「ナギサとラザ。そして、過去」


 そして、話は現在に戻り――
「…………はぁ」
 ナギサは一人、ラダトームの宿の一室でベッドに座り、ドムドーラで老人から託された"あの本"を太股に乗せて、じっ、と一心に見据えながら、前に進まない思考を溜め息へ換えて吐き出していた。
 不思議な本――受け取った直後に思った事はそれだけだった。敢えて付け加えるにしても、読む事ができたのなら何かに活かせるに違いない、という事ぐらい。結局は"不思議"という言葉以上の、もしくは以下の感想は抱かなかった。
 だが、一日、二日と過ぎ、常の冷静さを取り戻し、思考が鮮明になると、思い当たる節が浮かぶ。
 というより、それ以外に考えられなかった。
 何処かで見た記憶がある――当然だ。
 自分はかつて、これと同種でありながらも別である本に触れた事があるのだから。

 ただ、読めなかっただけで。

 しかし、あの日以来、ナギサは一度も開いていない。
 あれほど望んでいたのに。
 あんなに渇望していたというのに。
 亡き祖父との約束を、やっと果たせる時がきたのかもしれないのに――何故か。

 恐かったのだ。

 良い意味でも。
 悪い意味でも。
 何かが――自分の積み重ねてきたありとあらゆるが変わってしまいそうで。

 たまらなく怖かったのである。

 だが、それは今に始まった事なのだろうか。
 無我夢中で気づかなかっただけで、本当はずっと、心の何処かでは怯えていたのではないか。
 いや、自分はまだ踏み出せずにいる。
 自覚の有無という差はあるかもしれないが、そう仮定し、その点だけに注目するなら何も変わっていないはずだ。
 否、自覚したからだろうか。
 たとえ恐怖に苛まされていても、恐怖と向き合っているから――違う。それなら初めて手に取った時の事が説明できない。
 などと、思考の展開と回転が速すぎるがゆえに、何度目かの空転ループを繰り返し始めた刹那。
「ナギサいるか?」
 扉の外から声が響き、こんこん、と間隙なくノック音がこだました。
 すっかり耳馴染んだ、嫌いじゃない音色。
「ラ、ラザ!?」
 それが誰のものかを瞬時に察したナギサは、酷く狼狽した声で彼を呼びつつ、持っていた本を道具袋の中へ押し込む。しかし、一目瞭然な動揺を前に、ラザが遠慮しないわけもなく。
「……忙しいのなら、無理に出なくても構わないが」
 予想通りの口調で呟いた彼の足音は、幽かな澱みと共に遠ざかろうとする。
(待って……!)
 声は出なかった。だが、心はそう訴えていた。
 それゆえにナギサは、気づけば立ち上がっていて。
 けして広くはない室内を、半ば駆けるように足を動かしていて。
 躊躇いなく伸ばされた手は、。間断なくドアノブを掴んで、回して、勢いよく扉を押し開いた――直後。

 がぁん。

 素晴らしく良い音がした。
「えー……っと?」
「……ナギサ」
「は、はい?」
「いきなり訪ねた俺にも非はあるだろうが、開けるなら開けるで何か言ってくれ」
 すかさず上がる、反論。  こういう目に遭うのはトラッドの役目ではないか、などと的外れな感想を覚えた彼女は、
「あ、うん。普通はそうよねぇ……あははー」
 たどたどしくも空々しい、奇妙な言葉を経て、
「……ごめん」
 ようやく謝罪した――のだが。
 彼を起き上がらせるべき手を差し伸べた瞬間、固まってしまった。
 何故なら、部屋の前にいたのは。
「ラザ……?」
 あの長い髪をばっさりと切った彼だったのだから。
「ん? ああ、ついさっきな」
 対して、当の本人は事も無げに答える。そこには未練などなく、髪を切った影響もあるだろうが、表情は憑き物が落ちたようにさっぱりとしていた。
 どうして、と彼女は理由を訊ねようとした。
「やっぱり変か?」
 しかし、ほんの一瞬早く、ラザが率直な意見を求めてきたため、
「う、ううん。前より似合ってる」
 つられたナギサは、普段なら絶対に言わないであろう言葉を口にしてしまった。
『……え?』
 重なる、音色。
 続けて、さっ、と同時に朱が走る。
 いつもなら気まずい空白が芽吹くところだったのかもしれない。
「ど、どうして急に?」
 だが、ナギサは動揺するあまり、動揺を消し去る事も忘れて、最初に覚えた疑問を投げかけた。
「それは……その」
 それはつまり、ラザの冷静になる時間も失われた事を意味する。
「気持ちを切り替えるため、だったんだが……」
 だから彼は、思わず告げてしまった。
「ナギサにそう言ってもらえてよかった」
 自身が押し隠し、時には押し殺していた感情を、分かり易すぎる言葉で。
「……わたし、に?」
「あ、いや……」
 さすがの彼女も引っ掛かる。
 実はリノとトラッドの事を言えないぐらい鈍い彼女でも、気づいてしまった――刹那。


 ナギサはこれまでの彼を思い出し。
『じゃあ、やっぱり好きなんだよ』
 アーニーの言葉を記憶から手繰り寄せて、
『ううん、ナギサちゃんはラザくんのことが好き――ただ、ね……どんな風に"好き"なのか分からないだけで』

 深く――深く思い返し。

 また、ぼっ、と頬が上気する。
 伴って顔が、胸の奥が、心が、熱くなる。


 これは、なに?
 私は何を思ってる?
 嫌悪、じゃない。
 嬉しい、って想ってる。
 私はまた――

 ――また?、、、

 再び。再度。二回目。
 次々と、無意識で置き換えられる言葉。
 だが、意味は変わらない。
 誤魔化そうとしても、無かった事にしようとしても――失くならない。
 過去は消えない。

 自分の過ちは、消しようがない。

(っ……!)
 痛みが、走る。
 しかし、それは既に堪え難いものではなかった。
 少なくとも向き合える程度の痛み。
 ゆえに彼女は、選択する。
「……ラザ」
 選択した上で表情を曇らせた後、
「目を、閉じて」
 ぽつりと、眉根を寄せてそう呟く。
「は?」
「いいから!」
「あ、ああ……?」
 そして、強引に彼を従わせると、ナギサは胸に手を当て、一度吐息を落とし――もう一度だけ"過去"を振り返った後。

「……ん」

「っ!?」

 軽く寄り添わせるように。
 深く心を通わせるように。
 それ以上に。
 強く突き放すように。

 無防備な彼の唇に、桜色の唇を押し当てた。

 だが、一瞬。
「ナ、ナギ、サ……?」
 ラザの惑いも。
 何故こんな事をしたのか、という疑問も。
 自身の中にあった想いも振り払うように離れ、
「……誰とでも、こんなことができる」
 一歩、二歩、三歩と遠ざかり、
「たとえ好きじゃない相手でも」
 全てを断ち切るべく、背中を向けて、
「そういう人間なのよ……私は」
 自分で自分を、自分が思う最低の自分にまで貶めた。
 沈黙。
 停止にも似た、絶対的な無音の空間。
 彼も彼女も言葉を発さない。発せない。
 それでも確かな事は、崩れてしまったこと。壊れてしまったこと。
 けれど、そうしたのは。
 崩してしまったのも、壊してしまったのも、他ならぬ自分。
 解放を望むがゆえに崩壊させてしまった。
 だが、これでいい。これがよかった。
 長い間彼を、そして自身を欺いてきた自分に相応しい結末だと思った。
 そう思って、いた――にも拘わらず。
「……ナギサ」
 彼は名前を呼び、
「なら、どうして」
 ぽつり、と前置き。
 声か、垣間見た顔かは分からないが、
「どうして、ナギサは…………泣いてるんだ?」
 彼は窺い知る事ができないはずの表情を、的確に指摘した。
「な、ないてなんか……!」
 咄嗟の否定。しかし、震える声に説得力が伴うはずもない。
 自分でもよく解る。痛いほど、思い知らされている。
 だからこそ、ラザは。
「…………ナギサ」
 そのまま身を委ねてしまいそうなぐらい優しい声で、再び彼女の名前を呼ぶと。
「えっ――」
 声と同様に震えている身体を。
 心と動揺に今にも崩れ落ちそうな、彼女の細い身体を。

 そっと――後ろから抱き締めた。

「は……はなして……!」
 ナギサは抵抗する。
「はな……はなして!」
 身をよじって、心をねじって、逃げ出そうとする。
「おねがい、だから……はなし、て」
 間違っても本当の気持ちを零してしまわぬよう、拒絶の言葉で口に蓋をして、頑なに感情を閉ざして、全てを破棄しようとする。
 口にしてはいけない。
 身勝手で嘘つきで臆病な自分に、そんな資格は――彼の"想い"を受け入れる資格などあるはずも、ない。
 だが、力で勝っている彼に、徐々に抗う力を失いつつあった彼女は、程なくして強引に振り向かされ、
「ナギサ……!」
 一秒にも満たない時間、見つめ合った後。
「ん……っ!?」
 普段の優しさが面影もない乱暴さで唇を押し当てられ、
「ん……んんっ……!」
 すぐに離れて、
「…………はぁ」
 息苦しさ以外の理由で熱を帯びた吐息を落とした刹那。

「………………………………好き」

 ナギサは"想い"を告げていた。
 そして――
「あ……ち、ちが、いまのはちがう、の……わた、し、そんな、こと……」
 ――心は決壊し、
「そんなこと、おもって……ぁ……ぁ、ぁ……あああああああああああああああああああああああああああああああああああ……!!」
 彼女はぼろぼろと涙を流し、ひたすらに泣き叫び続け、
「……ナギサ」
 そんな愛しい女性をラザは、優しく抱き締めるのであった。



 どれくらいの時間が過ぎたのか。
「落ち着いたか?」
 ナギサの慟哭が止むまで、ずっと抱き締めていたラザは頃合いを見て問いかけた。
「…………」
 数秒の沈黙を経て。
「……う、ん」
 彼女は声を絞り出して答え、小さく頷く。
 それを聞いたラザは、少しだけ嬉しそうな面持ちで、ナギサをベッドに座らせる。そうして、しばらくは立ち尽くし、此処を去るべきだろうか、と考え始めたものの。
「……とな、り」
「え?」
「となり……すわって」
 俯いたままの彼女が、だらりと伸ばして手で服を引っ張りながら、そう呟いたため、
「……ああ」
 彼は惑いと躊躇いに赤い瞳を細めつつも、右隣に座った。
「ラザ……」
 そして、ナギサは語り始めた。
「あの……あの、ね」
 自分のこと――自身の内に潜む、かつての過ちの真実を。


 あの日、あの時、あの夜。
『ねぇ――』
 ダーマ神殿内の、ラザが泊まる部屋を訪れたナギサは、他愛もない言葉を一言二言交わした後、
『ラザって……キスしたこと、ある?』
 唐突にそう問いかけてきた。
「えっと……は? なにを、言ってるんだ?」
『だから、キス』
 完全に不意を突かれた彼は、目を丸くし、
「げほごほっ!? キスって……な、何でそんなことを?」
 咳き込みつつも、質問の内容をもう一度繰り返す。
『それで、どっち?』
 だが、一方のナギサは平然と、更なる繰り返しを曖昧然と口にす――いや、違う。気づいていなかっただけだ。
 彼女の声は確かに震えていた。
 震えていたにも拘わらず、動揺と焦燥と、矢継ぎ早に問いを重ねてくるナギサの冷めた表情に惑わされるがゆえに、気づけなかったのだ。

 どうして、そんなことを?

 そんな中、かろうじて胸裏に芽吹いたのは、ごく自然な問いかけ。
 しかし、声は出ていなかった。
 音にはなっていたのかもしれないが、少なくとも言葉としての体は成していなかった。
 だが、表情で察したナギサは、こう言った。

『私が悟りの書を読めないのは、だからかな、って思って』

 返事ができない。解らない事は答えようがない。
『私が何も知らないから……約束を果たせないのかな、って』
 そもそも知る術がなく、事情を知っているからこそ簡単に答えられなくもあった。
 ゆえの沈黙。
 そして、それをナギサはどう解釈したのか。
『でも、その様子だとラザもしたことはなさそうね?』
「……悪かったな」
『別に悪いとは言ってないわよ。私だって……その、ないし』
 徐々に頬を上気させつつも俯き、たどたどしくそう呟いた後。

『…………………………して、みる?』

 ラザが微塵も予期していなかった提案を告げる。
「は?」
『だから、キス……その、私と』
 理解が追いついたのは、ほんの数秒後。
 そうなるともう相手の顔を見る事ができなくなる。
 どくん。跳ねる。心臓。
 どくん。爆ぜる。血液。
 うるさい。熱い。
 どくん、どくん。
 鳴り止まない鼓動は激しさを増すばかり。
 沸騰し続ける血液は思考力を奪うばかり。
 どくんどくん。
 周囲の音が消える。聞こえなくなっていく。
 視界が不鮮明になる。見えなくなっていく。
 どくんどくん、とくん。
 おかしい。何かが、おかしい。断らなければ。これは違う。何かが、違う。間違っている。
「な、にを……バカなこと、言うな」
 慌ただしい心音に冷静さを損ないながらも、ラザはかろうじて否定する。
 だが、果たして言葉になっていただろうか。
 それとも、実は質の悪い冗談で、俯いて顔を逸らしているのは、悪戯な笑みを隠すためではないか。
 もし本当にそうなら――それに越した事はない。騙された悔しさはあるが、安堵の方が大きい。少し窘めれば済む話だ。
 しかし、ほんの数秒の、鼓動と緊張が煩わしい静寂らしからぬ静謐を経て。
 彼女が紡いだ言葉は。
『……怖いの?』
 ラザのささやかで密やかな望みを砕く問いかけで。
「そういう問題じゃ、ない」
『怖いんだ?』
 彼が必死に反論しようとも、返されるのは酷く挑発的な言葉だった。
「怖くなんてない」
『本当に?』
「ああ」
『その割に声が少し震えてるようだけど?』
 沸々と込み上げる怒りにも似た感情と、
「そういうナギサこそ怖いんじゃないのか?」
『わ、わたし、が?』
「だから、そうやって確かめようとする。違うか?」
『ち……違うわよ!』
「どうだろうな」
 空々しく蔓延る熱に浮かされ、
『……じゃ、じゃあ――する?』
「ナギサが怖くないのなら、な」
 抗う事も忘れて突き動かされ、激しい口論を交わした後。

 流されるまま唇を重ねた二人は――欲望の赴くままに身体を重ねてしまった。


「……でも、ほんとうは」
 曖昧に、言葉少なに過去を話し終えたナギサは、そこで初めて顔を上げる。
「ほんとう、は……」
 そして、骨が軋むぐらい固く握り締めた拳を頼りなく震わせながら、彼女は告げた。
「ラザが……ラザ、が――好きだった、から」

 あの日、あの時、あの夜。
 伝えられなかった本当の想いを、ようやく口にした。

「……すぐに後悔した」
 更にナギサは、苦しそうに眉根を寄せ、
「自分がイヤになった」
 潤んだ碧眼から芽吹く透明な雫が、頬を濡らしても拭おうとせず、
「好きだって言えなかったことも、約束を汚したことも……ラザを傷つけたことも……何もかも、イヤに、なった」
 決して償えない罪を償い続ける罪人を連想させる表情で、赦されない罪を告白し続ける。
 止めたかった。
 もう何も言わなくていい、本当に悪いのは抗えなかった自分だ、と抱き締めたかった。
 だが、できなかった。
 言葉はある。
 言葉にする覚悟も、彼女を想う気持ちも、全て此処に在る。
 きっと以前よりも強かった。
 しかし、だからこそ――なけなしの勇気を振り絞ったナギサの決意を、踏み躙る事ができなかった。
 彼女が向き合おうとしている以上、自分も向き合わなければいけない。
 逃げるわけには、いかない。
 そんな中、ナギサは言った。

「だから――忘れようとしたの」

 過去の自分が犯した、最大の罪を。
「これは自分じゃない、これは他の誰かだ……そう思い込もうとした。当然、上手くいくわけなんてない。だって、全てを忘れるってことは、ラザへの気持ちも忘れなきゃいけないんだから……それを忘れたいなんて思えるはずがなかった」
 ――なかった、はずなのに。
「目を覚ましたラザの、何も悪くないラザの"ごめん"って言葉を聞いた瞬間……忘れちゃったの」
 そこで彼は――

『……なんで、いつも』
『何でいつも先に……! あや……まるのよ』
『え?』
『だから……だから私は――』

 ――全てを理解する。
「忘れたくなかったのに。あんなに忘れたくなかったのに、ね」
 ナギサが時折見せる"自己暗示"の力は、
「全部ラザのせいにして…………私は、忘れたの」
 罪悪感に押し潰されて心が壊れてしまわぬよう、自分を守ろうとした結果――彼女が生きるための術だったのだ、と。
「あとはラザが知ってる通り。何もかも忘れてすっきりした私は、自分がどんなに最低なことをしたのかも知らず、一人で旅に出た」
 ナギサは自嘲する。
「……でも、心のどこかでは忘れてなかったのかもしれない」
「え?」
 そして、独り言のように呟く。
「一度だけ、好きかもしれない、って思ったヤツがいたんだけど、やっぱり違うってすぐに分かったから……忘れてなかったんだと思う」
「……相手は?」
 対して、今の今まで閉口していたラザも、さすがに気になったらしく、自分の見知らぬ人間だと思いつつも問う。
「…………トラッド」
 が、返された回答は、よく知る人物の名前。少しだけ意外で、複雑な心境だったが、皮膚が粟立つような感覚はなかった。彼女の胸中を何も知らなかったのなら、こうはいかなかったかもしれない。
「……だから、ね」
 そうしてナギサは立ち上がり、
「私には、ラザに想ってもらう資格はないの」
 背中を向けた状態で告げる。
「ラザにはもっと相応しい相手が……私なんかよりも素敵な女性ひとがいる」
 決壊間近の感情を必死に抑え込んだ声で、
「だから……もう、忘れて」
 ぽつぽつり、と。
「もう気持ちは冷めてると思うけど、もしそうじゃないのなら……早く、忘れて。私は大丈夫、だから」
 儚げに桜色の唇を割る。
 しかし、ラザは答えない。何も、何一つさえも答えない――代わりに。
 すっと立ち上がり、もう一度彼女を抱き締める事で、彼女に応えた。
 そして、彼は。
 何故。
 どうして、とナギサが訊ねるよりも早く、唇を重ね、回した腕に一層力を込めると、
「……俺がナギサを好きだと気づいたのは、あの後だった」
 本心を耳元で囁く。
「だから、俺も同罪――だが」
 そして、ぷつぷつり、と。
「今でもナギサを好きなことに変わりは、ない」
 初めて、自身の想いを言葉にした。
 目を丸くするナギサは、言う。
「……………………バカ」
 短く、恐々と声を震わせ、双眸を雫に潤ませながらも、この上なく嬉しそうに。
 だが、彼女は、とん、とラザの胸に置いた手を柔らかに押して遠ざかると、
「……時間を、ちょうだい」
 何かを堪えるように伏せた面持ちで、そう懇願する。
「ラザのことは好き、だけど……まだ整理できそうにないから」
「…………」
「で、でも! もし、他に好きな人ができたら……私のことは忘れていいから」
 続けて、大慌てでそう付け加えるものの。
「……とはいっても」
 不意に、ちゅっ、とラザの頬に口付けたナギサは、

「私も簡単に忘れさせるつもりはないけど、ね」

 いつもの小悪魔な笑顔を浮かべつつ、顔を真っ赤にするのであった。



次の話

トップへ