2『初恋は消毒液の香り』



「おはよー」「おはよう」
「おはようございまーす」「はよーっす」
「おはようございます」「はい、おはよう」

 雲一つなく晴れ渡った青空の下。ある人は仲の良いクラスメイトと、またある人は部活の先輩と、またまたある人は担任の先生と、朝の挨拶を交わし合う。
 そんな人々を取り巻くのは、落書き一つない真っ白な壁。中心にあるのは、規則正しく窓ガラスがはめ込まれた三棟の白い校舎。床を敷き詰めているのは、くすんだ赤のレンガ。内と外を隔てる校門には、スライド式の重く黒い柵。過ぎた年月相応に煤けてはいるものの、別段変わったところもない学校。
 名前を月見里(やまなし)市立月見里中学校。小さな市のちょうど中心に位置する、唯一の中学校である。
 グラウンドはサッカーと野球が同時にできるほど広く、校庭は賞を取った事もあるぐらいバランス良く木々が芽吹いており、その恵まれた環境は全国的にもそれなりに有名で、当然ながら羨望の的だったりもするのだが――ここに通う学生たちにとっては、ここが自分たちの通う学校という以上の意味はない。
 生徒が溢れ返り、次第にまばらになり、遅刻した者を除いて人がいなくなった頃、学校中にチャイムが鳴り響く。
 その途端、月見里中学は先ほどまでの賑わいが嘘のように、しん、と静まり返った。そして、それぞれのクラスには担任の先生が現れ、朝のホームルームを終えた後、それぞれのクラスへと向かい、各々のやり方で教鞭を振るう。
 平和な世界の片隅で、
 底抜けに平和な時間が、
 至って平和に過ぎてゆく。
 そうして、約三時間が経った頃、一つのクラスが、わいわいと楽しげに外へ出てきた。けして少ない人数ではないものの、グラウンドの広さに比べると少なく感じてしまうのだが――それはさておき。
 全員の体操服には2―2≠ニいうクラス名とそれぞれの名前が書かれていた。時間割によると、三時限目は二年二組が体育の授業のようだった。
 強面の教師の指示に従って準備体操を終えた後、女子はバレーボールの、男子はサッカーの準備をし、つつがなく終えるや否や、わぁっ、と試合が始まった。得意不得意に関係なく、誰も彼も大いに楽しんでいる様子は、クラス仲の良さが垣間見える風景だった。
 とその傍ら、今か今かと自分の順番を待っている二つのグループがあった。男子と女子で一つずつ、どちらにも中心となっている人物がいる。
 男子の真ん中にいるのは、眉口で揃えられた銀色の髪と、温かいトパーズの瞳を持つ大人びた雰囲気の少年。
 彼の名前は黒羽 鈴乃(くろはね すずの)=B
「うん、うん……そうだね。二人とも足が速いから、多少ボールを前に蹴っても追いつけるだろうし、この方が相手次第で左右どちらからでも攻められるからいいと思う」
「よし、じゃあこれで決まりだな」
「結構走るかもしれないけど、大丈夫?」
「望むところだって。それによー、走ってこそサッカーって感じがするじゃん? こういうのって燃えるよな!」
 鈴乃は小石で地面にサッカー場を描き、時々は唇を指をなぞりながらクラスメイトに作戦を伝える。学年でもトップの成績を誇る上に、勉強以外の知識も豊富な彼は、こういった役を任される事が多かった。とはいえ、彼自身は運動が得意ではない。どちらかといえば不得意な方なのだが、それでもこうして頼られるのは理に適った提案と、日頃の行い――人望によるもの、という事は容易に想像ができた。
 一方、女子の方でも話は大いに盛り上がっている。しかし、その内容は男子とは異なり、
「……それでね、気に入って買ったのがこのシュシュなの」
「へぇ、そうなんだ」
 良く言えば年頃の少女らしい、別の言い方をすれば授業中らしからぬ会話だった。その中心にいるのは、黒く深い瞳を持ち、赤いラインが一本入った黄色いシュシュで明るい茶色の髪をポニーテールにしている、大人しい顔立ちとは裏腹に活発な笑顔がよく似合う少女。
 彼女の名前は鈴白 風音(すずしろ かざね)=B
「変、じゃないかな?」
「ううん、風音らしくていいと思うよ」
「ホント? あ、じゃあ今度みんなで行ってみない?」
「うんうん、いいねいいね!」
「あ、私も」
「よぉし、じゃあみんなで行こ!」
 風音は褒められたばかりのシュシュに触れながら、えへへ、と小さくはにかみ、ぱんぱん、と汚れてもいない服を払っている。
 彼女は鈴乃と正反対に、運動が大のつくほど得意だった。その代わり成績は、下から数えた方が早い事に変わりはない中の下、下の上といったところ。いかに運動が得意とはいえ、それを発揮できる体育の時間は、机に向かって勉強する時間よりも圧倒的に短い。
 そんな彼女の周囲にはいつも人が集まっている。
「そのお店って、この前つけてたピンみたいなのもある?」
「うん、たくさんあったよ」
 その理由は、彼女の明るい性格にあった。男女分け隔てなく接し、表情もくるくる変わるため、傍目から見ていても楽しい。共通の会話の割合からやはり女子と話す時間の方が長いが、それでも他の女子に比べれば男子と話す機会は遙かに多かった。
 男子と女子。
 それぞれのグループがそれぞれの話題に熱狂していると、ピーッ、と甲高い笛の音がグラウンドに響き渡った。試合の終了と選手の交代を告げる合図だ。勝った者はわいわいと、負けた者も少し悔しそうにわいわいと戦場を後にし、互いの健闘を讃えながら次のグループに場所を譲る。何か得るものがあったのかもしれない。
 次に出番を待ち焦がれていたグループが、意気揚々と所定の位置に着くと、再び笛が鳴った。
 そうして第二試合が始まり、約数分が過ぎた頃――事件は起こった。
「……風音!?」
「大丈夫!?」
 バレーボールをしていた女子から、怪我人が出たのである。
「だ、だいじょうぶだよ」
「大丈夫って、血が出てるじゃない!」
 経緯としてはこうだ。
 相手チームのアタックにいち早く反応した風音だったが、足がもつれてしまい、それでも懸命にボールを拾おうとしたため、膝をかばえずにすりむいてしまったのである。相手に点を取られなかったのは喜ばしい結果だったが、
「ちょっとすりむいただけ、だから。うん、まだ続け――……痛っ」
「風音! 無理しちゃダメだって!」
 膝にべったりと付着した血液と、うずくまった彼女の苦しげな表情は、プレイの続行が不可能な事を如実に物語っていた。
 更にサッカーをしていた男子たちも試合を中断し、すわ何事か、と駆け寄ってくる。
「……これはいかんな。よし、すぐに保健室へ――」
 その直後、事態を冷静に判断した体育教師が彼女の肩を担ごうとした時。
「待って下さい」
 人だかりの先頭にいた少年が、素早く駆け寄ってきたかと思えば、
「……えっ」
「僕が連れていきます」
 頼もしい声と共に、そう申し出たのである。
 鈴乃だった。
 それから一瞬の沈黙を経て、おおー、という歓声が男子から、きゃー、という黄色い声が女子から上がる。
「し、しかしだな」
 そんな中、数秒遅れで我に返った体育教師が、制止の言葉を口にしようとしたが、
「いえ、僕は保健委員ですから。だから先生はここで授業を続けて下さい」
 既に風音に歩み寄ってきた鈴乃は、わずかに振り返りながらそう告げる。その声は、普段の穏やかさとは想像しづらい力強い音色で、
「……わかった。すまんな、黒羽。後は頼んだぞ」
「はい、いってきます」
 教師が頷いた直後、彼は風音の様子に少しだけ迷ったものの。
「鈴白さん、立てる?」
「う、うん――……痛っ」
「……よし」
「え?」
 意を決した面持ちでお姫様抱っこ≠した。
 周囲が、しん、となった――のも束の間、その大胆な展開に一度は静まり返ったクラスメイトたちは熱狂を取り戻した。
「こ、こら静かにしろ! とにかく頼んだぞ!」
 そんな騒がしいクラスメイトたちに見送られて二人は保健室へと向かった。



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