2-3



 そろそろ戻るよ、と言った鈴乃を見送ってから数分後、三時限目終了のチャイムが鳴った。
 そして早めに保健室を出ていた風音は、多少足を引きずりながらも、既に教室へと辿り着いていた。その後にクラスの女子が帰ってくる。次の授業まで時間が限られているため、半ば慌ただしく着替えながらではあるが、
「さっきの黒羽くん、ちょっとかっこよくなかった?」
「うんうん、こう颯爽と現れてさぁ」
「少女マンガじゃないけど、王子様みたいだったよね」
「となると風音はお姫様かぁ。いいなー」
「戻ってくるの遅かったけど、黒羽くんと何か話してたの?」
「どんな話? どんな話?」
「その包帯も、もしかして黒羽くんが?」
「きゃーいたれりつくせりー!」
 仲の良い女子はみんな風音を取り囲み、次々と先ほどの出来事についての感想と質問を投げかけてきた。また、その輪に参加していない女子も、ひっそりと聞き耳を立てているようである。
 風音自身も最初はびっくりしたものの、それもそうか、とすぐに思い直す。いくら保健委員とはいえ、クラスでも人気の男子が、誰かも言った通り颯爽と現れ、しかもお姫様抱っこで彼女を保健室へと連れて行ったのである。注目の的になるのは当然で、本来なら考えるまでもない事だ。
 しかし、風音はすぐに思い当たらなかった。
「う、うん」
「あ、あはは……私はお姫様ってガラじゃないってば」
「そんな、大した話はしてないよ」
「保健室の先生がいなかったから手当してもらったんだけど、凄く手際が良かったよ」
 一応は質問にもいくつか答える彼女だが、声にさほど力はなく、表情も心なしかぼんやりしている。
 無理もない――何故なら。

「あ、鈴白さん」
「なあに?」
「もし良かったら、なんだけど……名前で呼んでもらってもいい?」
「名前って……どうして?」
「その、実は自分の名字ってあんまり好きじゃないから」
「そうなの?」
「髪も目もこういう色だから、自分に合ってない気がして」
「私はかっこいいと思うけどなぁ。でも、そういうことなら……えっと……す、鈴乃、くん? ……急に名前で呼ぶと変な感じがするね」
「でも、やっぱりその方がいい、かな」
「…………うーん」
「鈴白さん?」
「じゃ、じゃあ、私も風音でいいよ」
「え?」
「私だけ黒羽く……じゃなくて、鈴乃くん、って名前で呼ぶのは不公平な気がするし」
「そう?」
「そ、それに私も名字より名前の方が好き、だから……ダメ、かな?」
「それじゃあ……風音、さん」
「う、うん」
「……確かに変な感じがするかも」
「やっぱりそうだよねっ」
「でも、お互いに変な感じがするんだったら問題ないかな。マイナスとマイナスを掛け合わせればプラスになるのと同じで――……っと、本当に行かなきゃ」
「あ、そうだね」
「じゃあね、風音さん」
「うん、くろはね……鈴乃、くん」

 別れ際に彼と交わしたやり取りに、少なからず我を忘れていたからだった。
 名前を呼ぶ。名前を呼ばれる。
 つまりは――名前を呼び合う。
 名字は家族のものだが、名前は自分だけのもの。
 有り触れた話ではあるものの、彼女自身はそれを特に意識しておらず、しかし無自覚でもその特別性≠感じ取ってはいたようで、結局のところはイシキしていた結果であった。今はまだ受け答えに不自然がないため、幸いにも周囲には悟られていないが、気づかれるのは時間の問題かもしれない。
 時間の、問題。
(…………あ)
 とその時、風音はふと気がついた。
(さすがにみんなの前でも名前で呼んだら……誤解、されるよね……?)
 別の意味での時間の問題に。
 風音と鈴乃。
 二人は同じ歳で、同じ学校に通う、同じクラスの人間ではあるが、決定的に違う部分があった。
 それは――性別。
 今更にもほどがあるぐらい至極当たり前の事実だが、風音は女の子で、鈴乃は男の子である。そんな二人が、二人っきりで過ごした保健室の時間を境に名前で呼び合ったりすれば、周りが訝しく思うのは、やはり当たり前と言える。
 もっとも風音は、別に誤解されても構わないのだが、
(くろは……じゃなくて、鈴乃くんはどうなんだろ……?)
 だからといって彼も同じとは限らない。むしろ、違う可能性の方が高く思える。
(うーん……)
 風音は制服に着替えながら、考える。体操服を適当にに折り畳みながら、考える。勉強をしている時、数式を解いている時、先生に当てられて黒板の前で問題に取り組んでいる時以上に真剣に、考える。
 ただ、ただひたすらに。
 考えて。考えて。考えて考えて――導き出した答えは。
(……そうだっ、帰りに聞いてみよう!)
 より誤解を招きかねない手段という事に、彼女は全く気づいていなかった。



 そして放課後。帰宅部な上に、今日の掃除当番でもなかった風音は、ホームルームが終わると早足で下駄箱へ向かった。そして到着するや否や、愛用の赤いスニーカーに履き替えて、今か今かと鈴乃を待ち始めた。
 そわそわ。
 落ち着かない。
 そわそわ、そわそわ。
 単にクラスメイトを待っているだけなのに、酷く落ち着かない。
 しかし、風音にはその理由が分からず、分からずにいたところに、彼――鈴乃が現れた。
「あれ、風音さん?」
「あ、くろ……じゃなくて、鈴乃くん」
 そして開口一番に言い間違えて、軽い自己嫌悪に陥った。むしろ、どうして彼はすらすらと言えるのだろう、などと疑問を覚えつつも尊敬してしまう始末である。
 と、それはさておき。
「どうしたの? 誰かと待ち合わせ?」
 彼女は鈴乃の何ら不自然のない問いかけに対し、
「ううん、く……す、鈴乃くんを待ってたの!」
 今度は何一つ疑問を感じる事なく、少し大きな声で目的を告げ――た瞬間、ようやく気がついた。
(………あ…………れ?)
 自分が最善だと思った方法が、実はある意味最悪だったという事に。
 これでは、そう、これではまるで――

 ――まるで彼を待ち焦がれているようなのだから。

「ぼくを?」
「あの、えっとえと……う、うん」
 上気した顔をとっさに伏せた風音は、こくこくり、と慌ただしく頷いた後、
(ど、どうしよ……さすがに誤解した、よね)
 既に手遅れかもしれないと思いつつも、再び言葉を探し始める。
「じゃあ、せっかくだし途中まで一緒に帰る?」
 だが、鈴乃は軽く唇に指を当てながら訊いてくるだけで、動揺はおろか、こちらの気持ちを察した節もない。
(……もしかして、鈴乃くんって)
 物凄く鈍感なのではなかろうか、とさすがの風音も思ってしまった。とはいえ、誤解である以上は逆に好都合と言えなくもなく、あるいは――今度は気づいていなかったが――少し残念に思わなくもなく。
「…………うんっ」
 いずれにしても彼女は、どこか嬉しそうに頷いた。
 そうして訪れた下校時間。
 今、風音の左隣には鈴乃がいる。早くもなければ遅くもない、ちょうどいいペースで歩いている。しかし、足の長さが違うため、たんたん、とアスファルトに着地する靴音はずっとズレたままで、時々ぴったり揃ったりすると、それだけで――たったそれだけの事で、どくん、と心臓が大きく跳ねる。
 落ち着かない。
 そわそわ、そわそわ。
 相も変わらず落ち着かなくて、周囲の音さえもまるで耳に入ってこない。そんな中で聞こえてくる音色は、何気ない話をする彼の声と、呼吸と、足音と――要は彼から響く音だけだった。
 かろうじて会話は成立させているものの、内容は微塵も頭に入ってこなかった。

 どうして一緒に帰ってるんだろう。
 どうして、隣に彼がいるのだろう。
 どうして、どうしてこんなに――とその時。

「……そういえば、どうして僕を待ってたの?」
 鈴乃の改まった問いかけに、緊張ですっかり忘れていた当初の目的を思い出した風音は、今更ながら理由を考え始めた。
 だが、思考は浮かんで消えてのリピートばかりで、これっぽっちもまとまってくれない。
 代わりに忍び寄ってきたのは、恐怖。
 そう、怖いのだ。
 自分がそれを口にする事で、特別な何か≠失ってしまうような気がして。  それがたまらなく怖いから、前へ進めずにいた。
 しかし、風音を待っているかと思われた鈴乃は、不意にこう言った。
「あ、あの……名前のことなんだけど――」
 今まさに彼女が躊躇っていた事を、何故か少し申し訳なさそうに。
 怖い。怖い。怖い。
 胸の奥でこわごわとわだかまっていた恐怖が膨れ上がる。
「……やっぱり迷惑、だったかな」
「えっ?」
「僕は構わないんだけど、みんなの前で呼んで誤解されたら……その、風音さんが困るかも、と思って」
 だが、成す術もなく沈黙に甘んじていた彼女に届いた言葉は、流れから結論に至るまで全く同じで。
「う、ううん! そんなこと、ないよ」
 風音はすかさず、ぶんぶんぶん、と激しく首を横に振る。そして、この絶好の機会を逃してはならないとばかりに、
「じ、じつはね……私もそのことを訊こうと思ってたの」
 間髪入れずに、そう付け加えた。
「私は、うん、その、誤解とか気にしないけど、でも、す、鈴乃くんはどうなのかな、って……気になった、から」
「そう、なんだ」
「で、でも、えと、どう話せばいいか分からなくて、だから、鈴乃くんが先に訊いてくれて、凄く助かったっていうか……と、とにかく! 私は全然大丈夫だから……っ!」
「無理、してない?」
 やっと言えた、という感慨に耽る間もなく、話はとんとん拍子で進む。本当に迷っていたのだから、もちろん嬉しい。
 けれど、それ以上に。
「し、してないよ! それにやっと呼び慣れてきたところだから、今から戻したらまた変な感じがしそうだし」
「それもそうだね」
 彼が自分と同じ考えだった事が嬉しくて。
「そっか……よかった」  直後、安堵の混じった鈴乃の穏やかな笑顔を見て、風音はようやく気がついた。

(……鈴乃、くん)

 自分が恋に落ちている、ということに。



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