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「……トラッド」 「ん?」 「シ、シチューの味見、お願いしてもいい?」 「ああ――……ん」 「ど、どうかな?」 「うん、美味しい」 「っ! ホント!?」 「ああ。味もしっかりしてるし……何より」 「なにより?」 「飽きない感じがする」 「そ、そうなんだ」 「これだったら毎日でも食べられるな」 「毎日……って?」 「その、えっと……だ、だから!」 「な、なに?」 「毎日作ってくれると嬉しい、かな――……旅が終わった後でも、さ」 「それって――」 「まぁ……そういう、こと」 十に満たない数人の手には余るであろう、巨大な船。その中の、最低でも一日に三回――後始末を含めれば六回――は戦場と化す場所。 即ち、厨房。 其処と通路を別つ、見るからに優れた防音性を有している木製の扉には、丸く小さな窓があり――今はちょこまかとウサギ耳が、幾度となく横切っている。 言うまでもなく、ナギサだった。 そう、彼女は秘密裏に極秘裏に様子を探っていた。 窓に切り取られた厨房内の風景。 紛れもなく、その中心であるリノとトラッドの表情や仕草から―― ――イタズラにそんな会話を想像し、ひたすらに楽しんでいたのである。 もっとも、想像というよりは好奇と願望が過剰に含まれた"妄想"とでも呼ぶべき代物だが、 (……さすがに有り得ないか) 彼女自身は極めて冷静に、そして既に解答を導き出してもいた。 いずれにせよ、微塵も益体のない空想である。 ちなみに、前半部は殆ど的中していたのだが、幸か不幸か彼女がそれを知る事はなく。また、ダーマを発つ前よりも良い雰囲気である事自体も、疑いようもない事実ではあった。 (うーん……だったら) 兎にも角にも、ナギサが次の誇大妄想に想いを馳せようとした――刹那。 「……何をしてるんだ?」 「っ!?」 唐突に響いた訝しげな低音に、びくっ、と心身を弾かせた。 声はかろうじて発していないが、相当に驚いた事は確かなようで、現にウサギ耳は真っ直ぐ天を衝いている。 とはいえ、それは有り得ない現象に他ならず。 (どういう仕組みなんだ……?) しかし、その原因を作った張本人は胸中で呟くだけに留め、彼女の返答を待った。 彼女の奇行をよく知るがゆえにウサギ耳の機巧にも慣れてしまった、のかもしれない。 幸か不幸かは無論、ウサギ耳の仕組み自体も、やはり不明ではあるが。 「……いきなり話しかけないでよ――ラザ」 ともあれ、瞬時に気を取り直したナギサは、振り向くと同時に非難げな視線と言葉を投げる。もちろん、背後の微笑ましくも興味深い光景はしっかりと考慮し、声を潜める事も忘れてはいない。 「話しかけられて気づかないのも、どうかと思うが?」 つられて小声で、しかも珍しく強気に問い返すラザだが、 「しょうがないじゃない」 彼女の返事は単刀直入で、むしろ単刀直入過ぎるがゆえに意味が分からず、当然ながら訳も分からない。 そこで彼は、ナギサの肩越しに厨房内を覗き込み、 「……ああ、リノとトラッドか」 把握した状況を、とりあえずは端的な言葉で表した。 同時に、ナギサの行動理由も何となく理解はしたのだが、 「ねっ?」 自信満々に同意を求められたところで、困惑せざるを得ないのも、やはり揺らぎようがない現実で――つまりは、いつも通り。 結局は回答など見つかってない上に、そもそも問題すら明らかになっていない、という事である。 だが、さすがと言うべきか。 「……一応訊くが、理由は何だ?」 学習の賜物とも呼べる冷静さで、ラザは彼女の行動理念を控え目に問う。 しかし、ナギサも負けてはおらず、 「そうね……夢と希望を追い求めた結果、かしら?」 脊髄反射じみた速度で、疑問符混じりの曖昧で漠然な返答をする。 「ちなみに誰の?」 「主には私の」 「……だろうな」 それから、しばし不毛なやり取りが続いた後。 「でも、あの二人自身はもちろん、ラザにとってもそうじゃない?」 ナギサはいかにも正論じみた言葉を、いかにも正論であるかのように、あっけらかんと口にした。 確かに、間違ってはいない。むしろ、リノとトラッドの二人を知る人間なら誰しもがそう願っている、と断言してしまっても過言ではないだろう。 「ああ、そうだな」 ゆえに笑顔を唐突に零したラザは、半ば強引とも思える彼女の主張を素直に肯定した。 しかし、会話が途切れ、寄せては返す波音がやけに大きく響いた刹那。 「……もしかしたら、だけど」 ナギサは、とつとつ、と。 「少し――羨ましいのかもね」 ナギサらしからぬ音色で、何処かナギサらしくない意味深な言葉を落とした。 それは、本心か。 それは、虚心か。 それか、両方か。 何を思ったのかは分からないが、 何か思ったのは確かな気がした。 「ナギサには……いないのか?」 「え?」 それが赤い双眸に、どう映ったのか。 「いや……そういう相手を見つける気はないのか、と思ったんだが」 ラザは気負いも他意もなく、ごく自然にそう呟いていた。 勇気。覚悟。何よりも――資格。 本来なら、それら全てを持ち合わせていても紡ぎ得ないであろう言葉を、だ。 その証拠に、呟いた直後の彼の心音は、同一人物とは思えないほど激しく脈打っていた。 「…………」 だが、一方のナギサは沈黙に伏す。 緩慢なようで性急な、数十秒にも満たない数秒の――静寂。 しかも、思考している、というよりは、ただ茫然となっている様相で、彼女にしては珍しい。 そんな時を経てから、ナギサは言った。 「えっと……ごめん。考えたこともなかったから、驚いちゃった」 「は?」 間の抜けた声が、思わず口から零れる。 「あはは――」 しかし、彼女は気にも止めず、どころか本当に可笑しそうに笑うと、 「でも……しばらくはない、かな」 やがて、ぽつり、とそう呟いた。 「想像できる? 私の隣にそういう相手がいる光景なんて」 続けて、質問。 「大体、私好みの素敵な男も、今のところは見かけてないしね」 更には、理由。 「縁がないのよ、きっと」 そして、結論。 「まぁ、私の将来を心配してくれる仲間がいる辺り……その、運はあるようだけど」 最後は、本心――で締め括った彼女の表情は、少し照れたような笑顔だった。 笑顔。そう、笑顔だ。 それは可憐で美しく、並大抵の事では平常心を損なわないラザでも、限りなく二に近い一秒は見惚れてしまうような――そんな、笑顔。 にも拘わらず、この時。 彼の胸中に燻っていたモノの正体は、 (ナギサ……?) 漠然でありながらも歴然とした――違和感。 とはいえ、特に何かがおかしいようには見えず、本音を明かせば、どうして不穏や不安を覚えたのかも定かではない。 だが、確かに。 彼の直感は、何かの軋み、を訴えていた。 (ふむ……) 原因。理由。経緯。結果。 ラザはそれらについてを考え――ようと試みる。 「それで?」 「……え?」 しかし、それよりも早く。 「ラザのことだから、何か用があって話しかけたんでしょ?」 ナギサはまるで思考を見抜いたように――見抜いた上で遮るように、話を先へ進めてしまう。 だから、彼は頷いた。 「少し……話しておきたいことがあってな」 頷く事しかできなかった。 それに彼女に用があったのも事実ではある。 ただ、咄嗟だったせいか、声の翳りまでは抑え切れなかったのだが、 「……場所を変えた方が良さそうね」 ナギサはそれを"真剣で内密な話"と捉えたらしく、此処ではない何処かへ向かって歩き出す。 いくら鋭い彼女でも、自分が原因とは微塵も考えなかったのだろう。 そして、真剣で内密な話なのも、やはり事実――紛れもなく事実ではあるが、行動は符合していても理由が掛け離れているのは、どうあっても皮肉な結果と言わざるを得なかった。 ――ところで。 船は今、世界地図に拠るところの それは何故か。 その理由が芽吹いた経緯については、現在より二日前まで遡る。 リノたちがダーマで過ごし、三日が過ぎた頃。 「…………え?」 より詳細に言い表せば、五人での夕食が三度目となる時だった――アーニーが"その話"を切り出したのは。 最初に呟いたのは、ナギサ。 ただ、驚きや惑いに心を支配されているせいか、声ですらない音でしかなく。他の三人に至っては、目を少しばかりか大きく見開いているだけだ。 「それは本当のこと、なの……?」 しかし、無理もない。 何故なら、アーニーが話した内容とは。 「うん……捕まってる、って」 かけがえのない仲間――ヤヨイが牢屋の中にいる、という信じられない話なのだから。 ちなみに、彼女がその事を知ったのは四日前。ナギサとラザが"船乗りの骨"を標に、ちょうど旅立った直後であるらしい。 つまり、随分前からアーニーは黙っていた事になる。 だが、それでも――誰一人として、彼女を責めようとはしなかった。 分かっていたのである。 すぐに聞かされたところで、すぐに助けに行けない事も。 すぐに知らされたところで、底知れぬ不安が募るばかり、という事も。 そんな場面が容易く想像できてしまったために、心身を切り刻むような苦渋の決断に踏み切らざるを得なかった、と誰も彼もが十二分に理解していたのである。 逆に言えば、今なら、と彼女は思った。 共に旅をしていた四人が揃い、トラッドも万全ではないにしても身体を動かせるようになり。 何よりも、彼の隣にリノが座っている、という光景が草花の瞳に映ったからこそ――アーニーは打ち明ける決心をしたのである。 同時に、無差別でありながらも真っ当な"非難"を浴びる覚悟も、心では決まっていたのだが、 「……分かってる」 「え?」 「もちろん、俺だけじゃなくて――みんな」 隣に座ってたラザの一言に、そんな恐怖は消え去り、図らずも安堵は胸中を埋め尽くした。 更には、これも不謹慎とは思いながらも。 自分は本当に幸せ者だ、と想わずにいられなかった。 しかし、間髪入れずに思考を切り替えたアーニーは、少し潤んだ瞳のまま話し出す。 ナギサとラザがダーマを発った直後、フラックと名乗る男が訪れたこと。 彼の話によると、ヤヨイは罪を着せられただけ、ということ。 そんな彼女を救うために、リノたちの助力を求めにきたということ。 アーニーは私情を一切交えず、事情をありのままに説明した。 そもそも、何故そういった状況になったのか。 フラックは責任を感じているのか、詳細を語らなかったのである。 それが つまり、リノたちはヤヨイを助けるために。 即ち、彼女と無事に再会するために、西海を越えようとしていた。 と、改めて成すべき事を思い出しながらも。 「……でも、まさかキメラの翼が使えないなんてね」 「そういえば……どうしてなんだ?」 甲板に上がった二人は、用心深く周囲に気配がない事を確認すると、 「そうね――」 ぷつぷつり、と若干重々しげに言葉を交わし始めた。 「簡単に言うと、面影が残ってないからよ」 「面影?」 ちなみにラザは舵を握り、ナギサは危なげなく 「ええ。目的地がどれほど変わろうとも面影――言い換えると、私たちの知っている風景さえ残っていれば、それだけでキメラの翼は発動するわ」 そして今は、ラザの疑問に答えていた。出発の準備に追われるあまり、説明していなかったのだ。 「……つまり、それだけ町が変わってしまった、と?」 「変わり過ぎた、ってぐらいにね」 だが、説明は程なくして終了する。そもそも、難しい問題でもない。キメラの翼やルーラの構造や構成を熟知していなくとも、使用法と結果を知っていれば簡単な話なのである。 ゆえに、リノは既に気づいているだろう、とナギサは確信していた。 となると、知らないのはトラッドだけになるのだが、 (ま……聞かれたらでいっか) 彼女に進んで説明する気はなかった。付け加えれば、転位系に伴う浮遊感や落下感が苦手な彼に興味がある、とも思わなかったのである――面倒を感じたのも事実だが。 などと、曖昧然に考えた後。 「……それで?」 彼女は唐突に、声色を変えて切り出す。もちろん、本題について、だ。 一方のラザは淀みない手つきで舵を固定し、ナギサへ向き直る。いつの間に慣れたのだろう、と自分の知らない彼を目の当たりにした彼女は少し驚き、胸中密かに感心しつつも、耳を傾け始めた後。 「……トラッドのことだ」 紡がれた名前に、すっ、と碧眼を鋭利に細めた。 「トラッドの、こと?」 そして、神妙に繰り返す。 受けたラザは、こくり、と頷くと、 「正確には――"盗賊の眼"のことだ」 より衝撃的な言葉へと置き換えて、じっ、と彼女を見据えた。 「盗賊の、眼?」 盗賊の、眼。 忘れてなど――否、忘れられるはずなど、ない。 発動こそ不確定で、とても切り札には成り得ないが――しかし、それゆえに絶大なる"力"。 強靱な肉体とも強大な呪文とも違う、明らかに常識という名の普遍的概念を逸脱した"力"。 盗賊の、眼。 忘れられるはずがないのだ。 一つの結末を想像するのではなく、理想とする結末を創造する"力"など。 「……ナギサも、違和感はあったんじゃないのか?」 だが、ラザはすぐに話を始めず、一旦は間を置く。 まるで試すような言葉だが、彼女は微塵も構わずに首肯し、 「盗賊の眼が発動していながら、どうしてあんなことになったのか――でしょ?」 それでも何処か反撃めいた、いかにも"らしい"音色で問い返す。 彼は頷かなかったが、代わりに重厚な雲に飾られた空を不意に見上げると、おもむろに話し始めた。 グリンラッドで、カンダタから聞かされた"盗賊の眼"にまつわる話を。 それは、船に戻った直後のこと。 より詳細に記すなら、カンダタがラザからキメラの翼を受け取った時のことだ。 聞くところによれば、彼もトラッドと同じく普段から持ち歩かないらしい。それが何故かまでは――決して語ろうとしなかったが。 もしかすると、理由も同じなのだろうか。 という推測を不謹慎と知りながらも抱いてしまったラザだが、 「話というのは?」 そんな内心は全く表情に滲ませず、話を促す。 すると、カンダタは前触れもなく双眸を細めた後、 「サマンオサで……あの化け物と戦う前、俺が小僧に言ったこと――……兄さんは、覚えてるか?」 普段よりも一層低く、辺りに響きそうな声色で尋ねた。 ラザは記憶の糸を手繰り寄せる。 (たしか……) 『……迷うなよ』 『迷いってのは、それこそ魔物だ。判断を鈍らせ……時には死を招く』 『要するに迷ったまま戦うってことは、命を投げ捨てるってことだ。違うか?』 答えはすぐにでた。が、意図は読めない。 何故なら、それは"当たり前"のことだからだ。 戦いの際に相手の様子を窺う事は、確かにある。しかし、それは"迷"っているのではなく、最悪を回避すべく最善を"選"んでいるだけの話。これらは似ているようで明らかに異なるが、別側面から見れば似て非なるモノと言えなくもなく――つまりは、限りなく密接に関係した心情。 ただ、それだけの話だ。 「……迷うな、という話か?」 ともあれ、ラザの返事は、ひとまず確認に落ち着いた。 「ああ。言うまでもなく、当たり前のことだけどな」 対して、頷いたカンダタは彼の思考を踏まえたような返答をする―― ――が。 「けどよ、小僧にとっては"それだけ"じゃねぇんだ」 接ぎ繋がれた声は更に低く、重く。冷静沈着なラザの瞳を普段以上に見開かせるには、十二分な効果を備えていた。 「盗賊の眼には、もう一つ弱点がある」 「弱点?」 そして、更に話は続けられる。 「それが……"迷い"だ」 「迷い?」 「ああ。迷いによって"盗賊の眼"は――反転する。現に親父さんも"迷った"せいで怪我をしたことがある、って言ってたな」 しかし、漠然に過ぎる単語を繰り返し、はっきりと理解した直後、 「……ちょっと待ってくれ」 ラザは思わず右手を翳し、思いがけず声を上げ、思わぬ箇所で遮ってしまった。 「なんだ?」 にも拘わらず、カンダタは既に応答の態勢を整えている。 ちょうど話が途切れたからか。それとも疑問を予期していたからか。 おそらくは、後者――と無意識で彼は判断を下しつつ、 「それは……誰しもが抱えているモノではないのか?」 何ら不自然ではない、つまりは自然で真っ当な質問を投げた。 迷い――彼の言う通り、それは誰彼の心にも潜み、蠢いているモノ。 先刻の思考に話を帰結させると。 選択とは、既に存在する選択肢から選び取る事。 混迷とは、選択肢を見出せぬまま迷い彷徨う事。 少なくとも、ラザ自身はそう解釈している。 だが、提示された選択肢を前に"迷う"事もあり――元より、見極める手段がない。 いくら間断なく決断された回答であっても、人によっては"迷いがあった"と受け取る事も有り得るからだ。 そう――結局は、自分も含めた受け手側の問題なのである。 しかし、ラザの複雑な表情から"迷い"を察したらしいカンダタは、 「あー……別に何でもってわけじゃねぇよ」 粗雑な手つきで頭をかきながら、まるで諭すように言い、 「例えば……そうだな」 そのまま、しばし思案に暮れた後、やがて呟く。 「ふむ……嬢ちゃんが、ちょうどいい例になるか」 「リノか?」 確認するように、ラザ。 答えは分かりきっていたが、念のため、というやつである。 「ああ」 そして、案の定首肯したカンダタは、 「あの嬢ちゃん、小僧に惚れてんだろ?」 悪びれもせずに、そんな言葉を繋ぐ。 「……まぁ、そうだな」 一瞬は虚を突かれたラザだが、すぐさま認める。 何故知っているのか、などとは訊くまでもない事実だからだ。 「で、嬢ちゃんがそれを打ち明けるかどうかで悩んでるとするだろ?」 結局、話は事も無げに続く。 「実際に有り得そうな話だが、それが?」 「水を差されたのは気に喰わねぇが……要するに、そういうこった」 「……は?」 だが、話は事も無げに途切れた。 先ほどの結論と同じく、あまりに漠然とし過ぎているせいである。 「要するにだな……嬢ちゃんにとっての小僧ってのは"そういう相手"なわけだろ?」 「ああ」 「それも、酷く取り乱すぐらいに、だ」 「……ああ」 「だとしたら、小僧に関する迷いは相当に深い、ってことにならねぇか?」 「……なるほど」 しかし、すぐさま納得する。 つまり、彼の言う迷いとは、 『大切な"何か"が関係するような類の"迷い"』 に他ならない。 それはトラッドにとってのリノであり、 (……俺にとってのナギサ、か) でもあり、そう置き換えられたからこそ納得できた、とも言える。 「なら、トラッドの場合は?」 とはいえ、それだけでは反転の現象に説明がつかない――どころか矛盾が生じる。 あの時の彼は"リノを救うこと"しか考えていなかったはずで、その行動に迷いがあるとは到底思えないからだ。 そこでカンダタは、再びの思考に身を投じた後、告げる。 「……小僧の"迷い"はいくつあったんだろうな」 「…………」 ラザに返す言葉はなかった。 確かに、彼の答えは全て不明瞭で、何一つとして具体的ではない。 だが、耳にまとわりつくような仄暗い音色は、内容以上に全てを物語っていた。 その正体はきっと、後悔。 真実の全貌を明かした事に。本音の断片を明かした事に。 そのせいで彼が心に整理をつけられず、迷い続けていた、と気づけなかった事に。 彼は後悔していたのである。 加えて、トラッドにはもう一つ迷いがあった。 大切な、約束。 一度は温もりと共に交わされた、リノとの約束。 それが何故潰えてしまったのか、という迷いも――あった。 しかし、二人に知る由はなく。 それゆえに払拭しようのない沈黙が、ふつふつ、と逆巻きかけたのだが、 「……話は終わりか?」 そんな居心地の悪い静寂を、ラザは破り捨てた。 「ああ……終わりだ」 「分かった」 起伏のない、冷めた声で淡々と。 それは彼らしからぬ口調にも拘わらず、カンダタに変化はなかった。 予め話さなかった事を暗に責められても仕方がない、と受け入れていたからである。 だが、最小限の物音を引き連れて立ち上がったラザは、 「……トラッドは大丈夫だ」 背中を向けたまま、告げる。 「だから――後のことは任せておけ」 そして、彼のその一言を最後に――二人は言葉も交わさず、別れた。 「……迷い、ね」 静かに話を聞き終えたナギサは、程なくして呟く。 「本当に神様っていうのは、何を考えてるのかしら」 それは小さくない怒気を孕んだ、苛立たしげな音色だった。 しかし、ぽつり、と。 「まぁ……しかたないけど」 諦念めいた内容で続けられた声には、 「それがトラッドなんだから」 不思議と明るい響きが、色濃く満ちている。 そう。彼女はおそらく心配していない。 微塵も、と言えば嘘になるが、それでも懊悩には遠く及ばない。 何故なら、ただ一途に、ひたすらに信じているからだ。 彼を――いや、正確には二人を。 「もう大丈夫、か」 突然過ぎる"死"さえも乗り越えたリノとトラッドの絆を――信じきっているからこそ。 彼女の表情には、一切の翳りが見当たらないのである。 「だから話してくれたんでしょ?」 だが、甲板に上がってから初めて笑顔を見せたナギサの問いに対し、 「…………いや」 しばし眉根を寄せたラザは、苦々しげに否定する。 違う。 違う――きっと、自分はただ。 そうして、顔を伏せた彼は、力なく首を横へ振った直後。 「俺はただ……ただ――」 カンダタの前では決して見せられなかった本音を、 「自分だけが知っていることに……堪えられなかっただけ、だ」 本音という名の弱音を、初めて口にした。 よりによって――最愛の するとその時、ようやく身を起こしたナギサは、兆しもなく歩みを始める。かつかつ、と小気味良く刻まれるヒールの音から察するに、どうやら船内へと続く扉を目指しているらしい。 呆れてしまったのだろうか――それも当然の結果、か。 と考えるラザには、目で追う気力もない。 しかし、唐突に――しかも、思いの外近くで足音が鳴り止んだ刹那。 「……ねぇ、ラザ」 彼女は軽蔑や侮蔑とは掛け離れた音色で、か細く名前を呼ぶと、 「ラザは私に――」 やはり何一つも前兆なく―― 「私に……背中を預けてくれないの?」 ――背中を重ね合わせてきた。 「ナギ、サ?」 衣服越しに伝わってくる、完全に不意打ちの体温に。 「どうなの?」 気紛れに雲間から顔を覗かせた太陽に映える金糸と、潮風に消えない艶やかな薫りに。 「答えるつもりも、ないの?」 ラザは全てに近い大半以上の感覚を――忘れた。 二度目であるにも拘わらず、だ。 今や確かなのは、平穏時の平温を容易く凌駕する"熱"と。 どっ、どっ、どっ。 と自身の胸中から不安定に響き渡る、くぐもった心音だけで。 当然、言葉など紡げるはずもない。 「ルザミを出た後のこと……覚えてる?」 だが、痺れを切らしたナギサは、問いかけを皮切りに話し始める。 もちろん、覚えている。だから、彼は静かに頷く。 忘れるはずがない。 『あの時は……ありがと』 忘れられるはずが、ない。 『ラザが来てくれなかったら……きっと私一人で抱え込んでたと思う』 何故なら、あの時は。 『ほら、誰かと話すだけで気が楽になる事ってあるじゃない? 今、ちょうどそんな感じかなぁ……』 思いがけず、堰を切って溢れそうだった想いを抑え付けながらも。 『だから、そういう意味のありがとうなの。ね?』 思い切って、堰を切って溢れそうだった想いの断片を言の葉に乗せた刻なのだから。 一方、じっ、と微動足りせずに答えを待っていたナギサは。 「だから……えっと、ね?」 表情や反応が窺えない位置ながらも、首肯した事は気配で感じ取ったのか。 「ラ、ラザにどう伝わってるか、なんて……その……よく、分からない、けど」 珍しく、ぎこちなく。 珍しく、震えた声で。 「私は結構――背中……預けてるつもり、だから」 彼女は告げた。 「……そ、それぐらい察したら?」 文句とも呼べない文句と。 「それとも……まだ、解らない?」 詰問には及ばない詰問も、添えて。 だから、ラザは静かに頷いた。 そこまで言われて、解った。 そこまで言われて、解らないはずもなかった。 それは、ずっと――彼女と再会し、共に旅をするようになってからも、ずっと。 心から願っていた言葉、なのだから。 「いや……」 ゆえに、ラザは――否、 「……よく、解った」 彼女に倣って、素直に心身を預けようとした―― 「あっ!」 ――のだが。 「お昼ご飯! そ、そろそろできてるかしら?」 「え?」 ナギサが何故か慌ただしく呟きながら身を起こしたため、そのまま自由落下に至ったラザは――結果、敢えなく甲板に頭を打ちつけてしまった。 「っ……」 直後、視界に入ってきたのは、いつの間にか太陽が隠れた一面の曇天模様。 しかし、程なくしてそれを遮って飛び込んできたのは、 「全く……何してるんだか」 愛おしく想っている しかも中々目にする機会がないぐらい、相当に呆れ返っている。 が、それほどまでに呆れていながらも、 「……ほら」 彼女はそっぽを向いたまま、手を差し伸べている。 ラザは考える。 もしかすると、自覚があるのだろうか。 自分のせいでこうなった、とありもしない責任を感じているのだろうか、と。 ただ、いずれにせよ。 わざわざ手を借りるような 確かに受けてはいないのだが、彼は迷う事なくその手を取った。 支えるでも、支えられるでもない。 支え合う、という意味が――そんな意志が込められた"手"を。 次の話へ
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