「あなたが、好き」


 吐いてもいい嘘。
 吐いた方がいい嘘。
 吐くべきだった嘘。
 吐くしかなかった嘘。

 優しい、嘘。

 世界には多種多様な"嘘"が存在する。
 しかし、どれほど言い繕ったところで、嘘は嘘。
 言葉がただの言葉であるように、嘘は嘘にしか成り得ない。
 必要であろうと。
 不必要であろうと。
 嘘が"人を騙す"という認識は、変わらない。
 そういう意味では、四人は確かに"嘘"を吐いていたのかもしれない。
 だが、嘘ではなかった。
 盾が消えても。
 鎧が消えても。
 剣が扱えなくても。

 リノは"リノ"という一人の少女に他ならない。

 四人はずっと、そして今も――変わらず、そう思い続けていた。



 マイラの村。内と外を隔絶する強固な塀の内側。
 トラッドに右手を引かれ、三人の元へ戻ってきたリノは、
「リノちゃん」
「え――わっ」
 まずナギサに正面から抱き締められ、
「リノさん」
「え?」
 ヤヨイに左の掌を握り締められ、
「リノ」
「わ……」
 ラザに頭を撫でられ、
「…………」
「あっ……」
 既に手を繋いでいたトラッドには、より一層強く手を握り締められた。
 それぞれがそれぞれに考えた、それぞれの気持ちの伝え方。
 もう訳が分からない。
 それでも、伝わってくる温もりは、温もり以上に温かい事だけは確かで。
「……ありがとう」
 かけがえのない感触に心を浸したリノは、桜色の唇から自然と感謝の言葉を紡いでいた。
 そうして何事もなかったように。
 つまりは、いつもと同じように。

 一日は過ぎようとしていた――のだが。

 その夜のこと。
 彼の言葉を――想いを思い返す度に。

『……き、だから』
 激しさを増す鼓動が、痛みと化すほどに胸を叩いて。
『リノのことが……好き、だから』
 鏡を見なくても解るぐらい、顔中が上気して。
『勇者とかロトとか、そんなの関係ない――』
 無意識に行われる呼吸は、意識しなければ乱れてしまうぐらいで。
『――リノが"リノ"だから、好きなんだ』
 そして、あの感触を想起する度に――

 ――じん、と唇が熱くなって。

 リノは中々寝つけなかった。

 そんな夜が何日も続き、七日が過ぎた頃。
 リノたちはラダトームに戻っていた。
 旅は順調だった。

 ドムドーラの南東に位置する砦と呼んでも差し支えがないであろう街、メルキドでは突きつけられた絶望を目の当たりにする一方で、ゾーマの元へ向かう方法を識る事ができた。その南にある山脈を迂回し、道とも呼べない荒れ果てた道を越えた先では、精霊神ルビスに仕えていたという妖精に出会い、雨雲の杖を授かった。
 太陽の石、雨雲の杖、聖なる守り。
 その三つが手元にあるという事は、ゾーマの鎮座する城へ乗り込める事を意味する。
 旅は順調そのものだったのだが、変わった事もある。
 中でも一番大きな変化は――ヤヨイとの別離。
 両親と無事に再会した彼女は、マイラに残る事を選択したのである。
 とはいえ、それが迷いなく下された決断かといえば、けしてそうではない。
 ヤヨイは迷った。
 両親との再会。そして、これは誰にも言っていないが――"あの人"との再会。
 それらが叶った今、彼女の旅する理由は、秘めていた願望は全て果たされたと言っても過言ではなく、四人も"残った方がいい"と判断していた。
 にも拘わらず、当初の彼女はリノたちについていくつもりで、その覚悟も十二分にあった。
 ヤヨイらしいと言えば、ヤヨイらしい考えではある。
 しかし、旅が終わったその時に、命が残っている保証は何処にもない。
 そんな状況で、やっと巡り会えた両親と引き離す事が良いとは思えなかった四人は、二日掛けて彼女を説得し、何とか思い留まらせたのだった。

 そういった経緯を経て、四人はラダトームにいる。
 相も変わらず光の失われた世界。
 時間的にはまだ、ちょうど昼を過ぎた辺りではあったものの、次の目的地を目指す準備や、蓄積した疲労を取り除くため、今日は休息日となった。
 そんな中、リノは宿屋の一室に閉じこもって、一心不乱に剣を磨いている。
 余程の事がない限りは毎日欠かさない、いわば習慣ではあった。しかし、本当の理由は違う。
 彼女は答えを探していた。
 あの日――今も傍らにある"王者の剣"を扱えず、逃げ出した日。

 彼に告げられた想いにどう応えるべきなのかを、ひたすらに考えていたのである。

 いや、それも正確ではない――何故なら。

『トラッドが、好き』

 答えは既に、彼女の中に在るのだから。
 ただ、告げられないだけ。
 口にするのが恥ずかしいという理由もなくはなかったが、それ以上に"自分が応えていいのだろうか"と迷うあまり、先送りにしていたのである。
 確かに彼は言った。

 リノが"リノ"だから好き、と。

 ぎゅっ、と抱き締めながら、そう言ってくれた。
 それにあの時交わしたキスも。
 相手の気持ちを考えない行動だった、と本人は気に病んでいたが、それだけに彼の真剣な"想い"が伝わってきて、本当に――本当に、嬉しかったのだ。
 だから、迷ってしまう。
 いくら自分が"自分"であっても、ロトの紛い物かもしれない自分は。
 何よりも身体を魔に侵蝕されている自分は。

 彼に"不幸"をもたらすだけの存在ではないだろうか。

 そう思うと身が竦んでしまい、自分の想いを告げられなかった。
 とその時。
 こ、ここん、とぎこちないノックが部屋に響く。
「は、はいっ」
 瞬間、我に返ったリノが手を止め、弾かれたように振り返りながら返事をすると、
「……えっ、と」
 そこにはノックと同じぎこちない表情の彼が――
「ト……トラッド?」
 ――大好きな人が、いた。
『どうしたの?』
 それは自然な、これまで何度も呟いた事のある問いかけ。
「あっ……」
 だが、声は出ない。
 桜色の唇は緊張に少し乾いてはいたが、いとも容易く上下に別たれるのに。
 冷静さが幽かに残った意識は、その言葉を紡ごうとしているのに。
 肝心の声は喉に張りついたままで、一向に芽吹く兆しがなく、その様子は明らかに不自然であった。
 しかし、この時。
 自分の事で精一杯な彼女に知る由はなかったが、実はトラッドも全く同じ不自然さに翻弄されている只中で――要約すると、互いが互いに気づいていなかった。
「あの……えっと」
 だが、おずおずと口を開き始めた彼は、一旦は強張った声で前置いた後、
「も、もし、暇だったら……散歩にでも行かないか?」
 そんな言葉を告げる。
「……え?」
 一方のリノはしばし呆然とし、図らずも自失に彩られた音色を落としてしまった――ものの。
 とっくに思考を放棄していた頭が思考する力を取り戻すより早く、
「…………うんっ」
 彼女は小さな微笑みを浮かべながら、頷いていた。



 そんなこんなで宿を後にし、しばらくは足を動かしていたリノとトラッドだったが、
『………………………………』
 いくつもの束の間を隣り合って歩くだけで、会話が始まる気配は微塵もない。
 気まずい。
 本当は嬉しいはずなのに。
 ただ、彼が右隣にいるだけで。
 ただ、彼女が左隣にいるだけで。
 つまりは傍にいるだけで、今も確かに心は弾みっぱなしだというのに。
 言葉が全く紡げない。
 一応、まだ指で数えられる程度ではあるが、二人とも何度か相手に話しかけようとはした。
「え、えっと」
「あの……その」
 しかし、出てくる言葉は、そんなたどたどしい音ばかり。加えて、よくタイミングが重なってしまうため、互いが互いに譲り合ってしまい、結局はその繰り返しで、ゆえに話がまるで進まないのである。
 昔はどんな風に、どんな話をしていただろうか。
 リノはふと思い返す。

 初めて出会った時は、話すどころか挨拶もまともにできなかった。
 それが旅を続ける内に、少しずつ話をするようになって。
 最初は話しかけられる事が殆どだったが、気づけば話しかける事も増えていって。
 彼の温もりに、幾度となく勇気づけられて。
 また、自分の温もりが彼を勇気づける事もあって。
 それが何よりも。
 何かと比べられる事でもないが、あの時は世界で一番嬉しかった。
 だから今は。
 彼に気持ちを告げられた今も、やっぱり世界で一番嬉しい――いや。
 きっと彼との"何もかも"が、自分にとっての一番なのだろう。
 紛れもない事実だ。

 ――だけど。

 近づいて、触れ合って。
 想いが大きくなって、それを自覚すればするほど、次第に言葉は減っていく。
 それはまるで初めて出会った頃のようで、何故か少し寂しい。
 それでもあの時は、あんなに無愛想だったにも拘わらず、彼から話しかけてきてくれたから、まだ良かった。
 想いを告げてくれたのも、彼だった。
 けれど、今は違う。
 自分が話せないのと同じ理由で、彼も話せないのかもしれない。
 だから、今度は自分から――そう思った矢先。
(あっ……)
 リノの視界、続けて意識に。
 もし世界に太陽が存在すれば光を透過するに違いない、薄いガラスを隔てた先の向こう側、自分にはまず縁がないであろう店内から、あるものが飛び込んできた。
 それは一着の服だった。
 肩の部分は右側が一本の、左側がちょうど真ん中で結べる紐となっている。そのため、彼女が普段身につけている旅装束よりも肌の露出は多い。加えて、その服は全身一体型になっており、ズボンよりも大きく膨らんだ裾には控え目ながらもフリルが付いていた。とはいえ、派手かと言われれば、決してそうではない。むしろ、だからこそ際立つ清楚が見目麗しく纏まっていた――のだが。
 いずれにしても、何がどう転んで、どう引っ繰り返ろうとも、自分に似合うとは思えない。

 そんな一着の、降り積もったばかりの雪にも似た――真っ白いワンピース。

 あまりに綺麗だったからだろうか。
 無意識の中に憧れる気持ちがあったからだろうか。
 それとも、もしあの服を着る事で少しでも"女の子"らしくなれるなら、そうなった自分を見て欲しい、と思ったからだろうか。
 どの理由だろうか。
 もしくは、どの理由も、なのだろうか。
 それは分からない。分からないのだが、確かにリノは、その純白のワンピースに心を奪われていた。
(……なに、考えてるんだろ)
 しかし、それも束の間。
 すぐさま我に返った彼女は、ぷいっ、と顔を逸らし、何事もなかったかのように足を動かし始めた――直後。
「え?」
 不意に腕を掴まれたかと思えば、ぐい、と引っ張られ、
「え? え?」
 そのままずるずると。
「わ、わわっ」
 彼に続く形で、リノは店の中に入っていた。
「いらっしゃいませっ」
「……トラッド?」
 そして、女性の爽やかな挨拶を耳にしつつも、ようやく彼の名前を疑問符混じりで呼べた時には、既に状況が転がり始めていて。
「すいません、あの服を見せてもらってもいいですか?」
「はい、かしこまりました。よかったらご試着もいかがですか?」
「お願いします」
 更に、短く交わされた話はあっという間もなくトントン拍子に進み。
「お待たせ致しました」
 ナギサを連想させる異様な速度で服を持ってきた彼女は、屈託のない笑顔でそれを手渡し、しかも背中を押して試着用の個室に案内してきたため、成す術もなく、なすがままに個室に入ってしまったリノにはもう、とても断れなくなってしまったのであった。
(……どうしよう)
 そんなこんなで個室の中、リノはまず途方に暮れる。
(でも……)
 とはいえ、全く興味がないと言えば、そんな事もない。でなければ、ワンピースに意識を向ける事などなかったはずで、いずれにしても現在の状況が変わるとは思えない。
(……とりあえず、着なきゃダメだよね)
 早々に諦めたリノは、声が通る程度の壁に仕切られた個室内を忙しなく見回しながら、着慣れた旅装束を脱ぎ始めた。
 ぱさり、と床に服が落下する度に、徐々に露わになっていく肌。
 外気に晒される、身体。
 ナギサとヤヨイが"そんなことはない"と何度も否定するため、もしかすると以前ほどではないのかもしれないが、相変わらず女の子らしさが見当たらない、とリノ自身は思う。
 だから、余計に不思議に思う。
 外で待っている彼は何故、こんな自分を好きになってくれたのだろう、と。
 自分が好きになるのは、まだ解る。
 実際、好きになったのだから――よく、わかる。
 ここでもし、自分も気持ちを伝えれば彼も同じ疑問を抱くのだろうか、とも思った。
 しかし、それは考えても仕方のない、自分一人では回答を導き出せない問題。
 そう気づいたリノは、誰に見られているわけでもないのだが、身体のあちこちをできるだけ隠しながら、傍らに置かれたワンピースを手に取る。それからもう一度、無意味に辺りを警戒した後、服の中へ素早く身体を潜り込ませた。
 おかしくないだろうか――ううん、おかしいに決まってる。
 最初はそんな事を考えていたが、やがて何も考えないよう心懸け、程なくして何も考えられなくなった頃。
「あ、あの……一応、着替えましたけど」
 か細い声で、服屋の女性にその旨を伝える。ゆっくりと、気遣いの感じられる速度でドアが開き、伴って芽吹いた隙間から好奇心旺盛な瞳が中を覗く。
「まぁ……!」
 そして、酷く驚いた声。やはり何かが、或いは何もかもがおかしかったのだろう。いくら予想していたとはいえ、そういった感想を改めて耳にするのは想像以上に辛い――というより、恥ずかしかった。
(トラッドの、バカ)
 怒気と羞恥に頬を上気させたリノは、胸中でそんな言葉を呟く。元はと言えば興味を自分が悪い、と理解してはいたのだが、そう思わずにはいられなかった。
 だが、この息苦しい時間ももう終わる。
 あとはトラッドが、今の自分の姿を見て眉をひそめるだけ。
 それで全て、終わる。
 先ほどよりも間違いなく落胆は大きいだろうが、覚悟を決めてさえいれば堪えられない事もない。それに、彼ももう自分を女の子として好きじゃなくなるかもしれない。もちろん、それはそれで辛いのだが、決着はつく。
 時間は掛かっても、縁がなかった、と諦められるはず。
 などと仄暗い未来を想像しながら、リノが個室を出た――刹那。
「あっ……」
 微か、というよりは幽かな声と共に固まってしまったトラッドは、呆然と自失した心境を、まざまざと表情に滲ませた。
 しかし、それも束の間。
 間髪入れず、店員の元へ向かった彼は、
「えっと……いくらですか?」
 と値段を尋ね、言われた通りの金額を支払った――かと思えば。
「よろしければ上着もいかがでしょう?」
「そう、ですね。お願いします」
 またしても一方的に事態を進行させ、
「リノ、これも」
「え?」
「そのままだと寒いだろ?」
「それは……そうかもしれない、けど」
 目まぐるしい展開に翻弄され続けるリノの困惑など気にも留めず、半ば強引でありながらも、そっ、と上着を着せた後。
「ありがとうございましたっ」
 店員の明るく弾けた声に見送られ、彼女に着替えさせもせずに、店を出るのだった。
 そして、今更という言葉が相応しいぐらいの時が過ぎて。
「あ、あの……トラッド?」
 曖昧然とではあるが、リノはやっとの思いで、ようやくの疑問を口にする。
「ん? あ、まだ寒いのか?」
「そうじゃなくて」
「……じゃあ、他の服がよかった、とか?」
 ただ残念な事に意図は半分も伝わっていなかったのだが、
「ううん……その、無駄遣いさせて、ごめん」
 それでも彼女は頭を下げた。自分が興味を持ってしまったばかりに気を遣わせている、と思ったのだ。
 だが、トラッドは納得したような表情を浮かべたものの、
「いいよ、そんな高いものでもないし……それに少しぐらい高くたって、たまにはいいだろ」
 やはり的外れな返事をする。
 彼らしいと言えば、彼らしい――つまりは優しい言葉だった。
「で、でも……似合って、ないし」
 ゆえにリノは、絞り出すような音色でそう呟いたのだが、
「そんなことない!」
 返ってきたのは、強い否定。
「え?」
 当然、不意を突かれたリノは意外そうな声を上げ、
「だ、だって、さっきは困ったような顔を……」
 軋む心に構う事なく、なおも続ける。
「そ、それは……」
 しかし、トラッドは激しく首を横に振って、二度目の否定と戸惑いを露わにすると、
「……リノが可愛かったから……その……見とれてた、だけで」
 彼女が全く予期していなかった感想を、たどたどしい口調で告げ、
「それに! ……確かに最初はリノの視線に気づいたのが、キッカケだったけど――」
 一旦は、そんな言葉で間を置いた後、

「――何よりも、俺が見たかった、から」

 真っ赤な顔を逸らしながら、他でもない自分のためだ、と告白した。

 ぼっ、と。
 頬を朱よりも赤い"紅"に染める、リノ。
 疑問を覚えなくはなかったが、もう声は出ない。

 けれど、込み上げてくる嬉しさは本当で。
 その嬉しさは、自分ではもうどうしようもないぐらい大きくて。

 だから、彼女は。
「でも……またリノの気持ちも考えずに――……リ、ノ?」
 見当違いの謝罪を遮るように、彼の胸へ飛び込むと。
「……嬉しい」
「え?」
「トラッドにそう言ってもらえるのが……いちばん、うれしい」
 初めて本当の気持ちを紡ぐのであった。



 それから二人は、ラダトーム中を歩き回った。
 何気ない日常の風景を目の当たりにしては、他愛もない言葉を交わし合い。
 楽しいや面白いといった感情を覚えれば、笑顔を浮かべ合ったり。
 何となく相手を見ている途中、その視線に気づいた相手と目が合ったりすると、互いが互いに顔を逸らしてしまったり。
 時折はそのまま、ほんの短い時間ではあるが、見つめ合ってしまったり。
 そんな熱を帯びた平穏なひとときは、少し気恥ずかしくとも幸せで。
 本当に、言葉で言い表せないような幸福が充ち満ちていて。
 傍目からは、何処をどう見ても恋人同士な二人。
 にも拘わらず――いや、それゆえに。
 リノの心に、自分は気持ちを伝えていない、という事実が重くのしかかってくる。
 トラッドが告白した日から、もう七日。
 さすがに時々はぎこちなくなるものの、その間に彼が返事を催促した事は一度もなく、それどころか、あの告白は夢の中の出来事だったのではないか、思ってしまうぐらいに何もない。
 とはいえ、彼が気を遣ってくれているのは明らかで。
 だからこそ、焦ってしまう。
 伝えなきゃ。もしくは、伝えたい、とも。
 しかし、伝えられない。
 何度も――今日だけでも、膨大な数の機会に恵まれていたはずなのに。
 どうしても言えない。
 好き、というたった二文字の言葉が出てこない。
 口にしようとする度に、喉がからからと乾いて。
 何も言えなくなって。
 何も考えられなくなって。
 こんなに好きなのに。
 彼のことを想うだけで身体が熱くなるぐらい。
 きゅっ、と胸が締めつけられてしまうぐらい。
 どうしようもなく好きなのに。
 心は鈍い痛みを絶え間なく訴え続けるだけで、肝心の言葉を告げさせてくれない。

 そうしてリノが何もできないまま、貴重な時間だけが無為に過ぎ去った頃。

 二人はすっかり人気が途絶えた公園の芝生の上で、隣り合って座っていた。
 流れるは、沈黙。
 気まずくはないが、以前のようにに無条件に心地良くもない、不可思議で不可解な静寂の中。
 トラッドが楽しかった今日の余韻に浸っている横で、リノは足音を殺して忍び寄ってくる終幕に焦燥を募らせていた。
 彼と二人っきりで過ごした今日という夢のような日を逃せば、二度と言えないのではないか。
 そんな想像もしたくない恐怖を、確かに感じていた。
 だから、だろうか。
「……トラッド!」
 いてもたってもいられなくなったリノは、自分でも驚いてしまう大きな声で彼の名前を呼んでいた。
「リノ?」
 対してトラッドも、驚きを隠せない様子でこちらを向く。
「え、えと……あの」
 だが、やはり言葉が続かない。
 自身を追い詰めれば或いは、と思っていたのに。
 何処までも臆病な自分は、それでも想いを口にする事ができない。
 嫌になった。見放したくなった。
 また一方で、こんな自分は好きになってもらう資格もない、と諦め掛けた――瞬間。
 すっ、と無言で右手を伸ばしたトラッドは、

「……無理、しなくてもいいから」

 そう呟きながら、優しくリノの頭を撫で、黒く柔らかな髪を指で梳いた。
 心地良い、掌の感触。
 嬉しかった。
 こんな自分を、未だに返事もできないでいる自分をまだ想ってくれる事が、本当に嬉しくて――だから。

「……トラッド」

 リノは全てを委ねるように、彼に身を寄せた後。
「リ、リノ?」
「…………き」
「えっ」
 ぽつり、と。
「私も、好き」
 ぽつぽつり、と。


「トラッドのことが、好き――……大好き、なの」


 途切れ途切れでも、一所懸命に想いを告げた。

 そうして再び沈黙が訪れる中、最初に唇を割ったのはリノ。
「トラッド、は……もう、そうじゃない、かも、しれない……けど」
 不安に苛まされるあまり彼女は、卑怯だと知りながらも、ついそんな事を言ってしまう。だが、真に受けたらしいトラッドは、しばし意味を理解できずに考え込むものの、
「……そんなこと、あるわけないだろ」
「わっ……」
 すぐさま細い肩に手を置いて抱き寄せ、更に、ぎゅっ、と小さな体躯を抱き締める事で、彼女の勘違いを否定した。
 伴って、聞こえてくる。
 どくんどくん、と激しく胸郭を叩く彼の鼓動が、顔を埋めている少女の耳から入り、擬似的に頬を伝って全身に拡散し、程なくして、じん、と心の奥底まで響き渡る。
 それが先刻の掌よりも心地良くて、包み込む温もりも居心地が良くて、リノの瞼は次第に重みを増してゆく。
 でも、眠ってしまいたくない。
 たとえ気持ちよく眠れるとしても、今は彼に触れていたい。
 彼の全てを、もっと――もっともっと、感じていたい。
「ぅ……ん」
 そう想ったリノは少し身動ぎ、トラッドの左肩に顎を乗せ、頬をぴたりと隙間なくくっつけて、両の手をふんわりと背中に回す。彼にも自分の温もりと、早くなった鼓動を感じてもらいたかった。
 すると彼も、少女の精一杯に応えて背中に手を回し――数分ほど、互いのありとあらゆる何もかもを、可能な限り確かめ合った後。
 どちらからともなく、少し身を遠ざけ。
「リノ……」
「…………うん」
 彼が優しく名前を呼び、うっすらと頬を朱に染めた彼女が頷いたのをキッカケに、どちらからともなく瞳を閉じ、顔を近づけ、しばらくは吐息を絡ませ合ってから。

 心を通わせるように――唇を、重ねた。

 互いの、自身ではままならない空白を埋め合う、軽く触れるだけのキス。
 けれど重なった唇は、熱くて。
 それは二人という存在の境界線が希薄になり、一つに融け合うようで。
 にも拘わらず、相手の事しか考えられないぐらい"二人であること"を意識していて。
 長いや短いといった時間の感覚だけでなく、地と緑をなぞる風や中空に色濃く漂う夜気が奏でる世界の在り様すらも、無意識の遙か彼方に追いやってしまうようで。
 ただただ――ただ、ひたすらに。
 彼が。
 彼女が。
 愛おしくてたまらない。
 そんな、キス――
「……ぁ」
 ――を終え、二人の唇からは同時に熱い吐息が零れて、解けて、間髪入れず世界に融ける。
 その直後、リノの火照った顔をトパーズの瞳に映したトラッドは、
「よかった……二回目はちゃんとできて」
 少し場違いであっても無理はない、といった安堵の滲む声でそう口にする。
 だが、唐突にリノは、ぽふっ、と再び彼の胸に顔を埋めると、
「……四回目」
 珍しく悪戯な音色で、ぽそりと呟いた。
「え?」
「だから、四回目――……トラッドと、キス、するの」
「…………え?」
 身に覚えがない彼は目を丸くし、
「い、いい、いいいいつ!?」
 狼狽と罪悪感いっぱいの面持ちに馴染む掠れ声で問いかける。
 そこでリノは、くすっ、と気づかれないよう小さく笑った後、珍しく弾んだ音色で説明し始めた。
「一回目は……薬を口移しで飲ませた時だから、少し違うけど――」
「二回目は!?」
 しかし、取り乱しているトラッドに気づく余裕はなく、彼女の言葉を遮ってまで続きを促す。
「えっと……二回目は」
 ごくり、と彼の喉が緊張に鳴り、実は当のリノも、思い出す内に頬が朱くなっていたのだが、
「目を覚ましたトラッドが……い、いきなり」
 兎にも角にも、そう告げた途端。
「………………………………………………………………あ」
 ようやく思い出したらしいトラッドは、トラッドらしい、しかもトラッドにしか出せないであろう間の抜けた声を落とすと、
「ご、ごめん……! あの時は声が出なかったから、夢だと思ってて……でで、でも、リノが泣いてて、それで……夢でも何とかしたいと想って……その……ごめん!」
 彼女を抱き締めたまま必死に謝る、という奇妙な離れ業をやってのけた。
 そして、それを受けたリノは、
(ナギサの気持ち……少し解ったかも)
 と彼にとっては危険な感想を抱くと共に、新たな感動を覚えながらも堪え切れなくなり、とうとう顔を上げて笑ってしまった。
 屈託のない、笑顔。
「……リノ?」
 可愛いと思いつつも、トラッドはきょとんとなる。
「ご、ごめん……トラッドが慌ててるのが面白くて、つい」
 そんな彼の表情を、リノもまた可愛いと思いながら、ここで初めて種を明かした。
「……ナギサみたいなこと言うなよ」
「だから、ごめんってば――――……でも」
 しかし、至極真っ当なトラッドの言葉に、彼女はもう一度謝った後、
「あの時あったことも、びっくりしたことも、泣いてたことも本当だけど……嬉しかったのも本当、だから」
 "好き"という気持ちと一緒に伝えたいと思っていた"想い"と、
「それに私だって……その後、おでこにキス、したり……その前に風邪で寝込んでいるトラッドのほっぺたにキス、したから……おあいこ、かな」
 自分の密かな行為についても、告白した。


 それから二人は笑い合い、ひとしきり笑い合った後。
「トラッド……」
 リノは嬉しさに潤んだ黒瞳を閉じ、
「……ん」
 トラッドもトパーズの瞳を閉じてから、再び唇を重ねる。
「…………もういっかい」
 何度も。
「ん……」
 何度も、何度も。幾度となく。
「ぁ…………もう、いっかい」
 自分が何を言っているのか。
 耳に滑り込んでくるのが誰の声なのかも分からなくなるぐらい。
「ん…………んっ」
 時に深く。
 時に浅く。
「ぅん…ぁっ――……ん」
 これまで秘めていた想い全てを届けるように。

「リノ……愛してる」
「私も、トラッドが好き…………大好き」

 数え切れないほど、キスを繰り返し続けるのだった。



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