第93話 「見えず、聞こえず、触れられず」


 青くて白く、白くて青く。
 割合で言えば、おそらくは蒼と表現できるものの、何も考えずにそう断定してしまうには惜しい色合いの――早朝の空。
 意識を覚醒させたばかりのトラッドは、
「…………おい」
 何故か"逆さま"で担がれていた。


 さて、確かに目を覚ましたばかりの彼だが、起きるのが誰よりも遅かったというわけではなく、むしろ二番目に早かった。更に詳細を語れば、朝食の状況も至って平穏そのもの。つまり、特に目新しくもないが、かけがえのない日常。敢えて異なる点を挙げるとすれば、昨夜の宴で飲みすぎた――正確には飲まされた――彼を心配し、密かに付きっきりだったリノが、頭だけをベッドに乗せて眠っていたぐらいである。
 穏やかなリノの寝顔。それは彼にとって、疑いようもなく衝撃的だったが、逆に言えば、それだけに過ぎないはずの朝で、少なくとも今の今まで意識を失うような出来事はなかった。
 では、何故か――明白である。
 早めの朝食を終え、しばらく語らい、そろそろ出発しよう、と呟いたトラッドが、ぐっ、と背伸びをした刹那。
「はいなっ!」
「かはぁッ!?」
 極めて無防備な延髄にハリセンが、ひゅぱぁん、と炸裂し、両腕ではなく両足を両肩に乗せる、という少々一般的ではない"おんぶ"でナギサが彼を運び出した。
 ただそれだけの、強いて言えば"いつもどおり"の事なのだから――


 ――兎にも角にも。


「ナギサ!」
「なーにかーしらーらーらららーら?」
「歌うな!」
「そういう気分だったのよ? しょうがないでしょ?」
「解らないけど、分かったから……とりあえず意味と理由を教えてくれ」
 頭に血が上る状態で、既に頭の痛くなる会話を経て、早くも頭が混乱気味のトラッドは、多少の不可解と多大な理不尽には目を瞑って説明を求めた。
 だが、いかに至極真っ当で、どれほど筋が通っていたとしても。
「その前に一つ、明かしておくべき真実があるわ」
 相手は、ナギサ。
「なんだよ」
「眺めはどう?」
「……は?」
「普段とは百八十度異なった角度で見る世界……きっとステキなんでしょうね」
「そんなわけあるか!」
 自分の状況がどうあれ、一筋縄でいくはずもない。
(ったく……大体、何で逆さまなんだよ……?)
 結局、潔くも早々に詰問を諦めたトラッドは、自ら回答を探す事にした――のだが。
(……ん?)
 ふと気づき、疑問を抱く。
(何で誰も止めないんだ?)
 信頼を寄せる仲間たちが、すべからく状況を見守っている事に。
 ラザは分かる。表情から察するに、おそらくは万策が尽きたのだろう、と。
 ヤヨイも分からなくは、ない。理由は分からないが。
 しかし、リノが分からない。普段の控え目さからは想像もつかないぐらい、ナギサの奇行を止めようとする少女が、何故顔を逸らし続けているのか。その意味だけが理解できない。
「えっと……ナギサ」
「なあに?」
 などと逆さまの首を傾げていたのだが、
「やっぱり説明した方がいいと思う……」
 おずおずとしたリノの一言で、全てを理解した。
「それもそうね……トラッド、聞こえてる?」
「……おい、ナギ――」
「うんうん、しっかり聞こえてるようね」
「その前に俺の話を――って……!?」
「ぐ〜るぐ〜る、よーするにー」
「まーーわーーるーーなぁぁぁ……!」
 トラッドの的を射つつも的外れな抗議を、ことごとく言葉と行動で遮断したナギサは、
「逆転の発想、ってことよ」
「…………はい?」
 独特過ぎる独自の、そして特有の理論と持論を展開させて、純粋無垢な少女を強引に納得させたのだ、と。
「そう……つまりは、解決の秘策」
 しかし、時は既に遅く、逆に満ちてしまった。
「トラッドが苦手なのは"転位系呪文及び道具に付随する浮遊感"……要は、浮上する瞬間の"体内が訴える異常"ってことよね? だから、私はこう考えたの――浮かび上がることが避けられないのなら、浮かび下がらせればいい、って」
 ぴたっ、と回転を止めたナギサは大いに語る。
「確かに人間は二本の足で大地を歩く生き物だけど、たまには逆さまになってみてもいいと思うの。もちろん、誰もができることじゃないわ。でも、誰にもできないことじゃない。現に逆立ちで"歩く"人も世界にはいるんだし……トラッドなら、きっと素敵な悲め――じゃなくて、無事にこなせると信じたからこそ、この方法を実行しなきゃ、って思うことができたの」
 多少ぐったりとしている彼には構わず。
「でも、私もまだまだね……固定観念に囚われるあまり、すぐに気づけなかったなんて。けれど、こうして実け――こほん……実行に辿り着けたということは、間に合った、って解釈させてもらおうかしら?」
 一切の反論を挟ませない速度で、語りに騙り尽くした後。
「……というわけでっ」
「うー……へ? 待――」
「そろそろダーマに帰るけど……ヤヨイちゃん」
「え、あ……は、はい?」
「また一緒に旅ができる日、楽しみにしてるから――」
 微塵も曇りがない清々しい笑顔で、軽やかに別れを告げると、
「――てぇいっ!」
 電光石火の早業で艶やかな唇にキメラの翼を挟み、首の運動と全身を活用した跳躍で上空へと放り投げた。
「いやだぁぁぁぁぁぁぁ…………!!」
 そして、辺り一帯にこだまする絶望的な悲鳴。
 ヤヨイの位置からは、ナギサの背中しか見えないのだが、何故か満足げに微笑んでいる気がした。
「師匠……どうかご無事で」
 とはいえ、彼女に今できるのは――尊敬して止まない彼の五体満足を祈る事だけであった。



 程なくして、ダーマ。大神官であるアーニーの私室。
「たっだいまー」
「あ、おかえ――……あれ?」
 友人たちの帰りを心待ちにしていた彼女は、当然のごとく笑顔で出迎えるが、それも一瞬。
「…………」
 ナギサの達成感溢れる様子にそぐわない、ラザとリノの面持ち。何よりも、ラザの背中に乗っかるトラッドの疲弊しきった雰囲気に、すぐさま絶句する。そして、草花の双眸を中空に彷徨わせる事、約数十秒。一つの結論を導き出したらしい彼女は、
「……ナギサちゃん?」
 珍しく声調トーンを二段階ほど落として名前を呼び、
「え? ああ、トラッドってキメラの翼が苦手なのよ。それで気を失っ――」
「まだ何も聞いてないんだけど?」
 だが、ナギサの説明は強く静かに打ち消すと、
「…………ふぇ?」
「皆さん、少し待っていて下さいますか?」
 穏やかに微笑みつつも、不吉な空気を滲ませ、おまけに眼鏡も不穏に光らせて、
「ちょっと……ちょっと待って! こ、これには深いワケが――」
「うん。だから、お話を聞かせてもらうね」
「……!!」
 親友の手を引いた彼女は、しん、と音もなく扉を閉めた。
 一方の残された三人の内、二人は。
「ラザ……アーニーさんって、もしかして」
「……ああ」
 戦々恐々と顔を見合わせるばかりだった。

 ――長くて短い、百二十秒後。

「皆さん、お待たせ致しました」
 ひょこ、と扉の間から顔を覗かせたアーニーは、天使か女神以外は連想できそうにもない笑顔で、三人を部屋へ招いた。それは、先刻の出来事を知っていながらも安堵してしまうような表情で、どうひいき目に見ても穏便に話が進んだとしか考えられないほど、眩しい。
 だが、危うく信じかけた現実は、
「うー……」
 ナギサの項垂れた様子と、ぺたん、と力なく倒れたウサギ耳を前に、いとも容易く幻想と化す。
 一体何が起こったのだろうか、と思うものの、知る術はない。
 何故なら、部屋からは二人の声だけでなく、一切の物音すら聞こえなかったのである。
 おそらくは、呪文によるもの。扉が開閉する音も響かないのだから、それぐらいは想像がつく。
 ただ、何があったのかは想像できない――というより、想像する事自体を本能が拒んでいた。
 付け加えると、例によってウサギ耳の仕組みも気にはなったが、こちらに至っては考える余裕もなかった。
 兎にも角にも、それゆえに。
 リノとラザの二人と、ラザに背負われたトラッドの一人は、敢えて何も問わずに部屋へ足を踏み入れるより他になく、更には曖昧然とした心境のまま席に着いた。
 神の見えざる手――そんな単語が、不意にラザの脳裏を掠める。
「もう……あんまり無茶なことしちゃダメだよ?」
 しかし、アーニーが呆れた口調で話し始めたため、結局は掠めるだけに終わった――のだが。
「……まぁ、それがナギサちゃんなりの愛情表現っていうのも分かるけどね」
 続けられた話に、ラザはその単語が脳裏を掠めた事も忘れて、少なからず動揺した。
 とはいえ、何も"愛情表現"という響きを額面通りに受けたから、ではない。ナギサに似合う、といったアーニーの思考、もしくは嗜好――詳細は不明だが、決して特別な指向によって選択されたわけではない、と彼もそれぐらいは理解している。
 だが、思い当たる節があった。
 いくら探しても。
 どこを探しても。
 近い過去においては一つとして思い当たらない――そんな節が、あった。
 だからこそ、よぎる。
 打ち消しても遠ざけても。
 有り得ない、それに許されない、と分かっていながらも――考えてしまう。
 一緒に旅をしていても、背中を預けていても。
 彼女の意識はそう告げていても。

 彼女の無意識はまだ、彼を"赦していない"のかもしれない、と。

 しかし、そうして芽吹いた推測もまた、瞬時に消失する。
 四人が席に着いてから、ほんの数分が過ぎた頃。開閉に動じない扉が、こんこん、と乾いた音を部屋に響かせ、
「はーい? どうぞー」
 ほんのり疑問符を浮かべながらも、アーニーが間延びした声で入室を許可するや否や、
「失礼しま……あれ、リノちゃん?」
 柔らかい雰囲気を持つ青年――ティルクが現れたのだ。
「もしかして、今帰ってきたの?」
「うん」
 かといって、何ら不自然は感じない。
「そっか、おかえり。それでどうだった?」
 彼が向かった先――レイヴンたち海賊の住処は、キメラの翼で往復できる場所。なら、数日前に戻ったであろう彼が、アーニーに事情を聞いているのは当然と言える。そう考え、理解し、話に意識を集中させた事により、暗澹たる可能性に溺れかけたラザは冷静さを取り戻す事ができたのである。
「うん。えっと――」
 一方、そんなラザの懊悩を知る由もないリノは、再度頷き、椅子に座るティルクを目で追いながら、おずおずと話し始めた。キッカケがあるからか、彼女もいつもほど緊張はしていないようだった。
 そこでナギサは、ふと思った。
 彼女は無口で、話をするのが苦手だと知るがゆえに、彼は敢えて話をする機会を作ったのではないか、と。
 根拠こそ何処にもないが、何故かそう思わずにいられなかった。


 時々はつっかえながらも、リノが無事に説明を終えた後。
「なるほど……つまり、リノちゃんたちが着いた時には、もう解決してたんだね」
「う、うん。だから、本当は行かなくても良かったと思う……」
「ううん……それでも、やっぱり行って良かったと思うよ」
「私もそう思います」
 ティルクとアーニーは、にこやかに首肯しながら、呟く。
「どうして?」
 一方のリノは小さく首を傾げ、説明が不十分だったのだろうか、と不安を抱く。だが、緩やかに首を横へ振った彼は、
「だって、無事に再会できたんだから。ヤヨイちゃんってにとってはもちろん、リノちゃんたちにとっても、これからの励みになるんじゃない?」
 穏やかで、まるで自分の事のように喜んでいる笑顔で、そう告げた。
 瞬間、沈黙が産声を上げたものの、それはわずか数秒の事であり、
「……うん」
 全員の温かい視線がリノの元に集まった時にはもう、彼女は少し照れたような表情で頷いた後だった。
 そんな中、ナギサは横目で密かにトラッドの様子を窺う。彼の反応が気に掛かったからなのだが、特に目立った変化はなかった。
 だから、少し感心し、同時に安堵もした。
 道のりはまだまだ遠くとも、リノとトラッドの仲は確実に前進している、と。
 もちろん、紛れも疑いようもなく善い事だ。ティルクと同じように、我が事のように嬉しくなる――のは、いつものこと。今に始まった話ではない。
 ただ、この二人といいヤヨイといい、最近のナギサは誰かの恋路を気に掛けすぎている傾向があった。もっとも、当の本人は疑問を抱くどころか、気づいてすらいないのだが。
 そうして話に一区切りがつき、ナギサとアーニー、ラザが紅茶をおかわりした直後。
「さて、と……じゃあ、次はこっちの話かな」
 姿勢を直したティルクが、そう切り出した。
「話? 何かあるの?」
 対してナギサは、きょとん、と首を――ではなく、ウサギ耳を片方だけ指で傾げさせるが、
「ほら、オリビアさんの話だよ。ちょうどレイヴンさんに会えたから、一応尋ねてみたんだ」
 ティルクは苦笑混じりで流して話を進めた。
「……何でも知ってるのね、レイヴンさんって」
 一方、何事もなかったかのように返答するナギサだが、表情には一抹の寂寥せきりょうが翳りを芽吹かせている。どうやら、ただの反応では物足りなかったらしい。
 果たして、彼女が期待しすぎただけか。
 それとも、彼が天然すぎただけなのか。
 誰彼にもその判別はつかず、それゆえに誰彼も言葉を発さない。だが、誰彼にとっても判別しなければならない要因でもなく、
「海のことなら特にね。その代わり、おかのことは詳しくない、って言ってたよ。僕からしてみれば、十分に詳しいと思うけどね――……と、それはともかく」
 結果、事も無げに話は続けられ、程なくしてティルクの口から綴られた。


 彼がレイヴンから聞いた話とは、悲恋。
 航海と造船の技術が発達し、船で海を渡るという行為の危険性がやや薄らぎ、野心的な大商人たちの一部が莫大な財を得るべく、新たな挑戦を始めた頃に生まれた、数多ある内の一つにすぎない悲しい恋の物語。
 オリビアは、そんな時代に成功を収めた商人の娘――らしい、とティルクは情報の不透明さを強調した。
 本当に不鮮明だからだった。
 彼女の親は、他の誰とも比肩できないほどの大成功を収めた。当時を知り、現在は身を引いている人間から聞いた事がある、とレイヴンが言うのだから、おそらくは事実なのだろう――が。
 それ以外のこと。
 例えば、家族構成。兄弟や姉妹がいたか。
 例えば、住居。大まかには想像がついても、正確な場所は何処なのか。
 他にも、彼らが得たであろう財産はおろか、成功した商人の性別すら知られていないのである。
 一見すると不思議な話。しかし、種を明かせばそうでもなく、むしろ、不可解で不愉快な話だった。
 何故なら。

 オリビアの話をした船は――海の藻屑と化す。

 船乗りたちの間では、そう囁かれているのだから。
 根拠はない。広がった風聞に対する責任の所在もない。にも拘わらず、頑なに信じられている――神の存在と同じように。
 レイヴンが話してくれたのは、彼女が信じていないからだろうが――確かに、発端はあった。
 それが"悲恋"である。
 オリビアには恋人がいた。その相手は、裕福になった両親が雇った使用人で、互いが互いに一目惚れし合った二人は、すぐさま愛し合うようになった。
 しかし、反対と別離を恐れた二人は、それを中々両親に言い出せずにいたのだが――ある日。
 草花が豊かに咲き乱れる庭園で、どちらからともなく寄り添った瞬間を目撃されてしまったのだ。
 だが、彼女の両親はそれを一切咎めず――むしろ、娘が選んだ相手なら、と二人を祝福した。
 どれほどの財を築き、どれほどの地位に上り詰めようとも、娘の"想い"より大切なものはない。彼らは手に入れた巨万の富に惑わされる事なく、ただひたすらに"心"を持ち続けたのである。
 しかし、皮肉なことに――それは"彼ら"だけだった。
 類を見ない成功を収めた大商人。つまり、オリビアの両親に取り入ろうと考えた"心なき者"たちの策略により――

 ――二人は引き離された。

 両親は彼を――娘の大切なヒトを捜した。
 寝食を惜しみ、商売の事も忘れて、懸命に捜し続けた。
 彼女は願った。
 眠れぬ夜をいくつも越え、食事も喉を通らない日々も越え、今か今かと彼の帰りを待ち続けた。
 ある時は、自分の部屋で。
 ある時は、彼と過ごした庭先で。
 そして、またある時は――海が一望できる岬で。

 おかねも ちいも めいよも なにも のぞみません
 だから かみさま
 どうか どうかあのひとを
 わたしのだいすきなあのひとを かえしてください

 声を、枯らし。

 あのひとが いれば
 あのひとが となりで わらっていてくれれば
 いとしい あのひとと
 ずっと ずっと よりそっていられるのなら
 わたしは ほかに なにものぞみません

 心をすり減らしても、なお。

 だから どうか おねがいです
 あのひとを かえしてください

 オリビアは祈り続けた――のだが。

 ある日、彼女の元に届いた報せは。
 人を"ひと"と扱わない奴隷商人の船が、彼を乗せたまま消息を絶った。
 そんな救いのない現実で。
 それを知ったオリビアは、思い描いていた夢も幸福も、生きる希望さえもなくし――

 ――岬から身を投げたのである。

「じゃあ、その使用人が……?」
「二人が出会ったエリックさん、だろうね」
「……なるほど、ね」
 身勝手で理不尽で、あまりに無慈悲な話。聞き終えたナギサは形の良い眉を険しくひそめ、低く押し殺した声で不機嫌そうに呟いた後、黒コートの懐から"あるもの"を取り出した。
「じゃあ、オリビアさんはもう……」
 それは――ペンダント。
 海が見せる千変万化の表情を宿したかのような、蒼石のペンダント。
 素人にしては巧みな意匠も、素人ならではの荒削りな部分も、素人も玄人も関係なく詰め込まれた"想い"の深さも。
 ありとあらゆる何もかもが作られた日のままで――いや、違う。
 おそらくは、ずっと前から。
 ペンダントがペンダントの輪郭を形作る前から、ずっと変わらないままなのだろう。
「……どうすればいいのかしらね」
 たったの一つ。だが、あまりに深く、伴って酷く耳に残響するため息を、ナギサは落とす。
「せっかく手掛かりが見つかったのに……渡すこともできない、なんて」
 そんな彼女の掌では、揺れていた。
 太陽と灯火を攪拌かくはんしたような光を受け、ペンダントの蒼い石が多種多彩に移ろっていた。
 また、それと同時に。
 蒼い石の微かな反射光を受けた彼女の碧眼も、淡く儚げに揺れている――今にも、透明な雫が零れ落ちそうなぐらいに。
 ナギサは自分の無力さを思い知られていた。
 最初は"可能であれば"程度にしか考えていなかったのだろう。現に彼女も、見つかる保証はない、とエリックに告げている。
 だが、エリックとオリビアの事を知る内に。
 もしかすると、彼の想いを知った日から無自覚に。
 いずれにせよ――いつしか彼女は、こう思っていた。

 何としてでも叶えたい、と。

 使命にも似た気持ちを、抱いてしまった。
 理由は分からない。確かに分からないのだが、ラザは心の何処かで納得もしていた。
 本人は気づいていないかもしれないが、彼女は理不尽な――特に"死"が関連した――別離に怒りを覚え、許さない傾向がある。互いが想い合い、周囲からも祝福されているのに、結ばれない。そんな現実が許せないのだろう。
 トラッドの時はまだ可能性があったおかげで、ナギサも強くいられた。絶望を覆すための手段を、脇目もふらずに模索できた。
 しかし、今は状況が違う。いくら彼女でも知りようがない。存在そのものが消失した死者と死者を巡り合わせる方法など、生きている者に見つけられるはずがない。 過去に心を通わせた事があろうとも、それは過ぎ去った過去でしかなく、現在、そして未来にも触れ合う術はない。生と死の間には、それだけの――人がヒトである限りは越えられない隔たりがあるのだ。
 すなわち、それこそが彼女の落胆に至る理由だった。
「…………」
 ラザは考える。
 問題を。過程を。回答を。
 つまりは、エリックとオリビアの――引いてはナギサの"願い"を叶える方法を。
 ひたすらに考え続ける。
 不純な動機である事は、彼自身が一番よく知っているが――それでも、だ。
 ナギサが理不尽な別離を嫌うように、ラザは彼女の落ち込んだ姿を見たくない。
 例え、自分がどう思われていようとも。
 これ以上、そんな彼女を見たくなければ。
 これ以上、そんな表情をさせたくもない。
 ただ、それだけの話で。
(……全く)
 同時に彼は、おかしな話だ、と思う。
 共に旅をするようになって少しの時間が経った現在でこそ、そんな気配は微塵も窺えないが、かつて彼女を傷つけたのは――

 ――他ならぬ、自分。

 十分な努力もなく、努力する事を否定したのも。
 流されるままに、彼女を裏切ってしまったのも。

 いつだって――自分。

 もしかすると、贖罪なのかもしれない。
 消える事のない"罪"を形だけでも償い続けるだけの、終わりがない無駄な――紛い物の贖罪。
 しかし、瞳を閉じて首を横に振ったラザは、
「ティルク、さっき言った岬の場所は聞いてないのか?」
 限りなく鮮明に、果てしなく克明に蘇りかけた記憶を脳裏の奥底へ追いやり、普段と変わらぬ口調で問いかけた。
 対してティルクは、何処か困ったような笑みを浮かべると、
「もちろん、聞いてるよ」
 道具袋から地図を取り出し、視線で周囲の了承を得た後、
「……聞かれるような気はしてたからね」
 すかさずそれを広げ――その直後、全員の意識が地図上を彷徨う指先に集まる中、
「ただ、少し危険な場所だから……聞かれたら答えようと思ってたんだ」
 ぽつぽつり、と珍しく躊躇いの混じった声で、彼は告げた。
 だが、次の瞬間。
「……ナギサ」
 ラザはナギサを。
「……決まりね」
 ナギサはラザを見つめ、それから程なくして頷き合った後。
 ティルクから説明を受けたリノたちは、二人に別れを告げて、部屋を後にした。



 そして、数分後。
「よかったんですか?」
 一度は席を立ち、扉を開けて四人の後ろ姿を見守っていたアーニーだが、すぐさま何かを振り切るように戻ってくると、空いたカップに紅茶のおかわりを注ぎつつ、尋ねた。だが、ティルクは言葉で答えずに首肯で返事をする――ものの。
「……でも、少し寂しそうな顔をしてますよ?」
 何かを感じ取ったらしいアーニーは、そう指摘した。
 すると、知らぬ間に俯いていた顔を改めて上げたティルクは、
「それはアーニーさんも、だよね?」
 いつもよりぎこちない笑顔で、同じ言葉を返す。
 その途端に部屋からは声が消え失せ、地図を丸める小さな物音だけがひっそりと闊歩し始めるも、それすらも一瞬。
 地図がしまわれ、椅子が引かれ、紅茶が飲まれ、喉を通る、といった動作に伴う音が鳴り止むと、互いが心を探り、互いに言葉を探すがゆえに生まれた沈黙が、しん、と蔓延する。それは酷く気まずく、居心地が悪いのだが――何故か、立ち去る気にはなれなかった。
 同じ気持ちだから、かもしれない。
 しかし、それもさして長続きはせずに、呆気なく途絶える。
「……あの中に僕が入る余地はないからね」
 観念したように、ティルクが静寂を破ったからだ。
 一方のアーニーも、どうして、とは問いかけない――答えは解りきっていた。
 考えすぎ、と思えなくもないが、それでも彼は危惧しているのである。自分が一緒にいれば、ようやく進み始めた二人の時間を滞らせてしまうかもしれない、と。
 だから、この事に関しては何も言えない――自分もよく似た気持ちを抱いているからこそ、何も。
「早く気づいてくれればいいんですけどね……四人とも」
 代わりに彼女は、呆れた声でそう落とし、
「四人とも、って……やっぱりあの二人も?」
 受けたティルクは、わずかに目を見開いた。
 そんな表情があまりに唐突で、よっぽどおかしかったのか。
「ふふ……ええ。それもずっと前から」
 笑みを形作る口元は右掌で覆い、折り曲げた中指は唇をなぞりつつも、零れる楽しさは微塵も包み隠さずに呟く。
 温かい。
 肌寒い冬空の下、はぁっ、と真っ白い吐息を受けた掌が、一瞬だけ微熱を帯びるように暖かな――雰囲気。
「心配、というよりはお節介だろうけど、中々上手くいかないものだね」
「……私はまだ少し心配かな」
「え?」
 だが、アーニーの表情が少し翳り、伴って仄暗い声が告げた。
「今の二人からは想像できないかもしれないけど、一緒に旅をする前は……ケンカ、してたみたいだから」
 当然、出会ったばかりのティルクでは知りようもない事で、
「あの二人が?」
 上下に割れた唇からは、図らずも少し大きな声が飛び出した。本当に想像がつかず、相当に驚いたからである。
 確かに、傍目にも明らかと分かるほど仲が良いというわけではない。が、年齢や性別を考えれば、別段おかしな事でもなく。時折、ぎこちなくなる事もあるが――それでも二人は軽く口論する様子までもが、ごく自然で、
「ずっと前から、あんな感じかと思ってた」
 少なくともティルクの目には、お互いの足りない部分を補い合っているように見えた。
 人が独りでできる事は多くなく、はっきり少ないと断じてしまっても過言ではない。だが、類似した価値観の非なる部分が擦れ違う事に苛立つよりは遙かに有益で、むしろ不自然なく支え合える事の方が半ば奇跡的に思えた。
「逆に仲直りできたから……?」
 そこでティルクは、漠然と辿り着いた結論を独り言のように落とす――が、心の何処かでは十分に納得していなかった。仮にもしそうだとすれば、アーニーが何に不安を覚えているのかが分からないのだ。
 とその時。
「ちゃんと仲直り……できたのかな」
 こくん、と紅茶を飲み、カップをテーブルに置いた彼女は、やはり不安げに呟き、
「二人とも素直じゃないから……」
 眉と眉の間に小さな根を下ろして、弱々しく続けた。
 泣いているのか。
 堪えているのか。
 ふわっ、と上った紅茶の湯気は眼鏡を曇らせていたので、どちらとも判別はできない。
 だが、いずれにせよ、掛けるべき言葉は彼の脳裏に浮かばず。
「……あっ」
 彼が迷っている間に、寸分の狂いも知らない時間は到達してしまった。
「私、もうそろそろ……」
「そっか……うん、そうだね」
 ある意味では、彼女が彼女でなくなる瞬間――大神官という立場である以上、アーニーは自分のためだけに時間を使い続ける事ができないのである。
「じゃあ、僕もそろそろ帰ろうかな」
「サマンオサに、ですか?」
「うん。もう用事は済んだからね」
 二人は同時に席を立つと、アーニーは空になったカップを片付け始め、ティルクは扉にゆっくりと手を伸ばしかけた――
「……あ、あのっ!」
 ――刹那、前触れもなく呼び止められた彼は、酷く驚いた様子で振り返った。
 しかし、無理もない。
 その声は上擦っているものの、彼女にしては鋭い上に、妙な瞬発力があったからで、
「ど、どうかした?」
 ゆえに咄嗟に応えた声も、彼にしては珍しい揺らぎが感じ取れた。
「え、えっと……ですね」
「……アーニーさん?」
 だが、当の彼女はしどろもどろに、わたわたと目を泳がせるだけで、一向に話し出す気配はなく、
「ちょ、ちょっと待って下さいね……すー、はー……」
 挙げ句の果てには深呼吸まで始める始末で――本音を言えば、見ている側が緊張してしまうほどに表情は固く強張っていた。
「落ち着いてからでいいよ」
 そこでティルクは、余計な気を遣わせないよう軽い口調で、更には苦笑混じりに告げる。
 すると、それをキッカケに"何か"の覚悟が決まったのか。
「あ、あの! ……ティルク、さん」
「うん」
 かちゃん、と再びテーブルにカップを戻した彼女は、きゅっ、と胸元でローブの余った袖を握り締めた後、

「よ、用事がなくても、その――……また、来て下さると嬉しい、です」

 途切れ途切れのか細い音色で、ぽそぽそ、と呟いた。
 少し、意外だった。
 彼の中では、彼女に人見知りの印象はなく、また無理をしているようにも見えなかったからだ。
 もしかすると、今までは周囲に誰かがいたおかげだろうか。
 もしくは、人見知りをする余裕すらなかったからだろうか。
 それは分からない。
 相手の心が視えない限りは、誰にも分かりようがない事なのだが――それでも瑣末事には変わりなく。
 だからこそ、彼は。
「……そうだね」
 普段とは違う無邪気な笑顔で、

「今度は"遊び"に来るよ」

 約束を交わし――同時にそれは。


 二人が初めて"友達"になった瞬間でもあった。



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