緯。つまりは、事実。
 何を計画し、何を決行するにしても知らなければならない必要事項だ。引いては、自身の人物眼や直感に基づいた推測にズレがないか、を確かめる間違い探しでもある。
 その結果――彼は確信した。
 あくまで一側面からに過ぎないが、おそらくは正しい、と。
 だが、知る事が終わりではない。問題は知った上で何をすべきか、という事だ。
 彼はすぐさま脳内で状況を整理し、すかさず思考の渦に飛び込んだ。
 何を計画し、何を決行するかを、だ。
 それは程なくして形になった。というよりも、最初に考えていた形の類似品だった。詳細に表すなら、より正当でより真っ当な形、とでも言うべきか。
 ただ、不当ではないがゆえに一人では実行できない。
 多少の時間はもちろん、何よりも同じ志を持つ者たちが必要となる。
 しかし、それはすぐ傍に――その"可能性"と"希望"は、手を伸ばせば届く場所にあった。
 そもそも此処でこうして言葉を交わしている以上、迷う、という選択肢は存在していなかった。
 単に不足していただけなのだ。
 時機――キッカケと呼べるモノが。
 "彼女たち"ではなく"自分"がいるという、奇妙な偶然。
 それはきっと、彼らが思い描いていたであろう類似品――にも満たない代替物だ。
 だが、キッカケには変わりないと判断した彼は。
 二人に計画それを話し、快い返事を確認してから――二日間。


 少女の前に姿を現し続けていた。


 そして、不意に。
「……なぁ、嬢ちゃん」
「なんですか?」
 ちょうど話が途切れた合間を見計らって。
「本当は何も――何も"悪いこと"なんてしてないんだろ?」
 彼は敢えて彼女に、事情は全て知っている、とでも言いたげな口調で"真実の在処"を問いかけた。
 それが"終わりへの始まり"であった。
「え?」
 どちらにせよ、あまりに唐突で思いがけない言葉だったらしく、ヤヨイはきょとんと首を傾げる。
 だが、疑問はほんの一瞬で氷解したらしく、
「……トバリさん、ですか? それともフラックさんですか?」
 珍しく感情の見通せない声で、淡々と思い当たる人物の名前を挙げた。
 一方の彼は頷きもしない。
「罪を着せられた、って聞いたな」
 しかし、それに代わる返事は、紛れもなく肯定の回答だった。


 彼が二人から聞いた"真実"――それは、町に一人の男がやってきたところから始まる。
 その男は商人だったのだが、それ自体は珍しい事でもない。むしろ、有り触れた出来事ですらある。しかし、男は稀有な商才を持ち合わせていた上に、さすがにトバリほどではないが、それなりに年齢を重ねてもいた。
 創始者の中にも才能ある商人はいる。だが、比較的若い彼らには"経験"と呼べるものが不足していた。
 例外はある。確かにあるのだが、基本的に商才は経験を凌駕しない。
 まだまだ若い商人たちは、いくら数少なくとも、やはり経験によってそれを思い知らされていた。
 ゆえに自然と、彼らは男を頼るようになっていった。
 ただ、少し不思議な事に。
 男は決して、いついかなる時も表舞台に姿を現そうとしなかった。理由を尋ねてみると、新参が出しゃばるよりも偉大なる先人を立てるべきだ、と主張し、ひたすら縁の下の力持ちで在り続けたのである。
 極僅かな一部の人間は男を謙虚と評し、もしかすると照れ屋なのかもしれない、と微笑ましい推測も飛び交っていた。
 また、そのせいか男より後に町を訪れた商人は、彼を知る機会がなかった。
 それでも平和には違いなかった。
 だが、数ヶ月が過ぎ、町が目覚ましい発展を遂げた頃。
 隙と時機を見計らったかのように、男は唐突でありながらも徐々に、密やかに強引な手法を取り入れ始めたのだ。
 心の通った商売、ではなく、富に執着しただけの商売。中には詐欺紛いの行為も少なくはなかった。
 酷い――本当に酷い話、だった。
 当然、豊かで穏やかな生活を求めて訪れた住人たちの反感を買う事になる。
 しかし、男は一部と呼ぶにはあまりに膨大な商人たちを巧みに煽動し、

『全て"創始者かれら"がやったことだ』

 何食わぬ顔で平然と、罪を擦りつけたのである。
 そして、関与していない悪行を突きつけられた時、創始者たちは気づいた。
 表に出なければ名前を知られる事はなく、名前が知られていなければ責任を負う必要がなく。また、暗部とは秘されて然るべきモノであるため、確固たる事実の前には否定の言葉など説得力を持ち得るはずもない。
 つまり――全て計画的だった、と。
 町作りに関われなくなった時に初めて、そう気づかされたのだ。
 だが、事態の侵攻は止まらず、更に悪化の一途を辿った。
 創始者同士の諍い――即ち、もう一つの罪の擦りつけ合い、である。
 何故、企みに気づかなかったのか。何故、男を信頼していたのか。そんな詮無い事についての言い争い。
 もちろん、トバリやフラックといった最古参の創始者たちは、懸命に止めようとした。
 しかし、数が違いすぎて聞き届けられなかっただけでなく、元より誰のモノでもない罪は。

 仕事上、町を離れる機会が多かったヤヨイに――全て押しつけられてしまったのだった。


 誰も彼も激しく動揺していたのかもしれない。
 もしくは、これまでに築いた商人としての"現在"を失わないよう、ただ必死なだけだったのかもしれない。
 だが、若すぎる身で町作りという使命を担った少女に対し、あまりに酷い仕打ちである。
 一方的な顔見知りではあるが、その事を差し引いても彼はそう思った。
 だから、だろうか。
「誰も悪くない、とは言わねぇが……だとしても、嬢ちゃんに非はない、と俺は思うんだがな」
 続けられた言葉の端々には、苛立ちとも怒りとも定まらない感情が、じわり、と滲んでいた。
 しかし、それでも彼女は首を小さく横に振る。
「……中にはそう仰って下さる方も、います――でも」
 そして、ぽつぽつり、と。
「でも、私は……気づけませんでした」
 幾分震えの混じった声で。
 尚も揺らぐ気配の窺えない反論を静かに、囁くように紡ぎ上げた。
「……同情か?」
「え?」
「それとも自分一人の犠牲で済むなら、なんてバカげたことでも考えてんのか?」
「そういうわけじゃ――」
「まぁ……どっちにしても嬢ちゃんに限ったことじゃねぇだろ」
 受けた彼は、不機嫌そうに問いかけつつも、最後にはやはり異を唱える。
 そう、誰も男の巡らせた策略に気がつけなかったからこそ、彼女は此処にいる。もし気づけなかった事自体が罪だと言うのなら、それは全員に言える事であり、少なくとも彼女が自分を責める理由にはならず、また彼女だけが責任を取る理由にもならない。
 だが、今のやり取りを経て。
「そうじゃ、ないんです」
「あ?」
「私が気づきたかったのは……いえ……気づかなきゃいけなかった、のは」
 見解の違いに気づいたヤヨイは、澱んだ口調で告げる。

「町の人たちが抱いていた――苦しみ、です」

 そこで彼もようやく察する事が出来た。
「多かれ少なかれ、不満を抱くには"苦しみ"という理由がある、と思うんです」
 彼女が何故、自ら罪を背負っているのか。
「皆さん、夢を持って町に来て下さったのに……ここは"夢を紡ぐ町"のはずなのに」
 その理由、根源にある気持ちは、
「私は皆さんの――ずっと一緒に暮らしてきた皆さんの苦しみに気づきませんでした」
 他の誰でもない、町に住む人々へ向けられた深い愛情。
「……それが私のした"悪いこと"です」
 だからこそ、彼女は罪を償っている。
 擦りつけられたように、押しつけられたように見える罪であっても。
 彼女は自らの意志で、罪を贖おうとしていた。
 そこに揺らぎなどあるはずもない。
 何故なら、このヤヨイという名の少女は。

 大好きな人のためなら、自身を犠牲にする事を厭わない。

 そんな危うい強さと弱さを兼ね備えた少女、なのだから。
(……そうか)
 そして、最初に此処を訪れた日の事を思い出した彼は、唐突に理解する。
 あの時の生気を損なった黒瞳は、自身の不幸を嘆いていたのではなく。
 あの時の虚無に彩られた黒瞳は、他者の苦しみに気づけなかった事に対する後悔なのだ、と。
 今更ながら、理解した。
 優しさが芽吹かせた自傷行為、のように思えた。
 優しすぎるからこそ無自覚に刻まれてしまった傷痕、にも感じた。
 だが、おそらくは――否、間違いなく。
「……そうかよ」
 誰が、どんな言葉を掛けたとしても、彼女の意志を変える事は叶わない。
「…………すみません。折角、気を遣って頂いたのに」
 だから、彼は。
 暗鬱な表情で謝罪するヤヨイに、
「俺が勝手に思ってたことを勝手に喋ってただけだ。別に嬢ちゃんは悪かねぇよ」
 そんな返答と共に説得を諦めるだけであった。



 やがて、空に仄かな明るみが翳り始めた頃。
「さて、と」
 わずかに双眸を細めた彼は、相変わらず前触れもないままに立ち上がった。
 それは合図だった。暗黙に定められた"終幕"の合図。
「あっ……」
 直後、ヤヨイの日だまりと向日葵がよく似合う笑顔に、暗雲が差し込む。
 が、それも束の間。
「えと、その」
 彼女は困惑と共に、しばし視線を中空へ彷徨わせると、
「また……お話、して下さいますか……?」
 今度は月光を受けた柔らかい夜が似合う控え目な笑顔で、おそるおそる問いかけた。
 ここ数日、四日間だけとはいえ、すっかりお馴染みとなったやり取りである。
 しかし、背を向け、これまでとは別種の、無意味な沈黙を数秒ほど漂わせた彼は、
『……気が向いたらな』
 と、いつものように答える代わりに、
「いや――今日が最後だ」
 くぐもった声色で"別離おわり"を口にした。
 不思議な話だった。
 どう切り出したものか、と悩んでいたはずの言葉を、存外あっさりと告げる事ができたのだから。
 ただ、今となっては何故悩んでいたのかも不可解ではあった。
「…………」
 ともあれ、そこで再度、装いを改めた沈黙が場を支配する。
 何もない――本当に静かで寂しげな、静寂。
 疑問の声はおろか、理解の声も上がる気配がない。耳に入る音といえば、精々が風と、それに巻き上げられた砂粒が壁に打ちつけられる瑣末な音ぐらいだ。
 それ以外には何もない、不気味なぐらいの静けさが、夜気の残滓に張り付いている。
 とはいえ、何をどうしようと今日が"最後"なら、このまま立ち去ればいいだけの話である。にも拘わらず、無言が酷く気に掛かった彼は、思わず振り返ってしまった。
 すると、そこには。
 今にもぼろぼろと崩れ落ちそうな、危うい笑顔だけがあった。
「あの……今まで本当にありがとうございました」
 そんな表情で彼女は、まるで今日という日を常から予感していたかのように、すらすらと感謝の言葉を述べる。
 いや、実際に予感していたのだろう。
 加えて、知ってもいたのだろう――別離という終幕がもたらす感情が、いかなるものなのかを。
 でなければ、問いかけなどしない。
 毎晩、律儀に此処を訪れている人物の都合など、確認するはずがないのだ。
 本当に不思議な話だった。
 彼女が寂しがっている事はもちろん――

 ――何故、この場を離れようとする自分の足が鈍っているのかも。

 だから、だろうか。
「…………」
 無言でヤヨイの傍に歩み寄った彼は。
「カルロス、さん?」
 戸惑いの音色には一切構う事なく。
 まるで胸中に燻る得体の知れない感情を振り払うように。
 または彼女が纏う自分の知れない感情を振り払うように、かもしれない。
 ともあれ、彼は右腕を――大きな傷が一つと小さな傷が無数にある右腕を伸ばし、無機質で無抵抗な鉄格子の狭間から侵入させた右掌で。
 その腕に相応しく、ごつごつとした分厚い右掌で。
「……じゃあな、嬢ちゃん」
「わっ……」
 ヤヨイの頭を乱暴に撫でつけた後、そのまま足早に去ってしまった。

 だが、彼は知らない。
 知ってはいたのだが、覚えていない。
 以前、一体"誰"が彼女の頭を撫でたのかを。

 一方、彼女は覚えている。
 覚えてはいるのだが、知りはしない。
 現在、一体"誰"が頭を撫でてくれたのかを。


 しかし、彼が姿を消してから数十分後。
「カルロス……さん……?」
 呆然と。茫然と。
 微かに熱を帯びた声で"彼"の名前を呟いた彼女は。

 この時、初めて"彼"の正体に疑問を覚えた。



 そして――ちょうど二日が過ぎた頃。



 この日も夜自体に、何かしらの特徴はなかった。
 強いて言うなら、静寂の色が濃い、ぐらいだろうか。
 人が眠りに就く事によって沈黙が生まれ、その沈黙が重なり合って芽吹いたのが、静寂。
 だとしても、それ以外に強烈な個性を持たない、深き静謐を身に纏った夜のこと。
「…………」
 ヤヨイはいつもと同じように、天窓が切り取った夜空を――正確には、夜の海をたゆたう欠落も鋭利な月を、ぼうっ、と眺めていた。
 そんな中、普段と異なる点が一つ。
「…………さん」
 それは声の、即ち、唇から奏でられる音色の存在。
 二日前に終わりを告げた特別な四日間以外、ただの一言も声を発さなかった彼女が、今になって時折言葉を綴っていたのである。
「カルロス、さん……?」
 紡がれるのは、既に此処を訪れなくなった人物の名前だった。
 だが、その声は寂寞が産んだ音ではなく、疑問が芽吹かせたモノ。
 そう――微かに疑問を覚えた彼女は、無意識ではあるが、根源に歩み寄るべく"彼"の名前を呟いていた。
 理由は解らない。
 分からないのだが、自分が何か忘れているように想ったのだ。

 おそらくは誰も気づいていない、誰にも告げたことがない大切な"気持ち"を。

 しかし、二日の時を経て、朧気ながらも"回答"に近づき掛けた――その時。
「……ヤヨイ!」
 不意に静寂の壊れる音――誰かの声が、広くはない牢獄の中に反響した。
 誰の声かは、すぐに分かった。
 ただ、その声が誰を呼んだのか、を彼女が理解するには、おおよそ数十秒の時を要した。
 投獄されてから、例の四日間を含めても、名前を呼ばれた記憶がないせいであり、それと同時に彼女は想い至った。

 自分は名前を呼んで欲しかったのだろうか、と。

 理由はやはり解らない――というより、少女が自答するよりも早く。
「ヤヨイ!」
 声の主が慌ただしく姿を現し、
「ヤヨイ……ぶじ、だったか?」
「トバリ、さん?」
 それがまた自分のよく識る老人だったため、思考は敢えなく霧散してしまったのだ。
 だが、言葉の伴わない思考が、他者に悟られるはずもなく。
「いま、あける」
 トバリは右手に握り締めた鈍色の鍵で、己が使命を果たそうとする。
 と、そこで呆然自失に陥っていたヤヨイは、ようやく状況を飲み込み始め、
「どうして、ここに……?」
 まず最初に、確認の言葉が唇から奏でられた。
 それは不安定な旋律ではあったが、決して不安げな音程でもなかった。
 嬉しい、という感情を、何故、という疑問で覆ったかのように。理解の及ばぬ光景を前にした彼女は、二つのまなこを大きく見開くだけである。
 一方、その疑問符を受けた彼は、ぎぎぎ、と鈍色の悲鳴を響かせ、鉄格子を開いた後。
 重々しく、唇を上下に別ち。
「……ようやく」
 まるで初めて出会った時のように。
 まるで夢を紡ぎ語った時のように。
「ようやく、たすけにこれた」
 常よりも深く嗄れた声で、自らの願いが叶った事実を告げた。
「私を助けに……ですか?」
「うむ」
「どうして……そんな、こと」
 しかし、それでもヤヨイの疑問は晴れない。
 自分は罪を犯した。だからこそ、償わなければいけない。
 ずっとそう思いつつ、町の人々を想いつつ、彼女は此処にいたのだから。
 だが、トバリは続ける。
「わし、まってた」
「え?」
「ヤヨイ、ここから出られる日、待ってた」
 否定するのではなく、諭すように。
「でも……待ってるだけ、だった」
 座り込んだまま動こうとしない少女の手を引き、彼女には相応しくない、冷たく閉ざされた世界から連れ出し。
 最後に、小さく嗄れた声で。
「それを教えられた――あの男に」
 彼女には微かにしか聞き取れない独り言を、ぷつぷつり、と呟いた。



 そして――久しぶりの、切り取られていない空の下。


 無事でよかった。
 長く罪を背負わせて、すぐ助けに行けなくてすまなかった。

 ヤヨイを出迎えたのは、そんな温かい言葉の数々で。一通りの事情を聞いた彼女は、町に何が起きたのかを知った。
 間違いを失くすための争い――即ち、"革命"が起きたことを。
 確かに正しいことではある、のかもしれない。
 より詳細に言い表すなら、未来を見据えた者が一側面から観測した場合の話、とでも言うべきか。
 別側面、もしくは公平を期した両側面からの観測によれば、哀しいことには違いない。
 争いが起きた以上は、何一つの例外もなく、だ。
 しかし、それは受け止めなければならない事実であり、ヤヨイも理解しようと努めた。
 そうでなければ、何も変わらず。
 そうでなければ、何も始まらず。
 最初にトバリが志した"夢を紡ぐ町"という理想が。
 いつしか町を訪れた誰も彼もが思い描いた理想が。
 本当に夢のままで終わってしまう。
 だから、ヤヨイは起こってしまった出来事ありのままを受け入れようとした。
 そして現に、頭では徐々に理解しつつあった――のだが。

 ほんのひとひら。
 たった一つだけ、予感が脳裏にひしめいた。

 それは何とも不可解な感覚だった。
 漠然でありながらも歴然で。
 判然でありながらも茫然で。
 いずれにせよ、確信に満ち溢れてはいるのだが、それゆえに内包された矛盾が際立ち、結果的に曖昧然とした予兆に成り果てている――そんな予感が、在った。
 理由は、何だろうか。
 わからない。
 原因は、何だろうか。
 分からない。
 判らない、解らない。
 だが、それは今に始まった事ではない。
 牢獄の中で過ごした時は、数ヶ月。その内の、わずか四日。
 深く――深く思い返してみれば。
 "ワカラナイコト"の殆どは、このたった四日間に音も形もなく集約している、と。
 不明瞭な感覚に基づいた思考が、そんな結論を導き出した――刹那。
 ヤヨイの中で、とある事実が符合する。
 無関係かもしれない。むしろ、勘違いや偶然の一致である可能性の方が高い。
 しかし、不意に思い出した言葉が。外へ出る直前にトバリが呟いた"あの男"という響きが、どうしても気に掛かったのだ――

 ――いや、違う。

 それはキッカケであり、全ては言い訳で。
 突き詰めれば、結局は望んでいるだけなのだ。
 もう一度、彼と"会"って、今度はちゃんと確かめたい――いや。

 本当は彼に"逢"いたい。ただ、それだけのこと。

 予感も予測も、幼く拙い理論武装で。
 もしくは、不必要な自己防衛を目的とした不鮮明な自己投影で。
 結局のところ、それも判らないことであり、それが一番解らないコトで。
 要するに、彼女は何一つとして分かっていなかったのである。
 にも拘わらず、不思議と確信があった。
 "彼"との再会は理解を経て、やがて忘れていた気持ちの再開へ繋がるのではないか、と。
 そう信じていたヤヨイは、ひたすらに"彼"の姿を捜し求めた。

 だが、少女のささやかな願いは。

 息を切らして駆けてきたフラックの一言。
『彼は……去りました』
 正確には、彼がトバリ宛てに預かった伝言。
『もう自分の役目は終わった……そう言って』
 そんな素っ気ない言葉に打ち砕かれ――そして。
 ふと、彼の。
 頭を撫でてくれた、あの大きな掌の温もりを思い出した彼女は。
 全てを理解し。
「ヤヨイ……辛かったのか?」
「……がい、ます」
 その理解は、すぐさま過去の記憶と交錯し。
「え?」
「ちがう、んです……そうじゃ……ないんです」
 その記憶が、程なくして透明な雫へと変わった後。

(カルロス、さん)
 ヤヨイは、初めて。
(あのひとは……もしかして――)

 生まれて、初めて――自分が"恋"をしていることに気がついた。



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