2-2



 一歩、また一歩と彼が歩を進める毎に、体育の喧噪と熱気が遠ざかってゆく。ほんの少し前までは渦中にいたはずなのに、それは少し離れただけで別世界めいていて、時折吹く涼しげな風もその思いを加速させているようだった。風音にはそれが少し名残惜しい。
 やがて校内に入ると、まだ耳に届いていた音は殆ど遮断されてしまい、今度は少し寂しくなった。
 言葉が、出て、こない。
 だが、それは寂しさのせいだけではなく、
(……びっくり、した)
 別の熱――クラスメイトの男子にお姫様抱っこをされている、という状況による緊張を帯びた微熱のせいだ。
 などと思いつつ、呆然と鈴乃の顔を見ていると、不意に目があった。
「痛む?」
「え? あ……えっと、その、ちょっと、だけ」
「保健室までもう少しだから」
「……う、うん」
 返ってきたのは頼もしいけれど、普段通りの穏やかな声。
 気遣う声音と、優しい視線。
 どくん、どくん。
 一際大きく脈打った鼓動を耳にした途端、風音は自分の頬が熱くなるのを自覚して、それを見られまいとつい――鈴乃の胸に顔を埋めてしまった。
 あんまり動いていなかったのか、汗はかいていないらしく、鼻孔をくすぐるのは知らない香りだけ。
(こういうの、男の子の匂い、っていうのかな……?)
 風音がふとそんな感想を抱き、また心臓の鼓動が心なしか早くなった瞬間、
「あの……鈴白、さん?」
「ふぇ?」
 少し戸惑った彼の声が聞こえてきて、彼女は自分の取った行動の迂闊さに気づいた。
「ごご、ごめんっ!」
 これではいきなりお姫様抱っこをした彼の事は言えない。むしろ、自分の方がよっぽど大胆である。できる限り顔を逸らし、うわずった声で謝罪する彼女。しかし、鈴乃は相変わらず困惑していたものの、
「ううん、こういう状態って不安だと思うしね」
 特に機嫌を損ねた様子もなく、苦笑混じりにそう言ってから、密かに抱きかかえる手に力を込めた。少しでも彼女が安心できるように、と考えたのだろう。
「…………えと」
 それを受けて、風音はまた恥ずかしそうに顔を伏せる――が、今度は理由が違う。
(……ちゃんと言わなきゃ)
 お礼一つ満足に言えていない自分を恥ずかしく、また相手に失礼だと思ったのである。しかし、唇だけで予行演習までして振り絞った勇気が実を結びかけたその時。
「着いたよ。ちょっと降ろすね」
「え? あ、う、うん」
 彼の足は目的地である保健室に到着してしまった。間が悪いと言うべきか、まるで勉強の成果が反映されていない試験結果を目の当たりにしているような錯覚を覚えた。
「すいませーん」
 一方、そんな風音の思いなど知る由もない鈴乃は、控えめに呼びかけつつ、こんこん、と扉をノックする。返事はない。どうやら出払っているらしいが、不用心にも鍵は掛かっていなかった。扉を開けた鈴乃は彼女を肩に担ぎ直し、ゆっくり保健室に入っていった。
「ちょっと待ってて」
 人工的な薬の匂いと、真っ白い清潔感に溢れた室内。鈴乃はパイプ椅子に風音を座らせると、棚から素早く包帯と薬品、ガーゼ、タオルなどを取り出し、青色の洗面器に水を汲んで、足で椅子を引き寄せてから腰を下ろす。彼にしては珍しい乱暴な動作が、風音には少し面白かった。
「少ししみるけど、我慢してね」
 そのせいか、うん、と言えなかった彼女が、こくり、と頷くと、鈴乃は傷口を水で洗い始める。
「ひぅっ」
 じぃん、と膝から電流に似た衝撃が走り、変な声が出た。だが、彼はくすりとも笑わず、真剣な面持ちで治療を続ける。
「じゃあ、薬を塗るよ」
「うぅ……がんばる」
 鈴乃が薬品の蓋を開けると、つん、とした軽い刺激臭が広がった。風音は眉根を寄せたが、何気なく正面を見ると彼も同じ表情を浮かべていて、おかげで少し緊張が解れた。
 が、それもわずか一瞬。消毒薬に浸された脱脂綿が傷口に触れるや否や、
「ひゃうん!?」
 今度はさっきよりも変で、大きな声が唇から零れ落ちて――不意に、鈴乃の手がぴたりと中空で止まった。
「……っく」
「黒羽、くん?」
 よくよく観察すると彼の手が、腕が――いや、身体全体が小刻みに震えている。
「……あっ!」
「ご、ごめん。その、こらえきれなくて」
 彼は風音の上げた変な声に笑っていたのである。
 それでも最初は必死に押し殺していたのだが、二度目でツボに入り、更に彼女が察してしまったため、もう堪える気力も根こそぎなくなってしまったらしい。
「…………むー」
「だから、ごめんってば」
 笑いを抑えながら謝る鈴乃に、ぷくぅ、と風音は頬を膨らませる。とはいっても、本気で怒っているわけでなかった。誤解される運び方はともかく、保健室まで連れて行ってもらった上に、手当までしてもらっているのは事実なのだから怒るに怒れない、という理由も当然なくはない。だが、一番大きな理由は、
「……ぷっ」
 初めて見た鈴乃の屈託ない笑顔につられて自分も楽しくなってしまい、怒る気が失せたからであった。
 そうして二人は、怪我の手当中である事はおろか、今が一応は授業中な事も忘れて、ひとしきり楽しく笑い合った後、
「じゃ、じゃあ続けるよ」
 何とか持ち直した鈴乃の声をキッカケに、治療が再開された。
「こ、今度は変な声なんて出さないからねっ」
 対して風音は、きりっ、とした表情で強い決意を口にする――ものの。
「はぅっ」
「……」
「ひにゃっ」
「…………」
「ふゃ……ぅ」
「……っく」
「い、いまのはセーフじゃないっ!?」
「っくく……そう言ってる、時点で、ふふっ、アウトだと思う、よ」
「むー……今度は! 今度こそ大丈――……にゃわんっ!?」
「ちょ、っ、ちょっと待、あははっ、って」
「うぅぅぅぅぅぅっ」
 一度ツボにはまった鈴乃がドツボにはまるまで、さほど時間を要さなかったのは言うまでもない事であった。



 やがて傷の手当てが終わると、すかさず席を立った鈴乃は保健室の窓を開ける。すると夏の気配がほのかに漂う乾いた風が、ふわっ、とカーテンを揺らし、室内に蔓延っていた薬の臭いを洗い流していった。
『じゃあ、僕は授業に戻るね』
 所在無げに座り、丁寧に巻かれた膝の包帯を眺めていた風音は、そんな言葉を待っている。
 いや、違う。  予想はしていたものの、呟かれるまでは考えないようにしていた。何度か笑顔を交わし合ったせいか、怪我をした状態で一人になりたくなかったのか――あるいは両方か、どちらでもないのか。この二人っきりの時間がもう少し続けばいいな、と少なからず思っていたのである。
「……今日は涼しいね」
「うん」
 ところが、鈴乃の口からは一向にその言葉が飛び出してこない。
「それに雨も降りそうにない。こんな日ばっかりだったら過ごしやすいのに」
「そ、そうだね」
 というよりは、どこか先延ばしにしている節すら見え隠れしている。
 一体どういうことだろう。
「あ、あの」
「ん?」
「授業に戻らなくて……大丈夫?」
 疑問を覚えた風音は、反射的に問いを投げかけ、
「もう手当もしてもらったし、私なら……その、一人でも大丈夫、だから」
 更には体操服の汚れを払いつつ、聞かれてもいない理由まで添える始末。
(って、これじゃあ追い出そうとしてるみたい……ホント、何言ってるんだろ)
 明らかに余計な付け足し――蛇足である。
「うーん…………知ってると思うけど、運動って苦手なんだよね」
「……へ?」
 しかし、唇をなぞりながら考え込んでいた鈴乃は、きまりが悪そうにそんな事を言った。確かに内容としては、あまりよろしくない。
「だからってサボるつもりはないけど、できるなら少し休みたいっていうか……あ、一人の方が良いならすぐに――」
「う、ううん! すごくうれしいっ!」
「え?」
 そして尚も続けられた後ろ向きな言葉を、風音は思わず本音で遮ってしまった。
(だぁああぁぁああぁぁっ!? こ、これじゃあ私が黒羽くんと二人っきりで喜んでるみたいじゃない……!)
 阿鼻叫喚の地獄絵図。風音の胸中は、ちょっとした世界恐慌に陥っていた。
 沈黙、沈黙、沈黙。酷く気まずい沈黙、を経て。
「……えっと」
 とりあえず声を出した風音は、おそるおそる鈴乃を見た。彼は唇に触れたまま、きょとん、と目を丸くしている。どうやら誤解する以前に、意味自体を理解しかねているようだった。
「あ、あのね、今のは、その、一人だけ取り残されるのは寂しいから、嬉しい、って意味で……黒羽くん、もしかして気を遣ってくれてるのかな、って思って」
「ああ、そうだったんだ」
 あっさりと鈴乃。その口調からも、先ほどの推測が間違っていない事を確信する。彼女は安堵すると同時に、少し残念にも――
(……あれ?)
 どうして、残念、なんだろう。
 空中から降ったでも地中から這い出たでもなく、ただただ自身の内側から自然と芽吹いた疑問に首を傾げる風音。
「だったら、もう少しのんびりさせてもらおうかな」
 しかし、んー、と伸びをして椅子に座り直した鈴乃の言葉に、思考の意図は淡い感情もろとも霧散した――が、その名残だろうか。
(…………んー)
 風音はなびくカーテン越しにぼんやりと外を眺めている彼の横顔を、同じくらいぼんやりとした瞳に映し始めた。
 さらさら、と。
 音にはならないが、柔らかい白のカーテンよりも滑らかに揺れている銀色の髪。今は少し目にうるさい蛍光灯に晒されているが、きっと太陽の下ならキラキラ輝く、とても艶やかな色合い。見るからに温かくも、思春期特有の微かな憂いが滲むトパーズ色の瞳。夏でも冬でも、あんな色のベッドなら心地よく眠れそうなぐらい優しげだ。
 真新しい雪みたいに真っ白い肌。形良く整った眉に鼻。淡く色づいた唇は、その瑞々しさに相応しい閉じ方をしている。
 まるで、絵画。
 唯一無二の名画である事が約束された、予定調和の芸術作品。
 思うことはいくつか、否、時間さえかければいくらでも浮かんでくる。
 だが、その時の風音がかろうじて形にできたのは――キレイ――たった三文字の、シンプルで有り触れたフレーズだけだった。
 とはいえ、何も初めて抱いた感情ではない。イギリス系クォーターの彼の容姿は遠目でも目が引かれ、心も惹かれるほどなので、実は以前からそう思ってはいた。 しかし、改めて近くで眺めた今となっては、酷く現実味が欠けた薄っぺらい言葉。それ以上でもそれ以下でもない、ただの言葉でしかない、と思わされた。
 加えて、彼の髪や目はどこか知的で、取り乱すところが想像できないぐらい冷静な雰囲気を帯びている。その印象通り、現に彼の成績は学年でもトップクラスで、いつだって冷静沈着なのだが、
(……あれ?)
 風音はふと気がつき、小さく首を傾げた。
(前にもどこかでこんな風に思った、ような)
 ずっと以前、鈴乃の事をよく知らなかった時にも、今と同じ感想を抱き、それを羨ましく思った気がしたのである。
(うーん……どこで誰にそう思ったんだろ?)
 勘違い、かもしれない。
 だが、妙に引っかかった風音が、腕の辺りを払いながら、記憶を手繰り寄せようとした時。
「まだ痛む?」
「……えっ」
 視線に気づいて振り向いた鈴乃に話しかけられて、間の抜けた声を落としてしまった。
「えとえと、うん、もうだいじょうぶ、かな。バッチリ手当してもらったし」
 とっさに元気をアピールするものの、本音を言えば振り返った瞬間の破壊力にも見とれていた風音。
 だが、もちろん知る由もない鈴乃は、
「よかった」
 穏やかな優しい音色で、ぽつり、と告げた。
 それも極上の笑顔だったため――

 ――ぼっ、と風音の頬が熱くなった。

(〜〜〜っ〜〜〜)
 静まり返った水面に彼の笑顔という水滴が一つ落ち、一つの大きな円形の波紋が広がる。
(うわーうわーうわー……!)
 その一雫は急速に数を増していき、あっ、という間もなく共鳴し合って影響を及ぼし合う。そんな容赦ない動揺に、風音はあちらこちらに視線を泳がせつつ、ぺちぺち、と熱を帯びた顔を軽く叩き始めた。どうひいき目に見ても不審過ぎる行動。
「鈴白さん?」
「な、なんでもない。なんでもないから」
 当然、至極真っ当に疑問を覚えた鈴乃は首を傾げた――が。
「何でもないこともないと思うんだけど……あ」
 ふと思い当たる節に思い至った彼は、
「もしかして、熱でも出たんじゃ――」
 と躊躇いなく右手を伸ばして、ぴとっ、と真っ白い掌を風音の額に当てた。
(え? え? えっ……えぇぇぇええぇぇええっ!?)
「うーん……少し熱い、かな?」
 それから何事もなかったかのように、自分の額に掌を戻し、淡々と感想を口にする。相変わらず彼女の動揺に気づいた様子はなかったが、
「あの、えっと、ちょ、ちょっと、待って」
 それどころではなかった風音は、がたがた、と椅子を引いて距離を取ってしまった。
 気まずい、静寂。
(ど、どうしよう……)
 避けていると思われても仕方がない行動。申し訳ない気持ちで一杯になった風音は、慌てふためきながらも説明の言葉を探す――しかし。
「その……ごめん」
「え?」
 最初に唇を割り、しかも謝罪したのは鈴乃。
「いきなり触られたら、びっくりするよね……鈴白さんは女の子なんだし」
「あ……」
 そもそも、それを言ってしまえばお姫様抱っこの方がよっぽどいきなり≠ナある――が、それはともかく。
「い、いや、女の子なのはもちろん分かってるんだけど、うちでは妹にもこんな感じ……だからって理由にはならないけど……その……と、とにかく、ごめん」
 彼は自身の軽率な行いを、深々と俯いて反省していた。
 まざまざと翳りの滲んだ表情。
 そんな顔にさせたのは、他ならぬ自分。
「……ううん」
 一度深呼吸をした風音は、首を横に振って訥々と話し出した。
「私の方こそ、ごめん……黒羽くんは心配してくれたのに、あんな避けるような真似して」
「でも――」
「確かにいきなりだったからびっくりしたけど……けど、やっぱり心配してくれて嬉しかったし……だから、うん、気にしないで。ねっ?」
 そうして精一杯に言葉を選んで紡いだ後、改めて姿勢を正した風音は、
「あ、それと今更で申し訳ないんだけど……黒羽くん、本当にありがとう」
 ずっと言うに言えなかったお礼を、ようやく告げた。
 それも屈託のないとびきりの笑顔で。
「あ……」
 すると今度は鈴乃が、ほんの一瞬だけ呆然となり、 「う、ううん。そんな大したことしてない、から」  あたふたとぎこちない唇を指でなぞりつつ、そう付け加える。
(……どうしたんだろ?)
 違和感こそ覚えたものの、さっぱり理由が分からない風音は、きょとん、とするだけだった。



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