「休日の過ごし方」


 いつもと同じようで違う、新しい朝の始まり。
「ん……?」
 兆しなく寝ぼけた声を出したヤヨイは、指で無造作に、また無作為に髪を梳き、重さの残る瞼を軽く擦った後、ぴょこん、と立ち上がって、んー、と大きく背伸びをする。部屋はまだ仄暗く、身体にも気怠さは残っていたが、とてとて、と室内を横断した彼女は、豪快にカーテンを、続けて両開きの窓を解放した。彼女の日課である。
 伴って飛び込んできたのは、しん、とした朝特有の微かな冷気を帯びた風と、からっ、と暖かくて柔らかい太陽の光。
(ああ、今日もいい天気だな)
 と心を弾ませつつも仰ぎ見た空は、

 青くて白い。
 けれど。
 白くて青い。

 言葉では矛盾を孕んだ表現しかできないけれど、酷く美しくて、瞼の重みすら一瞬で消し飛んでしまうような空模様が――ヤヨイの大好きな光景が壮大に広がっていた。
 果ても限りもない、澄み切った青空。

 今日は何が待っているのだろう。
 どんな素敵なことが起こるのだろう。

 ヤヨイは胸一杯に新鮮な空気と、辺りに散らばっている沢山の"ワクワク"を吸い込んでから、軽やかな足取りで部屋を後にした。


「お父さんお母さん、おはようっ」
「ああ、おはよう」
「おはよう、ヤヨイ」
「お皿並べる?」
「あら、じゃあお願いしようかしら?」
「うんっ」
 洗顔と歯磨きを終え、食卓へと向かったヤヨイは、母の言葉に従って食器を並べ始める。ほんのり桜色の、三人お揃いの皿だ。些細な事だが、こんな風景にも彼女は幸せを感じずにはいられない。
 程なくして、朝食。
 今日の品目は焼き魚に生卵、お約束のごはんとお味噌汁。見るからに美味しそうな上に、否応なく食欲をそそる香り。
「いただきます」
 ヤヨイは空腹と期待に逸る気持ちを抑え、全員が席に着いたのを確認してから手を合わせる。その方がより一層美味しくなる事を、無意識に知っているからだ。
 そうして、食事が始まってから約十分後。
「今日はどうすればいい?」
 元気よく、おかわりっ、と言った彼女は、母からお茶碗を受け取りながら両親に訊ねた。  返答によってヤヨイの一日が決まる、と言っても過言ではない、朝恒例の大切な質問である。
「あなた、お仕事は?」
「今日は……特に何もないな」
 しばしの相談。
 彼女としては仕事も休日も大歓迎なのだが、それでもやはり緊張はする――何故なら。
「じゃあ、そうねぇ……うん、ヤヨイはお休みでいいわよ」
「!!」

 休日の時は、大好きな"あの人"に逢いに行けるのだから。

「お休み……かぁ」
 呆然と自失した面持ちで、改めて呟くヤヨイ。確認ではなく、噛み締めている響きで、耳にするだけで彼女が真っ赤になっているのが分かる。
「ふふっ、じゃあ今日も、ね?」
「ふぇ?」
 それを見通した母の問いかけ。きょとん、と束の間は驚いたヤヨイだが、すぐさま言葉の意味を把握すると、
「…………う、うん」
 すっかり上気した顔を隠すように俯き、同時に首肯という肯定の反応を示した。
 それから朝食とは別の意味で、待ちに待った朝食後。
「もう、準備してくれて構わないのに……」
 という母の言葉を遮り――といっても、今日に限った話ではないが――洗い物を済ませたヤヨイは、軽やかにエプロンを脱ぎ、残ったご飯のところへ向かう。本日のお弁当である。もっとも、彼女が作れるのは、梅干し入りのおにぎりだけなのだが。
 続いて、着替え。
 特に慌てる必要がないにも拘わらず、彼女は大急ぎで着替える。服はもちろん、いつもの巫女装束っぽい、けれど女の子っぽく作り直した服。最初は少しくすぐったかったものの、今ではすっかりお気に入りである。
 そして、何故かくるりと一回転。伴って、ひらひらのロングスカート型の緋袴が、ふわり、と柔らかく舞う。
 普段の彼女なら絶対にしないであろう仕草だが、気分が高揚しているせいか本人は全く気づいていない。一方、実は偶然物陰から目撃してしまった母は、年頃の少女らしい無邪気な様子に微笑んでいる。
 きっと娘には好きな人がいて、休日の度に逢いに行っているのだろう。
 それは今の一挙一動や瞳の輝きからも、時折見せるぼんやりとした表情からも明らかで、当然ながら相手が誰かも気にはなるし、心配もなくはなかった。
 だが、それ以上に信頼してもいた。
 やむを得ない事情で長く、永く離れていたため、分からない事や知らない事は多いけれど、彼女は紛れもなく自分たちの娘で、その娘が選んだ相手なのだから。
 余程の事がない限りは、必要以上に干渉しようとも思わない。ただ、全くと言っていいほど彼女が話題にしないので、現在はどんな感じなのかは気になるが。
 ともあれ、両親は彼女の恋を応援していた。
 などと深く思い、見つめていた時、
「それじゃあ、いってきますっ!」
 ヤヨイの元気な声で、ふと我に返るや否や、母は今にも駆け出しそうな娘を呼び止め、同時に父も呼んだ。
「なあに?」
 ほぇ、とヤヨイ。
 対して母は、そんな彼女の頭を撫で、柔らかく髪を梳きながら、呼ばれて二階から降りてきた父に訊ねる。
「あなた、この前頼んでおいた物はできてる?」
「ああ。そろそろだと思って、今持ってきたところだ」
 そう答えた彼が、差し出した物は。

 真っ白いアリスバンドカチューシャと、向日葵サンフラワーを模した髪飾りだった。

「……これって」
 しばし呆然と、それらの装飾品を眺めていたヤヨイだが、
「私とお父さんから、ヤヨイへのプレゼントよ」
 その一言を耳にした直後。
「わぁ……!!」
 キラキラと、ちょうど向日葵のように黒瞳を輝かせた彼女は、太陽を連想させる眩しい笑みを浮かべた。
「で、でも……私に似合う、かなぁ」
 しかし、少女はすぐさま不安げに、或いは申し訳なさそうに、ぽつり、呟く。
 自分にはまだ早いのではないか、と思っているのだろう。
「ヤヨイは可愛いんだから、大丈夫だよ」
「ええ。それにヤヨイを大好きなお父さんが作ったんだから、きっと……ううん、間違いなく世界で一番似合うわ」
 だが、両親は自信満々に断言し、更に母は彼女を優しく抱き寄せる。不意に、じわ、と目頭が熱くなった。
「……つけて、みても、いい?」
 やっとの思いで絞り出された、言葉。
 その甘えた音色が、少しだけ恥ずかしい。
「ええ、もちろん」
「こっちからお願いしたいくらいだよ」
 けれどそれが嬉しい、とばかりに声を弾ませた二人は、早速ヤヨイの頭にアリスバンドと髪飾りをつけた。
 雪色のカチューシャ。控え目な大きさの、少し明るい色合いに仕上げられた向日葵の髪飾り。
 活発に走り回る姿を想像して作られたのか、どちらも見た目ほど重くはなく、むしろ軽い。
「どう、かな……?」
 程なくして、背中を向けたヤヨイは、とてとてとて、ときっちり三歩歩いた後、俯きながらゆっくりと振り返る。

 よく――本当に、よく、似合っていた。

 彼女の艶のある黒髪や瞳が、何よりも表情が、淡い白と明度の高い向日葵の持ち味を活かし合い、奇跡的な調和を生み出しているのだ。
 だから、だろうか。
「……おかしく、ない?」
 言葉を失った二人は、似合ってる、という言葉で返事をする代わりに、

 ぎゅっ、と。

 まず母が、彼女を抱きしめた。
「こらこら、母さんばっかりずるいぞ」
 一方、コンマ二秒出遅れた父が、子供みたいな口調でそう拗ねたので、
「じゃあ、今度はお父さんっ」
 するりと母の腕から抜け出したヤヨイは、えいっ、と勢いよく父に抱き着いた。
 そうして必然的に始まった娘の取り合いは、思いの外賑やかな、ちょっとした喧噪にまで発展したものの、

 明るくて優しい笑い声は、ヤヨイが出掛けるまで絶える事はなかった。



 それから、キメラの翼でヤヨイが訪れたのはラダトーム――ではなく、メルキド。
 すぐにでも向かいたい気持ちはもちろんあるが、するべき事があったのだ。
 今も行方知れずの"彼女"を捜す、という大切な使命が。
 さすがに毎日は無理だが、休日には必ず何処かの町へ赴き、ひたすらに話を聞いて回っている。
 本当は毎日でも、町以外の場所でも、と考えていたのだが、彼女の尊敬する師匠に止められたのである。

 手伝ってくれるのは嬉しいし、きっと自分でもそうするだろうから気持ちも解る。
 けれど、それでもヤヨイには"ヤヨイの時間"を大切に過ごして欲しい、と。

 その言葉は全てだった。
 手分けして捜そう、と唐突に告げ、別れた理由。
 想いの全て。
 それにもし、自分が同じ状況に陥ったなら――きっとそう願うに決まってる。

 だからこそヤヨイは、限られた時間をより限定的に使用する、という方法を選択した。

 正しいかどうかは分からない。
 だが、信じている。
 今は最善ではなくても、いずれは最善に至る道だと、彼女は一途に信じていた。



 そして、ラダトーム。
 今日も"彼女"を見つける事は叶わなかったが、城下町へ入り、北東部の教会前へと立ったヤヨイは、ぱしぱしん、と両頬を叩き、どうしようもなく滲む落胆を強引に打ち消すと、
「すー……はー…………よしっ」
 幾度かの深呼吸を経てから、とんとん、と門を叩いた。
 直後、内部から穏やかに嗄れた声が、歓迎を意味する言葉を紡ぐ。
「し、しつれいします」
 ヤヨイは別種の緊張に彩られた声で答えつつ、ぎっぎっ、と重い扉を開き、教会へ足を踏み入れた。
 その中、祭壇の手前に立っていたのは、初老の神父。
「……あの」
「やっぱりお嬢さんでしたか。どうぞどうぞ、"彼"なら二階にいますよ」
「はいっ」
 もう何度も訪れているので、顔馴染みである事には違いないのだが、ノックに癖でもあるのか、実は気配だけで察知しているのか、彼の挨拶はいつも確信的だった。それでも不思議に思う事に変わりはないのだが、些末事ではあるため、ヤヨイは軽く挨拶を返した後、惑いも迷いもなく半ば駆け足気味に歩を進める。
 しかし、その途中。
「今日は一段と可愛らしい格好ですね」
 カチューシャと髪飾りに気づいた神父が、柔和な笑顔でぽつりと呟いたので、
「お、おかしくない、ですか……?」
 思わず足を止めてしまったヤヨイは、彼に向き直って訊ねた。
 瞬間の空白、を経て。
「ええ。よくお似合いですよ」
 神父は彼女の頭を撫でながら、そう答えた。
 それはもちろん本心で、気づいた時から抱いていた感想でもあったのだが、予想外の背伸びした問いに少し驚いたがゆえに沈黙してしまったのである。
 とはいえ、知る由もないヤヨイは、恥ずかしさにぎこちなく微笑んだ後、鼻歌混じりで二階へと上がった。
 だが、その勢いも一瞬。
 階段を駆け上がる途上――正確には、二階の床を踏みしめる直前で、軽やかな足取りは停止じみた緩慢な歩みへと変化する。
 無理もない。
 何故なら、此処へ来る時の彼女は、普段以上に年頃の少女で、

 この先に待っている"彼"は、彼女の大好きな人なのだから。

 それでも逸る気持ちは抑えられず、程なくして二階へ辿り着くと。
「えっと、あの……」
「ん? ……ああ、嬢ちゃんか」
 出迎えてくれたのは、低くてぶっきらぼう――だけど。
「は、はい。それで、その……今は大丈夫、でしょうか?」
「まぁ、何かすることがあるわけでも……って、嬢ちゃんもそれは知ってるだろ?」
 本当はとても優しい――大好きな人の大好きな声。
「そ、そうですね。そう、ですよね……あはは」
 だから少しでも耳にしてしまうと、途端に緊張が思考を麻痺させ、自分でもよく分からない、或いは答えの分かり切った事を質問してしまうのだが、
「といっても、別に悪いことでもないけどな」
 彼が機嫌を損ねた事は一度もない。
 つまりは、全てがいつも通り。
 そこでヤヨイは、わずかに上気した頬を慌てて扇ぐと、すぐさま彼の元へ――行こうとして、不意に足を止めた。
 自分がいつもと違う事を、今更ながら思い出したのである。
「どうした?」
 当然上がる疑問の声。
 より意識してしまった彼女の顔は、ぼんっ、と再び熱を帯び、鼓動は一際強く跳ねる。
 大丈夫、おかしくない。お父さんもお母さんも、そ、それに神父様もそう言ってくれたし。だから大丈夫、れれ冷静になら、なきゃ。
 などと考えている時点で、既に冷静ではないのだが、ともあれ何とか心を鎮めた彼女が呟いたのは、
「あ、あの……わ、わらわら、わらわないでください、ね?」
「…………は?」
 自分でも彼と同じ反応を示すであろう、漠然過ぎる問いかけだった。
 しかし、さすがは大人と言うべきか。
「見てみないことには何とも言えねぇが……よっぽどおかしくなけりゃ大丈夫だろ」
 彼は特に動揺もせずに、返答する。
 それで覚悟が決まったのか、ヤヨイは思い切って姿を見せたものの、
「こ、こんにちは――……カンダタ、さん」
 やはり不安げに俯いて、図らずも間の抜けた言葉を紡いでしまった。
 しばしの静寂。
 カチューシャ、向日葵の髪飾り、それらを身につけた少女、と順に走る確かな視線だけが、酷くけたたましく感じる。
「……嬢ちゃん」
「は、はい!?」
「ちょっとこっちに来な」
「え……あ、はい」
 そんな中、カンダタは妙な恐怖に囚われているヤヨイを、声と手で招き寄せると、
「そういうのも悪くねぇな」
 けして笑顔ではないし、言葉も相変わらずぶっきらぼうだったが、
「わっわわっ……?」
 不器用ながらも優しく頭を撫でてくれたので、
「…………えへへ」
 彼女はやはり恥ずかしそうに、けれどそれ以上に嬉しそうに微笑むのだった。



「美味しいですか?」
「ん、ああ……ただ」
「ただ?」
「この酸っぱいのだけはどうにかならねぇのか?」
「はい、どうにもなりません。それが決め手ですから!」
「決め手ね……まぁ、さすがに少しは慣れたけどよ」
「じゃあ、その内梅干しなしじゃ物足りなくなりますねっ」
「……そうかよ」
 それから二人はお弁当(梅干しおにぎりのみ)を広げ、他愛もない会話に花を咲かせる。
 いつもの光景である――カンダタのしかめっ面も含めて。
 だが、彼は毎回不満こそ口にするものの、決して残したりはしない。多少慣れようと苦手な事に変わりはないが、わざわざヤヨイが作ってくれた物を残す趣味もない。
 それにこうして過ごす時間は。
 いつしか退屈だけだった日常に溶け込んだ、この穏やかで優しい空間は。

 彼にとってもかけがえのない――大切なひとときへと変わっていた。

 だから、実は言葉ほど苦に感じていないのである。
 もっとも、本当に梅干しがないと物足りなくなるのでは、と思うと些か複雑でもあるのだが、
(……それも悪くない、か)
 カンダタに拒むつもりは微塵もなく、むしろ――彼自身はまだ気づいていなかったが――このまま続くのもいい、とさえ願っていた。
 もし、何らかの理由で終わってしまうとしても。
 それは単に元通りになる、というだけ。
 ただそれだけのことだ。
「あ、この前はですね――」
 一方、そんなカンダタの胸裏を知る由もないヤヨイは、ぽんぽん、と次から次へと楽しげに言葉を紡ぐ。そのどれもが本当に他愛もない、昔の自分ならきっと興味を示さなかったであろう内容ばかり。しかし、不思議と心は惹かれる。
 話し方が上手いのか。自分が変わったのか。それとも両方か。
 理由は分からない。
 取っ掛かりも掴めない。
 だが、どちらでも構わない事。
 この不可思議な居心地の良さの前では、何もかも。
 所詮は瑣末事なのだ。
(……ん?)
 とその時、カンダタはふと疑問を覚える。
 それは今更で、あまりに自然であったがゆえに至らなかった疑問。
「そういえば、嬢ちゃん」
「なんですか?」
 とはいえ、敢えて口にする必要性も必然性もないのだが、一度気になってしまうと、酷く気になってしまう。これも彼にしては珍しい思考だと言える。しかし、不明瞭な事を不鮮明なまま放っておく事ができない質の彼は、何ら疑問を抱く事なく疑問を投げてしまった。

「なんでまた、こう頻繁に来てくれるんだ?」
「え……?」

 それが核心に迫る――いや、核心そのものと言ってもいい質問を。
「え、ええっと、その」
「理由ぐらいあるだろ?」
「それはまぁ……あると言えばあります、けど」
「なら、聞かせてくれよ」
「えっ!?」
「どうも分からないことは気になる性分でな」
「でで、でも、そんな大した理由じゃ――」
「じゃあ、別にいいじゃねぇか」
「うー……」
 そして、幸か不幸か。
 何故か口を噤むヤヨイの緊張を和らげようという親切から、思わず言ってしまう。

「まさか、俺に惚れた、ってわけじゃねぇんだろ?」

 それがヤヨイの"全て"とは知らずに。

「…………」
 沈黙。
 これまでの何もかもが一瞬で消失するような、静寂。
「……嬢ちゃん?」

 自分は、何を、言った?
 冗談。そう、単なる冗談だ。
 この少女は優しい。優しいから、他人の優しさにも聡い。
 ゆえに自分のような人間の中になけなしの優しさを見出したのかもしれないし、もしかすると昔と何か変わったのかもしれない。
 現に彼女といる時の自分は、自分でも信じられないぐらい穏やかだった。
 そんな自分に懐いてくれたのかもしれない。  けれど、それだけ。
 それ以上でもなく、
 それ以下でもなく、
 それだけでしかない、はずだった。

 などと彼が自問自答を終えても、まだ。
 酷く澱んだ静謐は冷めやらずに横たわっている。
「……おい、嬢――」
「…………か」
 それを打破すべく、彼が再度呼びかけようとした刹那。
 昏く俯いていた彼女は、伝達力の不足した細い声で遮った後。

「惚れてちゃ……いけませんか?」
「……は?」

 緩やかに上げた顔は薄紅色に染まっていたが、強く真っ直ぐな眼差しで、先ほどの言葉が正解である事を告げた。

 蘇る記憶。こちらだけが彼女を知り、彼女だけが何も知らずに果たされた、牢屋越しに再会した時の記憶。
 ゆえに彼は動揺――いや、恐怖を覚えた。
 何故なら、過去に自分が正体を明かさなかったのは、恋ではない好意すらも恐れての行動だったのだから。
 しかし、それだけならまだ良かった。
 弟的存在である"彼"の誤解が解かれた今となっては、こうして接する機会も増えるだろうから、必要以上に遠ざけなくてもいいし、何よりも彼自身が彼女の事を気に入っている。
 我ながら身勝手だと思うが、それだけならまだ良かった、と思うのも確かに事実ではあった。
 だが、それ以上は。
 好意が恋に変わる事だけは、例え彼女がそれを望んでいるとしても、避けたかった。
 今がどうであろうと、過去は――自分が罪に手を染めた盗賊である記録は変わらないのだ。
 だから、だろうか。
「……子供に興味はねぇよ」
 カンダタの上下に割れた唇は、自然と遠ざけるための言葉を呟いていた。
 "ガキ"ではなく"子供"と言ったのは、もしかするとなけなしの優しさなのかもしれないが、ただ響きが少し柔らかいだけで、含まれた意味は同じだ。
 とはいえ、一切傷つく事なく口にできたかと言えば、けしてそうではない。心は鈍い痛みを鮮明に訴えていた。ただ、彼女のため、という想いが勝ったからこそ告げる事ができただけの話。
「子供……だから?」
 だが、彼の本心や危惧など知る由もないヤヨイは、幽かに絶望を滲ませたものの、
「子供だから……私がまだ"嬢ちゃん"だから、カンダタさんを好きになっちゃいけないんですか?」
 彼の優しい思惑通りの反応を示そうとしなかった。

 きっと憧れなどではない。
 彼女に憧れられるような事をした覚えはない。
 では、何故。
 どうして彼女は、自分にそんな感情を抱いてしまったのだろうか。
 こんな自分のような、どうしようもない人間なんかに。
 けれど、そんな過程は瑣末事だ。
 この純粋な少女が、他でもない自分のせいで道を踏み外そうとしている事に比べれば、取るに足らない瑣末事でしかなかった。

 しかし、彼女の言い分も間違ってはいない。子供だから、なんて本当は理由にもならないし、そんな事はあってもならない、と思う。
 ゆえに彼は、こう答える。
「……少なくとも、俺が相手ならな」
 自分の事は忘れて欲しい、という願いが暗に含まれた言葉を、酷く冷めた口調で。
 しばしの空虚な空白、を経て。
「……わかり、ました」
 最初に、ぽつり、と呟いたのはヤヨイ。

 それは終わりの言葉。
 けれど、それで――否、それが良かった。

 そもそも、これまでが異常だったのだ。
 これが、本来の在り方。
 見守るべき者たちが使命を果たしたのだから、もう成すべき事はない。
 あとは過去の罪を償うだけ。
 退屈を持て余し、退屈を紛らわせ、退屈に殺される、退屈なだけの日々。
 それこそが償いに相応しく、自分に似つかわしい――日常。
 必然的な時間。

 だから、これでよかったのだ。

 などと彼が、全てを振り払うべく背中を向けた直後。
「……じゃあ」
 彼女は言った。

「私が子供じゃなくなったら……私のこと、ちゃんと見てくれるんですね?」

 別離とは程遠い、前向きな決意を。
「……は?」
「だって、子供だから興味ない、ってカンダタさん言いましたよね?」
「あ、ああ」
「それはつまり、私が大人に……例えば、ナギサさんみたいに綺麗なお姐さんになれば大丈夫ってことですよね!?」
「ま、まて! それとこれとは話が――」
「違うって言いたいんですか? でも、全然違いませんから!」
「いいから、落ち着け!」
「私は落ち着いてます!」
 すると、それまでの雰囲気は何処へやら、会話は際限なく白熱し、声は掠れつつも加熱してゆく。だが、無理もなかった。

 少女が彼を想う気持ちも。
 彼が少女を思う気持ちも。
 方向性こそ違えど、どちらも譲れない事に変わりはなく――だからこそ、気づけなかった。

 互いが互いを想っている、という今更な真実に。

「とにかくっ!」
 そんな中、一際強く声を荒げ、拗ねた顔で背中を向けたヤヨイは、
「もし……もし、私が大人になったら――」
 涙の伝う感触がはっきりと分かる音色で、

「その時は――その時は……私に惚れて下さい!」

 普段の彼女なら絶対に言わないであろう一方的な願望を、想い人に突きつけた後。

「大人になるまではここに来ませんから……!!」
「お、おい! 嬢ちゃ――」

 カンダタの制止にも耳を貸さず、
「ったく……そんなことできるわけないだろ」
 最後の呟きさえも耳にする事なく、教会を飛び出すのであった。



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