「老人と紅茶と一冊の本」


 話は少し遡る。
 "王者の剣"が砕け散った瞬間に産声を上げた、という一筋の流れ星を追って、ドムドーラに辿り着いた五人がその欠片――"オリハルコン"を手分けして探していた時のことだ。
 宿を取った後、四人と別れたナギサは、規則的にレンガ、不規則的に緑と砂が混じり合う地面をくまなく注視していたのだが――その途中。
「もしもし、そこの方」
 一人の老人に話しかけられた。
 見覚えはない。あるはずも、ない。
 ゆえに彼女は、胸裏で密かに首を傾げたのだが――疑問は一瞬で氷解する。
「旅人さんかね?」
 この老人は旅人が珍しくて話しかけてきたのだ、と。
 もしかすると、アレフガルドに暮らす人間と異なった印象を受けたから、かもしれないが、
「はい。ここへはあるものを探している内に、辿り着いたんです」
 いずれにしても瑣末事には違いなかったので、ナギサは素直に目的を口にした。
「ふぅむ……」
 にも拘わらず、老人はその事には一切触れず、じっ、と彼女を観察している。
 本音を言えば、少し居心地が悪い。
 だが、不思議と不愉快さはない。何故だろうか。
 悟られない程度に眉根を寄せたナギサは、すぐさま思考の渦に身を投じるが――ああ、何てことはない。
 深く刻まれた皺の奥。微かな光を放つ茶けた瞳が、酷く優しいからだった。
 そう気づいたナギサは、すぐさま警戒心を和らげる。一方、それを悟ったらしい老人もまた、ふぉふぉふぉ、と楽しげに笑った。
「ところで、お嬢ちゃん」
「…………あ、はい」
 そして、不意の呼びかけ。あまり向けられた事がない響きだったせいか、不自然な空白を経てもなお戸惑い気味のナギサが答えると、
「もし時間があるようなら、うちに来んか?」
 右の人差し指で南西を示した彼は、脈絡もなくそう言った。彼の指を追った先にあるのは、一軒の古ぼけた家。おそらくは老人の住居だろう。
 ともあれ、敵意はもちろん感じられないし、隠している節もない。
 それに彼女自身も、具体的な表現こそできないものの興味は確かにあったので、いつもなら二つ返事でついていくところなのだが、
(でも……うーん)
 今は探し物の途中。少しぐらいなら、と思わなくもないが、停滞させるのもよくない。
 よって彼女は、渋々と断るための言葉を考え始めた――のだが。
「お主、紅茶が好きじゃろう?」
「え? ……まぁ、好きですけど」
 思考回路の死角より飛来した害のない刺客は、まるで全てを見通したかのような問いかけ。ナギサは虚を突かれつつも答えるが、疑問を覚えなかったわけではない。むしろ、相変わらず頭の回転が速い彼女は、瞬時にそこへ到達していた。
 しかし、それが形になるよりも早く、
「とっておきがあるんじゃよ」
 老人が悪戯小僧の如き笑顔で、そう呟いたため、
「是が非でもお邪魔させて頂きます」
 ナギサは半ば本能で快諾するのであった。

 疑問と興味の中身が、一体どういったものかも知る事なく。



 所々が煤けた壁。歩を進める度に軋む床。軽く跳躍すれば簡単に手が届くであろう天井。並ぶ家具も相応の年月を感じさせる、ほぼ期待通りのものばかりで、広さも一人なら兎も角、二人での生活を想定すると物足りない。
 老人に案内され、足を踏み入れた家の中は、そんな外観の印象そのままの内装だった。
「すぐに準備するからの。座って待つがええ」
 ただ、一つ――部屋の片隅で存在を主張する本棚を除いて。
 勧められるままに椅子へと身を沈めたナギサは、ほうっ、と一息吐いた後、改めて本棚を見た。
 けして新しくはない。というより、やはり古ぼけている。
 掃除は行き届いているらしく、おかげで埃っぽさはないのだが、やはりそれなりに歳月の過ぎた物で、中には色とりどりの書物がぎっしり詰め込まれている。
 だが、他のどの家具と比べても、明らかに新しい事が引っ掛かった。
 とはいえ、それだけなら特に不自然はない。
 書物を紐解く事に喜びや楽しみを見出した老人が、保管のために購入した。以前使っていた物が壊れたので買い換えた――等々。
 正解は分からないが、いくらでも推測できる上に、そもそも真実を追い求める必要がない。
 そのはず――にも拘わらず。
 ナギサは目が離せない。
 そこだけ時間が止まっているような。
 もしくは、停止を望んでいるような。
 そんな意図が見え隠れする本棚から、碧眼を逸らす事ができなかった。
 とその時。
 しわがれた声が、小さく響いた。
「メラ」
 微かな魔力の構成と共に。
 驚いたナギサは、脊髄反射で振り返る。声の主――老人の方向を。
 その急激に鋭い反応に対して、ほんの少しだけ目を見開いた彼は訊ねる。
「ん? ああ、呪文で火をつけたんじゃが……ふむ、もしかして見たのは初めてかの?」
「い、いえ……その、突然だったから少し驚いただけです」
「そうかそうか。まぁ、この方が早いじゃろう?」
「珍しいとは思いますけど、そうですね」
「使えるものは使わんとな」
 対してナギサは、驚き以外の感情は滲ませず、終始にこやかに答えたのだが、
(そう、だけど)
 胸中では別の感想を抱き、感嘆を膨らませていた。
 メラというのは、小さな火球を放つ呪文。大多数の者が最初に覚える、もしくは資質を見極める指標にもなる初歩的なものではあるが、それでも立派な呪文の一つだ。
 上の世界とアレフガルドでは基準が異なる可能性もあるのだが、これまでに感じた事と、老人が練った構成の単純さから鑑みるに、細かな差違はあるかもしれないが、おそらくは殆ど共通していると考えていいだろう。
 だが、構成の配列を変化させるとなると、また別の話になる。
 いかにメラが初歩の呪文とはいえ、スライムや大ガラス程度なら灼き尽くすぐらいの威力はある。もしそのまま行使しようものなら、家が火事になりかねない。
 しかし、この老人は今、範囲を狭め、十分な威力を保ちつつも、余剰部分は周囲に影響を及ばさない程度に分散させる、という複雑な構成の組み替えを容易くやってのけた。もちろん慣れもあるのだろうが、それでも一度は覚えた基本の構成を、水を瞬時に沸騰させるという目的のためだけに、わざわざ"崩す"という発想が信じられなかった。
 人間が培ってきた他の行為で代替できる以上、その発想は必要ないのだから。
 ゆえに、ナギサは思う。
 彼がどれほどの呪文を扱えるのかは不明だが、少なくとも呪文がどういった原理で成り立っているのかを知り尽くしており、またそれは呪文に造詣が深い者独特の発想だ、と。
「口に合えばいいんじゃがのう」
 一方、ナギサのけして小さくはない驚愕など知る由もない老人は、落下させる場面が想像できない安定した足取りで、紅茶の注がれた二つのカップを運び、最小限の音しか立てずにテーブルへ置く。
 直後、ふわっ、と湯気を伴って広がる香りは、知らない心地良さがあった。彼女はその仄かな甘みをしばし堪能した後、全神経を味覚に集中させて口に含む。
 そして持ち上げ、傾けたカップを、唇からわずかに遠ざけるや否や、
「……わぁ」
 うっとりとした声が、図らずも零れ落ちた。
 身体中に浸み渡るような甘さを、きゅっ、と引き締める微かな苦み。普段は紅茶に合わせて、砂糖やミルクを足すのだが、これには全く必要ない。むしろ、既に神懸かり的なバランスで完成された調和を乱す邪魔物にしかならないだろう。
 そんな、今までに出会った事がない極上の味にナギサは、
「……確かに、これは"とっておき"ですね」
 赤い髪の彼なら数秒は見とれて固まってしまうに違いない笑みを老人に向け、
「そうじゃろう、そうじゃろう」
 彼もまた、人の良い笑顔で応えるのであった。



 そうして二人が、とっておきの紅茶と他愛もない会話を楽しみ、しばらくが過ぎた頃。
「ところで、お嬢ちゃん。その本棚に興味があるようじゃな?」
 先刻の様子を見ていたのか、老人は確信的な口調でそう告げた。
「あ、すいません。じろじろと見てしまって……」
「いやいや、いいんじゃよ。もしよかったら、中身も見てもらって構わんからの」
「え? ですが……」
 興味があったのは事実だが、咄嗟に謝罪した手前、言われるままに見てもいいのだろうか、とナギサは躊躇う。
「なに、遠慮することはない。ワシにはもう必要のないものじゃし、お嬢ちゃんの旅に役立つことが書いてあるかもしれんからの。それに誰かに読んでもらった方が、本も喜ぶじゃろうて」
 しかし、老人があまりに勧めてくるので、
「えっと……じゃあ、少しだけ」
 控え目な口調で呟いて立ち上がりつつも、結局は興味津々な面持ちで物色し始めた。
 歴史書。図鑑。物語。絵本、などなど。
 多種多様な上に、読む人間も絞られていない書物が、初見でもある程度は理解できる法則性で並んでいる。
 中でも特に目を引いたのが、
「……魔道書?」
 呪文に関して記された書物だった。
 しかも驚くべき事に、それらは簡単なものから少し難しいもの、果ては難解と呼べるものまで揃えられている。
「……誰かに呪文を教えてらっしゃったのですか?」
 そこでナギサは、改めての驚きに目を丸くさせて問いかける。もしそうなら、先ほどの呪文も納得できる、と考えたのだ。
 だが、老人はこう答えた。
「いや――……それは息子夫婦の本じゃよ」
 何処か遠くて、酷く儚い表情で。
「…………すみません」
 一瞬で事情を察したナギサは、空白と音色、言葉に万感の思いを込めて呟く。
「もう昔のことじゃ。こっちこそ気を遣わせてしまって、すまんの」
「…………」
 沈黙。
 何か言うべきだったのかもしれないし、何も言うべきではないのかもしれない。
 そんな迷いと惑いを孕んだ静寂が、我が物顔で部屋中を闊歩する。
 しかし、それは束の間。
「もしよかったら……そのままでいいから、少し話を聞いてもらっても構わんかの?」
 老人が不意にそう切り出したのだ。
 今日初めて会ったばかりの自分が聞いてもいいのだろうか、と思わなくはない。だが、話す事で何かが変わるかもしれないし、何よりも彼がそれを望んでいる。
「……はい」
 だからこそ、ナギサは頷き。
「息子とその妻は魔法使いでの」
 その様子を皺に隠れた瞳と耳で確認した老人は話し始めた。
「二人とも名の通った、世界でも知らない者はいないぐらいの魔法使いじゃった」
「そんなに……」
「ワシの数少ない自慢の一つじゃ。もっとも、それを話そうと思う相手は中々おらんがの」
 嗄れた声が弾む。きっと仲も良かったに違いない。
「じゃが、力を持っていたがゆえに……巻き込まれてしまった」
 すっ、と翳りが帯びた。
「国の命運を賭けた戦い――……ゾーマとの戦いにの」
「……」
「ラダトームの兵士も、息子夫婦も強かった。じゃが、大魔王を名乗るゾーマはもっと強かった。人間では勝てぬ存在なのかもしれんな」
 ナギサは無言で、ただ耳を傾けている。
 自分たちがその"大魔王"に挑もうとしているなど、とても口にはできなかったのだ。
「息子夫婦には子供がおった。戦いの前にできた、ワシの可愛い孫じゃ」
 また、音色が変わる。孫の事を思い出しているのだろう。
「ワシも何度か抱いたことがある。その時は、向こう側のじじいと毎度取り合いになったものじゃが……ともあれ、孫は魔法使いの子供だけあって強い魔力を持っておった」
「……じゃあ、この本は」
 そして、ナギサは理解する。
 歴史書も図鑑も物語も絵本も――きちんと段階を踏んで揃えられた魔道書も。

 全ては愛する子供のためにあったのだ、と。

「そのお孫さん、は……?」
 彼女は問いかける。
 明らかに最悪が脳裏を掠めている、粘着性を帯びた仄暗さが蠢く音色で。
 本来なら聞くべきではないのかもしれないが、救いを求めるがゆえに聞かずにはいられなかった。
「詳しい場所はワシも知らされておらんが、安全なところにおるよ。なにせ、ワシの好敵手――あのジジイがついとるからな……まぁ、心配はいらんじゃろうて」
 対して彼は、はっきりと、確信に満ちた口調で断言する。
 詳細を知らされていないにも拘わらず、だ。
 しかし、納得はできる。
 過去に何度も自分の孫を取り合った相手だからこそ、互いが互いに信頼し合っているのだと。
 本当の事は分からない。ナギサはもちろん、老人にも知る術はない。
 だが、それでも――いや、それゆえに大丈夫だと思えた。
 まるで自分の事のように嬉しく思い、彼女が微笑んだ――刹那。
(……あれ?)
 とある一冊の書物が目に付いた。
 他の本よりも古いその一冊は、背表紙の文字も掠れていて読めないのだが、奇妙な存在感がある。
 そんな、不思議な本。
 導かれるように。
 誘われるように。
 ナギサはおそるおそる手を伸ばし、本棚から引き抜く。
 表紙の文字もやはり掠れていて読めない。
(この本……どこかで)
 しかし、何故か自分はこれを知っている気がした。
 この見た事もない書物が、何処かで見た事があるように思えてならなかったのだ。
「変わった本じゃろう?」
 一方、ナギサの微かな異変を察した老人は、唐突にそう訊ねる。
 心を読んだかのような一言だった。
「え?」
 更に彼は、様々な理由が絡み合って浮上した彼女の疑問符を別の解釈で受け、こう続けた。
「息子夫婦が昔から大事に持っていたものなんじゃが……何も書かれとらんのじゃよ」
「何も書かれてない、ですか?」
 うむ、と老人。

 何も書かれていない本。
 普通なら、後で何かを書くつもりだった、という可能性が考えられる。
 いや、そうなると昔から大事に持っていた理由が分からない。

 などと思考を巡らせたナギサは、とりあえず、と本を開いた瞬間、
「……え?」
 虹色に輝く神秘的な文字が流れ込んできた――


 ――頭の中に。


 迫り来る未知の感覚。
 際限なく膨張する圧倒的な知識の奔流。
「っ!?」
 ナギサは慌てて本を閉じ、それ以上の侵蝕を抑え込むように右のこめかみを指で押さえ付け、鋭利に細めた碧眼で再び表紙を見据えるものの、目立った変化はおろか、微塵も変質した様子はない。
(今のは……)
 だが、そこには鮮明に在った。
 自身の知る世界が一変し、一新する――そんな革新的な核心に触れたという確信が、根拠もなく明確に存在した。
 ただ、それがどういった異質なのかを具体的に示す事はできない。
 そういった状況の中。
「……お嬢ちゃん」
 最初に唇を割った老人は、
「持っていくがええ」
 ナギサが全く予期していなかった言葉を紡ぐ。
 断らなければ、と思った彼女は、混乱と混沌の渦巻く思考を展開させ、口を開こうとした。
 しかし、それよりも一足早く、
「ワシには読めなかった本を、お嬢ちゃんは読むことができたんじゃろう?」
 この場で起きた出来事を正確に見抜いたがゆえに、
「なら、持っていくがええ――いや、持っていってくれんかの」
 ありとあらゆる何もかもを射抜くような響きで、
「読むことができる人間に持っていてもらった方が、その本も幸せじゃろうて」
 強固にして堅牢な説得力を携える言葉を、口にする。

 その考え方は分からなくもないが、これは自分の本ではない。
 けれど彼には読む事ができず、自分には読む事ができた。
 加えて、本当に読んでもらいたい相手と再会できる保証もない。

 だから、だろうか。
 老人が真剣な表情でそう告げたのは。

 迷いはあった。
 惑いもあった。
 だが、それでも彼女は選択する。
「……はい!」
 けして無駄にはしない、という決意を一言に集約し、決断した。


 それから数十分後。
「まさか、な」
 彼の不可解な呟きは、既に去ったナギサに届く事はなく。


 また、彼女自身も。
 自分が何故、あの老人に好感を持ったのか。
(……そっか)
 その理由に気づいたのは。

(おじいちゃんに、少し似てたからだ)

 ずっと先の――旅が終わった後の話であった。



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