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「……ぷはぁ」 話は二日前の夕方――青かった空を鮮やかに染め上げていたオレンジ色に、夜の闇が降り積もり掛けた頃まで遡る。 昨日の深夜に大きな仕事を終えたナギサは、久々の休日を満喫していた。 起きた時から乱れっぱなしのベッドに座り、豪快に缶ビールを流し込むナギサ。机の上には、既に空き缶が三本。服も黒のタンクトップに、ベージュのショートパンツという――つまりは、就寝時の状態。仕事を終えた翌日は、自分へのご褒美のつもりで自堕落に過ごしているのだが、トラッドにはいつもだらしない≠ニ言われ、その度にハリセンで黙らせている。彼にしてみれば心配から出る言葉で、ナギサも重々承知してはいる。それにリノにも、もったいない、と言われているのだが、今のところ止める気配は微塵もなかった。 色々と気遣ってくれるのはありがたいのだが、どうしてもそんな気になれないのである。 現在二十四歳の彼女が、マニアックな人気を誇る週刊誌華麗なる奇想天外≠ナ記事を書き始めて、もう二年が経つ。最初は不安や心配が絶えなかったが、彼女の書く記事は幸いにも評判が良く、固定ファンもついていたりするので、今は忙しくも充実した毎日を送っている。 休日の自堕落加減は、普段きっちりしている反動でもあった。 夕暮れの柑橘色が薄れゆくビル群を横目に、ナギサはふとテレビをつけた。流していたローリング・ストーンズのライヴアルバムがちょうど終わったので、ニュースを見ようと思ったのだ。 しばらくは耳を澄ます。しかし、内容は取るに足らないものや知っている事ばかり。どうやら世界は今日も平和らしい、などと早々に興味を失ったナギサが、別のCDを聴こうと立ち上がった――その時。 『臨時ニュースです』 甲高い電子音が上がり、テレビの中の見目麗しい女性アナウンサーが、少々舌っ足らずにそう告げた。 興味が沸いたナギサは、ベッドに戻りテレビに注目する。その直後、紙切れを渡された女性アナウンサーは、唐突に言った。 『たったいま、世界が魔王≠ノよって征服されました』 「……………………はぁ?」 耳を疑わざるを得ない、突拍子もない言葉を。 何せ魔王≠ナある。 ゲームやマンガ、アニメ、映画の宣伝などならともかく、単なる速報で流れるには、あまりに胡散臭い。現にナギサも、最初はドッキリの可能性を考えたぐらいだった。 ともあれ、更に数秒後。 「え、えっと……え? あ、はい。あの、その魔王と名乗る人物からCDが、そう、メッセージが届いている模様、ですので……い、今からそれを流しますっ」 女性アナウンサーがツギハギだらけの口調で続きを読み上げる。きっと途中で冷静になり、その有り得ない内容に動揺してしまったのだろう。無理からぬ話ではある。 (……まぁ、普通は読む前に気づきそうなものだけど) そこでナギサが胸中で皮肉げに呟くと同時に、画面が切り替わった。真っ黒い中にSOUND ONRY≠フ白い文字。 いくら慌てていたにしても、酷すぎてツッコミを入れる気にもならなかった。 そのせいか、既に興味の大半を失っていたナギサが、悠長にビールを流し込んだ直後、それが聞こえてきた。 『どうも、魔王です』 「ぶほぁっ!?」 予想以上に若い声が紡ぐ、予想外に庶民的な自己紹介が。 ナギサは盛大にビールを吹いた。 まだ半分は残っていたその半分を、思いっきり。 当然、飛散した黄金色の液体は、あわあわと机やカーペットに染み込んでいく。 彼女は怒りを覚えた。 (……魔王ッ!!) 部屋が汚れた事に――ではなく、自分の楽しみがこんなふざけた形で失われてしまった事に。 もしトラッドがこの場にいたら、カーペットの心配をしなかった事に悲しみを覚えたかもしれない。そして、ハリセンで叩かれもしただろう。ある意味では、間違いなく幸運だった。 それはさておき、ナギサは気分を落ち着けるために深呼吸をする。とにかく、情報収集。記事にするにしろ、文句を言うにしろ、相手を知らなくては何も始まらない。 この時はまだ冷静だった。 だが、吹いたばかりのビールを目の当たりにした瞬間、ふつふつと再び怒りが沸き上がってきた。 早くも抑え切れなくなった。 ナギサは全ての元凶である黒い画面を睨みつける。もう綴り間違いは気にならない。 『いきなりで申し訳ないけど、世界を征服させて頂きました』 苛立たしいノイズをバックに流れる、忌々しい声さえも耳に入らない。 『といっても、皆さんに危害を加えるつもりは――』 どんな手がかりが転がっているかも分からない状況で、聞く耳はおろか、余裕すらもなかった。 「っと……それよりも」 ひとしきり睨みつけた後、ナギサは散らかった部屋で携帯電話を探し始める。そして、すかさず電話を掛けた。 トゥルルル。一回目。 トゥルルル。二回目。 トゥル――ガチャ。 「もしもし、凪沢です」 繋がるや否や、ナギサは相手の反応を待たずに名乗る。 「あ、ナギサちゃん? やっほー」 返ってきたのは、ノンキに間延びした可愛らしい声。少しだけ力が抜けた。 「……アーニー。職場なんだから、もう少しそれらしくした方がいいと思うんだけど」 「大丈夫だよ、今は私一人だし。それにナギサちゃんからの電話だったから嬉しくてつい、ね?」 「それはまぁ、うん。私も同じかな」 ナギサが掛けたのは、丸いメガネがよく似合う親友のアーニー。中学から付き合いのある彼女は、ナギサの上司――編集長である。 「あ、そうだ。この前、ケーキの美味しいお店を見つけたのっ! 今度の休日一緒に行かない?」 「ケーキ……いいわね。じゃあ、次の休日は――っと、そうじゃなくて」 と手帳を開く直前、ナギサはようやく本題を思い出す。アーニーと話していると、重要な事でも忘れそうになってしまうのは、もはや恒例だった。 「ふぇ?」 「今日電話したのは、別の用事があるのよ」 程良く落ち着いたところで、早速ナギサは切り出す。 「お仕事?」 「ええ、私の次の仕事が何か決まってるか聞こうと思って」 しばしの沈黙。 「んー……あると言えばある、かな」 二秒以内に返答。相変わらず早いが、それも当然である。何故なら、アーニーの頭の中には全員のスケジュールが完璧に記憶されているのだから。ナギサも記憶力は良い方だが、それでも彼女には遠く及ばない。 「結構重要だったりする?」 「ううん。ナギサちゃんだったら、すぐに終わらせられそう、ってところ」 「……つまり、私以外でも大丈夫ってことね」 ともあれ、その回答を聞いたナギサは、生き生きと声を弾ませた。 「何かあった?」 「ちょっとね」 「面白い記事になりそう?」 「……まだ分からない、かな」 一方のアーニーにも機嫌を損ねた様子はない。むしろ、好奇心を強く刺激された節すらある。 「んー……」 しかし、彼女は可愛らしい唸り声を落としながら、しばし思案する。いつもは即決断が基本なアーニーにしては、極めて珍しいと言える状況だった――が、無理もない。 ナギサは記事を書くのも早ければ、その内容も良い。何せ一週刊誌のライターでありながら、固定ファンがいるぐらいである。どれほど有能かは、長々と語るまでもないだろう。 それゆえに悩む――が、さほど長くはない。 「……どれくらいかかりそう?」 「いいの?」 「もっちろん!」 そう、アーニー自身もファンの一人なのだから、彼女が何を書くのか楽しみなのである。例え他の仕事がどうであろうと、彼女の申し出を断るはずがなかった。 「じゃあ……長めに見て一ヶ月」 「ん、スケジュールはこっちで調整しておくから……だから、ナギサちゃんは悔いの残らないよう思いっきり頑張ってねっ」 アーニーはいつもこうだった。 この部分だけを切り取ると、贔屓されているように見えるが、彼女は誰に対してもこうである。 にも拘わらず、誰も急な変更に文句を言ったりはしない。 彼女自身もまた有能であり――それ以上に慕われているのだ。 「……アーニー」 「うん?」 だから、ナギサは決まってこう告げる。 「いつも、ありがと。素敵な上司……ううん、親友に恵まれて、私はつくづく幸せ者ね」 「それは私もだよ、ナギサちゃん」 そして、アーニーは決まってこう返事をするのであった。 電話を切ったナギサは、晴れ晴れとした表情で部屋を一望した。テレビを見ると、魔王速報は既に終わって、次の話題に移っていた。あれやこれやと話し合う可能性も考えていたのだが、どうも扱いに困っているようで、女性アナウンサーは少し名残惜しそうに喋っていた。 となると、ここで得られる情報はもうない。 散らかった部屋からリモコンを発掘したナギサは、適当にチャンネルを変える。だが、どこのニュースでも大きく取り上げられていない。アナウンサーの表情から察するに、きっと似たような状況なのだろう。 それはいい。 熱い議論が交わされたところで、どれも推測の域を出ない。むしろ、余計な先入観を受け付けられなくて済む、とナギサはテレビを切った。 それから新しい缶ビールを空け、窓へと歩いていく。途中でビールの染み込んだカーペットを踏んでしまい、その気持ち悪い感触に、ナギサは眉根を寄せた。 とはいえ、実はさほど気に病んでもいなかった。 どうせ窓を開けて気分転換するつもりなのだから、すぐに気にならなくなる、が正確かもしれない。 窓を開ける。風が吹き込む。金色の髪がなびく。ふとビルの群れを見ると、オレンジ混じりの幻想的な色合いは既に去った後。代わりに街を美しく彩っているのは、華やかな人工の光たちだった。 仕事を始めたばかりの頃までは、特に思うところはなかったが、今は――少なくとも嫌いではない。 心に余裕ができたからか、あるいは大人になったからか。理由は分からないが、何となく安堵する日もある。 もしかすると、自分が思う以上に気にいっているのだろうか。 それも分からなくはない。 ここは自分が、妹のヤヨイが、義弟のトラッドが、幼馴染みのリノが、親友のアーニーが――大好きな人たちが住む街である。 嫌いになれるはずがなかった。 また、風が吹く。 夏の熱気を紛らわせる涼しい風が、髪を優しく揺らし、ビールと怒りに火照った身体を程良く冷ます。 気持ちいい。 心地がいい。 胸中で言葉にすると、活力がみなぎってくる。 「んくっ、んくっ、んくっ……」 いてもたってもいられなくなったナギサは、開けたばかりのビールを流し込む。 「……ぷはぁ」 そして、半分以上飲み干したところで、景気良く一息。ぷつぷつり、と口の中で弾ける苦い気泡の刺激が、たまらなく爽快だった。 初めてビールを飲んだのは、ナギサとアーニーが二十歳になって半年を過ぎた頃。以前に約束し、何とか予定を合わせ、彼女の家で飲んだのである。 あの日の事は今でもよく覚えている。 かちん、とグラスを当てて、大人たちが美味しそうに飲んでいるビールはどんな味なのだろう、と子供みたいにわくわくしていたからだ。 結果は二人揃って撃沈――酔ったのではなく、苦すぎて飲み切れなかったのである。 あの時は互いに苦笑し、首を傾げた。他の人たちは、どうして美味しそうに飲めるのだろう、と疑問に思った。 だが、今はこうしてビールが飲める休日を楽しみにしている自分がいる。話を聞くと、親友も時々飲んでいるらしい。 一体何が変わったのだろう。 嗜好の変化。 言ってしまえばそれだけの事で、一番納得できる理由にも思える。 しかし、ナギサはこう考えた。 自分が大人≠ノなったからだ、と。 きっと大人になって、初めて分かる味わいなのだ。 お酒は二十歳から、という言葉には、そういった意味も含まれているのかもしれない。 では、大人になる、とはどういう事なのだろう。 例えば年齢であったり、例えば仕事であったり――色々考えられるが、おそらく答えはない。 人それぞれ。人の数だけ定義があるのだろう。 その中で、ナギサは漠然と思った。 例外なく。 満遍なく。 くまなく。 そんな風に世界を覆う理不尽≠知り、それを飲み込む事ができるのが大人≠ゥもしれない、と。 ビールというのは、蓄積した理不尽≠洗い流す、あるいは気泡のように弾けさせるためにある、いわば魔法の飲み物――少なくともナギサはそう感じた。 「…………はぁ」 不意にため息が、漏れる。 何に対してかは分からないが、多分、自分ではどうする事もできない何か≠ノ対するため息。 沈む。 深く、深く――底なしに深く。 こわごわとわだかまった正体不明の感情が、心の奥底にある一番柔らかい場所へと沈殿する。 それに気づいて、ナギサは首を横へ振った。 得体の知れない胸騒ぎを覚えたがゆえに、それを振り払った。 そうして手放したもやもやは、まるで開けた窓から広がっていくように、煌びやかな夜景を霞ませる。 「……はぁ」 再度、ため息。 何かスッキリしない。 気分転換をしているはずなのに、何者かに足を引っ張られ、ずるずるとどこかに引き摺られているように居心地が悪い。 一体自分は何を感じているのだろう。 だが、彼女にとっては悪い事でもなかった。 長年培った直感によると、こんな時は大抵何かが変わる前触れなのだ。 言うなれば、そう。 何か素敵なものを掴み取るために、乗り越えなければいけない壁――その予兆。 「んー……よしっ」 ナギサは思いっきり身体を伸ばし、胸中の澱んだ空気を入れ換えた――直後。 玄関で、がちゃがちゃかちゃん、という鍵の回る音が響いた。 『ただいまー』 続けて聞こえてきたのは二人の声。 「えっと、おじゃまします」 更に少々控えめな声。 トラッドとヤヨイ、そしてリノである。きっと三人で夕食の買い物に行っていたのだろう。 義弟と妹はともかく、幼馴染みの声はいつも小さい。ナギサは耳が良いので聞き取る事ができるが、せっかくの可愛い声がもったいない、と常々思っている。ただし、独占欲や優越感も少なからずあったりするので、その心境は中々複雑だった。 「んぐっんぐっ…………ぷはぁ」 ともあれ、三人の帰宅をキッカケにナギサは窓を閉め、同時にビールを最後まで飲み干す。それから何となく蛍光灯を見ると、一匹の蚊がうるさく這いずり舞っていた。窓を開けた隙に侵入されたようだった。 乳白色の光の周囲を漂う、黒く小さな生物。 根拠は微塵もないが、その光景はどこか世界の縮図に思えた――ものの。 「……やれやれ」 だからといって、見逃すつもりは毛頭ない。 ナギサは改めて蚊の動きを観察する。コンマ数秒でパターンをざっくりと解析し、ハリセンを手に取る。 そして、ドアに向かう途中。 全く蚊の方を見ずに、また無造作にそれを振るう。 瞬間、ひゅん、と鳴った風切り音は、彼女の表情と同じくらい無関心で、言うなればついで≠フような適当さがあった。 「さーて、今日の晩ご飯は何かしらねー」 現にナギサの興味は、とっくにトラッドが作るであろう夕食にロックオンされている。 だが、そんな状態にも拘わらず、彼女の振るったハリセンは的確に蚊を退治した跡があり――カチャ、とドアを開けた時にはもう、傍らのゴミ箱にそれを捨て去った後だった。 次の話へ
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