第94話 「蓋開く箱の深奥なかみ


「ねぇ――」
 夢を、見た。

「……って………………ある?」
 誰かと誰かが話している――いや。

「だから、……」
 正確には、誰かが誰かを一方的に問い詰めている夢だ。

「そ……、…っち?」
 ――だが。

 耳に響く言葉は不明瞭で。
 目に映る景色は不鮮明で。
 その中で、かろうじて理解できる事と言えば、

 尋ねる者が緊張していること。
 答える者が困惑していること。

 精々が、二つ。たったの二つだけだ。

 したがって、一向に先が見えない。
 状況を把握する瞳を細め、現状を思考する心を研ぎ澄ませ、必死に正体を探ろうとしても。

 反転。半転。侵蝕。浸蝕。融解。崩壊。逆流。激流。交差。交錯。

 雑音ノイズ消去デリート構築コンストラクション雑音ノイズ消去デリート構築コンストラクション

 反復ループ反復ループ畳句リフレイン

 多重の反復ループ・アンド・ループ畳句リフレイン

 その結果、風景と言葉は継ぎ接ぎだらけの出来損ないへと変質し、何もかもを曖昧然に乱れ狂わせてしまうので、"結末さき"の見える気配すら視えないのだ。
 その代わり、胸中に溜まっていくのは、嘔吐感と喪失感が混ざり合った――酷く粘度の高い不快感ばかり。
 これは既に見た過去、なのだろうか。
 または先に待つ未来、なのだろうか。
 もしくは何処にも存在しない絵空事、なのだろうか。

 分からない。何も、解らない。
 そして、何一つさえもわからないまま。
 底冷えする事だけが確かな、得体の知れない"恐怖"に突き動かされるように。

 兆しなく目を覚まし、激しく身を起こした"彼女"は――

「何よ……今の」

 ――苛立たしげに、呟いた。



 リノたちがダーマを発って、七日。
「おはよ」
「ん? ああ、おはよう……どうかしたのか?」
 四人を乗せた船は、ジパングとムオルを横目に北上し、樹海の北端を掠めた後、ぼんやりと周囲の陸地が見渡せる内海を漂っていた。
 補足すると、この"樹海の北端"というのは、以前リノとティルクが降り立った――すなわち、中心に世界樹が在ったあの樹海の事である。
 ちなみに、今回そこまでに掛かった時間は約四日。
 この事実が意味する事は、世界最高峰とされるポルトガの造船航海技術が未だ海賊に追いついていない、という現実。
 つまり、当面はレイヴンたち海賊が捕まる危険は少ない、と言える。
 だが、それはいつまで続く――否、保つのか。
 少し不謹慎とは思いながらも、ナギサは"そんな日"が来ない事を祈りつつ、
「べつに。単に寝起きなだけよ」
 ラザの質問には、片手間のような素っ気なさで答え、ふと緩やかに空を仰ぎ見た。
 広がるのは、曇天。
 それも太陽の片鱗すら窺えない、灰色の分厚い雲ばかり。
 今にも泣き出しそうで、果てには叫び出しそうで、例え夢見が悪くなかったとしても、少々仄暗い感情を覚えてしまう――そんな空模様だった。
 だから、だろうか。
「珍しいな」
「そう?」
「あくまで俺の記憶では、だが」
 舵に集中し、こちらを見ていないにも拘わらず、彼は紡ぐ声に一層の不安を滲ませる。もしかすると、声だけで何かを察したのかもしれない。
「……そういう日もあるわよ。私だって完璧じゃないんだから」
 とはいえ、他に答えようがない。問題を解く力があったところで、問題が解らなければ――応えようなどあるはずも、ない。
 その苛立ちは、ナギサに少々冷たい返事をさせてしまう。
 そんなつもりじゃないのに。

 そんなつもりじゃないのに、いつも――

(――――いつ、も?)

 しかし、ラザは気づかない。
「ナギサ」
「何?」
 確かに知る由も術もないのだが、
「……気分が悪くなったら、すぐに言うんだぞ」
 ここで初めて振り向いた彼は、彼女の何一つも掴めないなりに、そう呟いた。
 不思議な声だった。
 優しげで柔らかで真っ直ぐでありながらも、何故か壁を感じる――が、決して悪い心地はしない。
 そんな不可思議な音色。
 ナギサは自分でもよく分からずに、ふい、と顔を逸らすと、
「えっと……」
 ほんの数瞬は右人差し指で唇をなぞりつつ、碧眼に曇り空を映していたものの、
「……そのときは」
 やがて、ぽつりと。
「その時は、うん……そうさせてもらおうかしら、ね」
 相変わらず彼を見ないままではあったが、わずかに上向いた表情で小さく呟いた。
「……」
「……」
 それから、しばらくは沈黙が続く。
 正確に言えば、ラザは元々無口な上に、現在は操舵と周囲の観察に意識を集中しているだけで――要するに、静寂の大半はナギサに原因がある。
 だが、彼女とて好き好んでそうしているわけではない。
 例えば『今、どのくらい?』や『どれくらい掛かりそう?』といった、目的地の話。
 もしくは『雨が降りそうねぇ……ううん、もしかしたら荒れるかも』といった、天気の話。
 他にも『私のことを気遣ってくれるのは嬉しいけど』とは言わないまでも『ラザの調子はどうなの?』といった、体調の話。
 そして『見張り、おつかれさま』といった、労いの一言。
 話す事はいくらでもあり、それを伝える言葉も浮かんでいる。
 しかし、声にならない。まるで喉に油膜でも張り付いているかのように、気の抜けた吐息しか零れないのだ。
 今日に限って。

 あんな夢を見た――今日に限って。

 こういう時こそ、他愛もない会話で気を紛らわせるべきではないのか。
 そもそも、何故正体の見えない単なる"夢"をこうも意識しているのか。
 らしくない。
 ありとあらゆる何もかもが、全く持って"自分らしく"ない。
 否、自分とは何か。
 自分と他者、引いては世界との明確な隔たり。それは"輪郭からだ"という名の境界線に他ならない。身体が存在するからこそ、他者は自分を認識し、自分は世界を認識できるのだから。
 しかし、内側――すなわち、内面という名の"心"はどうか。
 視る事も触れる事も叶わず、時折何を思っているのかも解らない。
 果たして、そんな不確かなモノが"自分"である、と断じてしまってよいものだろうか。
 だが、心があるからこそ身体は"生"を示し、他者や世界に少なからず影響を及ぼすのも、また事実。
 現にナギサは所在なげに右人差し指で唇をなぞり、小さく眉根を寄せて考え込んでいる――心と、心に依存する身体を持つがゆえに。
 要するに、結局のところは回答など存在しない問題で、そんなことは改めて考えるまでもなく、とうに解りきっていたことで。
 にも拘わらず、考えてしまう。
 その事実に、いつしか忘却の彼方にあった苛立ちを思い出したナギサだが、
(あー……もうっ)
 かろうじて声には出さず、代わりにハリセンを振るって、ひゅんひゅん、と二度ほど鋭利な風切り音を鳴らした後。
「もう結構な時間だし、ちょっとトラッドを叩き起こしてくるっ」
 不吉が漂う、というよりは不吉でしかない呟きを残し、甲板から足早に去っていった。
「……ほどほどにな」
 彼が複雑な面持ちで告げた声など、露ほども聞こえずに。


 そんな会話を経ても、なお。


 穏やかに、また緩やかに時間は未来から現在、過去へと変遷していく。
 雲は飽きもせずにどんよりと空を覆ってはいるものの、雨が降る事はなく。当然ながら雷が轟く事も、嵐が吹いて海が荒れ狂う事もなく。
 早めの朝食、後片付け、リノは剣の鍛錬、トラッドは操舵と観察、ナギサは紅茶片手に読書、と各々の行動にも特別な変化はなく。唯一、ラザだけは仮眠を取っていたが、それは単に見張りの後だからであって、やはり珍しい事ではなく。
 つまりは、日常。
 淡々と流れていく日々に埋没しがちだが――それゆえに、かけがえのない"平穏じかん"であり、ラザが目を覚まし、四人が遅めの昼食を取った後でも、全く崩れる事はなく。
 今日という日は、このまま終わってしまうのではないか。
 言葉も根拠もないままに、誰しもが漠然とそう思い始めていた――
「……あら?」
 ――のだが。
 ふと何かに気づいたナギサが顔を上げ、リノとラザが反応しようとした直後。
 遠くから騒々し過ぎる足音が近づいてきた、かと思いきや、
「みんな!」
 けたたましく食堂の扉が開くと同時に、甲板にいるはずのトラッドが駆け込んできたのである。
 そんな静寂とは程遠い彼に対し、
『騒々しいわね……なによ?』
 と呆れた声で呟きかけたナギサだったが、
「何があったの? まずは落ち着いて、それから話して」
 瞬時に思考を切り替えると、眉と眉の間に根を張った真剣な表情で問いかける。
 あまり狼狽する事がない――リノとハリセンは別として――トラッドの酷く取り乱した様子に、予想外の"何か"が起きたのは明白だったからだ。
「……悪い」
「ううん。それで?」
「それが――……いや」
 しかし、彼は冷静さを取り戻しながらも、すぐさま思考を放棄し、
「とにかく来てくれ」
 説明もないままに、三人を外へ連れ出した。
 四人は走る。奔る。
 ただひたすらに、ぎしぎしと通路を軋ませ、三人は先頭を往くトラッドの背中だけを無心で見つめながら――疾走はしる。
 それから、程なくして甲板へ出る扉をトラッドが開き、途切れる事なく後へ続くと。
「……えっ」
 そこは――
「なによ……これ」


 ――真っ白な世界、だった。


 雪のようであり、雲のようであり。
 霧のようであり、靄のようであり。
 だが、それらを容易く超越し、圧倒的に凌駕する。

 まるで全てを"零"へと変えてしまうような――そんな"白"い世界。

 いち早く我に返ったのは、ナギサ。
 だが、何も見えず、何一つも見通せずな光景の前では、
「なにがあった、の?」
 さすがの彼女も惑いは隠しきれず、質問を言葉にするのが精一杯で。
「……分からない」
 問いかけられたトラッドも、そう返すより他になく。
「ただ、霧が出てきたと思った時にはもう……」
 しかし、現状が掴めなくとも、一応は目で見た事を話そうとしたが、
「それよりも!」
 すぐさま弾かれたように舵柄かじづかを握り締め、半ば掠れた声で告げる。
「舵が……効かない」
 衝撃的で――致命的フェータルな一言を。
 だが、その時。
「…………」
 既にナギサは、彼の話を聞いてはいなかった。
「ナギサ?」
「待って」
 呆然と、でありながら、判然と。
 彼女は一寸先も窺えない白い空間を、じっ、と見据えつつ、
「なにか、きこえない?」
 得体の知れない音を聴いている。
「……確かに」
 少しだけ間を置いてから応えたのは、ラザ。
「うた……かしら?」
「ふむ、そのようだな」
 続けて、二人は意見を交換し、半ば確信へと至る――だが。
「……歌?」
「ええ、歌。それも中々聴くことはできない、とびっきり綺麗な歌声よ」
「えっと……?」
 リノとトラッドは、本当に不思議そうな面持ちで、忙しなく周囲を見渡している。
 歌――すなわち、音である以上は耳を澄ますだけで事足りる話のはずなのに。それ以前に、一切の濁りがない純粋な"白"で覆われた世界をどれだけ見渡そうとも、取るに足らない瑣末事すら視えやしないというのに。
 そこから察するに、二人の聴覚には何も届いていないのだろう。
 だが、ナギサは敢えて説明せず、あくまで理解に留める。
 聴こえていようと、聞こえていまいと――急を要する事態に変わりはなく。
「んー……まぁ、また後で説明するわ」
 それでも補足は忘れずに、彼女は"綺麗"と感じた歌に両の耳を傾け始めた。


『ねぇ 知ってる? 愛しいあなた』
『ねぇ 覚えてる? あの日のこと』
 聴こえてくる、歌。
『初めて出逢った日のことを』
 それは恋を知らぬまま育ち、
『あのとき わたしは初めて恋を知って』
 いつしか恋を夢見るようになった少女が、
『あのとき わたしは初めて恋をしたの』
 まるで御伽噺のように恋に落ちた――歌。
『それからも わたしは三度 恋に落ちたわ』
 紡がれる歌声は、何処までも瑞々しく、
『一度目は あなたと一緒に散歩をしたとき』
『二度目は あなたの身体に寄り添ったとき』
『三度目は あなたと口づけを交わしたとき』
 綴られる物語は、何処までも初々しく、
『ううん それは嘘』
 世界の全てを知らなくても、世界の美しさが垣間見えるような――詩。
『ぜんぶ うそ』
 ナギサは、思う。
 いつまでも聴いていたい、と思ってしまう。
『本当は数え切れないぐらい あなたに恋をしたの』
 自分が知らないから――ということさえ、知りもせずに。
『あなたは どうなのかな?』
 だが、そんな事は許されない。
『あなたもそうだと すごく うれしい』
 眼前に危機が迫っているという状況も、そう。
 しかし、何よりも。

『帰ってきたら ゆっくりきかせてほしいな』

 それは叶わない願いで、既に終わってしまった物語。
 これ以上続けたところで"未来さき"には何もなく、何も成し得ず、どころか"負の連鎖マイナス"しか生み出されない。
 ゆえに、断ち切らなければならない。  此処を訪れ、歌を聴いた者にはそれを果たす義務があり、いずれにしても当初の目的と合致する。
「……ねぇ、ラザ」
 改めてそう思ったナギサは、神妙な表情で唯一の現状理解者である彼の名前を呼ぶと、
「何だ?」
 ゆっくり振り返ると同時に、こう告げた。
「さっきの約束、ちゃんと守りなさいよ?」
 強い感情がはっきりと感じ取れる、凜とした声で。
 何かあるかもしれない。
 何もないかもしれない。
 だが、何かが起こると想定しておくに越した事はない。
「……ああ」
 そんな彼女の思考を瞬時に読んだラザは、小さな笑顔と共に頷く。それは傍から見ても頼もしい笑顔で、心が軽くなるような声色だった。
 ただ、不思議な事に。
 また、不可解な事に。
(……なに?)
 道具袋から"ある物"を探すという行為のおかげで、誰にも悟らせはしなかったものの、ナギサの表情には一抹の翳りがあった。
 とはいえ、決して彼を信頼していないわけではない。むしろ、以前からは考えられないぐらいに信頼を寄せている。
 にも拘わらず、引っ掛かる。
(これは……なに?)
 不穏が滲む白はより濃密度を増し、寂寥が漂う声はより存在感を強め、予断の許されない状況は刻一刻、刻二刻と忍び寄ってきているというのに。
(夢の、せい?)
 消えない。
 自身、他者、妖精、魔物には果たせず、それこそ"神様"でもなければ見通せないであろう心の最深部。
 それを識る機会など、何処にもない――はず、なのに。
(あんな夢を見た、から?)
 何故か、消えない。
 自分が与り知らないはずの深層心理に潜む、真相と真理。
 それらに対する違和感が、瞬く。
 どうしようもなく、疼く。
 不文律を無視した思考が理論化の不可能を訴え、体現するように。
 言語化できない概念は最高速で警鐘へと変換されて、最光速に掻き鳴らされる。

 反転。半転。侵蝕。浸蝕。融解。崩壊。逆流。激流。交差。交錯。

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 まるで、夢の再現。
 際限のない、再現。

 それは始まりもなく、始まり。
 それは終わりもなく、終わり。

 それは始終、終始する。

 だから、気が、狂いそうで。
 いっそのこと、狂ってしまえば楽になれる気がして。
 いつの間にか、狂うことを求めて止まない、病んだ願望が芽吹いて。

 しかし――叶わない。

 それよりも早く、異変は起きた。
 確かに、ナギサは道具袋の中から"ある物"を探し当てようとはしていた。しかし、その行動はいつしか無意識と成っていたがゆえに、無為式と化していたはずなのだが、
「……え?」
 そんな彼女の無意識な意志に逆らうように。
 妨げるように。裏を返せば、救うように。
 淡く、蒼い灯火が――まるで海が魅せる千変万化の表情のような光が。
 零れて、弾けて、溢れて。
 拡がって、溶け込んで、ほんの数瞬で世界を覆う"白"と攪拌されて。
 誰もがその光景に目を細めて、閉じて、再び開いた時。
 元に戻った世界の眼前では――否、正確には同一でありながらも決して交わる事がない、二つの世界を別つ境界線上では。
「やっと……逢えた」
 一人の男と。
「ずっと……待ってた」
 一人の女が。
「オリビア……!」
「エリック……!」
 愛を囁き合っていた――だが。


 身体は、重ならない。
 求め合った温もりは、邂逅を果たせない。
 その瞬間。

 いつしか穏やかに停止していた船と同じく――二人の時間も停止してしまった。

「……そんな」
 呆然と呟く、ナギサ。
「どうして……っ!」
 しかし、頭では既に理解している――触れるべき"輪郭からだ"が存在していないからだ、と。
 それでも酷い話だと思わざるを得なかった。
 生者と死者の間だけでなく、死者と死者の世界も交わらないのだから。
「……ナギサ!?」
 不意に音もなく崩れた彼女の身体を、ラザが必死で支える。その手応えは物理的には軽く、精神的には――重い。
 やってきた事の無意味さに気づいて、心が折れてしまったのだろう。
 だが、尚もエリックとオリビアは、幾度か小さく言葉を交わすと、
「皆さん……もう一つだけ」
 やがて向き直り、こう告げた。
「もう一度だけ、私たちの願いを聞いて頂けないでしょうか?」
 生者には手が届かないであろう悲哀の満ちた声で。



 その話に最後の――いや、最期の希望があると思ったのか。
「……なるほど、ね」
 すぐさま耳を傾け始めたナギサは、聞いたばかりの内容を脳裏で反芻した。
 二人が真摯な眼差しで紡いだ、言葉。

 それは"身体"を貸して欲しい、という願いだった。

 確かに、意味は解る。
 永く離れていた間は、せめて声だけでも、と思っていたが、奇跡的に念願の再会を果たせた今、それだけでは満足できなかった。だから、例え仮初めに過ぎなくても身体に触れたい。相手と温もりを共有したい、という未練が生まれてしまった。
 一応は、理解できる。
 そして、おそらくは実行する事自体も容易い――実行に移す事が難しいだけで。
 だが、最善の回答はすぐに閃いた。
「えっと、その前に二ついい?」
「なんでしょうか?」
「その間の記憶はどうなるの?」
「え? えっと……多分、ないと思います」
「まぁ、それは分からないわよね。じゃあ、もう一つは失礼を承知で聞くけど……害はないのよね?」
「は、はい!」
 そこでナギサは、言葉の上だけではあるが、最低限の安全を確認した後。
「それじゃあ――」
『え?』
 かつかつ、と。今一つ事態が飲み込めていない様子のリノとトラッドの手を引き、
「はい、どーぞっ。でも、取り扱いにはくれぐれも気をつけてね」
 清々しいにも程がある笑顔で、微塵の躊躇いも気兼ねもなく二人を差し出した。
 自分を――つまりは、自分と"彼"を基準に考えるのがいけない。問題の立て方が間違っている、という問題以前の問題である。
 しかし、リノとトラッドならどうか。
 さすがに、何も問題ない、とは言い難いが――決して悪い事でもない。あくまで二人は"気持ちを伝え合っていない"だけで、両想いである事は火を見るより明らかなのだから。
 むしろ、この出来事をキッカケに少しは進展するかもしれない。
 そう考えると、最善どころか"たった一つの冴えたやり方"とすら思えてくる。
「あ、あの……」
「なあに? もしかして遠慮してるの?」
「いえ、そうじゃなくてですね」
 などと成り行きを見守るつもり満々のナギサだったが、
「非常に申し訳ないんですけど……その方々じゃ無理なんです」
 根本を覆す事実が伴った拒絶に、
「…………………………………………………………………………へ?」
 彼女にしては珍しい長過ぎる沈黙を経てから、ぽつり、と凍りついた。
「えーと……そ、それって、あの、どういう、こと?」
「理由は分かりませんが……私たちの声が聞こえてないんです」
「……あ」
 だが、原因は明白だった。
 二人が鈍感だと言っても、今も十二分に鈍感だとしても、話が理解できないぐらい鈍感とは思えない。加えて、先刻の"歌"が聴こえなかった事や、そもそもの出会いまで踏まえて考えれば、それは当然の結論に帰結する。
 とはいえ、その事実をただ黙して受け入れるわけにもいかない。
 それを受け入れるという事は、
(だ、だって、それって……!)
 つまりは"そういうこと"であり、
(でも、私は……私とアイツはそういう関係じゃないし)
 "そういうこと"とは、現実と相反する行為に他ならず、
(それに私は良いとし――ううん! よ、よくはないけど!)
 例え彼女に、断る、という選択肢が存在しないとしても、
(だからって……そんなのアイツだって、イヤ、に決まって、る)
 巻き込まれた形の彼にとっては、違う。
 だから、選べない――選ぶわけにはいかない。
「えっと……ラザ」
「あ、ああ」
 ゆえに彼女は、委ねてしまった。
「その……ど、どうしよっか?」
 自分が行ってきた事でありながらも、最後の選択を彼に委ねてしまった。
 一方、問いかけられた彼は。
「……俺は」
 彼女の葛藤――すなわち、自分への気遣い、を理解するがゆえに。
「う、うん」
 また純粋に彼女を想い、力になりたいと思うがゆえに。
「別に……構わない」
 頷いて、しまう。
「い……いい、の?」
 そして、理由はどうあれ頷かれたからには、応えなければならない。
 惑いがあっても、迷いがあっても――罪悪感があっても。
「……ああ」
 それが選択を委ねた者の義務であり、末路。
 受け入れられたからには、受け入れなければいけない。
 頭より早く心でそう理解したナギサは、微かにぎこちなくも振り返り、きょとんと立ち尽くしているリノとトラッドを、じっ、と見据える。
「ナ、ナギサ?」
 不可思議そうに呟いたのは、トラッド。リノも隣で同じような表情を浮かべているが、それは紛れもなく当然の反応である。
 だが、ナギサは具体的に説明する代わりに、たった一つ。
「二人とも……悪いけど、部屋に戻ってくれない?」
 わずかに震えた声で、自分の望みだけを伝えた。
「……は?」
 再び漂う疑問符。これもごく自然な反応だ。
 しかし、ナギサの考えは一切揺らぐ事なく。
「さすがに、手加減できそうにないから」
 どころか、ハリセンで一度だけ、それも神速で中空を薙ぎ、
「トラッドはもちろん、リノちゃんが相手でも、ね……言ってる意味は解るわよね?」
 切実な願望を、選択肢のない脅迫へと置き換える始末。
 この時、リノは初めてトラッドの恐怖を知った。
「でも、何かあったら――」
「大丈夫よ。危険なんてないから」
「万が一ってことも――」
「ないわよ、そんなこと」
 だが、リノが怯まずに不安を滲ませても、ナギサは鋭く遮るだけで取り合おうとせず、
「お願い、だから……何も聞かないで」
 紡ぐ言葉は、ただただ懸命さを増すばかりだった。
「……分かった」
 遂に説得を諦めたリノは、
「でも……何かあったら、怒るから」
 最後にそう言い残し、トラッドを促して甲板を去った。
「……ありがと」
 そして、ナギサは小さく礼言った後、
「それじゃ――……始めましょうか」
 エリックとオリビアの喜びに満ち溢れた顔を見つめて、淡々と呟いた。



 ナギサとラザの意識は瞬時に闇へと沈み、伴ってエリックとオリビアの虚ろな姿も消失し。場に残ったのは、エリックの心を宿すラザと、オリビアの心を宿すナギサの"二人"だけとなった。
「オリビア」
「エリック」
 二人はまず、互いの今を確認するかのように名前を呼び合う。
 紡がれた声はナギサとラザの音色だったが、違和感を覚えた様子はない。もしかすると、違和感を覚えるような余裕がなかったかもだけしれない。
「逢いたかった」
「……うん」
 おそらくは長すぎたのだ。
「ずっと……オリビアのことばかり想ってた」
「私も……エリックのことばっかり想ってた」
 別離した後の再会を求めた時間も。
 息絶えた後の再会を望んだ時間も。
 人の身では心が枯渇してしまうぐらい、永かった。
 だからこそ、奇跡的に再会を果たした今となっては、瑣末事。ただそれだけのことである。
 やがて"二人"は言葉を失くし、代わりに一歩、また一歩、と必要以上に時間を掛けて歩み寄った後。
『…………』
 身を預け、心を委ね、静かに温もりを確かめ合った。
 伝わってくる優しい体温も。
 とくんとくん、と高鳴る鼓動も。
 ありとあらゆる何もかもが違っていても、温もりが温もりであるというだけで、やはり"二人"は満たされていた。
 その後、互いに頬を上気させて見つめ合う事、数十秒。
 ラザの姿である彼は、愛しい彼女の左頬へ、そっ、と口づける。
 続いて、ナギサの姿であるオリビアも同じように、彼の左頬へ唇を落とした。
 そうして潤んだ瞳で見つめ合い、しばらくは互いの熱を帯びた吐息を絡ませ合うと。
 一度だけ、名前を囁き合って。
「ん……」
 唇と唇を、重ねた。
 それはすぐに遠ざかる――が。
「……はぁっ」
 離れたのは、わずか一瞬。
「ん――はぁ……んっ」
 息をする事も忘れ、息絶えた事も忘れ、時には浅く、時には深く、ただひたすらに、確実に訪れる別離を前に、幾度となく"想い"を求め合った。
 それから、数分後。
「……オリビア」
「ええ」
 一旦は温もりを手放し、互いの気持ちを確かめ――最後にもう一度、と。
 頬を伝う透明な雫もそのままに唇を重ね合って。


 世界を――――後に、した。


 直後、ナギサとラザの心が還ってくる。
『……………………っ!?』
 すぐさま繋がっていた唇を離したのは、ラザ。冷静さを欠いてはいたが、流されずに行動する辺りが何とも彼らしい。
 だが、一方のナギサの唇からは。
 幸いにも彼の耳には届かなかったものの。

「あっ……」

 自分でも信じられない、そんな切なげな声が零れ落ちた。
 にも拘わらず、どうして、とは思わない――いや、正確には思う"暇"すらもありはしなかった。
 何故なら、この時。
 堰を切って溢れ出した膨大な量の記憶が。

 それも自分の知らない、、、、光景きおくが。

 狂的に。または暴力的に。

 心の一番柔らかい部分を蝕む最中にあったのだから。

 しかし、彼女はそれらの奔流を必死に食い止め、一見は何事もなかったように自分のものではない涙を拭うと、
「……ちょっと風に当たってくる」
 酷く衰弱した声でそれだけを呟き、何処か覚束ない足取りで彼の元から去っていった。



 更に時が経ち、世界のほぼ全域が闇に蹂躙された頃。
 大部分は伏せたものの、リノとトラッドに無事を伝えたラザは、数時間を何もせずに部屋で過ごしてから甲板へと上がった。
 本当はすぐにでも、できる事ならナギサが背を向けた瞬間から後を追いたかった。
 だが、できなかった。
 咄嗟に足が動かなかったせいもあるが、最たる理由は自分も混乱している事を十二分に理解していたからだ。
 だからこそ、彼は貴重な時間を意味のある空白へと置き換えた。
 自分のためだけでなく、彼女のためにも。
(さて、ナギサは……と)
 付け加えると、そろそろ夕食の時間であり、話しかけるキッカケとしては申し分ない。
 つまり、万全を期した状態。
(……いた)
 当然、覚悟もできている――はず、だった。
「ナギ――」
 しかし、無造作にへりへともたれる彼女を見た刹那、決めたはずの覚悟は呆気なく瓦解した。
 いつの間にか雲が流れ、幾万の星と無二の月を映す碧眼が、あまりに冷たく、あまりに冷めていたからだった。
 するとラザの足は途端に動かなくなり、呼びかけるべき名前も最後まで紡げなくなってしまう。
 だが、その気まずい沈黙を先に破ったのは、
「……なに?」
 気配を察し、こちらを見ずに尋ねてくるナギサ。声は碧眼と同じく、やはり冷め切っている。
 まるで――そう、まるで初めて出会った時のように。
「あ、いや……」
「用があったから来たんでしょ?」
「……夕食ができたから、それを知らせにな」
 そんな中、ラザはかろうじて用件を口にした。
「いらない」
「は?」
 しかし、それでも彼女に動く気配はなく。
「食べたくないの」
「……食欲がないのか?」
「べつに」
 鋭く短い返事は、ことごとく素っ気のないものばかりで、ラザには絶句するより他に術がなかった。
「…………ねぇ」
 が、二度目の沈黙も束の間。
「もしかして、さっきのこと気にしてる?」
「……そ、それはまぁ」
 彼女は唐突に、どちらにとっても触れるべきではない事柄を、問いかけとして投げる。
 気にしていない、わけがない。
 むしろ、気にしているからこそ会話が進まないというのに、だ。
「どうして?」
「え?」
 にも拘わらず、彼女は続ける。
「どうして"たかがキス"で、気にする必要があるの?」
 淡々と。
「ナギ、サ?」
 不気味なぐらい、淡々と。
 一切の感情を感じさせない声で。また自分ではない誰かの事を、一切の関わりがない他人事として語るように。
 もしくは、騙るように――彼女は、続ける。
「だって、そうでしょ?」
 そして、トーンが一つ下がり、異様な寒気がおぞましく背筋を駆け抜けた直後。
 彼は、思い知らされた。

 かつて犯してしまった赦されざる罪は――


「私とラザは――――身体を重ねたことだってあるんだから」


 ――取り返しのつかない過ちだったのだ、と。



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