「この光は世界と――」


「師匠……あの」
「……」
「食事、ここに置いておきます、から」
「…………」
「ちゃんと……食べて、下さいね」

 アレフガルドに太陽の光が戻ってから――いや。

 "彼女"がいなくなってから、二日が過ぎた。

 トラッド、ナギサ、ラザの三人は、戦いを終えた報告と休息を兼ねてヤヨイの元を訪ね、今もマイラの宿に泊まっていた。
 本来ならラダトームにも足を運び、王に伝えるべきなのかもしれない。現に昨日の昼下がり、王の命令で五人を捜していた兵士からも、是非、と言われていた。何でもラダトームでは、連日連夜に渡ってパーティーが開かれており、しかもアレフガルドを救った勇者たちを一目見ようと、また感謝の言葉を伝えようと大勢の人が押し寄せている状態で、城の者は皆対応に追われているらしい。
 収拾がつかない光景である事は容易に想像できる。
 しかし、兵士達に疲れた様子はなく、どころか、自分たちも、と心から望んでいるようだった。
 世界を救った、という事実は、国や人はおろか個や群といった隔たりさえも打ち壊すほどの偉業なのだ、とようやく実感した。
 そこでナギサとラザはラダトームへ向かい、王に初めて戦いが終わった事を、これまで行方を眩ましていた謝罪も含めて告げた。だが、宴には参加しなかった。
 もちろん、断られたわけではない。五人揃っていなかったが、それでも是非、と王は笑顔で言ってくれた。
 しかし、やはりそれはできなかった――何故なら。

 "彼女"を失った彼が。
 "彼女"の愛した彼が、抗う事もせずに朽ち果てようとしていたのだから。



 そして、現在。
 時刻は宿の食堂が夕餉で賑わう頃。
「あ、ヤヨイちゃん」
 そわそわと所在なげに廊下を右往左往していたナギサは、ヤヨイが扉を閉めたのを確認してから話しかけたのだが、
「トラッドの様子は――……訊くまでもない、か」
 彼女が持っているトレイを見て、すぐに質問を打ち消す。数時間前に自分の運んだ昼食が、すっかり冷めている上に、微塵も手を着けた形跡さえもなかったからだ。
「……はい。口も開いてくれません」
 一方のヤヨイは、言葉にするのも辛いかもという気遣いからか、彼女の次なる問いを予測した上での返事をする。
 表情に翳りはあった。しかし、その暗澹たる感情は、共に旅をしていたからこそ分かるだけであって、一度や二度話したぐらいでは見抜けないほど大人しい。
 本当によくできた娘だ、とナギサは改めて感じた。
 元々、心優しい少女だったが、町作りに携わってからは特にそう感じ――同時に考える。
 自分はどうなのだろう、と。
 ヤヨイもラザも落胆を察している、とは思う。とはいえ、それは胸中だけの話であって、きっと上手く抑え込めている。実際、ラダトーム王にも、二人しかいないという状況以外の理由では悟られていない。
 だが、自分の隣にはヤヨイが――そして、ラザという最愛の人がいる。
 一人と二人。
 もしくは、
 独りと二人。
 この差は言葉や数字以上に大きく、決定的で、それが"かけがえのない人"であれば尚更である。
 堪え難い悲しみは半分の"二"になり、代え難い喜びは得難い"一"となるのだから。
 だから、だろうか。
「えっと……こんな時に、なんだけど」
 一旦は、本当に何を訊こうとしているのか、と前置いた後。
「はい?」
「ヤヨイちゃんにも好きな人……いるのよね?」
「……ふぇ?」
 ナギサは前触れもなく問いかけた。
 対して、完全に不意を突かれたらしいヤヨイは、ぼっ、と頬を上気させるものの、
「…………はい」
 数瞬の空白を経て、はっきりと、相変わらず真っ直ぐに頷く。
 この時、彼女の深く澄んだ黒瞳こくどうは、微かに潤んでいた。しかし、ただ単に照れているのか、思い出すに伴って想い焦がれているのか、いずれにしても仄暗いものではなかった。
 ナギサとしては、勇気を出しての問いかけだっただけに、少々意外であった。
 既に説明は――元の世界には戻れない、と伝えたはずなのだから。
 それは紛れもない別離を意味する事実であり、揺るぎない現実。
 確かに、まだそうと決まったわけではない。今は無理でもいずれは帰れるかもしれない。だが、可能性はかなり低く、少なくとも"望み"と呼ぶには、あまりに途方のない奇跡的確率だ。
 対して、ナギサの幽かな困惑を読み取ったのか、或いは必要性を感じたからなのか、
「それで、ですね……あの、その方も、こっちにいらしてたんです」
「……え?」
 ヤヨイは現状の考慮された控え目な声でありながらも、喜びを滲ませた音色で呟いた。
 誰だろう。いつ、どこで、彼女はそれを知ったのだろう。マイラまでは行動を共にしていたはずだから、もしかするとその後だろうか。
 刹那、ナギサの脳裏に疑問符が、一瞬にして膨大に浮上するものの、思い当たる節がない――しかし、実のところ、普段の彼女なら気づけるだけの材料は揃っていた。
 見知らぬ人物はラダトームにいて、ヤヨイは初めてそこを訪れた際に出逢っていた、という事実に。
 兆しとして受け取るにはささやかではあったが、わずかに変化もあった。
 ただ、気づけなかったのは、あの時も今も動揺していたからで、
「あ、でも……その人はまたどこかに行っちゃったんですけど」
 更に、ふと"彼"との約束を思い出した彼女の嘘で、機会を逸してしまった。
 もう一つ付け加えるなら、これが本題ではなかったせいでもある。
 何故なら、ナギサは。
「そっか……でも、ヤヨイちゃんって凄いのね」
 あどけない顔をした少女が秘める強さの秘密を知りたかっただけ――いや、その強さを分けてもらいたかっただけなのだから。
「そんなことないですよ」
「ううん、私だったらきっと……そんな風に振る舞えなかったと思うし」
 珍しい、弱音。
 そこでヤヨイは、唐突に淡く微笑み、告げる。
「……でも、ナギサさんは大丈夫ですよね?」
「ふぇ?」
 一体誰に似たのか、の誰がまさか"自分"とは思わない、悪戯な笑顔で。
「ラザさんがいるんですから」
 けれど、この上なく幸せそうに言った。
「ま、まぁね」
 ナギサは、つい頷いてしまった後。
「……って、ヤヨイちゃんに話したっけ?」
 間髪入れず、至極当然の疑問を覚え、訊ねる。いずれは話すつもりではあったが、状況が状況だけに話しそびれていたのだ。
「え? あの……ずっと前から気づいてましたけど?」
 しかし、ヤヨイがきょとんとそう答えたため、
「ずっと前、ずっと前ね……あはは」
 ナギサは苦笑で誤魔化しつつ、真っ赤に染まった頬をぱたぱたと扇ぐしかできなかった。



 それから、一時間後。
「……トラッド」
 かちゃり、と扉が開き、誰かが誰かの名前を呼んだ。
 続けて、一つ、二つ、三つ、と音が響く。
 何の音だろう。
「トラッド」
 答えはない代わりに、再びの呼び声。さっきよりも近い。
 そうか。
 一つ、二つ、三つと鳴った音は、
 一歩、二歩、三歩と自分に歩み寄ろうとする足音だ。
 けれど、誰のことだろう――ああ、自分の名前か。
 大切な人から受け継いだ、大切な名前。
 その名前を誰かが、自分と認識して呼んでいる。
 呼ばれている。
 誰だろう。
 誰の声だろう。
 低い。が、重低音というほどではなく、努めて明るくしようとして逆に翳りが際立ち、けれど厳しさや悪意による非難はなく、むしろ優しい、気遣いの満ちた音色。
 知っている。よく知っているのに、すぐに思い出せない。
 それが悲しくて、酷く申し訳ない。
 だから、ふと横目でその"誰か"を盗み見ると、力強くて、今の自分には眩しい鮮烈な赤が映った。
 ラザだ。
 分かっていたはずだ。
 どうして忘れていたのだろう。
 仲間なのに。
「……少しは食べた方がいい」
 スコシハタベタホウガイイ。
 ラザはそう呟いた。
 分かっている。
 言葉の意味も、そうしなければならない意味も分かっている。
 解り切っている。
 きっと、いや、間違いなく身体もそれを欲しているというのに、ちっともそんな気になれない。
 何故――決まっている。
 今の自分にとっては意味がないから。
 "彼女"のいなくなった世界で、命を繋ぐ必要性を感じないからだ。
「トラッド」
 また、名前。
 名前を呼ぶ――それは存在を確かめる行動。
 相手を思い、また想うがゆえの行為。
 最初は流されるままに名乗っていて、正式に受け継いだ時は呼ばれる度にくすぐったくて、いつしか誇りに思っていた。
 大切なこと。
 でも、"彼女"がいない。
 様々な感情で、愛おしくなる声で呼んでくれる"彼女"が、もう、いない。
 ラザも、ナギサも、ヤヨイも、自分のことを心配してくれている。
 もし、自分が三人と同じ立場だったなら、必ずそうするだろう。
 だから、素直に嬉しい。
 それに世界も平和を取り戻した。
 時折、耳に入ってくる屈託のない喧騒から、はっきり分かる。
 とても素晴らしいことだとも、思う。

 でも、ごめん。

 このままじゃいけないことも。
「……だって、そんなことは望んでいない」
 何よりも"彼女"が悲しむことも、全て分かっている。
 三人のおかげで、ようやく自覚することができた。

 でも、ごめん。

 どうしても、そう思えない。
 二度と目が覚めない眠りに堕ちたところで何もならない――"彼女"に逢えるわけではない、と理解していても。
 あの光が届かない闇に放り出されることが、どれほど怖くても。
「…………また様子を見に来る」

 この世界に、生きる価値を見出せないんだ。

 だから――ごめん。



 それから更に一日が過ぎ、世界が深い夜の帳に包まれる中。
(……よし)
 ナギサは意を決して、彼の部屋の前に立った。
 後ろにはラザとヤヨイもいるが、これからどんな話をするのかは一切説明していない。
 それでも、傍にいてほしい、と彼女は言った。
 一人なら押し潰されてしまうような悲しみも、三人なら立ち向かえる。
 今までがそうだったのだから、と。
 確信しているからこその、三人だった。
 こん、こん、と。
 手の震えが怯えとして伝わらないよう、彼女は気丈に扉を叩く。
 返事はない。構わない。中へ入る。もう時間がない。
 そして、ゆっくりと歩く。
 足並みは揃っていない。ゆえに足音は不規則。個々としては小気味よくあっても、全体としては薄気味悪い。
 けれど、そんな余裕はない、と気にも留めずに三人は前に進み、
「……トラッド」
 まずは、ナギサ。
「トラッド」
 続けて、ラザ。
「師匠」
 最後にヤヨイ、と順に彼の名前を呼ぶ。
 やはり返事はなく、張り詰めた静謐だけが、しん、と音もなく横たわる。
 ナギサは何を告げるつもりなのか。
 此処へ来る前、

『勇気、分けてもらったから』

 彼女はこう言った。
 隣で支えていて欲しい、とも。
 一体どういう意味だったのか。

 彼に現実を受け入れさせること。
 また自らも現実を受け入れること。
 それは確かに勇気の要ることだ。

 だが、そこに救いはない。
 絶望を確認するだけの、無慈悲な行動だ。

 いついかなる時でも希望を信じ、絶望と対峙してきた彼女が、果たしてそんなことをするだろうか。

 と、二人が見守る中。
「……いつまでそうしてるつもり?」
 彼女は言った。
「トラッドには……ううん、私たちにはするべきことがあるでしょう?」
 びくり、と彼の身体が微動した。
 そうして再びの静寂、束の間の空白を経て。

「リノちゃんを捜す、っていう世界を救うことよりも大事な使命がね」
「…………え?」

 彼の虚無が初めて遠ざかり、色づいた。
 しかし、それも一瞬。
 すぐさまトラッドは顔を伏せ、ぽつぽつり、と呟く。
「……でも、リノは、もう――」
「じゃあ、訊くけど」
 が、ナギサはすぐさま遮断し、

「リノちゃんがいなくなったところを見たの?」

 ひとひらの希望を紡いだ。
「…………あっ」
 と声を発したのは誰か、なんてことはどうでもいい。
「ラザは見た?」
「……いや」
「ヤヨイちゃんは?」
「わ、わたしも見てません!」
 ナギサは矢継ぎ早に訊ね――最後に。

「…………トラッドは?」

 "彼女"の愛しい人へ、問う。

 ………………………………………………………………
 ……………………………………
 ………………

 数秒ではないが、一分にも達しない沈黙の後。

「…………見て、ない」

 彼のトパーズに、わずかながらも生命が宿った。

「……だったら、捜さなきゃ」
 偽善。
「リノちゃんは、どこかにいるかもしれないんだから」
 欺瞞。
「……ううん、きっといる」
 幻想的で、それゆえに現実としては出来損ないの、
「もしかしたら、道に迷って帰れなくなってて、トラッドのことを待ってるかもしれない」
 贋物の希望。
「だから、ね……行かなきゃ」
 都合がいいだけの絵空事、なのかもしれない。
「リノちゃんのこと、好きなんでしょ?」
 ――けれど。
「少し離れただけでそんなになっちゃうぐらい、好きなのよね?」
 たとえ、絶対的な絶望を突きつけられるだけの結末が待っていようとも。
「そうですよ! もう二度とリノさんのことを離さない、って約束したじゃないですか!」
 彼には。
「それにトラッドは独りじゃない。俺たちがいる」

 "彼女"を愛した彼には。
 "彼女"の愛した彼には。

 それで。

「…………ああ」

 それだけで十分だった。


 何故、気づけなかったんだろう。
 そんな当たり前のことに、どうして気づかなかったんだろう。
 トラッドは立ち上がる。
「っと……わ」
 だが、停滞に長く浸かっていたせいか、身体は成す術もなく崩れ落ち――なかった。
「急に動こうとするからだ」
 真っ先に反応したラザが、彼を支えたからだ。
 
 そう、一人じゃない。
 離れ離れになることはあったが、どんなときでもひとりじゃなかった。

 それは"彼女"も同じ。

 ここにいる。
 ナギサが、ラザが、ヤヨイが――そして、自分が。

 "ここ"に、いる。

 だから、見つけ出せる。
 いつかは分からないが、いつかまた。

 一緒に笑い合って、名前を呼び合える。

 気づいたトラッドは、体勢と態勢を整え、俯いていた顔を上げると。

 仲間達の温かい笑顔に、

「――……ありがとう」

 ぎこちなくも笑顔で、感謝の言葉を告げた。



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