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――晴天。 雲に灰色は一つとして存在せず、どれもこれもが眩いばかりの白で。また青とのコントラスト、点在する白の配置が非常に芸術的で。絵描きがこの場にいれば絵として残さずにいられない――そんな紛うことなき、快晴。 それだけに、もしくは、それゆえにだろうか。 枝分かれも激しく、ありとあらゆる"純白"は途切れに途切れ、あまりに途切れ過ぎている。 元は一つであったはずの雲が、一つと判らないぐらいに――いや、そもそも雲は何処までを"一"と定義するべきなのだろうか。 途切れてしまえば"二つ"――"一"に成り切れない"二"なのか。 途切れてしまえど"一つ"――"二"に成り損なった"一"なのか。 とはいえ、それは瑣末事である。 どれほど形を変えても其処に雲は存在する、という始まりの事実に比べれば。 ただ、それは人間の在り様にも、何処か似ているように思える。 約六十兆個の細胞で構成されていながらも。それを優に超える約百兆個の赤血球や血小板等々を身に内包していながらも、その数え方は"一人"。 時として、独り。 生物によって多少の差違はあれど、これほど"一"という定義が揺らぐ存在はない。 ゆえに、広がる青空と散らばる雲々も。例え雲一つない空でも、世界の何処かの空には存在する、と考慮すれば。 この"二つ"の関係は、定義の上では"同一"と当て嵌められるのかもしれない。 だが、いずれにせよ。 絵として表したいほど素晴らしい景色でありながら、絵として現すのが酷く難しい。 そんな晴れ晴れとした空が、今日の始まりを告げる空の姿だった。 「皆さん、おはようございます」 ダーマの、重厚でありながらも手応えは軽い、ある意味では"魔法"の扉。思い返してみると、神殿内は何処もこういった仕様なので、案外本当に呪文が掛けられているのかもしれない。それが無駄なのか、偶然の産物を有効活用した結果なのかは――本当にどうでもいい話だが。 ともあれ、そういった感触の不思議な扉を開くと、 「おはよ、アーニー」 「うん。ナギサちゃん、おはよー」 おそらくはその回答を識るであろう少女、アーニーが笑顔で四人を出迎えた。 「おはよう」 「あ、おはようございます」 「お……おはよう」 応えて、ラザ、トラッド、リノ、と三人は挨拶を返す。 するとアーニーはますます顔を綻ばせ、両の手でぱたぱたと四人に席を勧めた後、 「あ、すぐに朝食をお持ちしますねー」 間延びした声でそう告げてから、慌ただしく部屋の奥へ消えようとした――が。 ナギサは一抹の不安を覚えたのか。 「慌てると、また転――」 と注意を促しかけたものの、 「大丈夫、だいじょはわっ!?」 一足早く、一際大きく、愉快な悲鳴が上がった。手遅れ、とも言う。 「うぅ……」 四人が一斉に振り返ると、そこにはアーニーの蹲る姿があった。住み慣れたはずの場所ではそうそう有り得ない事だが、どうやら壁に激突したらしい。 にも拘わらず、メガネに傷がない辺り、相当に頑丈な造りのようだ。 「……ちょっと行ってくるわ」 いずれにせよ、ナギサは苦笑混じりで立ち上がり、いそいそと親友の救助に向かい――その数分後。 「えっと……お待たせ、しました」 部屋の奥から、少し照れた表情で現れるアーニー。トレイを一つ、両手で支え、その上には皿に盛られた料理が二品乗っかっている。 「全く……だから、手伝うって言ってるのに」 後に続くのは、ナギサ。彼女はそれぞれの手にトレイを持ち、どちらにも料理は三品ずつ。 普通に考えれば、危なっかしいのはナギサの方である。 「でも、ナギサちゃんたちはお客様だし――」 「ほらほら、よそ見しない」 「あう……うぅ」 「それと、お客様の前に親友……でしょ?」 「……う、うんっ!」 だが、アーニーの方が危険に映るのは何故だろうか――言うまでもない。 例え賢者であっても、例え大神官であっても、それが彼女という人物に他ならないからだ。 兎にも角にも。 「今日も美味しそうね」 ナギサはやはり手際よく、アーニーはやはり危なっかしいのだが、次々と丸いテーブルに料理が並べられてゆく。 香ばしい香りの中にも仄かな甘みが漂う、クロワッサン。優しい温もりが見ているだけで伝わってきそうな、クリームシチュー。食欲をそそる色合いと瑞々しさを兼ね備えた、ダーマ自慢の野菜サラダ。光の加減で唯一の純白が十重二十重に移ろい往く、ミルク。 それらは本当に美味しそうで、また美味しいのも事実で。ナギサが思わず呟いてしまうのも、無理からぬ話である。 味に関する記憶は、時が経つにつれて薄れてゆく。 だが、今日で三日目。トラッドが忌まわしき"眠り"から目覚めて、既に三日をダーマで過ごしている。詳細を語れば、五人で朝食を摂るのは今日が三度目で、食事を共にするのは七度目。記憶に新しいのは当然の事だった。 では、何故――如何なる理由で、リノたちがダーマに滞在しているのかというと。 その原因はトラッドにある。というより、やむを得ない事情があった。 リノが唱えた呪文、正確には"魔を祓いし法"――" だが、決して四六時中ではない。精々、四五か三七、といったところだろう。 つまりは、それ以外の時間。 情けも容赦もない"眠り"へ魂が誘われるまでの時間で、身体機能が幾分正常さを損なっていたのである。 最初に欲したのは、空気と睡眠。 現に彼は、翌日の午後まで穏やかに呼吸を繰り返し、ひたすら眠り続けた。 早いか遅いかで言えば、間違いなく早い。おそらくは、生命の誕生に縁が深い、というダーマ地下室の影響だろう。 次に食物。要するに、栄養。 目を覚まし、ラザに支えられる形で身を起こした彼は、酷く不鮮明で不明瞭だった。 有と無――即ち、生と死を別つ境界。または、人の身では一秒たりとも留まる事などできない"一"と"零"の間と言い表すべきか。 そんな曖昧然とした場所に彼は、立っていた。 言葉を聞き取り、それが誰のものかを判別はできる。だだ、応えるための声が出ない。絞り出せたとしても、声としての役割を果たせない無為な音でしかなかった。 しかし、身体というものは正直で。 状況を把握しようとした彼が周囲を気怠げに見渡した時、くぅ、とお腹が鳴ったのである。 ラザは小さく笑った。つられて、ナギサとアーニーも、笑った。 一方のトラッドは照れた。俯きながらも何処か嬉しそうに、照れた。 生きている、という実感と現実を互いに噛み締め合いながら。 それからすぐに食事を摂り、ようやく話せるようになった彼が、身体を慣らすための軽い運動を繰り返している内に――こうして三日目が訪れたのである。 「いただきまーす」 そして、三度目の朝食は始まった。 起きた直後は、普段からは考えられない量を胃袋に詰め込んでいたトラッドだったが、今ではすっかり落ち着いている。身体の方も、さすがに戦闘までは厳しいが、順調に常の感覚を取り戻しつつある。 ただし、それ以外にも。 正確には、彼以外の人物に関しても―― ――二つ、変化があった。 一つ目は、ティルクの不在。 そう、ティルクはいない。この場だけでなく、ダーマの何処にも。 彼は快く船を貸してくれた恩人――レイヴンの元へ、改めて礼を述べるべく向かったのだ。 ただし、これはついでなのだが、別の目的もあった。 ナギサとラザから聞いた話――"船乗りの骨"と"幽霊船"の事が気に掛かったのか、彼はそれについても尋ねようと考えたのだ。 確かに、彼女たちが知っている保証はない。だが、彼女たちが知らなければ、おそらくは世界の誰も識らない。 それほどまでに彼女たちは、海に精通しているのである。 もしかすると、何か別の理由があったのかもしれないが――そんな疑問を抱いたのは、ナギサだけだった。 だが、それはまだいい。 ナギサが推測した通り、何か別の真実が存在する可能性もあるが、理由そのものは至って明瞭で、矛盾らしい矛盾もない。つまり、行動自体に疑う余地がないのである。 したがって、もう一つ。 リノの変化こそが、一番大きな謎だった。 彼女は待っていた。 他の誰よりも彼を――愛しい人の"帰り"を待ち望んでいたはず、だった。 にも拘わらず、話しかけているところを全く見ていないのだ。 確かに偶然の可能性も否定はできない。人と人は一人と一人である以上、四六時中を共にはできない。 だが、二日目の朝に何かを察したナギサが、こっそり様子を窺ってみても、そんな素振りすら見ていないのは妙である。 そもそも、トラッドの療養についても。 ナギサとラザは、てっきりリノが付き添うものだとばかり思っていた。正確には、それが彼女の希望であると同時に彼にとっても最善、と考えていた。 しかし、リノは一向にその気配を見せないどころか、独りっきりで剣の鍛錬に打ち込み、結果的にはラザが付き添う形となっている。 加えて、現在の席順も。 アーニーから列挙していくと、ナギサ、リノ、ラザ、トラッド、の順番。 この場合、リノの隣はナギサとラザで、正面はアーニーだ。 これも、よくよく考えてみればおかしい。 何故なら、リノはトラッドの隣か正面に座る事が多いからだ。 いつもそうとは限らず、また、本人に自覚があるのかも定かではない。 だが、三日も続けば何かある。 ナギサなら、たったこれだけの事でも自明の理で。全ての点を踏まえれば、ラザやアーニーが心配するのも当然だった。 などと気に掛けながらも、とりあえずは穏やかで賑やかな朝食を終えた後。 「で、どう思う?」 「……そう言われてもな」 ナギサとラザはダーマ神殿の裏側まで赴き、外壁にもたれながら話し合っていた。 ただし、視線は交錯していない。碧と赤。双方の瞳に映るのは空か森のいずれかであり、今は言葉だけで意志を疎通させている状態だった。 ちなみに、彼が付き添おうとしていたトラッドは、何の疑問も抱かずに送り出している。もう一人で大丈夫という意味もあるのだろうが、付き合って貰う事に申し訳なさを感じていた、がおそらくは正しい。いくら気に病む必要はないと言い聞かせても、それがトラッドの性格なのである。 「リノが避けているのは分かる」 「トラッドも、よ?」 「少し違うような気もするが……まぁ、そうだな」 「似たようなものよ。それで、リノちゃんの方は?」 「思い当たる節がない」 会話の内容はもちろん、最近の二人――というよりは、主にリノについて。 「むしろ、俺が尋ねようと思っていたぐらいなんだが……ナギサでも分からないのか?」 口調から察するに、彼も頃合いを見計らって話をしようと考えていたらしい。 「あのねぇ……私を何だと思ってるのよ」 ちょうどいい、と胸中で呟きつつも、過剰な期待にため息で応えたナギサは、 「……まぁ、いくつか推測はあるけど」 結局は概ね期待通りの答えを、ぽつり、と口にした。 ラザは瞳に掛かる前髪を軽く払った後、わずかに視線を向けて言葉を待つ。 「まず、トラッドだけど……それぐらいは解るでしょ?」 続けて、首肯。 先ほど詳しく語らなかったのも、とっくに理解していたからだ。 きっと、彼は――あの鈍感な銀髪の彼は、既に彼女への気持ちを自覚している、と。 キッカケ。即ち、そこへ至る理由は分からないので、これも推測に過ぎない。しかし、彼は何かと分かり易い。それも彼女に関する事なら、特に。 ゆえに、本音を明かせば。 「むしろ、気づいていないのはリノだけだと思うが」 未だに察する気配がない彼女の方が、よっぽど不思議だった。 「自分に向けられた気持ちだから、かしらね」 もっとも、ラザに言わせれば、それはナギサにも当て嵌まる事なのだが、 「いずれにしても、悪いことではない」 そんな"想い"は、胸中の深淵にしまい込み、 「ええ。どちらかといえば、喜ばしいことよ」 「……となると、やはり問題はリノか」 常と同じく、何事もなかったかのように話を戻す。 「ナギサの推測というのは?」 そして、先刻の呟きに対する回答を、今度は問いかけへと昇華させた。 「――そうね」 するとナギサは、右の人差し指と中指で艶やかに唇をなぞる。それは、数十秒に満たない数秒。たったそれだけの時間で、伝えるべき言葉を纏めたらしい彼女は、 「サマンオサに行く前のこと……覚えてる?」 数日前の出来事についてを、質問という形で投げ返した。 「ああ、それが?」 一見すると、無関係とも思える内容。 が、二見すると。 「さすがに何があったのかは分からないけど……それも関係してるんじゃないかしら?」 繋がって、いた。 確かに。言われてみれば――そう。 リノには、あの時からトラッドを避けている節があった。風邪を引いた彼の看病という例外もあるが、それは""避ける"という事に気が回らなかっただけかもしれない。 「……それ"も"?」 しかし、その点に関しては、敢えて詳しく触れず。ラザは彼女が呟いた言葉の一部を繰り返し、更なる話を促した。 「ええ、それも。もしかしたら、それ自体が始まりの可能性もあるけど」 一方のナギサは、微かな不安を声に滲ませながらも、彼の望み通りに続きを語る。 「あとは……怒ってるようにも見えるわ」 「怒る? 喜ぶの間違えじゃないのか?」 「もちろん、喜んでるわよ。リノちゃんが一番待ってたんだから。でも、それだけじゃないってこと」 ただ、意味が分からない。 「どうしてまた?」 「それが分からないから推測なのよ。リノちゃんも困ってる、っていうのは分かるけどね」 喜ぶべき事実に満ち溢れてはいても、怒るべき理由が何処にも見当たらない――いや。 「……そうか」 ラザには思い当たる節が、あった。 何故なら、以前――それも、ごく最近に。 『もう二度と呪文が使えなくなるかもしれないのに……っ!』 そんな怒りを向けられた事もあれば。 『誰にも言わない、で』 そんな怒りを向けようとした事もあるのだから。 「分かったの?」 「……一応な」 「だったら、教えて」 気配の変質を察したナギサは、早速説明を求める。 「推測に過ぎないが、それでもか?」 対して、ラザは念のためと前置き、 「構わないわよ。それに回答っていうのは、推測と推測を繋ぎ合わせて導くものじゃない?」 自信に満ちた問いかけ混じりの了承に首肯で返した後、説明を始めた。 そうして――三分後。 「……なるほどね」 聞き終えたナギサは、さほど考え込む間もなく、納得の意を示す――ものの、面持ちには小さじ一杯程度の神妙さが含まれてもいる。何か思うところがあるのだろうか。 だが、結論を明らかにする必要もなければ、資格すら持ち合わせてもいない。 ラザは左人差し指と中指で一度ずつ太股を叩くと、 「何か解決策は浮かびそうか?」 事も無げに、ではないが、やはり何事もなかったかのように続ける。 「要はキッカケが必要なのよね?」 「そうだな」 「キッカケ……きっかけ、ね」 すると、程なくして。 「だったら、方法は……そうね。なくもない、かな」 何かを思いついたらしい彼女は、ここで初めて彼に顔を向ける。 不意を突く美しさが、あった。 不意打ちで美しさと出遭った――艶やかとは方向性の違う、何故か無邪気な美しさと。 ラザは図らずも数回、中々に激しく咳き込んでしまった。 「なによ? こっそりと、おかしなモノでも食べたの?」 「ナギサと同じ物しか食べてないぞ……それよりも、方法とは?」 兎にも角にも。 かろうじて誤魔化しつつも、懸命に内心の安堵を隠す彼に対し、 「これから説明するわよ。ラザにも手伝ってもらわなきゃいけないしね」 何処か上機嫌な様子のナギサは、意気揚々と説明を始めた。 夕暮れには少し遠い、心地良い微睡みが漂う午後。 「……ふぅ」 とある部屋から、一人の少女――リノが姿を現した。 ただ、何も着ていない。裸身。一糸も纏わず、一切の装飾もない、生まれたままの――つまりは、肌を外気に晒している状態。 しかし、それは当然のこと。 何故なら、彼女は女性のみが立ち入る事を許される湯浴み場から出てきたのだから。 剣の鍛錬によって、じわり、と浮かび上がった汗を流していたのである。 しかし、それも一瞬のこと。 人目はない。即ち、周囲には誰一人もいない。にも拘わらず、リノはろくに身体も拭わず、まるで何からも隠すように、厚手の布を素早く巻きつけた。 それから鏡の前に立ち、しばし茫然と。 左右が反転した自分自身を、何処か潤んだ黒瞳で見つめている。 映るのは、移ろう少女の形。 白い肌。黒い髪、瞳。全体的に丸みを帯びた、輪郭。服を着れば分からなくなってしまうが、ささやかなふくらみ。何よりも仄かに薫る、艶やかな香り。 ありとあらゆる全てが全て、リノという名の少女しか持ち得ないモノ。 そう。鏡像が示すのは、紛れもなく少女の姿だった。 にも拘わらず、映っていない。 彼女の意識は自身ではなく、 『身体を見たら、トラッドでも気付くのかな……』 いつかの思いと――彼への想いで埋め尽くされていた。 が、その時。 「リ〜ノ、ちゃんっ」 「わっ!?」 遠慮なく扉が開かれ、負けず劣らずの遠慮ない声が響く。 それが何者かは、一秒以内に分かった。 しかし、驚きつつも瞬時に振り返ったリノが、警戒心から身構えるよりも早く、 「湯上がりリノちゃんも素敵だけど、ボーッとしてると湯冷めしちゃうわよ?」 有り得ない速度と跳躍を用い、世界の原理や法則を無視して回り込んだナギサは、背中から抱き着くと同時に耳元でそう囁いた。 「わ、わかったから――」 「はいはい」 だが、普段と違って、引き剥がすまでもなく彼女は離れる。どうやら、本当に湯冷めしないか心配しているらしい。 「……もう」 リノは頬を膨らませながらも、結局はナギサの思惑通りに水気を拭い始めた。 そして、数分後。 「んー……それにしても」 何故、彼女はこの場に留まり、じっと自分を見ていたのか。 「……なに?」 もっとも、本当のところ彼女は。 じっ、と内面を視ようとしていたのだが、知る由もないリノは、ただ不満げな返答と共に振り向く。 しかし、答えはすぐに返ってこない――ものの。 「わ……」 ナギサはひとしきり、彼女の髪を白く細い指に絡めた後、 「髪、伸びたわね」 ぽつり、不穏に楽しそうな声色で呟いた。 「そ、そうかな」 「うん。それにすごく綺麗」 「……そんなことない、と思う、けど」 「ううん。私が言うんだから間違いないわよ」 更には、何故か褒められる。本心かもしれないが、やはり意図が読めず、どうしても信じられず、おまけに返す言葉もない。 「それでね――」 だが、ナギサは気にも止めず、おもむろに懐から何かを取り出すと、 「心機一転、っていうのはどうかしら?」 再び背中から抱き着き、頬ずりを交えながら、リノの眼前にその"何か"をちらつかせた。 「だから……え?」 二本の紐、だった。 しかも輪っか状で、多少の伸縮は自在らしく、彼女は鼻唄混じりで伸ばしたり縮めたりを繰り返している。つまり、おそらくは髪を纏める時に使う物だろう。 いくらリノでもそれぐらいは解る。というより、知っている。 ただ、嫌な予感がした。 「えっと……これ、が?」 むしろ、嫌な予感しかしなかった。 現に、彼女が紡いだ問いかけの音色は、程よく強張っている。 しかし、相変わらず答える気のないナギサは、ふふっ、と小悪魔な笑みだけ零すと、 「わわ、わっ」 くるくると器用な指遣いで、リノの髪を結い始めた。 「ナ、ナギサ……!」 「なあに?」 「こういうのは……その、ちょっと」 「いいじゃない。こういうのも可愛いわよ、きっと」 当然、リノも抵抗を試みる。 「でも――」 「間違いなく、可愛いわね」 「ナギ――」 「じっとしてないと長引くだけよ?」 「う……」 何とかして、何が何でも逃れようとした――のだが。 「もっとも……私から逃げられるなら、話は別だけど?」 「……なるべく早く、頼む」 最後の言葉には、さすがのリノも諦めざるを得なかった。 一方、その頃。 等間隔に配置された窓から、同間隔で陽光が差し込んでくる、ダーマ内のとある通路では。 「もう身体は大丈夫なのか?」 「ああ。それに、いつまでも休んでられないしな」 運動を終えたばかりのトラッドと偶然にも合流したラザが、のんびりのびのびと散歩していた。 こつ、こつ、こつ、と。 一定の (にしても……どうするつもりだ?) ラザにはすべからく目的があった。 彼と合流した事も。悠々自適に見える散歩も。 全てが全て偶然を装った必然であり、何もかもがナギサの思惑通りだった。 ただ、詳細は知らされていない。彼が知るのは、あくまで過程のみ。 もしかすると、勘付かれる可能性を考慮したのだろうか。 と、ラザが思考するという行為につられて、若干眉根を寄せた――刹那。 しん、と。 本当に音もなく、扉が開かれ。 「……あら、二人とも奇遇ね」 続けて、企てを聞いていなければ何ら不自然を感じない笑顔のナギサが、かつん、とヒールを鳴らした後。 「え? わ、わわっ」 何故か、リノの酷く取り乱した声が耳に入ってきた、のだが。 「ほらほら、リノちゃん」 「ちょ、ちょっと待って……!」 「どうして? どこにも待つ必要なんてないでしょ?」 「で、でも――」 「つべこべ言わないのっ」 くるり、と鮮やかに ――わたわたと慌ただしく、両肩の辺りでおさげを二本揺らしていた。 そんな普段よりも女の子らしい髪型の彼女に、少なからず驚いたラザだが、 (……なるほどな) 瞬時に理解もする――ナギサは自分も驚かせるつもりだったのだ、と。 そして、よく似合っている、と彼女の策略通りに納得もする。 確かに、そう。 控え目な髪型ではあるが、それだけに自然で。言い換えれば、リノという少女の魅力が十二分に活かされているのだから――似合わないはずが、ない。 だが、感心したのも束の間。 「……トラッド」 意図的に音階を下げたナギサの呟きに、ラザはすぐさま我に返る。 それに伴い、隣で立ち尽くしているであろう彼を横目で盗み見ると、 「…………」 まさしく予想通りの姿と表情で、言葉を失っていた。 見惚れている、に違いない。 しかし、いつの間にかリノを解放していたナギサに、再び呼びかける様子はなく。代わりに有無を言わせない迫力で、つかつか、と歩み寄ると、 「ていッ!」 「いっ!?」 すぱぁん、と 「い、いきなり何を――」 「感想」 ともあれ、兆しもなく叩かれたトラッドは反論しようとするが、それさえもハリセン並に鋭く放たれた一言で遮られてしまう。 「……へ?」 しかも、理解できずに間の抜けた声を落とした瞬間、すぱしぃん、と同じ箇所へ無言の第二撃。速すぎて見えなかったが、めでたい音色から察するに二発は入ったようだ。 「っ〜〜〜!」 さすがのトラッドも後頭部を押さえながら、その場に膝を着いた。 が、ナギサが気に掛ける気配はない。幸いな事に、追撃の気配も。 「……ラザ、行くわよ」 「え? あ……ああ」 加えて、彼女は流麗な所作で背中を向けると、 「さっき言ったこと、忘れないようにね」 最後にそれだけを告げて、ラザと共に去っていった。 ただ、相変わらずの厳しい態度とは裏腹に、どこか優しい声だった。 しかし、取り残された二人は気づかない。どういう感情によって紡がれた声なのかも、知る由はない。 「えっと……大丈夫?」 「……一応は」 それでも、幾度か交わした覚えのある、短いやり取りを経て。 リノは困惑の様相で手を差し出し、トラッドも自然と手を取って立ち上がった――のだが。 次の瞬間。 「あ……」 「え? ……あ」 互いが互いの感触に驚き合い、二人はどちらともなく手を離し、背を向け合った。 「…………」 すると、途端に空気はぎこちないモノへと変質する。 が、約数十秒の時を経て。 「……あ、あの」 「な、なに?」 つっかえながらも、トラッドが沈黙を破ると、リノは若干身を固くして続きを促した。 この時、彼の脳裏や脊髄に。 『感想』 『さっき言ったこと、忘れないようにね』 ナギサに聞かされたばかりの言葉が響いていたわけでは、ない。 にも拘わらず、彼はこわごわと唇を割り、わずかに震える声で紡いでいた。 「その髪型、よく似合ってる……と、思う」 先ほど自分が思い、想った事を、何一つ飾り気のない率直過ぎる言葉で。 「え?」 当然、予想外の感想にリノは驚き。 「……そんなこと」 三度ほど瞬きした後で、思わず否定的な本音を零す。だが、首肯を繰り返したトラッドを目の当たりにするや否や、 「っ!?」 ぼっ、とみるみる頬を染めると同時に、それを隠そうと俯いてしまう。 こうして、しん――と、本来なら言葉では表現しようのない沈黙が、再び訪れた。 「――あ」 しかし、リノがぽつりと。 「あ……ありが、と」 今にも溶けて消え入りそうな声で、おずおずと礼を告げた――直後。 「散歩……よかったら散歩、しないか?」 トラッドの不自然に唐突な一言をキッカケに、二人はナギサたちとは逆方向へ歩み始めた。 「……うまくいったようね」 「そうだな」 立ち去ったフリをして身を潜ませていた気配には、微塵も気づかずに。 夕闇が迫る時を、停止させるようで――夕凪には辿り着けない刻。 リノは小さな二本のおさげを揺らしつつ、大きくはない歩幅で足を進め、トラッドも自然と足並みを揃えて、結果的に普段と変わらぬ距離で隣り合って歩く。 何とも仲睦まじい雰囲気だった。 「…………」 ただし、不思議と言葉はない。 耳に入る音と言えば、強弱を絶妙に使い分ける風と、吹かれなびく陽炎めいた草花たちのざわめきだけ。世界の紡ぐ歌は鳴り響こうとも、人間が奏でる音は存在していない。 だが、やがて――不意にトラッドが足を止めると、リノも彼に倣う。 「えっと……リノ」 そして、外壁にもたれかかりつつ、彼は少女の名を呼んだ。 偶然にもその位置は、数時間前にナギサとラザが佇んだ場所と同一ではあったが、知る術などあろうはずもなく、そのまま会話が始まる。 「……なに?」 一方、答えた彼女の声色は表情と類似した固さがあり、それに相応しく淡々としていた。 一体何を思っているのかは、分からない。 彼には解らないのだが、 「あ、あの……ずっと言おうと思ってたんだけど、さ」 緊張した表情で前置いてから、切り出す。 自分が今、何故ここにいるのか――こうしていられるのか。 「……助けてくれて、ありがとう」 全てとはいかないまでも、紛れもなく一端を背負い、果たした彼女へ感謝を述べた。 「…………」 だが、返答はなく、ましてや言葉に詰まったようにも見えない。 その間隔は、ひたすらに――異様に長く感じる数秒間である事だけが確かだった。 「……な……で」 「え?」 しかし、程なくしてリノが呟き、聞き取れなかったトラッドが問い返すと、 「もう……もうあんなこと、しないで」 今度ははっきりとした声で、否定的な言葉を口にした。 「私は、嬉しくない」 「…………」 「あんな風に助けられても――」 そして、既に堰を切っていた"想い"は、 「私だけ助かってもトラッドが助からなかったら――意味なんて、ない……!」 ついには少女を激昂に至らせ、 「だから……もう二度とあんなこと、しないで」 最後は肩と声を力なく落とし、ようやく感情を鎮めさせた。 ナギサの言う通り、リノは怒っていた。 身を挺して自分を庇った彼に、というよりも、彼に庇われてしまった自分の無力さに。 それを今という現在――つまりは今更になって、ようやく理解したトラッドは絶句する。 だが、それは一瞬で。 彼は若干の戸惑いは残しつつも、眉間に皺を寄せると、 「……できない」 珍しく不穏な声で、明瞭に否定し、 「なっ……!?」 「そんな約束はできない、って言ったんだ」 更には、より明確に繰り返した。 信じられない、言葉。 他でもない彼の言葉。 「どうし――」 しかし、リノが二度目の激昂に心身を委ねるよりも早く、 「――……え?」 彼は唐突に、それも強く彼女を抱き締める事で遮り、 「俺だって……怒ってるんだからな」 酷く低い声色でありながらも、どこか悲しげに呟いた。 そして、彼は続ける。 「世界が平和になったら、一緒に旅をする」 「っ!」 「ルザミで約束したよな?」 「……そう、だけど」 「でも、リノは言った……もう忘れてほしい、って」 「だって……だって、私は――」 だが、トラッドは抱き締める事によって、リノには何も言わせようとしない。 見通しているからだ。 彼女が一体何を言い、どのように自分を"否定"しようとしているのかを。 それゆえに、彼は告げる。 「分かる、なんて言うつもりはないけど――でも……」 ぽつぽつり、と。 「……でも、俺は自分がそうしたいと思ったから」 一つ一つ丁寧に言葉を選んで。 「他の誰でもないリノだから……約束したい、って思ったんだ」 例えどんなに小さな声であっても、 「本当に嫌になったなら仕方ないけど、そうじゃないのなら――……忘れてほしい、なんて言ってほしくない」 内に秘めた"想い"以外は、全て彼女に伝わるように、紡いだ。 「……トラッド」 彼は既に気づいていたのである。 意識が深い闇に閉ざされる間際、少女への淡い恋心を自覚した、あの時に。 何故、彼女があんなことを言ったのか。 一体、どんな傷痕があんなことを言わせたのか。 全て、気づいていたのである――彼女が抱く自分と同じ"想い"以外は。 「……いいの?」 そこでようやく、まだ少し息苦しそうではあるものの、リノは短い三文字の問いを投げ、 「本当に……いい、の?」 答えも待たず、念を押すように重ねて、しばし口を噤む。 そしてふと、彼女の結われたばかりの真新しいおさげ髪が、ふわっ、と一瞬だけ風の中を舞った直後。 「ああ」 トラッドは肯定の意を示し――それを、いつの間にか真っ赤になっていた耳で確認した彼女は、 「すごく……うれしい」 素直な気持ちを声に乗せながら、ゆっくりと、柔らかに彼の背中へ手を回した。 だから、だろうか。 吹く風も、揺れる草も。間もなく降りようとしている、夜の空気も。 二人にとっては、何もかもが優しく感じられた。 それから――数分後。 「えっと……もう、落ち着いたか?」 「う、うん……トラッド、は?」 「俺も落ち着いた、かな」 「じゃあ、えと……戻ろうか」 「そ、そうだな」 ぎこちなく身体を離し、やはりぎこちなく言葉を交わし、案の定ぎこちない足取りで引き返し始めた二人――だが。 この時、互いが隣を歩く相手を意識しながら、互いに同じ事を考え。 その思考がもたらしたモノは、純粋無垢な恐怖だった。 もし、彼が。 もし、彼女が。 気づいてしまったら。 身と心を委ねる理由が、以前とは違うことに気づいてしまったら。 今の温もりさえも失われてしまうのだろうか――そんな、恐怖。 次の話へ
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