1-2 『世界の変化、物事のイコール』



 ナギサの部屋にも、一応目覚まし時計はある。
 正式名称そっちのけで彼女が天国へのカウントダウン≠ニ名付けた、時限爆弾をモチーフとした球体型時計が。その破壊力は絶大で、ぴ、ぴ、ぴぴ、ぴぴ、ぴぴぴ、ぴぴぴ、ぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴ――――といった具合に、スイッチを押すまでけたたましく鳴り続ける。仕事を始めた頃は「うっさいわー!」と叫びつつも、幾度となくお世話になったものだった。
 しかし、その騒々しい音色も今は耳にする事がなくなった。
 壊れても捨ててもいない。現に時計は、今も傍らで時を計り続けている。単に目覚ましの機能が使われなくなっただけ――何故なら。
(……そろそろ、かしらね)
 こんこん。
(きたきた)
 がちゃ。
「お姐ちゃーん、朝だよ?」
「うぅ……ん?」
「ほら起きて起きてー」
「うー……おはよー、ヤヨイ」
「おはよう、お姐ちゃんっ」
 妹のヤヨイと義弟のトラッドが、毎朝交代で起こしに来てくれるからだ。
 破壊力では天国のカウントダウン≠ノ遠く及ばないものの、この瞬間は世界に二つとないナギサの宝物だった。
 だから、彼女はわざと寝たフリをする。
 愛すべき妹と義弟とのスキンシップを堪能するために――扱いにはかなりの差があるが、それも彼女なりの愛情表現だった。もっとも、あの歪みようでは、どのぐらい伝わっているかは不明だが。
 ともあれ、ヤヨイの時は寝ぼけたフリをし、小さな手に引かれて、トラッドと朝食が待つ下の階へ降りる。
 今日のメニューはご飯に味噌汁、焼鮭、卵焼き。義弟の作る朝食は、いつも美味しくて文句のつけようがない。小さい頃から徹底的に鍛えた甲斐がある。加えて、見ている限りでは料理を嫌っている様子もないので、まだまだ上達する見込みがあった。
 ずっとこんな日が続いて欲しい、とナギサはそこそこ密かに願っている。そのために彼女は、トラッドとリノがいつ結婚してもいいように、とわざわざ空き部屋を用意しているぐらいだった。問題は二人が一緒に暮らす事を望むかどうかだが、その時はあらゆる方法を駆使して首を縦に振らせればいい≠ネどと物騒な事を考えている。
 そんなこんなでリノを含む四人での朝食とトラッドへの挨拶(ハリセン)を終え、紅茶片手に三人を見送ってから、ナギサは浴室へと足を運んだ。
「ふぃぃ……さっぱりしたぁ」
 存分にシャワーを浴び、髪を乾かした後は準備。逆の方が効率的な気もするのだが、彼女はこの順番を好んでいた。
 自室へと戻ったナギサは、イタリアンカラーのリボンが付いた黒いショルダーバッグに次々と物を放り込んでいく。手帳にペン、携帯電話、デジカメなど必要な道具は多々あるが、絶対に忘れてはならないのが音楽プレーヤーとヘッドフォンだった。
「んー……っしょっと」
 次は服選び。目一杯背伸びをしたナギサは、クローゼットを開けて思案する。
 すぐさま手に取ったのは、濃い灰色のパンツスーツ。そして、黒いベルト。セールで買ったきり、一度も袖を通していない黒のスーツもあったのだが、結局は着慣れた服に落ち着く。というのも、スーツは彼女にとって戦闘服だからだ。何せ正体不明の魔王≠ナある。そんな敵を相手にするのだから、着慣れない服を選ぶ気分にはなれなかった。
 余談だが、彼女はスカートを一切持っていない。周りから勧められた事はあるが、どうしても肌に合わなかったのである。
(ふむ、こんなもんか)
 満足げに微笑んだナギサだったが、
(……あー、化粧か)
 次にすべき事を考えて、わずかに眉根を寄せた。
 ナギサは化粧があまり好きではなかった。とはいえ、その動作は実に手慣れたもので、全く手間取る事はない。苦手な時間を少しでも短くするため、効率の良い化粧の仕方をわざわざ勉強したのだ。怠惰を求めて何とやら、というヤツである。
 そんなこんなでナギサは、最後に桜色の口紅を唇に馴染ませてから化粧を終える。
 ちなみに彼女は、濃い色の口紅をまず使わない。もちろん、試した事もあるのだが、その時の自分が今一つ好きになれなかった。付け加えると、リノの薄く儚げな唇が限りなく自分好みだから、という理由もあった。
 これで準備は完了。
 戸締まりと火の元を点検し、ショルダーバックを斜めに提げたナギサは、ベルトと同素材の黒い靴を履いて、意気揚々と家を出た。



 時刻は午前八時を少し過ぎた頃。外は、からっとした熱気が漂う、雲一つない晴天。
 絶好の仕事日和だった。
 玄関の鍵を掛けたナギサは、降り注ぐ太陽の光に目を細めた後、目一杯深呼吸をする。続けてつま先で、とんとんとん、と地面を三回ノック。彼女なりの意識の切り替え方で、家を出た直後の習慣でもあった。
(まずは……アイツのところね)
 気怠さの消えた凛々しい表情で、ナギサはきびきびと歩き始めた。最初の目的は馴染みの情報屋。どんな相手であれ、取っ掛かりとなる情報を集めなければ話にならない。
 しかし、前方遠くにジョギング中の老人を発見した彼女は、ふと足を止めた。彼が昨夜の速報を見ているのであれば、インタビューしてみるのもいい、と考えたのである。
 何せ前代未聞の報道だ。世間の声に耳を傾けるのも悪くない。
 ナギサは少し歩調を早め、
「おはようございまーす」
 爽やかな朝の挨拶をしつつ、にっこりと微笑みかけた。
「おお、おはよう」
 少し息を弾ませつつ、挨拶を返す老人。足は相変わらずランニング状態を維持している。元気なのは良い事だ、などと思いつつ、
「私、週刊華麗なる奇想天外≠フ凪沢ナギサと申しますが……少々お時間よろしいでしょうか?」
「ほうほう、あの面白雑誌の? なにかね?」
 面白の部分が気にはなったが、知っている事は少し予想外だった。
「え、ええ。実は昨夜のニュースで流れた速報についてお聞きしたいのですが、ご覧になられました?」
「速報? 速報というと……ああ、あの……なんじゃったかのう?」
「ええっと、ま、魔王、と名乗る人物からのメッセージについて、です」
 初めて口にした単語のファンタジィさに、少し言葉がつっかえた。ナギサらしくないと言えなくもないが、無理もない。
「おう、あの爽やかな声の? ふむふむ、きっとワシの若い頃に似て男前なんじゃろうなぁ」
 対して、遠い目で老人は語る。その面影は十分にあった。
「確かに……若い時はモテモテだったんでしょう?」
「そりゃあもう、大変じゃったよ。もっとも、ワシは昔からバアさん一筋じゃったがな。ふぉふぉふぉ」
 しかも未だにラブラブなご様子。恋というものに縁がないナギサには羨ましくて、眩しくて、何よりも微笑ましかった。
「……それで、どう思われました?」
 さて、ここからが本題、とばかりにナギサは笑顔のまま手帳とペンを取り出す。
「どう、と言いますと?」
「魔王の、世界を征服しました、という言葉についてです」
「ふぅむ……」
 思案するためだろうか、ぴたり、と老人は足を止める。まさかこんな事を訊ねられるとは夢にも思っていなかったのだろう。逆の立場なら、ナギサも同じようになっていたかもしれない。
「……何とも言えんのう」
「え」
 しかし、心待ちにした回答は、拍子抜けなぐらいあっさりしていた――が。
「本当に世界は征服されたのかもしれん。確かに最初は驚きもしたが、ワシはこうして今日もジョギングしておるし、町をぐるりと回ってみても変化らしい変化はなかった。まだまだ実感が沸かんよ」
 続けて飛び出した言葉は、なるほど、と納得できる答えだった。
 そう、特別な変化はない。
 空は重苦しい闇に包まれてもいないし、不吉に生温い風も吹いていなければ、魔物が蔓延(はびこ)ってもいない。
 世界はどこまでも日常=\―非日常の気配など兆しすら転がっていなかった。

 果たして、本当に世界は征服≠ウれてしまったのか?

 昨夜はビールをふいた動揺のせいか、言葉をそのまま受け取ってしまったが、よくよく考えるとおかしい。あの女性アナウンサーの事は笑えない。
 では、世界の征服、とは何か。
 今更ながらの疑問を抱いたナギサは、碧眼を微かに細め、金色の髪を指で弄びつつ、
「では、今後はどうなるとお考えですか?」
 少し別の角度からの質問を試みた。
 先ほどのもっともな回答に、老人の率直な意見が聞きたくなったのである。
「今後……ふぅむ」
 噛みしめるように、ぽつり、と老人。
「記者さんはどうお考えかの?」
 かと思えば、質問返し。どうやら取っ掛かりが欲しいらしい。
「たとえば――……たとえば、そうですね」
 そこでナギサは、一抹の恥ずかしさを押し殺しながら、一つの可能性を告げた。
「突飛な考えではありますが、魔王というからには神話のように魔物を呼び出して、人々に危害を与えるかもしれません」
 我ながらバカバカしい空想だと思った。妄想と言っても差し支えないレベルである。
「ほうほう、魔物か! いやはや、さすがはあの面白雑誌の記者さんじゃ。面白いことを考えるのう!」
 にも拘わらず、老人の反応は予想外に良かった。少々複雑な心境ではある。
 だが、彼女の胸中を知る由もない老人は、こう続けた。
「魔物が実在するかどうかは、ワシには分からん。いや、いないとは思っとるが確認のしようがない、と言った方がいいかの? ともあれ、もし実在したとしても、危険なのは何も魔物に限った話でもなかろうて」
「と、言いますと?」
「たとえば動物じゃな。山や森には熊や猪、虎、ライオン、川にはピラニア、ワニ、あとパンダも凶暴じゃったかの? まぁ、ざっと思いつくのはこのぐらいじゃが、彼らも人を襲う可能性のある危険な動物に変わりない」
「……たしかに」
「それに雪崩、洪水、雷、台風、地震、噴火といった自然の災害。町でも交通事故や火の不始末による火事。ナイフに包丁、チェーンソーといった人間が生活のために使う道具も、使い方や目的を誤れば恐ろしい凶器と化す。つまり、危険という点に限って言えば、魔物は何も特別ではない。そんなものは常日頃からそこら中に溢れ返っておる、とも考えられるわけじゃな」
 流暢な口調で澱みなく答えた老人の言葉は、理路整然とした完璧なものだった。
 そして、ナギサは気づく。
 自分が無意識に先入観を覚えていた事に。
 魔王。世界征服。
 これらの単語に、彼女はいつの間にか惑わされていたのである。
 思考の固定。それに伴う意見の押しつけや決めつけ。
 それはナギサの嫌う理不尽≠フ一つ。
 ライターとしてまだまだ未熟な事を改めて痛感した彼女は、深々と頭を下げ、
「……ためになるお話、本当にありがとうございました」
 突然のインタビューの件も含めて、感謝の言葉を述べた。
「なんのなんの。こっちこそ長々と語ってすまんのう」
 一方の老人も姿勢を正し、機嫌を損ねる事なくお辞儀を返す。朝一番にこの老人と出会い、話ができたのは幸運だと思った。
 すっかり冷静さを取り戻したナギサは、もう一度お礼を言った後、そのまま立ち去ろうとしたのだが、
「ああ、記者さんや……ちょっといいかね?」
「はい?」
 すれ違った瞬間、不意に呼び止められた。
 まだ何か話を聞かせてもらえるのだろうか、とナギサは振り返るものの、老人は何故か両手を組んでもじもじしている。妙に愛らしいというか、可愛らしさがあった。
「……写真は撮らんのかの?」
 その彼が、ぽつり、とこう訊ねた。
「写真、ですか?」
「うむうむ。いや、こういうインタビューの記事ではよくあるじゃろ?」
「ま、まぁ、そうですね」
 彼の言う通り、なくはない話だ。文字ばかりの内容より、写真やちょっとしたイラストがある方が取っつきやすい、という読者もいる。他にも誌面を埋めやすいというメリットが、あると言えばある。
 しかし、ナギサは基本的に写真を使わない主義だった。指示があれば使う事もあるが、精々が建物や風景を写したもの。人物の写真には、不思議と縁がない。
 ナギサは老人の意図が掴めず、少しばかり戸惑っていたが、
「そこでどうじゃろう――このワシを写真に収めるというのは?」
「…………はい?」
 キリッと真剣な表情を浮かべた老人の申し出により、疑問は頂点へと達した。
 それから彼は、首に巻いていたタオルから手を離し、忙しなく白い顎髭を撫でながら、ばつが悪そうに言う。
「……いや、せっかくだからワシの隠れた魅力を引き出してもらって、それをバアさんに見せてやろうかと思っての」
「なるほど……うーん」
 ナギサは少し悩んだ。まだ記事の全体像が固まっていないせいもあるが、そもそも写真を使う予定がなかったからでもある。付け加えると、こういった申し出自体が珍しいという理由もあった。
 断るのは容易い。
 事情を話せば、この老人なら理解してくれる。
 しかし、自身の感情を考慮すれば――断りたくない。
「……では、私から写真を送らせて頂く、というのはどうでしょう?」
 そこでナギサは、こんな提案をした。
 個人として撮影したものをプレゼントするなら、記事がどんな形に仕上がろうと問題ない、と考えたのだ。敢えて不安点を挙げるなら、彼が納得するかどうかだったのだが、
「かっこよく頼むぞい」
 全く問題なかった。どころか、明らかにノリノリだった。
 背筋を伸ばした老人は、右手を軽く顎に添え、左手を無造作に太股へ、更に左足を少し後ろにし、右足の踵をそのつま先に当てる――いわゆるモデル立ちを決めて、ニヒルに笑っている。まさしく準備万端。きっと彼とっておきのかっこいいポーズ≠ネのだろう。
 くすり、と小さく微笑んだナギサは、早速デジカメで男前な老人の姿を撮影する。それから、できたてほやほやの画像データを覗き込んだ彼は、まるで子供みたいに無邪気な笑顔を浮かべた。
 撮った自分が言うのもアレだが、かっこよさにお茶目な一面が滲む本当に良い写真で。
 機会があれば人物の写真が載った記事にも挑戦してみようかな、とナギサが思うぐらいの一枚だった。



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